尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第九話『夜咄堂の真実 その一』

 茶室とは、静寂の空間ではない。

 

 茶筅(ちゃせん)を振る音。

 釜の湯がたぎる音。

 抹茶が喉を流れてゆく音。

 亭主と客が交わす会話。

 必要不可欠な音だけでもそれだけある上に、その他にも室内外から、

 鳥の鳴き声や虫の音色、風や雨といった気候の偶発的な音も流れてくる。

 

 それらに留まる事なく、他にも幾多の音が流れているが、いずれも余計な音ではない。

 和を感じ、そして四季を感じる事ができる音だ。

 安らぎを与えてくれる、馳走のような音だ。

 ……しかし、これまでの千尋は、その音をあまり好んではいなかった。

 凛とした空気を生み出す音を聞けば、自分が茶の湯の中にいるという事実を嫌でも自覚してしまう。

 その都度、茶道との因縁を思い浮かべてしまい、心が沈んでしまう。

 必要以上の緊張感を覚えるからか、手前も稽古通りにはいかなくなってしまう。

 

 ……それが、以前の千尋と茶室の関係だった。

 

 

 

 

「どうぞ」

 ゆったりとした口調と共に、千尋は薄茶の入った茶碗を差し出した。

 銘がなければ付喪神でもない、近代になって焼かれた安物の京焼。

 万が一割れても良いようにと稽古用に用いている物だが、

 鮮やかな絵付けが施されていて、気分を大いに高めてくれる、用の美を備えた茶碗だった。

 

「うむ」

 それを受けたオリベが、茶碗の側面に口を付ける。

「お服加減加減いかがでしょうか」

「うむ」

 同じ言葉を吐いたオリベは、茶碗を膝の上に付ける。

 その口ぶりは、普段の飄々とした様子とは打って変わって威厳に満ちている。

 彼は、千尋の目を見つめて暫し沈黙し……溜めを作った後に、大いに相好(そうごう)を崩してみせた。

 

 

 

 

「大変結構でございます。……いや、本当に良い茶だ。腕を上げたな、千尋」

「ははっ。それはどうも。でもまだまだです」

 同じく笑みを浮かべ、首を左右に振って見せる。

 とはいえ、本心はそうでもない。

 腕を上げた……と大言を吐くまでには至らないのだが、

 内心では、少しはマシになったかもしれない、とは思う。

 

 

(……悪くは、ないな)

 小さく息を吐き、柄杓を手にして使った分の水を釜に足しながら、物思いに耽る。

 まだ、茶道ラブと言えるような程度ではない。

 だが、少なくとも嫌いではなくなった。

 まあ、好きともいえる。

 素直にそうは言えないのだが、内心では確実に好感を持っていた。

 

 きっかけは、先日のヌバタマとの一服だ。

 心を許した者との一服は、かくも暖かく、そして癒されるものなのだと知ったあの日。

 以来、千尋は茶道に悪印象を抱かなくなっていた。

 すると、これまでは気になっていた茶室の音が、自身の心をかき乱さなくなった。

 荒波に揺さぶられる船中の様であった千尋の心中は、

 春風にあやされる揺り籠へと様変わりを遂げていた。

 手前がマシになったのは、その心境が生み出す集中力のお陰なのだろう。

 

 

 

 

 

「これも私の指導の賜物かねえ」

 オリベが何度も頷きながらのたまう。

 千尋は思わずジト目で彼を睨み付けた。

「オリベさんに教えてもらったの、これで三回目位だと思いますが」

「ヒャッヒャッヒャッ!! そうだったっけか? そうだったかもなあ!」

「そうですよ。まったくもう……」

「それじゃあ、ヌバタマのお陰ってわけか」

「む……」

 思わず声が漏れ、手前が止まりかける。

 

 会話の流れから察するに、ヌバタマの稽古のお陰、と言いたいのだろう。

 だが、一瞬妙な事を想像してしまった。

 墓地に入り浸っていると教えたのがオリベだとしたら、

 先日の出来事を出歯亀されていても、おかしくはないかもしれない。

 であれば、先程のオリベの発言は、仲が深まったからこその冷やかしとも解釈できる。

 

 

「……まあ、毎日稽古して貰っていますから」

 暫しの間の後、ぶっきらぼうな口調でそう言う。

 日々の稽古も間違いなく糧となっているのだから、決して嘘はついていない。

 

