尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第一話『青織部沓形茶碗 その三』

「やあやあ、シゲ婆さんじゃないか! これはようこそいらっしゃいませ!」

 聞こえてきた声に反応したのはオリベだった。

 彼が勢いよく玄関を開ければ、そこには小柄な老婆がいた。

 皺にまみれた顔付きだが、温和で優しそうな印象を醸し出している。

 老婆はゆっくりと、だが矍鑠(かくしゃく)とした足取りで店内に入ってきた。

 

「宗一郎さんが亡くなったと聞いた後、ずっとお店が閉まっていたから、閉店したと思っていたんだよ。

 でも、千光寺(せんこうじ)のお参りの帰りに、駄目で元々と思って立ち寄ってみてね。

 そしたら、なんだい。玄関が半開きだったものでね」

「それで声を掛けられたのですな。いやはや失敬。宗一郎がいないのに店を開くわけにはいかなかったのです」

「ごめんなさいね。それよりシゲお婆ちゃん、また千光寺にお参りですか? あまり無理はしないで下さいね」

「なになに。歩けるうちはなるべく歩いた方が良いのさ」

 シゲ婆さんが、オリベやヌバタマと会話を交わす。

 そこに入れない千尋が一歩下がって様子を伺っていると、視線に気が付いたシゲ婆さんが声を掛けてきた。

 

「ところで……お兄ちゃんは、新しい店員さんかい?」

「あ……いえ、なんというか……千尋と言います。若月千尋。宗一郎の息子です」

「おやまあ、お兄ちゃんが千尋ちゃんかい!」

 シゲ婆さんの声が華やぐ。

 千尋を見つめる彼女の目が、明るく輝いた。

「生前の宗一郎さんから、話はよく聞いていたよ。

 内気だが優しい子がいるってね。

 ああ、ああ、ああ。確かに目元が宗一郎さんそっくりだ。

 そうかい、お兄ちゃんが……そうかい……」

「……あっ」

 歓喜に満ちていたはずのシゲ婆さんの瞳が、一瞬で揺れた。

 涙が零れる事を厭わず、しかし声を漏らさずに咽び泣く。

 ヌバタマが近寄ってきてシゲ婆さんの肩を優しく抱いたが、当の千尋はただ狼狽するだけだった。

 

「……ごめんねえ。千尋ちゃんの顔を見たら、宗一郎さんを思い出しちゃってね。

 ああ、千尋ちゃんは何も悪くないんだよ。ごめんねえ……」

「……はい」

 そう言う他ない。

 千尋は、やり場のない視線を泳がせつつも、想いを巡らせた。

 父は、おそらく慕われていたのだろう。

 父と老婆の間にどのような交誼(こうぎ)があったのかまでは、千尋の知る所ではないが、

 千尋は老婆との面識がない以上、おそらく交誼は、夜咄堂(よばなしどう)で育まれたものだろう。

 

 そう思うだけで、その光景を想像する事は出来ない。

 千尋は、夜咄堂の日々を知らないからだ。

 四十九日の後も、なお老婆に嗚咽をさせる程の、夜咄堂での二人の交流を知らないからだ。

 

 

 

「千尋ちゃんや」

 シゲ婆さんが名を呼んだ。

 涙は止まっているが、声はまだ震えていた。

「良かったら、お薄茶を一服頂けないかい?

 私はね。宗一郎さんが二階で()ててくれるお薄茶が大好きだったんだ」

「お薄茶?」

「薄味に点てる抹茶の事ですよ」

 ヌバタマが教えてくれる。

「ま、抹茶……? 俺がですか?」

 その先の言葉が出ない。

 自分は、お茶を点てる為にここにきたわけではない。

 そもそも、お茶なんて一度も点てた事がない。

 作法も点て方も、何も知らないのだ。

 知らないのだが……

 

「む、むう……」

 なおも口籠ってしまう。

 父の為に泣いてくれた老婆の頼みを断る等、到底できる事ではない。

「もちろん構いませんよ」

 そこへ、代わりにオリベが返事をした。

「お、オリベさん!?」

「ただ、宗一郎から、この子は茶道の心得がないと聞いております。

 ですので、私が補佐しながら点てさせますが、それでも宜しければ」

 オリベの提案に、シゲ婆さんは頷いて返事をした。

 それを受けるや否や、オリベは振り返ると、千尋に向かって親指を突き立ててくる。

 

 

「……俺が、点てるんですか」

 選択の余地はない。

 かくして、若月千尋は、生まれて初めて茶を点てる事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茶室の裏には茶道具用の小さな物置があった。

