尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十一話『泪 その一』

 夏風が、ぴゅう、と茶室を吹き抜けた。

 暑かろうという事で開け放たれた茶室の窓からは、木々が夏風に煽られて揺らいでいるのが見える。

 未だ終わらぬ夏を謳歌するかの様に枝葉を伸ばしている木々の姿からは、風情ある季節を感じる事ができた。

 その景も、この日が見納めかもしれないと思うと、毛氈に座したオリベは感傷的な気分を覚える。

 そう、この日で終わらせなくてはならない。

 上座に座る、かつての夜咄堂の主人、若月宗一郎を安心させて最後の仕事を成さなくてはならない。

 それが、付喪神である自身の定めなのだから。

 

 

(……とはいえ)

 

 茶室に入室した千尋を見つめながら、オリベは僅かに唇を噛み締める。

 確かに、千尋は大いに成長してくれた。

 しかし、本当に一人でやっていけるのかと問われれば、オリベもそうだと断言はできない。

 何分、彼はまだ茶道歴二ヶ月少々と、駆け出しも良い所なのである。

 だというのに、この茶席、オリベとヌバタマは客席に座している。

 千尋の成長が見たいという宗一郎の要望を受け、手前の補佐は一切行わない事になったのだ。

 日々是好日(にちにちこれこうにち)の発動だけは別であったが、容易な茶席にはならないだろう。

 千尋一人で取り組む上に、父と再会したという精神の高揚や、最後の茶席という重圧が、千尋にはあるのだ。

 平常心でに宗一郎をもてなす事ができるのか、少々の不安が残ってしまう。

 

 

 

「……お楽に」

 千尋が膝横の畳に指を付いて一礼した。

 その動きはぎこちなく、声も硬く聞こえてくる。

 ちらと隣の宗一郎を見れば、案の定、緊張感に満ちた顔付きで、ただでさえ鋭い目を一層細めていた。

 寛いでいるとは言い難い、千尋を監視でもするかのような顔付き。

 千尋の成長を確かめたいが為の緊張なのだろうが、そんな状態だからこそ和ませねば、もてなしとは言えない。

 宗一郎を迎えての茶席は、オリベの不安的中と共に開始された。

 

(良くないな……)

 空気の硬さを感じながら、千尋をなおも見つめる。

 彼と風炉(ふうろ)との間には、ヌバタマの本体である水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)と茶杓が置かれていた。

 千尋はそれぞれ袱紗で清めたが、手つきには微かに震えが見受けられた。

 

(……良くない)

 もう一度、同じ言葉を脳内で呟く。

 千尋の張り詰めた心が、一畳越しにひしひしと伝わってくる。

 これ程までに彼が緊張している茶席は、初めてなのではないか、とオリベは思う。

 夜咄堂(よばなしどう)に来た初日、シゲ婆さんに突如一服振舞う事になった時よりも、緊張しているかもしれない。

 あの時は一声掛ける事で緊張を解したが、今日もそうするわけにはいかないのだ。

 それでも辛うじて手前が成立しているのは、日々の練習の賜物だろうか。

 だが、その賜物も、どれだけ持ってくれるか分からない。

 

(千尋、焦るな。お前が仕損じれば、何も始まらぬのだ……)

 激励の言葉を宿らせたかのような、熱い視線を千尋に送り続ける。

 日々是好日は、客の感受性を豊かにし、茶道の感動を引き立てる能力だ。

 だが、素になる感動がなければ、幾ら感受性が豊かになろうと意味がない。

 上手にもてなして良い茶席にしなくては、何も始まらないのだ。

 このままでは、宗一郎は成仏できない。

 自分達も、天に還る事ができない。

 絶対に失敗は許されない茶席なのだ。

 千尋とて、その事は重々……

 

 

 

 

(……いや)

 

 ふと。

 思い至ってしまった。

 

(焦りではなく、迷いなのか?)