 動揺を隠すかのように、目を細めてオリベを睨めば、彼は前傾姿勢になっていた。

 膝の上に肘を乗せ、口元に手を宛がって、目をぎょろぎょろと見開いて観察するかのように千尋を見ている。

 言葉の真意を確かめるべく、手前の中から動揺を見つけ出そうとでもしているのだろうか。

 今にも、口の端を上げて、からかうような笑いを浮かべられそうな気がしてしまう。

 重圧に耐えかねて視線を外そうとしたその瞬間……オリベは身を引いた。

 

 

 

 

「……そうか。稽古の成果か」

 オリベは、そう言って目を瞑った。

 頬は緩み、目じりは僅かに下がっている。

 笑みを浮かべてはいるのだが、千尋の思っていたような冷やかしの笑みではなかった。

 落ち着きのある、千尋の返答にどこか満足しているような笑い。

 予想外の反応に、千尋は今度こそ手前を止めて、オリベに見入ってしまった。

 

 

「オリベさん……?」

「お前が立派に育ってくれる。これ程嬉しい事は、なかなかあるものではない」

 オリベは、千尋の呼びかけには答えなかった。

 妙な雰囲気を漂わせたまま、彼はその後も暫く目を瞑り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第九話『夜咄堂(よばなしどう)の真実』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この所、夜咄堂の買い出しは千尋の仕事になっている。

 食材ならばネットで発注する事も出来るのだが、そこには夜咄堂の事情が関わっていた。

 悲しいかな、客の入りが不安定な夜咄堂では、大量発注が基本となる通販で食材を購入しても、消費しきれない可能性がある。

 加えて、注文から到着までの時間差という問題もあった。

 もう少し夜咄堂が繁盛すれば解決できる問題なのだが、無い袖は振れない。

 そこで仕方なしに、大学への通学を再開した千尋が、帰宅途中にスーパーで買える食材を調達しているのである。

 

 この日も、夜咄堂への石段を上がる前に、千尋は商店街のスーパーに立ち寄った。

 買い物と同時に、店内でひと時の冷房を満喫していた彼が再び路上に足を踏み入れれば、茹だるような熱風に覆われてしまう。

 時刻はもう夕方だというのに、一向に気温が下がる気配がない。

 季節は八月、灼熱の月。

 仕方ないとは重々承知しているのだが、やはりこうも暑いと気が滅入るものだった。

 

 

 

「ワンッ!」

 不意に、ズボンが引っ張られる。

「ん……?」

 眉を顰めながら足元を見れば、引っ張っていたのは雑種犬のロビンだった。

 暑さに呆然としていて、駄犬の接近に気が付かなかったようである。

 

 

「なんだ、ロビンか。久しぶりだな」

「久しぶりって程でもないぞ。ひと月ぶり位じゃんか」

 周囲に人がいないのを良い事に、ロビンがまた街中で喋る。

 

「あれ。そんなもんだっけか。このひと月で唐津に行ったり、色々あったから、錯覚してるのかな」

「あーあー、それそれ! お前達だけで出かけるなんて酷いじゃないか!

 俺も唐津行きたかったぞ。イカ刺食いたかったぞ」

「犬がイカ刺食って良いのか……」

「んじゃ、唐津バーガーとかでもさ」

「それもタマネギが入っているだろう」

「千尋は分かっていないなー。気持ちだよ、気持ち! 俺も皆と一緒に何か食いたかったの! フゴッ!」

 ロビンは喚きたてながら鼻息を鳴らす。

「でもお前、夜咄堂の犬じゃないだろ?」

「あー、ショックー。超ショックー。ロビンもう立ち上がれないー」

 そう言うと、ロビンは地面に這いつくばってしまった。

 まるで、暑さで溶けたアイスクリームのような、一切のやる気を感じさせない姿形。

 怠惰(たいだ)此処(ここ)に極まったものである。

 

(別に、こいつを無視して置いて行っても良いんだが……)

 茶色いアイスクリームを見下ろしながら、千尋は首を傾げる。

(ま、付喪神(つくもがみ)というくくりで考えれば、ロビンが拗ねるのも分からなくもないか。

 ……埋め合わせ、するかな。せっかくだから、お土産も買って帰りたいし)

 

 

 

 

「あー、もうダメー。動けないー」

 ロビンが、なおものたまう。

「分かった分かった。お詫びにドーナツでも買ってやるからさ」

「おっ! ホントか!?」

 千尋の一言に、ロビンは跳ね起きた。

 動けないという言葉はどこへやら、二本足で立って腰を振りながら妙な踊りを始める始末である。

 苦笑一発の後、踊る犬を置いて歩き出せば、ロビンも慌てて四本足に戻って後を追いかけてくる。

 歩いていれば、流石に幾らでも人とすれ違うもので、それ以上ロビンとは口をきかず、そのまま海沿いの東雲ドーナツ店に辿り着いた。

 

