「それにしても、彼の好みを見事に見抜いたものだな」
オリベの言葉は、大いに感嘆に満ちていた。
表情に浮かぶ笑みも、日頃の悪戯っ気溢れるものではなく、素直な感心の笑みである。
「いや……たまたまです。浩之君との会話の中に、たまたま判断材料があっただけですよ」
「仮にたまたまだとしても、私達の勧めを安易に受けなかったのは見事だよ」
「……まあ、確かに、話の流れは生菓子でしたね」
「うむ。私も本気であれで良いと思っていたよ」
オリベがそう言って何度も頷く。
「分かります。俺もあの美しさには惹かれましたもん」
「それでも流されはしなかった……か。
男子三日会わざれば刮目して見よ……とはよく言ったものだな」
「それって、ええと……」
「短期間に、よくもまあ成長したものだ、という事だよ。
……なんぞ、心境の変化でもあったかね?」
「………」
あった。
またオリベの心中を察するような問いに対し、今なら心からそう思える。
ヌバタマとの一服があったお陰で、ドーナツ屋での浩之が心から寛げていない事を思い出せた。
ヌバタマとの一服があったお陰で、自分の好みに走らず、相手の事を考えた茶席を作る事ができた。
つまる所……これが気遣い……おもてなしというものなのだろう。
相手に楽しんでもらう為に趣向を凝らしつつも、そこに溺れようとはしない。
常に相手を中心に添え、その為には己を隠し、或いは曲げる事こそが、おもてなしなのだろう。
更に言えば、客が浩之という事も良かった。
純朴な彼は、型を外した茶席に顔を顰める事はなかった。
夜咄堂を案内した時も、本心から楽しんでくれたから、千尋も気分良く彼をもてなせた。
「……それだよ、千尋」
オリベが、頷いた。
「以前にも教えたね。
それこそが、茶道の良さだ」
あっ、と千尋は声を漏らしそうになった。
知りたいと常々思っていた茶道の良さ。
それが……
「それが……答えだったのですか……」
「うむ」
オリベは腕を組みながら頷く。
「そもそも和敬清寂の四文字は、かの千利休が四規として定めたという説もある。
茶の極意といっても差支えがない言葉だが……その中でも、和。これが大切だ。
いや、無論どれが欠けてもならない。その中で、私は和を重要視しているというだけだがね」
「……言わんとする事は、分かります。体験して、心から同意できるようになりましたから」
「やはり体で覚えるに越した事はなかったようだね。
相手と和を成せば、当然相手を敬えるようになる。
清い心と道具で、相手をもてなそうと思えるようになる。
その経験が、いつしか閑寂の心を作る。
和は、多くの心に通じている。無論、全てが和から派生しているわけではない。
しかし、和の心さえ忘れなければ、道を大きく踏み外す事はなかろう」
そう言い切って、オリベは天を仰いだ。
「これで、私も安心して、あの力の話ができるよ」
「あの力……?」
突然の言葉をオウム返しにしながら、改めてオリベを見る。
笑んでいたはずの彼は、いつの間にか眼を鋭く細めていた。
茶席で時たま見せる、茶に対する真剣な表情に似ていたが、どこか違う。
彼の瞳を見つめていると、外見よりも心中を見つめ返されているような気になる。
一体、彼は……
「……別の力って、一体……?」
「夜咄堂には、とある力が備わっているのだよ。
これを説明する前にお前が成長してくれて、良かったよ。本当に良かった」
「あ、あの……言っている事が、よく……」
「ついてきたまえ」
オリベは千尋の問いに答えずに踵を返して歩き出した。
そんな彼を呆然と見つめていた千尋だったが、オリベが階段に足をかけた所で、ふと我に返って慌てて後を追う。
階段を上がりきると、オリベは茶室の前で顎を上げていた。
更にその先を追いかける千尋の視線は、一点で停止する。
「水墨画……」
そこにあったのは、茶室の上に掛けられた水墨画。
取り換える暇等なかったはずのそれは、以前よりも更に色濃い絵となっていた。
だが、描かれている内容自体は、以前と変わっていないように見える。
何かが、おかしい。
自動的に水墨画の絵が描き足されたとでもいうのか。
それが、夜咄堂の能力とでもいうのだろうか。
だとしても、そんな能力に、何の意味があるのだろうか。
「千尋」
オリベが、振り向いた。
「この水墨画が完成した時、私達
◇
周囲の空気が、凍りついた気がした。
真夏だというのに、猛烈な寒気が背中を駆け上る。
この感覚は……そう。
物心ついてからは一度だけの経験だけれども、忘れるはずがない。
今年の春、父の訃報が届いた時と、全く同じだった。
「天に、召されるって……」
「言葉の通りだよ。……順を追って説明しよう」
オリベはそう言うと茶室の中へと入って、まだ片付けていない
(入って……良いのかな)
千尋はふと、考え込む。
気になったのは、階下で客に備えているヌバタマだった。