 物置から茶道具を取り出し、オリベに指示されるがままに、茶道具の一部を六畳の茶室に並べる。

 だが、それらを使った経験は一度もないし、そもそも道具の名前さえも分からない。

 壁に掛けた軸の文字だって、変体仮名で読む事ができない。

 何もかもが分からず不安は募る一方だったが、それを口にしても、オリベはただただ笑い飛ばすだけだった。

 

 準備が整ったら一度退室し、先にシゲ婆さんを茶室の中に入れる。

 先程まで泣いていたからだろうか、すれ違ったシゲ婆さんの瞳にはまだ憂いの色が見えた。

 茶室の端に敷かれた赤い毛氈(もうせん)の上にシゲ婆さんとオリベが座った所で、抹茶が入っている棗と青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)を手にして、千尋が中に入る。

 これは、事前にオリベから説明を受けた作法だった。

 

 

 

(ええと、まずは釜の前に茶碗と棗を置いて……)

 わざとスローペースで歩きつつ、オリベの言葉を思い出す。

 時間稼ぎだけではなく、緊張からも、千尋の足取りは重くなっていた。

 彼もシゲ婆さんの隣で控えてくれてはいるが、極力、助言は避けるとの事だった。

 すなわち、事前説明を全て思い出すつもりで取り組まなくてはならない。

 素人である事は断っているのだから、多少失敗しようと構わないと言われているのだが、なるべくなら醜態は晒したくなかった。

 

(次に……なんだっけ、この、水を入れる器……建水(けんすい)

 これと、柄杓(ひしゃく)を持って……あれ? 柄杓は、どこに置くんだっけ?)

 早くも手前を忘れてしまった。

 必死に思い出そうとするが、所詮は付け焼刃だ。

 だが、オリベの言葉の代わりに、柄杓を釜に掛けている光景が浮かんでくる。

 記憶のどこかに転がっていた茶道のイメージでは、そうなっていた。

 

(そうだ、きっと釜の上だ。蓋を開け……「あっつぅっ!??」

 素手で釜の蓋を掴んだ瞬間、炭火で十分に熱せられた釜の熱さが、蓋を介して手に伝わってきた。

 思わず叫び声を上げながら手を引いてしまう。

 

「ち、千尋ちゃん……」

 驚いたシゲ婆さんは中腰になりながら声を掛けてくる。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫です! 大丈夫……」

 なんとか苦笑を作って、そのシゲ婆さんを制する。

 だが、平静を装っても心中の狼狽は凄まじい。

 今の失敗で、オリベの説明が全て頭から吹っ飛んでしまった。

 

(あれ? 蓋は素手で取っちゃいけないんだっけ?

 いけないよな。だって熱いんだもん。

 それに、蓋を取ったとしても、その後どこに置けば……

 あ。挨拶! どこかでなにか挨拶しろとか言われてなかったっけ?

 あと、抹茶とお湯はどっちを先に入れれば?

 あれれれれ……?)

 

 千尋の動きが止まる。

 もう、何が何だか分からない。

 ただ思うのは、一体何故こうなったのか、という事だけ。

 その答えなら、すぐに分かった。

 茶道なぞに関わるから……

 

 

 

 

「千尋」

 

 

 

 

 オリベの声が聞こえた。

 春風の如き、暖かく嫋々(じょうじょう)とした声だった。

 

「釜の蓋を開ける時は、右の腰に付けた帛紗(ふくさ)という布を使いなさい。

 後は、抹茶をお湯でかき混ぜれば、作法はどうでも良いよ」

「あ……はい」

 

 不思議だった。

 ただその一言で、気持ちが落ち着いた。

 相変わらず正しい手前は思い出せず、このまま再開しても、おそらくは何もかもが誤りだろう。

 だが、今はそれを醜態とは思わなかった。

 それよりも酷い姿を晒したからだろうか。

 あるいは、オリベの言葉で開き直れたのだろうか。

 答えは分からなかったが、今は深く考えない事にした。

 

 不思議なもので頭の中が空になると、凛として張り詰めた空気が、茶室から退散したような気がする。

 むしろ、感じるのは緊張とは対極に位置する安らぎだった。

 自分の呼吸の音さえも感じられるくらいに、気持ちが穏やかになる。

 質素な作りの茶室だからこそ、心を煩わせるものがない。

 長閑(のど)やかに。

 うららかかに。

 初夏の新緑の囁きさえ、聞こえる気がした。

 これが、和なのだろうか。

 そんな事を考える余裕さえ出てきた千尋は、お薄茶をすぐに作り上げる事ができた。

 

 

 

 

 

「どうぞ」

 お薄茶の入った青織部沓形茶碗をシゲ婆さんに差し出した。

 それを受け取ったシゲ婆さんは、一礼の後、茶碗を煽る。

 

 

 ――千尋の意識が遠のいたのは、その一瞬だった。

 

(あれ……?)

