「んで、当日の菓子を買い出しに付き合わされる……ってわけかね。面倒臭くてかなわんなあ」
「まあまあ、オリベさん。千尋さんがせっかくやる気を出してくれているんですから。良い事ですよ、良い事!」
愚痴を零すオリベに、弾む声でそれをなだめるヌバタマ。
対象的な二人を引き連れて、千尋は商店街を歩いていた。
他の食材ならともかく、ある程度の知識を要する和菓子となると、千尋が買うには不安が残る。
その為に、和菓子の調達はヌバタマに任せきりになっていたのだ。
(やる気……か。随分な心境の変化だよなあ……)
二人の前を歩き続けながら、ふとヌバタマの言葉を気に掛ける。
茶道に好感を持った途端、自分で和菓子まで選びたいと思うようになったのだ。
まさに別人の様だと、我ながら深く感じ入ってしまう。
それから、ちらと振り返って、その変化の原因を見やる。
「……なにか?」
「いや、なんでもない」
後ろを歩くヌバタマと視線が合うと、彼女は小首を傾げながらも微笑んでくれた。
一方の千尋は慌てて前を向き、小さく首を横に振る。
(いやいや、いやいやいや)
小さく胸が高鳴ったのを、必死に押し流そうとする。
ヌバタマの事は、後回しに――
――否。
その感情は、後回しにして良いのだろうか?
何故、深く考えようとしないのか?
ヌバタマに抱いている感情を、はっきりとさせるべきではないのか?
次々と自問が湧きあがった。
だが、処理しきれない。
とても、気持ちを整理する事ができない。
やはり今は考えるのを止めようと、感情を押し殺すように歩調を速めれば、程無くして一行は和菓子屋に辿り着いた。
「ごめんくださーい」
店の前で先頭を代わったヌバタマが暖簾を潜る。
彼女の快活な声に呼応するように、人の良さそうな若い男性店員がカウンターから出てきた。
「これは夜咄堂さん。いらっしゃいませ」
「いつもお世話になっています」
「こちらこそご愛好ありがとうございます。今日は随分と大所帯で」
「ええ。店長の千尋さんと、サボリ魔のオリベさんです」
「だーれがサボリ魔だね」
オリベが間延びした口調で突っ込みを入れると、男性店員は声を立てて笑ってくれた。
「ははははっ。随分と仲が宜しいみたいで。皆様、今後ともよろしくお願いします」
「はじめまして。こちらこそ宜しくお願いします」
千尋は軽く会釈をしてそう答えてから、カウンターの中に視線を移した。
「で……そちらが和菓子、ですか?」
「ええ。和菓子の中でも生菓子と呼ばれるものがそちらです」
「ふむ……」
中腰になってカウンターの中を凝視する。
無論、生菓子の存在は知っている。
ロビンと初めて会った日に見た紫陽花の生菓子は、再現度が高くて息を飲んだものだ。
自分から、客に出した事も何度かある。
だが、今回は違う。
自分が生菓子を頂くわけではないし、用意されたものを出すわけでもない。
浩之を自分の手でもてなす為、生菓子を選びにきているのだ。
そう考えながら吟味する生菓子は、普段よりも鮮明に、そして細部まで見て取れるような気がした。
白餡、黒餡。寒天、水飴、みじん粉にぎゅうひ……。
様々な原材料によって作られている生菓子は、いずれも美しい。
皆、季節を模した形に整えられていたが、一際目を引いたのは半透明の寒天だった。
「これは、奇麗ですね……」
思わず感嘆の息を零しながら、寒天に目を奪われる。
その寒天は、金魚蜂の形をしていた。
口の付いた水色の球体寒天の中に、二匹の金魚と藻が浮かんでいる。
口の周辺は絞られていて皺になっているのだが、それが良い。
見事という他ない、金魚鉢の再現となっているのだ。
夏の一頁をそのまま縮小化した一品は、なかなかに千尋の胸を打ってくれた。
「金魚鉢。まさしく夏の風物詩だな」
同じくカウンターの中を眺めるオリベが、満足げに頷く。
「千尋ももう知っているとは思うが、茶席で出す菓子は季節を模したものが主なのだよ。
この季節なら、金魚鉢の他にも、青空だったり、朝顔だったり、そんな所だな」
「まるで芸術品ですよね。凄い再現度だ……」
「うむ。だが菓子だけではないぞ。
季節の茶花は当然の事、茶道具も季節の意匠が施されているものを、茶席では用いる。
茶室全体で季節を、言うなれば物語を作り上げるのだな」
「その一部のお菓子にも、季節の要素は欠かせない、というわけですね。
そんなわけで、その金魚鉢は私も良いと思います。
特に美しい作りですし、きっと喜んでもらえると思いますよ」
ヌバタマが胸の前で両手を合わせながら補足する。
「ふむ……」
もう一度、千尋は呟いた。
確かに、目の肥えた二人ならず、自分の目も引いたこの生菓子は、見事な出来という他ない。
目を瞑って、後日もてなす事になる浩之の顔を思い出そうとする。
すると、彼に関する最も新しい記憶……ドーナツ店の前での出来事が浮かび上がってきた。
中学生ながら、彼女とスイーツデートという、なんとも羨ましい……
(……待てよ)
不意に、記憶が一時停止した。
そう言えば、自分もつい先日、喫茶店でヌバタマと暖かいひと時を過ごした。
