尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十一話『泪 その二』

 決意こそ表明したものの、千尋は内心猛烈な焦りを感じていた。

 薄茶を口にした父が微笑んでくれた点を踏まえれば、緊張から仕損じた序盤の失敗は多少回復できたのだろう。

 だが、まだ肝心の日々是好日(にちにちこれこうにち)が発動していない。

 手前こそ全て自分でこなしているが、ここぞという時にはオリベが日々是好日を発動してくれる事になっていた。

 そのオリベが力を使うと宣言しないのは……すなわち、ここまでの手前の中で、成長したと思ってもらえる火種を起こせていないのだ。

 

 

 

「……それでは、失礼致します」

 そうこうするうちに、とうとう拝見を終えてしまった。

 やはり駄目だったのかもしれない、と消沈しながら頭を下げる。

 

 駄目ならば、おそらくは次の客が来るまで、日々是好日の使用を持ち越すのだろう。

 すなわち、ヌバタマらともう暫くは一緒に暮らせるわけである。

 嬉しくないと言えば、嘘になる。

 だが、別れの辛さを堪えて茶席に臨んだのだ。

 骨董品屋の秋野に頼み込み、泪の茶杓の写しを調達してまで、臨んだのだ。

 ここまでくれば、何としてでも茶席は成功させたかった。

 

 おそらくは、ヌバタマが未練を見せたのならば、自分とてここまでの決心はできなかった、と千尋は思う。

 彼女は、付喪神の定めに殉ずる意思を毅然と示し、自分の想いも受け入れてはくれなかった。

 それならば、千尋とて決心できる。

 ヌバタマの確固たる意思の理由までは分からずずとも、尊重はできる。

 愛した人だからこそ、彼女の想いを大切にしたいと思える。

 その決意が結果に繋がらなかったのかと思うと、面目がなかった。

 

(ヌバタマ、本当にすまない……本当に……っ?)

 自身の至らなさを感じながら、上目遣いで皆の様子を伺うように頭を上げる。

 各々の表情が視界に入り……千尋は、思わず目を白黒させた。

 

 

 

 

(笑って、いる……?)

 皆、笑っていたのだ。

 父宗一郎のみならず、オリベもヌバタマも、目を細めて自分を見つめていたのだ。

 満ち足りた、何の不満も感じさせない顔をしていたのだ。

 笑顔の理由が分からず、呆気に取られて目を瞬かせる。

 もしや。

 もしや、これは……

 

 

「千尋」

 父から名を呼ばれる。

 穏やかな、あやすような口ぶりだった。

 一瞬、自分が赤子に戻ったかのような錯覚さえ覚えた。

「……私は、幸せだよ」

 

 ただ、それだけが告げられる。

 同時に、父の姿が幻影のように大きく揺らいだ。

 

 まさか。

 

 瞬時に思い浮かべる事ができたのは、その一言だけだ。

 視界が瞬く間に白に染まる。

 眼前の茶杓が眩い光に包まれて、視界が揺らぐ。

 もう何度も経験しているのだから、何が起こったのか理解はできる。

 だが、唐突に過ぎる。

 別れを惜しんでから『この力』は発動するものだと思っていた。

 慌てて立ち上がろうとするが、態勢が崩れてしまって動けない。

 そして、千尋の動揺が収まらぬうちに……日々是好日は収束してしまった。

 

 

 

 

(今のは……っ!?)

 ようやく平衡感覚を取り戻した千尋は、同時にはっとさせられた。

 先程まで毛氈(もうせん)の上に座していた三人が、消えている。

 一秒にも満たない、ほんの僅かな間のうちに、忽然と姿を消しているのだ。

 

 理由は、分かっている。

 それでも千尋は、弾かれたように立ち上がった。

 確認しなければ、気が済まなかった。

 茶室の窓から外を覗き込み、次に茶室を飛び出して隣の水屋(みずや)を一瞥する。

 どこにも人影がないと分かると、今度は一階へ駆け下りた。

 階段を踏み外しかけながらも堪えて着いた一階客室は、日頃よりも殺風景な気がした。

 その客席にも、台所にも、自分の部屋にも、誰もいない。

 最後に、玄関から外に出て庭や門を一瞥したが……答えは、同じだった。

 

 

「皆……皆、本当に……」

 

 いつしか荒くなっていた息を整えながら、茫然自失となる。

 気の抜けた表情のままで、店内に戻って階段を上れば、嫌でも目に付くものがあった。

 茶室の前に飾られた水墨画。

 付喪神達の働きを現すその絵は、墨が色濃く用いられている。

 茶席の前には、もう少し色が薄かったのを、千尋は確かに確認していた。

 はっきりと読み取れるようになったその絵には、中年の男と少女、そして一匹の犬が山を目指している姿が描かれている。

 今ならば、この完成された絵画の意味が分かる。

 そして、皆に何が起こったのかも分かる。

 

 

 

(……俺は、父さんをもてなせたんだ。

 だから、父さんは成仏して消えた。

 付喪神達も、最後の仕事を終えて、天に召されたんだ。

 この絵の様に……)

 

 ようやく、千尋はそれを認めた。

 力ない足取りで、茶室へと入る。

 不思議と、寂しさは沸いてこなかった。

 それよりは、突然訪れた別れに唖然とするばかりだった。

 もう少し、別れを惜しむなり何なりの猶予があるものだと思っていた。

 それが、一言の挨拶もなく、日々是好日が発動したのだ。

 

 もう誰もいない、がらんとした茶室。

 それに似た空虚感が、千尋の胸を支配していた。

 

 

 

 

「……随分、あっさりしてるじゃないか」

 ぽつりと、言葉が零れ落ちた。

「もうちょっと、何かあるものだと思ってたんだけれどな……」

 なおも呟き、茶室を後にしようとする。

 

 だが、振り返ろうとした千尋の視線が、途中で止まった。

 先程は動揺するあまり見落としていたが、毛氈と畳の間に、白い封筒のようなものが挟まっている。

 下座側なので、ヌバタマが座っていた辺りだった。

 近づいて拾い上げれば、やはり封筒だった。

 表側には達筆な筆遣いで『千尋さんへ』と記されている。

 今日の三人のうち、自分をさん付けで呼ぶ者は一人だけだ。

 すなわち、これは……

 

(ヌバタマから、なのか……?)

