尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十話『依々恋々 その三』

「……別に私がいなくとも、どうという事はないでしょう?」

 ヌバタマは流し目で千尋を見た。

 それと同時に、差し出された茶碗を手にして煽る。

 薄茶が喉を通過した途端、彼女は目を瞬かせながら、茶碗を膝の上に預けた。

 

 

「お服加減は?」

「美味しい……」

「そうなるようにと思って、()てたからかな」

 使った分の水を釜に戻しながら言う。

 

「最近さ。手前に対する心構えがちょっと変わったんだ。

 稽古でも、ただ定められた挨拶をするんじゃなく、相手の目を見て、相手の事を考えながら挨拶をかわす。

 手前の時も、常に相手の視線や気持ち、状態を意識する。

 不思議なもので……相手の事を考え続けた結果、自分の手前の誤りに気がつくようになってさ。

 今回も、気持ちが手前に反映されて、茶の味が変わったのかもしれない」

「それは良い事で」

「そう思えたのは、ヌバタマのお陰だ」

 茶碗を受け取るべく……否、もはや茶碗はどうでも良かった。

 ヌバタマと話す為、彼女に相対した千尋は、じっと相手の瞳を見つめる。

 彼女もまた、千尋の何か思いつめた様子を察したようで、小首を傾げながら真っ直ぐに千尋を見つめ返した。

 

 暫しの沈黙。

 釜がたぎる音だけが、微かに耳に届いてくる。

 先にその釜の音を上書きしたのは、千尋の声だった。

 

 

 

「ヌバタマのお陰で、相手を想うという事を知った。

 ヌバタマのお陰で、相手を想う一服の良さを知った。

 それが、凄く心地良いんだ。

 だから、つまり……」

「はい」

 ヌバタマが相槌を打つ。

 消えてしまいそうな声だった。

 

「……その心地良さを、失いたくないと思った。

 だから、ヌバタマがいなくなると、寂しいのではなく、辛いんだ。

 この心地良さは……愛しさからくるのだと思う」

「………」

 

 ヌバタマは何も言わずに目を瞑った。

 

 彼女の心情は、やはり千尋には理解できない。

 だが、もう後戻りはできないのだ。

 胸が、経験した事のない速さで鼓動する。

 血の気が顔に上り、口が震えそうになる。

 ヌバタマを想う気持ちが、痛烈な緊張となって全身を駆け巡る。

 

 ――だというのに、不思議なものだ。

 その先の言葉は、自分でも驚く程、淀みなく口にする事ができた。

 

 

 

 

「難しい問題は山積みだけれど、その上で言わせてもらう。

 現世に残って欲しい。一緒に夜咄堂(よばなしどう)を続けて欲しい。

 ヌバタマと、この町で静かに息づきたい。

 ……ヌバタマの事が、好きなんだ」

「……そうでしたか」

 ヌバタマが目を開ける。

 身じろぎもせず、瞼だけが静かに持ち上がる。

 彼女の声は、清流のように澄み渡っていた。

 

「……正直に申し上げれば、大いに困惑しております。

 まさか……まさか付喪神(つくもがみ)が、人間に想いを寄せられるだなんて。

 ただただ、恐縮するばかりです。私なんかに、もったいない……」

「そんな事は」

「千尋さん」

 ヌバタマの言葉が千尋を遮る。

 赤い唇が、小さく動いた。

 

 

 

 

「私は付喪神です。子を成せないかもしれない」

「それはそれで、静かな日々を送れるさ」

 

 

「狭い世界しか知らない世間知らずの身。ご迷惑だってお掛けします」

「一緒に学ぼう。それだって幸せだ」

 

 

「……流行好きです。我侭言うかも」

「多少なら、可愛いものだよ」

 

 

 

 

「千尋さん……」

 もう一度、ヌバタマは千尋の名を呼んだ。

 

 か細い、そして柔らかい声。

 今朝の有無を言わさぬ力強さは、そこにはない。

 心なしか、口の端が緩んでいるようにも見えた。

 彼女は、笑っているのだろうか。

 そうあってほしい。

 それはすなわち……。

 

 ……千尋が、笑顔を願うのとほぼ同時だった。

 

 ヌバタマは手のひらを畳につけると、顔が見えなくなる位に頭を下げた。

 そして――

 

 

 

 

 

