尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十話『依々恋々 その二』

 瀬戸内の海に、陽が沈む。

 悠然とした落日によって、深く濃い青色の海は、黄金色に変わりつつあった。

 ロビンの言っていた夕日焼とやらも、この海と同じように染まっているのかもしれない、と千尋は思う。

 日中は海上を行き交っていた漁船は大分姿を消しており、今確認できるのは、間延びした汽笛を鳴らしている渡船だけだ。

 人々の生活の香りが徐々に薄らぎ、静寂を迎えようとしているひと時。

 その穏やかな瀬戸内とは対照的に、防波堤に腰かけて海を見る千尋の心は大いに揺らいでいた。

 

(……さて。どうしたものかな)

 心中で呟きながら、物思いに耽る。

 思い返されるのは、ただただ、一人の少女のみであった。

 ヌバタマ。

 吸い込まれてしまいそうな艶やかさの、美しい黒髪の少女。

 ヒオウギの種子にして、万葉集の枕詞でもあるその名は、名付け親である千尋の胸を支配していた。

 

 

『これは私達の定めです。

 最後のもてなし、賛成に決まっているではありませんか』

 

 

 今朝の話し合いでそう告げたヌバタマからは、揺るぎない決意が感じられた。

 抹茶を守る棗の付喪神(つくもがみ)として生まれてきた影響で、生真面目な性格をしているのは分かる。

 だから、定めに従おうとする気持ちも十分理解はできるのだが、それにしてもあそこまできっぱりと態度を示されるとは思わなかった。

 千尋とて、残って欲しい気持ちをぶつけるのはやぶさかではないが、あのヌバタマが心変わりするとは到底思えない。

 

 

 

 

 

「本音をぶつけた所でなあ……」

「本音がどうかしたって?」

「っ!?」

 背後から唐突に声を掛けられ、反射的に振り返る。

 だが、振り返りつつも声の主が誰なのか、見当がついていた。

 甲高く、それでいて余裕と落ち着きに満ちた、人柄そのままの声の持ち主であるオリベは、

 歯を見せて笑いながら、スタスタと防波堤に歩み寄ってきた。

 

 

「オリベさん……俺を探しに来たんですか?」

「うんにゃ。ただの散歩だよ。よっ、と」

 オリベが防波堤に飛び乗る。

「出不精のオリベさんが散歩だなんて珍しいですね」

「だろう? 自分でもそう思うね。ヒャッヒャッ!!」

 快笑一発の後、オリベは胡坐をかいて海を見た。

 随分遠くを見ているようだったので、視線の先を追いかけたが、水平線が伸びているだけで特別変わったものはない。

 それでも、オリベは瀬戸内の遥か遠くをじっと眺め続けていた。

 

 

 

 

「……あとどれだけ、この世界にいられるかも分からんからな。

 半生を過ごした町だ。今のうちに、しっかり目に焼き付けておこうと思ってな」

「……そうでしたか」

 千尋は静かに頷く。

「なんでしたら、席を外しましょうか?」

「いや、気にしないで良い。むしろ話しておきたい事もあるしな。

 なぁに、単なる老人の思い出話だよ。……この町の話だ」

「尾道の話、ですか」

 そう口にして、千尋も胡坐をかく。

「ああ。お前、尾道は好きかね?」

「そりゃあ、まあ、好きですが」

「勝ったね。私は大大だぁい好きだよ!」

 オリベは両手を大げさに広げ、好感度の度合いを示してみせた。

 子供っぽくもオリベらしい仕草に、千尋はつい苦笑いする。

 だが、笑われても気にする事なくオリベは話を続けた。

 

 

 

「百年以上を過ごした町だし、夜咄堂(よばなしどう)だってあるから、そりゃあ愛着は沸く。

 だが、贔屓目抜きに良い町だよ。ここは。

 そのもっともたる理由が、この瀬戸内海よな」

「この小さな海が、そんなに良いんですか?」

「小さいから良いのだよ」

 オリベは嬉しそうにそう言ってのける。

「小さい海だというのに、大海に負けない魅力がここには詰まっている。

 生命や自然、美しい風景といった要素は当然の事、

 陸地には、この海があるからこそ築かれた港町としての歴史がある。

 その歴史や光景に惹かれた、幾多の文化人達もいる」

「………」

「いや、文化人だから良いというものじゃないさ。

 海と共に生きる人々や、その人々の日々の営み……

 他にも、数えきれない程の魅力が、この小さき海に詰まっているのだ。

 まるで、総合芸術たる茶道の様ではないか」

 オリベはそう言い切り、にっと歯を見せて笑ってみせた。

 笑顔を浮かべたままで、彼はなおも喋り続ける。

 