 

 今、確かに視界がぶれた。

 

 そう感じたのは、シゲ婆さんの方で何かが強く瞬いたからだ。

 光のようなものを受けて、全身が揺さぶられるような感覚。

 体の芯から揺さぶられるような感覚。

 だが、その揺さぶりは決して不快なものではない。

 優しく、心をあやされるような揺らぎ。

 何が起こったのだろうと考えた瞬間には……もうその揺らぎは収まっていた。

 

 

(なんだ、今の? 確かに何かが光って、揺れて……)

 違和感の正体を探ろうと、シゲ婆さんの方を向く。

 だが、毛氈の上に座っているシゲ婆さんとオリベがいるだけで、変わった様子は見受けられない。

 ――否。

 一つ、大きく変わっている事があった。

 光の件ではないのだが、それを一時的に忘れさせる程の変化が、そこにはあった。

 一口飲み終え、茶碗を膝の上に置いたシゲ婆さんの顔が、喜色に満ちていたのだ。

 

 

 

 

「ありがとう、千尋ちゃん。おいしいお茶だよ。それに、懐かしいねえ」

「懐かしい、と言いますと……?」

 突然の笑顔に驚きながらも、千尋は尋ね返す。

「実は宗一郎さんも、よくこの青織部で一服点ててくれたのさ。

 それを思い出したら、なんだか懐かしくなってね」

「………」

「でも、悲しい記憶じゃあない。暖かな記憶だよ」

 シゲ婆さんは目を細めて言葉を続ける。

 

「千尋ちゃんも知っているだろうけど、宗一郎さん、普段は真面目で物静かな人でしょう?」

「ええ。確かに……」

 頷きながら、父と過ごした日々を思い出す。

 自分から会話を振って場を盛り上げる事はない、寡黙な父だった。

 日常で交わされていた父との交流は、千尋が学校で起こった出来事の話題を振り、父はそれを幸せそうに頷いて聞くのが主だった。

 

「でもね。茶席ではそんな事はなかったのさ。

 いつも面白い話をしては、私を楽しませてくれたよ」

「父がですか?」

「そうだよ。こんな話があったね。

 宗一郎さんが若い時に、古道具屋で茶碗を買ったらしいのさ」

「はい」

「店主が口のうまい人でね。

 『本来は数十万円もする茶碗だが、未来の名茶人の為に半額に負けよう!』

 とか言われたもんで、一も二もなく飛びついたそうなんだよ」

「……その話、なんとなくオチが見えましたよ。安かったんでしょう」

「おや。じゃあ、本当は幾らだったと思うかい?」

「一万円くらい?」

「百円さ。缶ジュースだって買えやしない。

 あの時は、この青織部の形の様に怒りが波打っていましたよ、とか言っちゃってさ」

 シゲ婆さんが呆れたように言う。

 予想を大幅に下回る値段と、シゲ婆さんの口ぶりが面白くて、千尋は思わず吹き出してしまった。

 

「ははっ、それは酷いですね。……知らなかったな。茶席って、そんな冗談飛ばしても良いんだ」

「お堅い席ならともかく、気心知れた仲だからかもしれないねえ。

 私は、宗一郎さんのお茶の、そういう所を好んでいたよ。

 自由気ままで、形に捕らわれない。それこそ、まるでこのお茶碗みたいだねえ」

 

 シゲ婆さんが手元の青織部沓形茶碗を見下ろしながら言う。

 その表情には、もう一片の哀しさも見受けられなかった。

 ただただ、在りし日を懐かしむ温和な笑みだけがあった。

 

 千尋は、暫しその笑みに魅入られる。

 一杯のお茶。

 一つの茶碗。

 この二つで、哀しみが拭われたのだ。

 これが、茶道の力とでも言うのだろうか。

 ただ茶を飲むだけが、茶道ではないのか。

 ……これが、自身が嫌っている茶の世界なのか。

 

 

 

「……千尋ちゃんも、そんな宗一郎さんの自由な血を受け継いでいるわね」

 シゲ婆さんが視線を掛け軸に移した。

 つられて千尋も掛け軸を見上げる。

 何度見ても、やはり千尋には書かれている文字は読めない。

 