だが、あの時の自分と、先日の浩之とでは、何かが決定的に違っている気がする。
相手が人であるか
相手に抱いている好意の種類はどのようなものなのか。
それがデートなのか否か。
違う。そんな事ではない。
違うのは、自分と浩之個人の事だ。
……そうだ。
間違いない。
あの日の彼は……
「……いや」
千尋は腰を起こしつつ、視線をカウンターから切った。
「浩之君へは、別のお菓子を出すよ」
◇
浩之が来店したのは、彼と出くわしてから五日後だった。
相も変わらず続く猛暑、まずは冷たい飲み物を振る舞って一息ついた所で、
幸か不幸か、この日も客がいない店内をゆるりと案内すると、彼は案内するもの一つ一つに驚嘆してくれた。
茶道具やら庭やらに加えて、年季の入ったといえば聞こえは良いが、単に古いだけの椅子や机、
更にはちょっとした装飾品にまで感じ入ってくれると、自分で調達したものではないとはいえ、千尋も気分が良かった。
だが、もてなすのは千尋の方だ。
一通りの案内を終えた後で、二階での一服を提案すると、浩之はこの日初めて顔色を曇らせた。
「お抹茶……ですか」
「うん。苦いのは苦手かな?」
「あ、いえ。むしろ好きですよ。……そうですね。ではお願いできますか?」
明らかに微妙な反応。
だが、それでも彼は千尋の提案を受け入れてくれた。
何か気を悪くしてしまっただろうかと、千尋は内心戸惑ったが、今更止めようというわけにもいかない。
かくして、茶室の釜からは湯気が立つ事となった。
「茶室でお茶を頂くの、初めてです」
茶席が始まると、浩之はそう言ってはにかみながら、きょろきょろと部屋の中を見渡した。
緊張感よりも好奇心が勝っているようで、意外と図太い所があるのかもしれない。
千尋はつい、自分が初めてこの部屋に足を踏み入れた頃を思い出しながら、
「実は俺も、お茶を点てるようになってまだ三ヶ月くらいなんだよ」
「そうなんですか?」
「うん。父さんが急死して、思わぬ形で店を引き継いでね」
「あ……」
「気を遣わなくて良いよ。辛くないとは言わないけれど、楽しくもやっているからさ」
言葉を失いかけた浩之に笑いかける。
「そうですか。その……頑張って下さいね」
「浩之君もね。お互い、なんとか店を盛り立てたいものだね」
「はい! ……あの。ところで……」
不意に、浩之が居住まいを正した。
千尋も、意識は手前に集めつつも、視界の空気が変わった事を悟る。
「お茶って、お菓子も出るんですよね?」
「そうだよ。お茶を頂く前に食べて貰うんだよ。
そうすれば、お菓子の甘みとお抹茶の苦味が、お互いに引き立つ……って事らしいね」
「………」
「そんなわけで。……オリベさん、お願いします」
「はいよ」
茶室の外から、声の主のオリベが中へと入ってきた。
浩之の前に座して、菓子器を差し出す。
浩之が覗き込むようにして見た菓子器の中には……。
「……お煎餅?」
「そう。見ての通りのね。どうぞお楽になさってお召し上がり下さい」
ぺこり、と頭を下げながら千尋が言う。
言葉にこそ動揺は出していないが、内心では少々の緊張を覚えながらの発言だった。
もしかすると、自身の見通しはてんで間違っているものかもしれない。
余計なお世話で、良い生菓子をだす機会を逸したかもしれない。
それでも千尋は、どうしても浩之と出会った時の光景が、気になっていた。
「でも、さっきお菓子の甘みって……」
「それなんだけれどさ。もしかしたら浩之君、甘いものが苦手じゃないかなって思ったんだ」
「………」
「ほら、ドーナツ屋の前で会った時に、スイーツデートが苦手って言っていたじゃないか」
「ええ」
「それに、飲んでいたコーヒーもブラックだったみたいだし。
だから、甘いお菓子よりも、お煎餅とかおかきとか、そういう物が良いかな、ってね」
「……千尋さん」
浩之が、千尋の名を呟いた。
視線をゆっくりと、茶道具から浩之に移す。
緊張の頂点。
そこに待ち受けていたのは……はちきれんばかりの笑みを浮かべていた浩之だった。
「ありがとうございます。お察しの通り、甘いものって苦手なんです」
「……そっか。なら良かった」
「それで、お茶と言われて抵抗も覚えたんですよ」
どうやら、微妙な反応の正体はそれらしい。
深い安堵のあまり、無意識のうちに息が漏れそうになったが、手前の最中とかろうじて堪える。
「……千尋さんのお気遣いに感謝です。いただきますね」
「い、いや、ははは……」
だが、表情までは抑えきる事ができない。
緊張の糸が緩むと、それによる張りを失った表情が緩んでしまった。
それに呼応したように、浩之が歯を見せて笑い出した。
こうなると、千尋ももう抑えは利かない。
憚る事なく、千尋まで大きな笑い声を立てる。
茶室には瞬く間に、二人の笑い声が広まる。
……しかし。
部屋の隅で、オリベが目を瞑った。
いつもならば真っ先に笑い出しそうな彼は、神妙な表情を浮かべながら、
千尋らの気づかぬうちに、茶室から出て行ったのであった。