 店の前で『待て』の意を込めて掌をかざせば、ロビンが了承のひと鳴きを返してきた。

 ワンというよりはヒャンと聞こえてくる、気の抜ける鳴き声である。

 脱力しつつも店の入り口を潜ろうとした瞬間、千尋の目が止まった。

 遠目では良く分からなかったが、ドーナツ店のテラス席に知った顔がいたのである。

 

 

 

 

 

 

 

「やあ、浩之君じゃないか」

「あ、千尋さん!」

 千尋から声を掛けられたシゲ婆さんの孫の浩之は、跳ね上がるように立ち上がった。

 勢い余って彼の膝がテーブルを突き上げてしまい、卓上に置かれていたブラックのアイスコーヒーが危うく零れそうになる。

 

「わっ、と……」

「大丈夫?」

「はい。それよりも先日はお婆ちゃんを助けて……」

「ああ、いい、いいよ。本当にそれはもういいからさ」

 彼の反応を察していた千尋は、全て言わせないうちに両手を掲げてその先を制止する。

 浩之は戸惑った様子を見せたが、深々と頭を下げて礼を締めてくれた。

 

 

 

 

「それより、浩之君もドーナツを買いに?」

「あ、いや、僕は……」

 浩之が頭を掻きながら視線を泳がせる。

 よく考えてみれば、卓上に置かれているのはアイスコーヒーのみで、おやつを買いに来たという風ではない。

 それでは何なのだろうと思いながら浩之を凝視すれば、彼はますます視線を遠退かせた。

 しかし、彼の視線は店内だけには向けられない。

 代わりに千尋が店内を覗けば、少女がドーナツを吟味しているようだった。

 ショートカットの可愛らしい少女で、浩之と同年代のように見受けられた。

 

「先客だね。知り合い?」

「その、知り合い、というか、親しくはあるんですが、ええと……」

 浩之の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

 海上で暮れゆく陽よりも赤いのではないか、という程の染まり具合。

 それだけで、大方の推測はできる。

 千尋の表情には、自然と小さな微笑みが浮かんだ。

 

「なるほどね、デート、良いじゃないか。せっかくの夏休みだし、楽しい事もしたいよな」

「えっと……はい。ありがとうございます」

 浩之はそう言ってはにかんだが、同時に片方の眉を顰めてみせた。

「ただ、スイーツデートはちょっと苦手なんですよね。

 あの子がどうしても行きたいというもので、今日は付き合いでして」

「そっか。なかなか上手くいかないものだね」

「ラーメンデートなら、僕も喜んで付き合うんですが」

「どっちも良いじゃないか。今度は俺にもJCとデートさせてくれ!」

 唐突に、後方からロビンの声が聞こえた。

 千尋の顔が一瞬で引きつるが、浩之は声の主が理解できていないようで、きょろきょろと辺りを見回す程度の反応しか見せなかった。

 考えてみれば、彼は犬が喋るという前提を持ち合わせていないし、聞こえてきた中年男性のような低い声は、明らかに千尋の声でもない。

 声の主が理解できないのも、無理はなかった。

 しかし、この先も気が付かないとは限らない。

 浩之同様に周囲を見回すふりをしつつ、後方を向いた瞬間に強くロビンを睨み付けて釘を刺す。

 どうにも、長居は不要の様である。

 

 

 

「それじゃあ、俺はドーナツ買うからこれで」

「あ、千尋さん、お願いが……!」

「うん?」

 足を踏み出しかけた千尋は、その動きを止める。

 浩之はそんな千尋の顔色を窺うように、おずおずと、しかし言葉は濁らせずに続きを発した。

 

「僕、少しでも千尋さんに喜んでもらいたいんです。

 良かったら、今度、千尋さんのお店にお邪魔しても良いでしょうか……?」

「………」

 千尋は、即座に返答しなかった。

 おそらく、その言葉の真意はシゲ婆さんの件の礼だろう。

 しかし、自分が悉く謝礼をかわしているもので、遠まわしな言い方をしてきているのだ。

 その気遣いを更に拒んでは気の毒だし、浩之の言う形式なら自分も恐縮せずに済む。

 実に気持ちの良い子である、と千尋は思う。

 背後で、自身の体に住み着いているノミを取っている犬とは大違いだ。

 

 

 

 

「うん。いつでもおいで。楽しみに待ってるよ」

 ならば、これ以上拒む理由はない。

 それに……と思う。

 それに、せっかく茶道に好感を持てるようになったのだから、茶でもてなしたいではないか。

 

 千尋は、にっと笑ってみせた。


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