「……私達がいなくなったら、店を売り飛ばそうがお前の自由だ。

 千尋の人生は、千尋のものなのだからね。

 ……だが、もしも夜咄堂を続けてみようという気があるのなら、

 私達に代わって、この素敵な海と共に生きる人々を、お前に癒し続けて欲しくてな」

「……俺が、ですか」

 千尋の声が、少し沈む。

「うむ。他の誰でもない、お前だよ」

「……自信が……」

 

 千尋の声が沈む。

 夜咄堂を続けるのなら、大学と二足の草鞋を履かなければならない。

 それだけでも困難だし、茶道の手前もまだまだ未熟だ。

 

 その上、更に大きな問題を抱えている。

 自分は、たった一人の少女の心を見抜く事ができないのだ。

 ヌバタマの気持ちが分からないのだ。

 他の誰よりも大切に想っている人なのに、どうしても理解できないのだ。

 そんな自分に、どうして人を癒す事が……

 

 

 

 

「千尋」

 

 

 

 

 オリベが、名を呼んだ。

 落ち着きを与えてくれる、穏やかな声だった。

 初めて出会った時にも、そんな声を掛けられた気がした。

 

 

 

「自信を持ちなさい。自信を持ち、自分の気持ちに従って行動しなさい。

 そうでなければ、以前のお前に逆戻りではないかね」

「オリベさん……」

 茶の湯の師の名を呼び返す。

 二百年以上を生きた付喪神の男は、静かに微笑んでいた。

 

「お前が今案じている事など、大方の察しはつくさ。

 そうして相手の心を図ろうとするのは、とても大切だよ。

 自分の気持ちに従うのは大事だが、相手を気遣う事も忘れてはいけない」

「………」

「相手を想いつつ、自分というものを出す。

 その為には、中間点を探らなくてはならない。

 人の付き合いも、茶道も、どちらにしても言える事だ」

「難しい、ですね……」

「うむ。難しい。だが……」

 

 オリベは千尋を見つめてきた。

 それから逃げる事なく、千尋も彼を見つめ返す。

 助言を受けたとは言え、不安はまだ拭い去る事はできない。

 たった一つの助言で不安がなくなるのなら、楽なものだ。

 だが――

 

 

 

「難しいからこそ、面白いのだよ。

 頑張りなさい、千尋」

「……はい!」

 

 ――だが、挑戦する事は出来る。

 千尋は、勢い良く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オリベよりも先に夜咄堂に帰る頃には、もう夜になっていた。

 一階でヌバタマに帰宅の挨拶をするなり、茶室に入る。

 帰るなり二階でがさごそとやるものだから、ヌバタマが何事かと様子を見に来た。

「どうなされました? 閉店後の掃除なら終わりましたけれども」

「いや、そうじゃなくて、これから茶を()てようと思って」

「時間外にお客様がお見えになるんですか?」

「そうでもなくて、なんと言うか……」

 言葉に窮した千尋は、手元にあった茶碗を、ぶっきらぼうにヌバタマへと突き出した。

「ヌバタマに、一服点てようと思って」

「……そうでしたか」

 ヌバタマは頭を下げ、茶室に入ってきた。

 着物を畳に擦らせながら、そっと毛氈に座す。

 

 単に一服を振る舞うだけなら眼前にある茶道具を即座に使用すれば良かったが、

 千尋は一度退室して部屋前で挨拶を交わし、改めて中に入った。

 これは、単なる茶飲み雑談ではないのだ。

 

 

 

「お楽に」

 釜の前で万事を整え、ヌバタマに気を楽にするよう勧める。

 同時に千尋も小さく息を吐き、僅かに手を止めて窓の外を見た。

 