 

 茶室に立ち尽くしたままま、中身を破らないように封を切る。

 中には、一通の手紙が残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 拝啓

 

 処暑の候、未だ続く暑さのみならず、私共付喪神の事でお心を砕かせてしまっているものかと存じます。

 ただでさえご迷惑をお掛けしているというのに、このような形で最後の言葉を残す重ね重ねの失礼、何卒ご容赦下さいませ。

 千尋さんにはお伝えしたい事がございましたが、どうしても、自分の口からは言えなかったのです。

 

 

 千尋さんが夜咄堂にお見えになった日の事、今でもしばしば思い出します。

 突然宗一郎様のお子様が現れただけでも驚いたのに「店を売るつもりでは」とオリベさんから聞かされた時は、心臓が飛び出るかと思いました。

 結局千尋さんはお店を続けられましたけれども、心変わりを防ぐ為に、日々のお稽古では茶道の良さを知って頂こうと必死でした。

 

 

 でも、その日々が楽しかったのです。

 お稽古だけではありません。

 お店の為にお客様を呼び込んだり、映画に連れて行って下さったり、唐津にまで同行させて頂いたり。

 千尋さん過ごした日々は、宗一郎様の代にはない刺激に満ちた毎日でした。

 いいえ、宗一郎様の代が楽しくなかったというわけではありません。

 千尋様とご一緒する日々においては、千尋様ならではの楽しみがあった、という事です。

 

 

 とはいえ、よもや愛の告白までされるとは思ってもみませんでした。

 ……嬉しかった。

 所詮は茶道具である付喪神を、それ程までに想って下さるとは、夢にも思いませんでした。

 面と向かっていないからこそ告げられる事ですが、告白を受けてからというものの、

 ことある毎に千尋さんの言葉を反芻しては、一人高揚し、暖かく、そして切なくなる気持ちに浸っておりました。

 その感情を表に出さないようにするには、随分と苦労したのですよ?

 

 

 さて、もうお察しの通りかとは存じます。

 お伝えしたい事とは、千尋さんの告白に対する私の気持ちです。

 本当は、千尋さんの事、深く深く慕っておりました。

 自分を押し殺してでも他人を気遣う優しさに、好意を寄せておりました。

 それでいて、その分脆く寂しげな本当にお姿を、支え続けたいと思っておりました。

 千尋さんのお気持ち、お受けしたかったのです。

 できる事なら、あの日に戻って首を縦に振りたい。

 愛しています、とお答えして、千尋さんの胸に飛びつきたい。

 心より……千尋さんの事を想っていたのです。

 

 

 でも、それはできませんでした。

 お気持ちをお受けして、最後のお客様がお見えになるまでの僅かな時を、共に過ごそうかとも思いました。

 お返事をする直前まで……いえ、お返事をしてからも、そうありたいと思っておりました。

 

 しかし、無理なのです。

 私は気持ちが強くありません。

 一度お気持ちをお受けしてしまったら、きっと、そのまま現世に残りたくなる。

 曖昧な返事をして、千尋さんに未練を持たせてしまったら、私まで崩れてしまう。

 だから、返事をしてから現在に至るまで、毅然とした対応をさせて頂きました。

 

 

 それが、茶道具の掟であり、本能なのです。

 私達は、人に良き一服を味わって頂く為に存在している。

 人の心を癒す為に、存在している。

 悩みました。

 胸が張り裂けそうになる気持ちを抱えながら、悩みました。

 それでも……私は、最後のお客様を癒す選択をしました。

 だって……だって、私は、茶道具なのですから。

 

 

 こうして一方的に気持ちをお伝えする事、非常に失礼なものだと存じています。

 私が一方的に言いたい事を言っても、千尋さんはお返事ができないのですから。

 その点、心よりお詫び申し上げます。

 

 でも、伝えたかったのです。

 茶道具としての宿命と釣り合う程に、千尋さんの事を慕っていたのです。

 この気持ちをどうしても伝えなければ……私は、きっと、最後の茶席で泣き出してしまうでしょうから。

 

 

 

 千尋さん、これまでありがとうございました。

 どうか、お元気で。

 

 敬具

 

 八月某日

 

 ヌバタマ

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵐のような哀情が千尋に襲い掛かってきた。

 立つ事さえままならず、畳に崩れ落ちてしまう。

 その畳を握り拳で何度も叩きながら、千尋は泣き喚いた。

 

 相愛だったのだ。

 ヌバタマは、好意をもってくれていたのだ。

 そして、最後の瞬間まで自分を気遣ってくれていたのだ。

 だというのに、それらに気づいてやる事ができなかったのだ。

 

 ただひたすらに、後悔の念に苛まれる。

 泪は、止め処なく溢れ続けた。


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