オリベは、付喪神が天に召されると言った。
その括りならば、ヌバタマも含まれるのではないだろうか。
正直に言えば……オリベの先の話を聞くのが、怖い。
話を聞く前に、ヌバタマを見ておきたい気がする。
しかし、ここでオリベから目を離しても、それはそれで取り返しがつかなくなるような気がする。
暫しの葛藤の末、千尋は後ろ髪を引かれる思いをしながらも、茶室に入って
「……どうぞ」
千尋が考え込んでいる間に、オリベは茶を
誘われるがままに、出された
細やかな気泡が整然と敷き詰められた、美しささえ感じる点て具合だった。
思えば、オリベの茶を喫するのはこれが初めてであった。
「ほら、飲まんか」
「……頂戴致します」
オリベに急かされて、茶碗を煽り……
「ん……!?」
千尋は、思わず体を震わせた。
喉から流れ込んでいく熱い液体は、菓子がないというのに、苦味の中に淡い甘みを含んでいた。
それが体の奥に流れ込んでいく毎に、痺れが全身を駆け巡るような錯覚を覚える。
それは、決して嫌な感覚ではない。
熱さが意識を覚醒させ、敏感になった意識は茶の味を全て拾い上げる。
百歳に渡って茶道を極めてきたオリベと、百歳に渡って幾多の茶人に用いられてきた茶碗。
そして、やはり百歳に渡って品質を追い求められてきた抹茶。
まさしく、歴史の具現化とも言える一杯が、千尋の手の上乗っている。
水墨画の件の前振りがなかったら、至高の味に思わず茶室から飛び出してしまいそうでさえあった。
「う、うあ……」
「ハハッ。今頃私の点前を知ったかね」
言葉を失った千尋をオリベは笑い飛ばしたが、普段とは異なる穏やかな笑い声だ。
オリベは笑いながら、ゆっくりと体を回して千尋に正対した。
「……さて。まず最初にこの夜咄堂の事を説明しておけば、話は早かろう。
私が造られるよりも前の事だが、この土地は茶道具の塵塚だったのだよ」
「塵塚?」
「ゴミ捨て場の事だ。不要になった茶道具が、ここに捨てられていたのだよ。
物には百年経てば魂が宿る。なのでその前、九十九年目には捨ててしまおう……と、
嘘か誠かは知らぬが、それ位古い茶道具が捨てられていたと聞く」
「つまり、茶道具の付喪神の発祥の地だったという事ですか?」
「発祥とまでは言わんよ。確かに似た発祥物語はあるが、尾道の話ではない。
だが、捨てられた茶道具達の怨念が募る土地であった事は、間違いなかろう」
「……全然、知らなかったな」
「当然だ。話していないからな」
オリベは飄々と言ってのける。
重い話をしているはずなのに、なんとも大したものである。
「だが、とある偉い坊さんが、そんな道具達を見捨てなかったのだよ。
お坊さんは、皆が成仏する為の施設を作ってくれたのだ。
それがこの夜咄堂なのだ。当然今の店が当時からあったわけではないよ。
店は屋号を変え、商いを変え、何度も建て替えられている。
それでも、坊さんがこの土地に込めた力は残っていて、付喪神はここから天に行く事ができるのだ」
「水墨画については?」
「急かすな急かすな。しかし坊さんは一つだけ条件を付けたのだよ」
オリベはそう言って一息ついた。
「茶道具は、あくまでも茶道具。
その使命を全うしなければ天に召されてはならない……とな。
道具の使命。それはつまり……」
「……日々是、好日……」
千尋がかすれたような声で、その力の名を呟く。
この部屋で、何度も見せられた奇跡。
茶の良さを引き立て、客に幸福を与える力。
千尋を、茶の道へと連れ歩いた能力。
あの力が……
「左様。無論、人間に茶の良さを知ってもらう事が最大の目的。
だがあの力は、我々が天に召される唯一の手段でもあったのだ。
……そして、この茶室で人が癒される度、茶室の水墨画には知らぬうちに筆が重ねられるようになっておる。
その絵が完成する時……それこそが……」
「……付喪神が、天に召される時……」
それだけ呟くのがやっとだった。
思わぬ話に足が震え、立ち上がろうと腰を持ち上げる事さえできない。
先程まで見ていた水墨画の色は、以前と比べれば相当濃くなっているような気がした。
あとどれだけの人を癒せば、水墨画は完成するのか。
そもそも、何を以てして完成とするのか。
父はその話を知っていたのか。
天に召されれば、やはりもう会う事はできないのか。
聞きたい事を挙げていけば、キリがない。
たただだ混乱に見舞われる脳内の糸を必死に解し、その中から、ようやく一つだけ問いを抜き出す事ができた。
つまりは、この問いこそが自分にとって一番大事なのだろうか。
その答えを出さぬままに、千尋は思いの丈をオリベにぶつけた。
「その話は……ヌバタマにも言える事なの?」
「……そうだよ。今、夜咄堂に茶道具がある付喪神全てに適用される話だ。
ヌバタマも、お前の前から姿を消す事になる」
オリベは、はっきりとそう言ってのけた。