 

「祖死父死子死孫死……普通は、茶席にこんなお軸は飾らないものよ」

 シゲ婆さんの声は、笑み交じりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一服を終えたシゲ婆さんが、料金を払って店を去る。

 その背中が見えなくなるや否や、千尋はつかつかとオリベに食って掛かった。

 

「オリベさんっ!」

「なんだねなんだね、そんなにカッカしちゃってからに」

「当たり前でしょう! なんて軸飾らせるんですか!」

「これの事ですか?」

 二人の横で、今日使った茶道具を整理していたヌバタマが軸を広げてみせる。

 書かれている文字がシゲ婆さんの言葉通りなら、とんでもない事だ。

 祖死父死子死孫死。

 死という文字が使われているだけで、縁起でもない。

 その上、この軸を使ったのは、父の鬼籍入りに嘆いている人をもてなす席なのだ。

 まさかオリベが、自分でも読めない軸を飾らせるわけもあるまい。

 

 

「いやいや、祖死父死子死孫死。良い言葉じゃないのさ」

「どこがですか! 死ですよ、死!」

「その通りだ。人は必ず死ぬ」

 凛とした声が返ってきた。

「む……」

 唐突に貫録が篭ったオリベの語りに、千尋の勢いは遮られてしまう。

 

「必ず死ぬのなら、歳の順に死ぬべきではないか。

 まず祖父が亡くなり、次に親が亡くなり、その次は子。そして孫。

 これが逆になってしまえば、必要以上の哀しみが訪れる」

「………」

「それとも何かね。お前、宗一郎よりも先に亡くなりたかったのかね?」

「むう」

 言葉に窮する。

 その様な事、好むはずがない。

 一人残った父が、どれだけ悲しむだろうか。

 そう解釈すれば、あの軸は確かに正しい死に方を書き表していると言えなくもない。

 シゲ婆さんも、茶碗や抹茶だけではなく、軸の影響も受けて、父の死に踏ん切りをつける事ができたのかもしれない。

 ただ、それを認めてしまうのはどうにも癪だった。

 

 

 

 

「むうう」

「ははは! まあまあ、そう小難しい顔をする事もあるまい!

 この店で働く気なら、笑顔は欠かせないぞ」

「!!」

 唐突に切り替わった話題に、千尋の唸り声が引っ込んだ。

「とはいえ、千尋は店を売却するつもりのようにも見える」

「………」

「さて……もう一度聞こうか。君は、この店をどうしたいのだね?」

「ち、千尋さんっ、それは本当なのですかっ!?」

 二人の会話にヌバタマが割って入る。

 彼女は、千尋の胸中は察していなかったようで、オリベの言葉に目をひん剥いていた。

 

 そうなのだ。

 売却問題は後回しにできない。

 目を瞑り、夜咄堂と茶道具へ想いを巡らせる。

 

 正直に言えば……まだそれらに好感は抱いていない。

 父の死因が茶道である事には変わりがないし、茶道具の良さもはっきりとは分からない。

 特に、茶道に対しては、父の件以外でもまだ思う所があった。

 

 だけれども……

 

 

 

 

「そう、ですね」

 ゆっくりと目を開く。

 シゲ婆さんの笑顔が、心中で瞬いた。

 

 彼女を笑わせた茶道、そして茶道具。

 それらを良く思えない事に変わりはないのだが、自分が知らない魅力が詰まっているのも事実なのだ。

 

 

 

 

「俺の学費、父さんが出してくれていたんです」

 茶道に対する複雑な感情が、切り口を変える。

「でも、これからは自分で学費を稼がなくちゃいけなくなりましてね」

「ふむ」

「そんなわけで……当面の間、ここを経営してみようかと思います。

 売る事はいつでもできますしね」

「うむっ」

 オリベは歯を見せて笑い、深く頷いた。

 つられて、千尋の頬まで緩んでしまった。

 

 

「ああ、良かったあ……。

 千尋さん、改めて、宜しくお願いしますね。

 絶対、宜しくお願いしますね!」

 ヌバタマも、顔色を明るく輝かせる。

 天真爛漫な、見ていて気持ちの良い笑顔だった。

 

「はいはい。宜しくな」

「それじゃあ、宜しくの証です」

 ヌバタマがまた右手を差し出してきた。

 千尋もまた僅かに躊躇してしまうが、今度は理由が異なる。

 相手が少女である事に気恥ずかしさを覚えたものの、結局千尋は彼女の手を握り返した。

 その手は暖かく、人間の手と何ら変わりがなかった。


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