尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第九話『夜咄堂の真実 その三』

「それにしても、彼の好みを見事に見抜いたものだな」

 オリベの言葉は、大いに感嘆に満ちていた。

 表情に浮かぶ笑みも、日頃の悪戯っ気溢れるものではなく、素直な感心の笑みである。

 夜咄堂(よばなしどう)から出ていった浩之の背中が見えなくなると、千尋はそんなオリベを見ながら首を竦めてみせた。

 

「いや……たまたまです。浩之君との会話の中に、たまたま判断材料があっただけですよ」

「仮にたまたまだとしても、私達の勧めを安易に受けなかったのは見事だよ」

「……まあ、確かに、話の流れは生菓子でしたね」

「うむ。私も本気であれで良いと思っていたよ」

 オリベがそう言って何度も頷く。

「分かります。俺もあの美しさには惹かれましたもん」

「それでも流されはしなかった……か。

 男子三日会わざれば刮目して見よ……とはよく言ったものだな」

「それって、ええと……」

「短期間に、よくもまあ成長したものだ、という事だよ。

 ……なんぞ、心境の変化でもあったかね?」

「………」

 

 あった。

 またオリベの心中を察するような問いに対し、今なら心からそう思える。

 ヌバタマとの一服があったお陰で、ドーナツ屋での浩之が心から寛げていない事を思い出せた。

 ヌバタマとの一服があったお陰で、自分の好みに走らず、相手の事を考えた茶席を作る事ができた。

 つまる所……これが気遣い……おもてなしというものなのだろう。

 相手に楽しんでもらう為に趣向を凝らしつつも、そこに溺れようとはしない。

 常に相手を中心に添え、その為には己を隠し、或いは曲げる事こそが、おもてなしなのだろう。

 更に言えば、客が浩之という事も良かった。

 純朴な彼は、型を外した茶席に顔を顰める事はなかった。

 夜咄堂を案内した時も、本心から楽しんでくれたから、千尋も気分良く彼をもてなせた。

 

「……それだよ、千尋」

 オリベが、頷いた。

 

 

「以前にも教えたね。和敬清寂(わけいせいじゃく)の和。

 それこそが、茶道の良さだ」

 あっ、と千尋は声を漏らしそうになった。

 知りたいと常々思っていた茶道の良さ。

 それが……

「それが……答えだったのですか……」

「うむ」

 オリベは腕を組みながら頷く。

「そもそも和敬清寂の四文字は、かの千利休が四規として定めたという説もある。

 茶の極意といっても差支えがない言葉だが……その中でも、和。これが大切だ。

 いや、無論どれが欠けてもならない。その中で、私は和を重要視しているというだけだがね」

「……言わんとする事は、分かります。体験して、心から同意できるようになりましたから」

「やはり体で覚えるに越した事はなかったようだね。

 相手と和を成せば、当然相手を敬えるようになる。

 清い心と道具で、相手をもてなそうと思えるようになる。

 その経験が、いつしか閑寂の心を作る。

 和は、多くの心に通じている。無論、全てが和から派生しているわけではない。

 しかし、和の心さえ忘れなければ、道を大きく踏み外す事はなかろう」

 そう言い切って、オリベは天を仰いだ。

 

 

 

「これで、私も安心して、あの力の話ができるよ」

 

 

 

「あの力……?」

 突然の言葉をオウム返しにしながら、改めてオリベを見る。

 笑んでいたはずの彼は、いつの間にか眼を鋭く細めていた。

 茶席で時たま見せる、茶に対する真剣な表情に似ていたが、どこか違う。

 彼の瞳を見つめていると、外見よりも心中を見つめ返されているような気になる。

 一体、彼は……

 

「……別の力って、一体……?」

「夜咄堂には、とある力が備わっているのだよ。

 これを説明する前にお前が成長してくれて、良かったよ。本当に良かった」

「あ、あの……言っている事が、よく……」

「ついてきたまえ」

 オリベは千尋の問いに答えずに踵を返して歩き出した。

 そんな彼を呆然と見つめていた千尋だったが、オリベが階段に足をかけた所で、ふと我に返って慌てて後を追う。

 階段を上がりきると、オリベは茶室の前で顎を上げていた。

 更にその先を追いかける千尋の視線は、一点で停止する。

 

 

「水墨画……」

 

 

 そこにあったのは、茶室の上に掛けられた水墨画。

 取り換える暇等なかったはずのそれは、以前よりも更に色濃い絵となっていた。

 だが、描かれている内容自体は、以前と変わっていないように見える。

 何かが、おかしい。

 自動的に水墨画の絵が描き足されたとでもいうのか。

 それが、夜咄堂の能力とでもいうのだろうか。

 だとしても、そんな能力に、何の意味があるのだろうか。

 

「千尋」

 オリベが、振り向いた。

「この水墨画が完成した時、私達付喪神(つくもがみ)は、天に召されるのだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 周囲の空気が、凍りついた気がした。

 真夏だというのに、猛烈な寒気が背中を駆け上る。

 この感覚は……そう。

 物心ついてからは一度だけの経験だけれども、忘れるはずがない。

 今年の春、父の訃報が届いた時と、全く同じだった。

 

 

「天に、召されるって……」

「言葉の通りだよ。……順を追って説明しよう」

 オリベはそう言うと茶室の中へと入って、まだ片付けていない風炉(ふうろ)の前に座した。

(入って……良いのかな)