「申し訳ありません」

 告げられた一言は、千尋の胸を切り裂いた。

 

 

 

 

 

「やはり私は、現世には残れないのです」

 ヌバタマが、頭を下げながらはっきりと告げる。

 まただ。

 また、あの揺るぎない声。

 付喪神の定めというだけでは咀嚼できない、ヌバタマの決意。

 何故、それ程の決意を持っているのだろうか。

 先程の思わせぶりな様子は、何だったのか。

 

 分かっている事といえば、一つだけ。

 ……千尋は、振られたのだ。

 

 

 

「……その」

「いや、良いよ」

 今度は、千尋がヌバタマのを遮った。

 腰を上げれば、足が崩れ落ちそうになる。

 それを必死に堪えながら立ち上がったが、その間もヌバタマは顔を上げない。

 

「当然だ。君が天に還る唯一の手段を奪おうとしているのだから。

 申し訳ない。……本当に申し訳ない。

 言い難い事を、言わせてしまった……」

「………」

「謝ってどうなるものでもないけれど……すまない……」

 

 力なく頭を振る。

 彼女への罪悪感は本物だが、ある意味では千尋には関係ないものだった。

 断られたのだ。

 振られたのだ。

 失恋したのだ。

 答えが出た以上、過程が何であれ、答えは覆らない。

 そう考えるから、ヌバタマの話を聞く事に意味はない気がした。

 それに、それは互いに辛いものでもある気がした。

 

 

 

「本当に悪かった。

 ……俺も、決めたよ」

 千尋は、ヌバタマに背を見せる。

 

「使おう……日々是好日(にちにちこれこうにち)を。

 それを必要とする人の為に」

 

 そう言い残して、茶室を出た。

 結局、ヌバタマは最後まで頭を上げなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヌバタマに告白してから数日。

 その間千尋は、鬱屈とした気持ちで日々を過ごしていた。

 

 振られた痛手も大きかったが、ヌバタマの気持ちを思えば気持ちは一層沈んだ。

 告白を断らせた上に、その相手と同じ屋根の下で暮らし、働かなければならない。

 彼女は、自分とは比較にならない程の居心地の悪さを感じているはずなのだ。

 その証拠に、彼女は自分を避けるように日々を過ごしているし、接触すれば反射的に顔を伏せられてしまう。

 その都度千尋は、猛烈な罪悪感に苛まれた。

 暇ではあるが、その分気楽に働けたはずの夜咄堂。

 千尋と付喪神達の仕事場は、たった一つの茶席を経て、針の筵へと姿を変えたのだ。

 だが、それだけではなかった。

 千尋を塞ぎ込ませている理由は、もう一つ残っていた。

 

 

 

(……ふう)

 重い溜息を付き、窓際に立って外を眺める。

 目に入るのは夏の青空と、青々とした夜咄堂の庭。

 そして緑の奥に微かに見えている門から玄関までの通路。

 もう一つの理由は、その通路を通る者……すなわち客にあった。

 

 決して、客足に悩んでいるわけではない。

 二階でのお抹茶セットを所望する客が、いつ現れるのか。

 そして、その客は何かを思い煩っているのか。

 すなわち……日々是好日を使い、付喪神達と別れる瞬間。

 その時が、いつ訪れるとも分からぬ為に、千尋は塞ぎこんでいた。

 

 針の筵は自業自得なのだから、受け入れなくてはならない。

 だから、それ自体は辛くとも、許容はできる。

 本当に辛いのは、むしろその筵が取り払われる瞬間だ。

 振られようもヌバタマには好意を持っているし、オリベやロビンも大切な存在だ。

 そんな付喪神達との別れが、この先突然訪れるのが辛いのだ。

 

(でも……皆にとっては、これが現世から解放される唯一の手段。

 それに、ヌバタマも望んでいるんだから……な)

 もう一度、俯きながら溜息を零す。

 そうして、一時的に視線を外側から外していたからからだろうか。

 不意に玄関が開かれるまで、千尋は来客に気が付かなかった。

 

 

 

 

「お邪魔するよ」

 開扉の音と共に、中年男性の声が聞こえてくる。

 来客を見落としていたか、と思いながら顔を上げつつ、同時に妙な懐かしさを覚えた。

 