 

 思わず、息が止まる。

 眼球だけを左右に振り、上座の宗一郎と下座のヌバタマを見る。

 

 

 

 

(この茶席で仕損じれば、宗一郎は成仏できない。

 言い換えれば、幽霊ではあるが、宗一郎とまた暮らせるという事だ。

 否、それだけではない。

 むしろ影響を及ぼしているのは、こっちか?)

 

 左右に振った視線を、ヌバタマの所で止めた。

 物音を立てず、身動ぎもせず、彼女はただ静かに千尋を見つめていた。

 ここ数日、千尋とヌバタマが顔を合わせたがらないのは、オリベも察している。

 その理由にも、大方の察しは付いていた。

 おそらくは、千尋は振られたのだろう。

 さすがは律義者の棗とでも言おうか、この黒髪の少女の茶道に対する情熱は自分以上だ。

 彼女が、客のもてなしを放棄して、現世に留まる選択をするとは思い難い。

 千尋とて、聞き分けがない男ではないから、一度はヌバタマの選択を甘受した事だろう。

 

 

 

(……甘受はした。そう、想定しよう。

 ……だが千尋、お前は……むっ?)

 

「あっ……」

 不意に千尋が、手にしていた青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)を落としかけた。

 刹那、全身を駆け巡るような緊張感に見舞われる。

 『本体』が破損でもすれば、その痛覚は自分にまで伝わってくる。

 

「……っと」

 だが、堪えた。

 なんとか千尋が両手で支えてくれ、事なきを得る。

 

(ひ、冷や冷やさせおる……)

 内心、大いに安堵する。

 だが、茶席の空気が乱れてしまった事実は変えようがない。

 そしてそれは、オリベが抱く疑惑を大きなものに成長してしまった。

 

 やはり、と思う。

 千尋とて、一度はヌバタマの答えを受け入れたであろう。

 しかし、突然訪れた最後の茶席に戸惑ううちに、失敗という選択が湧き出たのかもしれない。

 この茶席が失敗に終わろうと、日々是好日を使う機会は次の客に持ち越すだけだ。

 だが、それまで多少の時間はあるだろう。

 その間に、ヌバタマが心変わりするかもしれない。

 現世に残ると言ってくれるかもしれない。

 好意を、受け入れてくれるかもしれない。

 

 彼は、その可能性を見出してしまったのだろうか。

 

 

 

 

(……千尋……お前は……)

 オリベは、目を瞑った。

 

(お前は……和敬清寂(わけいせいじゃく)の和を学んだ。

 その心をもってすれば、宗一郎も安心する事が出来るだろう。

 この茶席、多少間違いはあろうとも、その心を見せ付けてくれるものだと思っていた。

 だが……お前の中の天秤では、その心よりも、宗一郎とヌバタマの方が重いのか?

 焦っているのではなく、迷いが……その天秤の揺れが、手前に表れているのか?)

 

 

 

 

 

「……大変失礼致しました。……お手前、続けさせて頂きます」

 

 千尋の声が聞こえてきた。

 瞑っていた目を開ければ、茶碗を畳に戻した千尋が、宗一郎に向き直って頭を下げている。

 その言葉の本意は、もはやオリベにさえも分からない。

 

 

 

 

(千尋。お前は……どちらを選んだのだ?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十一話『(なみだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青織部沓形茶碗に入れた抹茶と湯を、茶筅で掻き混ぜる。

 その千尋の手前を、オリベはしっかりと見据えていた。

 

 茶筅捌きとは、容易に見えながら事の外難しい。

 茶筅の振り方が甘いと、抹茶がダマとして湯の中に残ってしまうし、水面にきめ細かい泡を立てる事もできない。

 かといって入念に掻き混ぜて良いものでもなく、あまり長く取り掛かっては湯が冷えてしまうし、見た目も美しくない。

 茶道の稽古を始めた頃の千尋が、毎回何かしらの失敗を犯していた事を、ヌバタマから聞いていたオリベは知っている。

 だが、今の彼は違う。

 ここ最近の稽古に対する熱意は目覚しく、良い抹茶を()てる事も多いようだった。

 その手前さえ発揮できれば、とオリベは思う。

 

