尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第八話『本音 その三』

 陽の長い夏といえど、雨雲に覆われていてはそうもいかない。

 ヌバタマが夜咄堂(よばなしどう)を出た時には、周囲には照明が少ない事もあって大分暗晦(あんかい)としていた。

 やはり雨のせいか、少し肌寒ささえ感じる気候へと変わっていたが、ヌバタマは一切に構わず、傘も持たずに石段を駆けた。

 付喪神(つくもがみ)としても雨に濡れる事を苦手とする彼女だったが、今はそれどころではなかった。

 墓地は、夜咄堂からは然程離れてはいないので、あまり長く走らずとも着くのだが、何分足元の見通しが悪い。

 何度も転びかけながら、ようやく墓地に辿り着いて、濡れた髪を振り乱しながら機敏に周囲を見回す。

 若月千尋の姿は――やはり、若月家の墓の前にあった。

 

 

「千尋さんっ!」

 雨空を劈くような声。

 悲鳴のような声。

 千尋は、ゆっくりと振り返る。

 死人の如き動きだった。

 

「……なんで、ここが?」

「シゲ婆さんから、電話がありました。……話を聞きました。

 それにオリベさんも、普段からここにいたんじゃないのか、って……」

「……そうか」

 千尋はそれだけ答える。

 身のこなしとは対照的に、千尋の声はどこか明るかった。

 小さな声ではあるのだが、そこには悲壮感は籠っていない。

 その代わりに、何か達観したような雰囲気が漂っている。

 乾いているとも言えるだろうか。

 ヌバタマよりも、むしろ千尋の方が、人ならざる存在感を放っていた。

 うらぶれた墓地には、豪雨が千尋の傘を叩く音しか流れていない。

 ヌバタマは、恐る恐る千尋に歩み寄りながら口を開いた。

 

「千尋さん……」

「うん」

「私……私、その……千尋さんに酷い事を……」

「ああ、そんな事かあ」

 千尋は、綺麗に微笑みながら首を振った。

 

 

 

 

「……まあ、ええことよ」

「……!!」

 

 

 

 

 息が、漏れた。

 

 ヌバタマの喉から、小さな息が切れながら漏れた。

 

 怒り。

 

 みるみるうちに表情に浮かんだのは、赤色の感情だった。

 

 大股で一歩、彼女も力強く足を踏み出す。

 

 キッと千尋を見上げた彼女は、怒りながら涙を流していた。

 

 大粒の涙がぽろぽろと零れた。

 

 零れる涙が、雨と交る。

 

 涙雨がヌバタマの顔をくしゃくしゃにする。

 

 彼女は、それも憚らずに口を開いた。

 

 

 

 

「よくありませんっ!!

 もう、いい加減にしてくださいっ!!」

「………」

「そうして、何でも自分だけで背負い込むの、止めて下さい!

 もっと……もっと、千尋さんの事……私達に教えて下さい!!」

「ヌバ、タマ……」

「辛い事があるなら、別け合えば良いじゃないですか!

 助け合えば……ひっく……良いじゃないですか……!!

 だから……だから……えぐっ……

 もっと私達の事、信じ……くだ……ひっく……」

 

 ヌバタマの声が、しゃくり喘ぐようになった。

 涙はなおも零れ続け、それに比例するかのように声が声ではなくなる。

 ただただ、嗚咽だけが漏れるようになる。

 少女の綺麗な瞳が、涙で押し潰された。

 

 それでも彼女は目を瞑らない。

 千尋から視線を外そうとしない。

 それは、千尋もまた同様だった。

 乾いた瞳で、ヌバタマを見下ろし続ける。

 

 ……だが。

 不意に、千尋の手から力が抜けた。

 傘は、風に飛ばされるようにして後方へと転がっていった。

 彼は、それに構う素振りを見せない。

 ゆっくりと。

 互いの気持ちを確かめるような速度で、千尋の手はヌバタマの背中へと回された。

 

「……!!」

「……ごめん、な」

 雨音に掻き消されそうな、小さな声。

 顔を寄せていなければ、聞き取れないほどの声。

 

「怖かったんだ」

「………」

「怖かったんだ。本当は……

 相手を気遣ってたからじゃ、ない。

 自分の事ばかり、考えていたんだ……」

 千尋の声が、水気に浸される。

 彼が目を閉じると、涙が頬を伝う。

 ヌバタマを抱く腕は、酷く冷たかった。

 

「誰かが、どこかに行くのが怖かった……

 嫌われるのが、怖かった……!」

「嫌うわけなんか……」

「怖かったんだ……ずっと、怖かったんだ……!