 そこに映る山間部の景色には明かりがなかったが、遥か遠くには細々と輝く星が見えた。

 よくよく耳を澄ませば、最近少し弱まってきた蝉の鳴き声も届く。

 立秋も過ぎ、夏は少しずつ終わりに近づいている。

 

 春と、夏。

 この二つの季節は、付喪神と……ヌバタマと共に過ごしてきた。

 それでは、秋は。

 冬は。

 来年は、どうなのだろうか。

 共にありたい。

 いつまでも、ヌバタマと暖かき茶を点てたい。

 その想いを胸に、千尋は口を開いた。

 

 

 

「帰ってくる時に、ロープウェイに乗ったよ」

「あら、良いですね」

「うん。時間も時間だし、大分空いていたよ。独り占めできた」

「羨ましいものです……しかし、どうしてまた?

 お金も掛かりますし、石段を上がって来るのと時間に違いはないと思いますが」

「それはそうなんだけれどさ。外で偶然出くわしたオリベさんと、尾道の町の話をしてね」

「ええ」

「それで、尾道の良さを聞いているうちに、この町を眺めてみたくて……ね。綺麗だったよ」

「随分と月並みなご感想ですね」

 ヌバタマがくすりと笑う。

 今朝こそ珍しい表情を見せたが、今茶室にいるのは普段通りのヌバタマだ。

 千尋も苦笑しつつ、茶碗に抹茶を入れる。

 

「でもね。オリベさんの言を借りるんだけれども……

 綺麗なのは町並みだけじゃなく、人々の営みも、なんだな。

 町中には、民家や飲食店の明かりが見えたし、

 海に目をやれば、仕事を追えて帰ってくる漁船の明かりも見える」

「ふむ」

「なんと言ったものかな……」

 一度、手前を止める。

 

「……皆、単なる照明ではあるんだ。

 だけれども、その灯りが、この港町で働く人の活力の輝きみたいに見えてさ」

「なるほど。千尋さんも随分と多感になりましたね」

「そうかもね。……変かな?」

「いえ。素敵な事だと思います」

 

 

 ヌバタマのその言葉に、千尋は顔を上げる。

 そこにいた彼女は、茶花のような笑みを浮かべていた。

 小さく。

 決して派手ではなく。

 しかし、そこからは彼女の意思がはっきりと読み取れる。

 心から、自分が感じ取った事を賞賛してくれているのだ。

 不意に、ヌバタマを抱き寄せたい衝動に駆られる。

 その気持ちを辛うじて抑え、千尋は茶筅を手に取って、茶碗の中の抹茶を掻き混ぜだした。

 

 

 

 

「……オリベさんは、もうちょっと散歩して帰るって。最後にこの町を見ておきたいらしい」

「急にふらりと出かけたと思ったら、そうでしたか」

「百年以上尾道に住んでいたらしいし、感傷に浸る気も分からないでもないな」

「そうですね。私も、どこか出かけてみようかな」

「……そっか。やっぱり、ヌバタマも現世に残る気はないんだな」

 茶筅を振る自分の手を凝視しながら呟く。

 ヌバタマはその端にちらりと映る程度なのだが、気持ちは完全にヌバタマへと傾けられていた。

 ここからが。

 ここからが、本番だ。

 逸る気持ちを抑えるかの如く、千尋はひたすらに茶筅を振り続けた。

 

 

「……ええ。そのつもりです」

 ヌバタマの声色が変わる。

 何者も寄せ付けようとしない、凛とした声に変わる。

 表情を伺う事はできなかったが、声を聞くだけで大方の想像はつく。

 

「それがさ。……俺にとっては辛いんだ」

「そうかもしれませんね。人手も足りなくなりますし」

「いや、そういう事ではなく」

 ようやく、茶筅を振るのを止める。

 茶碗を手にすると、抹茶の熱気が伝わってきた。

 極限に達した緊張を、その熱気で幾分誤魔化しながら、ヌバタマに向き直る。

 すっと茶碗を差し出しながら、千尋は口を開いた。

 

 

 

「ヌバタマがいなくなるのが、辛いんだ。

 オリベさんがいなくなるのも、ロビンがいなくなるのも寂しい。

 ……でも、ヌバタマがいなくなるのは、辛いんだ」

 

 かくして、賽は投げられた。


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