 

(その手前さえ、発揮できれば……)

 千尋の手前を見つめるオリベの顔が渋くなる。

 手前はたどたどしく、見ていて気になる多々点もあるが、短い茶道歴を踏まえれば、空気に呑まれて崩れるのも無理はない。

 しかし、それならば、まだ良いのだ。

 その失敗ならば、まだ千尋の気持ちだけは、宗一郎に伝わる。

 

 しかし、学んだ手前を発揮しようとせず、あえてダマを残すなり何なりの失敗を犯せば、茶席は台無しになる。

 茶が茶席の全てではないものの、軸となる重要な要素である事に変わりはないのだ。

 仮に千尋が、わざと失敗するつもりなら、この茶だとオリベは睨んでいた。

 だが、手前を見ているだけでは、千尋の真意は分からずじまいだった。

 そうこうするうちに、千尋は茶を点て終え、宗一郎へと茶碗を差し出した。

 

 

「どうぞ」

「うむ」

 宗一郎は厳格な口ぶりで茶碗を受け取った。

 この一杯で見極めようという彼の気持ちが、オリベにも伝わってくる。

 いよいよ、問題の瞬間が来る。

 この一杯で、千尋の真意が分かる。

 そして、全てが決まる。

 

 宗一郎は悠然と茶碗を煽った。

 彼の顔が茶碗に隠れ、喉仏が唸る。

 千尋が。

 オリベが。

 そしてヌバタマが。

 皆が、宗一郎の顔に視線を集める。

 

 やがて、彼の顔から茶碗が離れ……

 

 

 

 

 

 

「……お服加減、如何でしょうか?」

「大変結構でございます」

 

 

 

 宗一郎は、笑んでいた。

 お約束の掛け合いの声も、社交辞令ではない、実に穏やかなものだった。

 

(千尋……)

 オリベの表情も、また緩む。

 千尋を疑った事を恥ずかしく思いつつ、同時に彼を深く誇りに思う。

 この子は、立派に成長してくれた。

 宗一郎が亡くなったと知ったあの日から、この遺児の力にならなくてはと思っていた。

 やがて自分達付喪神が去っても、一人で生きていけるよう、心を教えなくてはと思っていた。

 その為に、幾つかの助言はしてきた。

 それらを全て吸収し、人として、茶人として、千尋は立派に育ってくれた。

 これ程までに嬉しい事が、他にあろうか。

 二百云十年生きてきて、これ程の感動がどれだけあっただろうか。

 茶道具青織部沓形茶碗は、人を癒す為に作られた。

 しかし、付喪神オリベは、この日の為に生み出された。

 

(そう思える……私は、心よりそう思えるよ。千尋。

 よくぞ、見事茶を点ててみせた……これでもう、私は現世に悔いはない)

 

 

 

 ……そうして感動に浸っているうちに、茶席は拝見の時を迎えた。

 使用した一部の茶道具を客に見せ、銘や概要を説明する時間である。

 一度千尋は離席しており、畳の上には水葵蒔絵螺鈿棗と、その棗を仕舞う布の仕覆(しふく)、そして茶杓が飾られていた。

 水葵蒔絵螺鈿棗を用いた意図は、オリベにも十分に理解できる。

 たとえ季節の物ではなくとも、客に関係した茶道具を用いるのは、茶席ではままある事だ。

 今回は、客ではないものの、ヌバタマがいるという事で、水葵蒔絵螺鈿棗を用いたのだろう。

 青織部沓形茶碗を用いた理由も同様だ。

 

 ただ、分からないのは、茶杓であった。

 まず、オリベはその茶杓に見覚えがなかった。

 すなわち、夜咄堂の物ではなかったのである。

 茶杓は薄く作られていて、力を入れて握れば折れてしまいそうにも見える。

 だが、歪みなく真っ直ぐに削られているからだろうか、か弱さよりもむしろ力強さを感じさせる茶杓だった。

 しかし、遠目の外見からでは、これがどの様な茶杓なのか、どうしても分からない。

 これを尋ねぬままに最後の茶席が終わるのは、少々悔しい気がしてならなかった。

 