 大事な人に嫌われて、皆がこれ以上どこかに行くのが……怖かったんだ……!」

 本音が、漏れた。

 体が、腕が、声が震えている。

 全てを曝け出しながら、涙と共に全てを打ち明けた。

 

「千尋さん……」

 ヌバタマは、ぽつりと主の名を呼んだ。

「……私は……」

 それから。

「……私達は……」

 彼女も、ようやく目を瞑る。

 

「……もう、大丈夫ですから。

 辛かったですよね……一人で抱え込んで。

 でも、もう……もう、大丈夫、ですから……」

 ヌバタマは、力強く千尋を抱き返した。

 千尋の胸の中で、優しい声を掛ける。 

 

 ……涙雨は、まだ止もうとしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、千尋は大学を休んだ。

 そこまでしなくても、と恐縮するヌバタマを笑い飛ばし、二人は朝から映画館へ行った。

 上映開始から少々日が過ぎている事と、朝一番の上映に駆け付けた事もあって、

 他に客は殆どおらず、周囲からそれ程視線も集める事なく、二人は映画を観る事が出来た。

 とはいえ、千尋は映画の内容をあまり覚えてはいない。

 心を許した者と、同じものを楽しむ。

 ただそれだけで、心が十分に満たされて、映画には集中していなかったのだ。

 しかし、その浮つきが、その後に支障をきたす様な事はなかった。

 

 

 

 

「それにしても、面白かったですねえ。本当に面白かったです」

 

 ヌバタマが、先程から何度も同じ言葉をまくし立てている。

 

 映画を見終えた二人は、近くの喫茶店で休息を取っていた。

 当然の如く、会話の中心となるのは映画の感想なのだが、

 ヌバタマは、映画自体はともかく、感想語りは二の次三の次としていた。

 だからこそ、中身のない感想の連発である。

 それでは、一体今の彼女の最上位に付けているのは、何なのか。

 

「ううん、それにしても、このドーナツ美味しいですねえ……」

 彼女が、片手を頬に当てて顔をほころばせる。

 花より団子とは良く言ったものだった。

 

 

 

「好きなだけ頼んで良いからな。昨日のお詫びだ」

 彼女の向かいに座る千尋は、そう言って肩を竦める。

 すると、ヌバタマは困ったように眉を下げて、顔の前で手を左右に振った。

「お詫びだなんてとんでもないです。昨日は私こそ、何も知らずにごめんなさい」

「いやいや、俺の方が」

「私が」

「俺が」

「私が」

「「……ぷっ!」」

 譲り合いの末、顔を揃えて吹き出してしまう。

 千尋は、それ以上の笑いを必死に堪えながら、注文品の抹茶を啜った。

 

 

 

 

(それにしても、なあ……)

 

 それにしても。

 千尋は今日、何度もその言葉を思い浮かべていた。

 とにかく今日という日は、それにしても心が躍ってしまう。

 自分でも異常だと思うような浮かれ具合なのだが、嬉しいものは嬉しい。

 人ならざる者、付喪神。

 その少女に、こうも暖かな感情をもたらされるとは思いもしなかった。

 

 これまでの、相手の反応を伺っては感情を押し殺していた自分が、必ずしも間違っているとは思わない。

 だが、それに意固地になりすぎて、不明であった事は事実だ。

 昨日、正直に告白した事でやっと気が付けた、自分の殻に籠り続ける事も問題だ。

 

 要は、加減なのだろう。

 相手を想う。

 その考え方を根本に据える事には、何の問題もない。

 その為に、どう気遣うのか。

 或いは気遣わないのか。

 互いの距離も踏まえながら、最も適した行動を取る。

 それこそが、本当に相手を想うという事なのだろう。

 いつだったか、オリベが教えてくれた、和敬清寂(わけいせいじゃく)の、和。

 どうやら、まだまだそれを極めるには至っていないようだ。

 

 

 

 

 

(……相手を想う……か)

 

 抹茶をテーブルに戻しながら、眼前の少女をちらと見る。

 付喪神の少女は、視線に全く気付く様子はなく、肩を左右に揺らしながらお品書きを眺めていた。

 

 ヌバタマに対して、特別な想いを抱くようになったのを、千尋は否定しない。

 元々、魅力的な少女であるとは思っていた。

 それに加えて、彼女と共にいるだけで、胸が暖かくなるようになった。

 全てを打ち明けても、もう怖くはない。

 ライクなのだろうか。

 ラブなのだろうか。

 先日、唐津で自問した問いを、もう一度思い浮かべる。

 天秤は……ふらふらと揺れて、いくら眺めても落ち着こうとはしなかった。

 

 

 

「千尋さん。お言葉に甘えて、追加注文しても良いですか……?」

 ヌバタマがお品書きをぱたりと閉じ、上目遣いで尋ねてきた。

 今は、この暖かな一服を純粋に楽しもう。

 思い悩んでいると、せっかく頼んだ抹茶の味が落ちてしまうではないか。

 

(……そう。うまいんだよな、これ)

 視線を一瞬だけ抹茶に移す。

 おそらくはアルバイトが()てたのであろうが、これまで口にしたどの抹茶よりも美味しい気がしていた。

 その理由ならば、おおよその見当がつく。

 やはり、ヌバタマの存在が大きいのだろう。

 もしかすると、これが茶の良さというものかもしれない。

 心の安息と共に喫する抹茶。

 考えてみれば、これ程美味なものも、そうそうないだろう。

 まさか、その良さを喫茶店の一服で知ろうとは、思いもよらなかった。

 

 

「あの、千尋さん? 千尋さーん?」

「ああ。分かってる」

 千尋は考えるのを止めた。

 眼前にいる、安寧を齎す少女の瞳に意識を移す。

 

「なんでも好きなのをどうぞ」

 にこりと笑って頷く。

 ヌバタマは、鏡写しの如く笑い返してくれた。


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