 いつだったか、聞いた事がある声。

 どこかで、聞いた事がある声。

 不思議な安堵を与えてくれる声。

 その声の主は……玄関の前で朗らかに笑っていた。

 

 

 

 

「え、っ……」

「久しぶりだな、千尋。暫く見ないうちに大人びたみたいだ」

「とう……さん……?」

 ……若月宗一郎。

 骨と化し、若月家の墓で眠っているはずの父が、そこにはいた。

 

 

 

 

「え……? え……? あ、え……えっ……?」

 言葉を発する事が出来ない。

 狼狽の音だけが、千尋の口から漏れる。

 玄関前に立っている和服姿の男は、間違いなく自分の父だ。

 だが、父が亡くなっているのもまた間違いない。

 納骨まで済ませたのは、他ならぬ自分自身だ。

 ならば、父に良く似た誰かなのだろうか。

 否、それもない。

 親戚はもういないし、赤の他人ならば自分の名を知っている説明が付かない。

 だとすれば、一体……。

 

 

 

「そうだな。すまない。お前が驚くのも無理はないな」

 父の顔をした男は千尋に近づいてきた。

「なんせ、私は亡くなっているんだ。常識ではここにいる説明がつかない。

 ……だがな。夜咄堂に足を踏み入れてから今日に至るまで、

 お前は、常識外の出来事を何度も目にしてきたのではないか?」

「あっ……」

「ああ、別に私が本当は付喪神だったというわけじゃないぞ。あくまでも例えだ」

 慌てて言葉が付け足された。

「世に言うだろう? 現世に未練があって化けて出た……と。

 あれは意外と、結構起こり得る話でな。

 私もあれと同じなのだよ」

「それじゃあ、本当に……?」

 歯が打ち鳴らされかけた。

 だが、必死に堪えて言葉を紡ぎだす。

 ここにいるのは、本当に……

 

 

「ああ、お前の父さんだよ。……ただいま、千尋」

「………!!」

 激情が、喉まで駆け上がってきた。

 声を張り上げて、父の名を呼びたい衝動に駆られる。

 しかし、そうするわけにはいかない。

 遠慮や気遣いはなく、千尋のプライドが衝動を抑えた。

 せっかく、大人びたと言ってくれたのだから、感情的な姿は見せたくない。

 溢れでる感情を制御し、千尋ははちきれんばかりの笑顔を浮かべて、その人の名を呼んだ。

 

「……お帰り。父さん」

「うん」

 

 それ以上は何も言えなかった。

 だが、それで良い。

 言葉なぞ発せずとも、笑いあっているだけで、互いの気持ちが伝わるような気がする。

 それが、家族というものなのだ。

 

 

 

 

(あれ? でも……)

 

 ふと、思い至る。

 父の喜ぶ気持ちは、確かに分かる。

 だが、一つだけ分からない事があるのだ。

 

 

 

 

「父さん、聞いて良いかな?」

「うん、言ってみなさい」

 父は、穏やかな口ぶりで質問を許可してくれた。

「さっき『未練があって化けて出た』って言ったよね。

 父さんの未練って、一体何なの?」

 

 そう尋ねながら、幾つかの答えを想像する。

 茶道具を守って亡くなった父だ。やはり、店絡みなのだろうか。

 或いは、何か自分に伝えなくてはならない事等があるのだろうか。

 まさか、現物的な未練ではなかろうが……。

 

 ……だが。

 父から告げられたのは、そのいずれでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「未練とは、お前の事だよ、千尋」

 先程と変わらぬ、穏やかな口ぶり。

 父は、自分の瞳を見据えながら、理由を話してくれた。

 

 

「確かに、お前は随分と大人びたように見えるよ。

 でも……本当にお前が立派に成長しているのか、私は気になって仕方がない。

 特にお前には、自分を押し殺しすぎて、相手に壁を作ってしまう所があるからな。

 それが、私の未練なんだ。

 絶命の直前まで、お前の成長を案じていたんだ。

 だから、茶席でその答えを見せて欲しい」

「え、っ……」

 掠れたような声が漏れる。

 父の言葉の意味が、脳裏に浮かんでしまう。

 父が現れた瞬間よりも大きな狼狽が、千尋を襲う。

 

 だが、そんな千尋に構わず、父は言葉を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

「この店を経営しているという事は、お前も茶道を始めたのだろう?

 お抹茶セット、頂けるかな」


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