 

「宗一郎」

「……分かりました」

 自身の胸に手を当てながら、前主の名を呼ぶ。

 彼との付き合いは、もう三十年程になるだろうか。

 その仕草だけで、宗一郎は意を汲んでくれた。

 そうこうしているうちに、和服を整えた千尋が茶室に戻ってくる。

 茶道具を挟んで千尋が座すなり、オリベは落ち着いた口調で声を掛けた。

 

 

 

 

 

「大変結構なお茶席でした」

「……どうも、ありがとうございます」

 宗一郎が喋るものと思っていたであろう千尋は、一瞬戸惑う様子を見せるも、すぐに頭を下げた。

「ところで、今日のお茶尺は」

「泪を写したものでございます」

「泪……?」

 千尋の言葉を繰り返す。

 泪の名ならば、無論知っている。

 オリベのみならず、茶人ならば誰もが知っている茶杓の代名詞とも言える品だ。

 その名と、この茶席の関連性を考えようとした所で、千尋が話を続けた。

 

 

「もちろんご存知かとは思いますが……泪の茶杓とは、かの千利休最後の作です」

「うむ」

「晩年の千利休は、豊臣秀吉との関係が悪化し、蟄居・切腹を命じられています。

 その蟄居の際、利休は京から堺へと向かったのですが、

 親交ある者達は、皆連座を恐れて、利休を見送ろうとしませんでした。

 ですが……」

「古田織部と、細川忠興。二人の例外がいるね」

「その通りです」

 千尋は深く頷く。

「二人の弟子の見送りに感激した利休はそれぞれに別れの茶杓を送りました。

 そのうち、古田織部に送られた茶杓……これが、泪の茶杓と言われています。

 今日の席では、大変恐縮ではございますが……その泪の写しを用いさせて頂きました」

「ふむ……」

 オリべは目を皿の様にして、茶杓を見つめる。

 言われてみれば、この実直な佇まいは泪に似た所がある。

 それでは、一体どこでこれを……という疑問が湧き上がったが、すぐに答えが思い浮かんだ。

 いつだったか、尾道の骨董品店の女主人を、日々是好日で癒したと聞き及んでいる。

 思いつく限りの可能性ではあるが、おそらくはその縁で調達したのだろう。

 

 

「この茶杓には……」

 千尋がなおも説明を続ける。

「この茶杓には、私の想いを込めました。

 泪……これは実に寂しく、そして強い茶杓だと、私は思うのです」

 声が、小さくなった。

 それでも彼は、オリベをしっかりと見据えながら語り続けた。

 

「かの古田織部は、総黒漆塗の筒箱に穴を開け、そこに泪を入れて位牌代わりに拝んだそうです。

 なにせ、師千利休との別れの茶杓なのです。

 連座をも恐れぬ程に敬愛した師なのですから、さぞや深い悲嘆に暮れた事でしょう。

 泪という名からも、悲しみはひしひしと伝わってきます」

「うむ。つまりそれが千尋の気持ちと……」

「半分は」

「半分……?」

「古田織部は、日々を過ごすだけではありませんでした。

 利休亡き後の茶人達の先頭に立ち、彼は幾多の文化を築きあげてきました。

 それこそ、オリべさんもそのうちのお一人ですし」

「む……」

「……それこそが、私の残り半分の想いです」

 

 千尋は、皆を見回した。

 笑んでいた。

 夏の日差しの如く眩しい笑みが、千尋の顔にはあった。

 

 

 

 

「皆がいなくなっても、大丈夫です。

 私は、一人で立派に夜咄堂を経営し、生きてみせます。

 ですので……どうか、ご安心下さい」

 

 たった、一つ。

 たった一つの道具で、溢れ出る想いを表現できる。

 千尋の用いた泪は、まさしくその例であった。


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