 千尋はふと、考え込む。

 気になったのは、階下で客に備えているヌバタマだった。

 オリベは、付喪神が天に召されると言った。

 その括りならば、ヌバタマも含まれるのではないだろうか。

 

 正直に言えば……オリベの先の話を聞くのが、怖い。

 話を聞く前に、ヌバタマを見ておきたい気がする。

 しかし、ここでオリベから目を離しても、それはそれで取り返しがつかなくなるような気がする。

 暫しの葛藤の末、千尋は後ろ髪を引かれる思いをしながらも、茶室に入って毛氈(もうせん)に座した。

 

 

 

「……どうぞ」

 千尋が考え込んでいる間に、オリベは茶を()てていた。

 誘われるがままに、出された青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)を手に取る。

 細やかな気泡が整然と敷き詰められた、美しささえ感じる点て具合だった。

 思えば、オリベの茶を喫するのはこれが初めてであった。

 

「ほら、飲まんか」

「……頂戴致します」

 オリベに急かされて、茶碗を煽り……

 

「ん……!?」

 千尋は、思わず体を震わせた。

 

 喉から流れ込んでいく熱い液体は、菓子がないというのに、苦味の中に淡い甘みを含んでいた。

 それが体の奥に流れ込んでいく毎に、痺れが全身を駆け巡るような錯覚を覚える。

 それは、決して嫌な感覚ではない。

 熱さが意識を覚醒させ、敏感になった意識は茶の味を全て拾い上げる。

 百歳に渡って茶道を極めてきたオリベと、百歳に渡って幾多の茶人に用いられてきた茶碗。

 そして、やはり百歳に渡って品質を追い求められてきた抹茶。

 まさしく、歴史の具現化とも言える一杯が、千尋の手の上乗っている。

 水墨画の件の前振りがなかったら、至高の味に思わず茶室から飛び出してしまいそうでさえあった。

 

 

 

 

「う、うあ……」

「ハハッ。今頃私の点前を知ったかね」

 言葉を失った千尋をオリベは笑い飛ばしたが、普段とは異なる穏やかな笑い声だ。

 オリベは笑いながら、ゆっくりと体を回して千尋に正対した。

 

「……さて。まず最初にこの夜咄堂の事を説明しておけば、話は早かろう。

 私が造られるよりも前の事だが、この土地は茶道具の塵塚だったのだよ」

「塵塚?」

「ゴミ捨て場の事だ。不要になった茶道具が、ここに捨てられていたのだよ。

 物には百年経てば魂が宿る。なのでその前、九十九年目には捨ててしまおう……と、

 嘘か誠かは知らぬが、それ位古い茶道具が捨てられていたと聞く」

「つまり、茶道具の付喪神の発祥の地だったという事ですか?」

「発祥とまでは言わんよ。確かに似た発祥物語はあるが、尾道の話ではない。

 だが、捨てられた茶道具達の怨念が募る土地であった事は、間違いなかろう」

「……全然、知らなかったな」

「当然だ。話していないからな」

 オリベは飄々と言ってのける。

 重い話をしているはずなのに、なんとも大したものである。

 

 

「だが、とある偉い坊さんが、そんな道具達を見捨てなかったのだよ。

 お坊さんは、皆が成仏する為の施設を作ってくれたのだ。

 それがこの夜咄堂なのだ。当然今の店が当時からあったわけではないよ。

 店は屋号を変え、商いを変え、何度も建て替えられている。

 それでも、坊さんがこの土地に込めた力は残っていて、付喪神はここから天に行く事ができるのだ」

「水墨画については?」

「急かすな急かすな。しかし坊さんは一つだけ条件を付けたのだよ」

 オリベはそう言って一息ついた。

「茶道具は、あくまでも茶道具。

 その使命を全うしなければ天に召されてはならない……とな。

 道具の使命。それはつまり……」

「……日々是、好日……」

 千尋がかすれたような声で、その力の名を呟く。

 

 この部屋で、何度も見せられた奇跡。

 茶の良さを引き立て、客に幸福を与える力。

 千尋を、茶の道へと連れ歩いた能力。

 あの力が……

 

 

 

 

「左様。無論、人間に茶の良さを知ってもらう事が最大の目的。

 だがあの力は、我々が天に召される唯一の手段でもあったのだ。

 ……そして、この茶室で人が癒される度、茶室の水墨画には知らぬうちに筆が重ねられるようになっておる。

 その絵が完成する時……それこそが……」

「……付喪神が、天に召される時……」

 

 それだけ呟くのがやっとだった。

 思わぬ話に足が震え、立ち上がろうと腰を持ち上げる事さえできない。

 

 先程まで見ていた水墨画の色は、以前と比べれば相当濃くなっているような気がした。

 あとどれだけの人を癒せば、水墨画は完成するのか。

 そもそも、何を以てして完成とするのか。

 父はその話を知っていたのか。

 天に召されれば、やはりもう会う事はできないのか。

 聞きたい事を挙げていけば、キリがない。

 

 たただだ混乱に見舞われる脳内の糸を必死に解し、その中から、ようやく一つだけ問いを抜き出す事ができた。

 つまりは、この問いこそが自分にとって一番大事なのだろうか。

 その答えを出さぬままに、千尋は思いの丈をオリベにぶつけた。

 

 

 

 

「その話は……ヌバタマにも言える事なの?」

「……そうだよ。今、夜咄堂に茶道具がある付喪神全てに適用される話だ。

 ヌバタマも、お前の前から姿を消す事になる」

 

 オリベは、はっきりとそう言ってのけた。


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