陽の長い夏といえど、雨雲に覆われていてはそうもいかない。
ヌバタマが
やはり雨のせいか、少し肌寒ささえ感じる気候へと変わっていたが、ヌバタマは一切に構わず、傘も持たずに石段を駆けた。
墓地は、夜咄堂からは然程離れてはいないので、あまり長く走らずとも着くのだが、何分足元の見通しが悪い。
何度も転びかけながら、ようやく墓地に辿り着いて、濡れた髪を振り乱しながら機敏に周囲を見回す。
若月千尋の姿は――やはり、若月家の墓の前にあった。
「千尋さんっ!」
雨空を劈くような声。
悲鳴のような声。
千尋は、ゆっくりと振り返る。
死人の如き動きだった。
「……なんで、ここが?」
「シゲ婆さんから、電話がありました。……話を聞きました。
それにオリベさんも、普段からここにいたんじゃないのか、って……」
「……そうか」
千尋はそれだけ答える。
身のこなしとは対照的に、千尋の声はどこか明るかった。
小さな声ではあるのだが、そこには悲壮感は籠っていない。
その代わりに、何か達観したような雰囲気が漂っている。
乾いているとも言えるだろうか。
ヌバタマよりも、むしろ千尋の方が、人ならざる存在感を放っていた。
うらぶれた墓地には、豪雨が千尋の傘を叩く音しか流れていない。
ヌバタマは、恐る恐る千尋に歩み寄りながら口を開いた。
「千尋さん……」
「うん」
「私……私、その……千尋さんに酷い事を……」
「ああ、そんな事かあ」
千尋は、綺麗に微笑みながら首を振った。
「……まあ、ええことよ」
「……!!」
息が、漏れた。
ヌバタマの喉から、小さな息が切れながら漏れた。
怒り。
みるみるうちに表情に浮かんだのは、赤色の感情だった。
大股で一歩、彼女も力強く足を踏み出す。
キッと千尋を見上げた彼女は、怒りながら涙を流していた。
大粒の涙がぽろぽろと零れた。
零れる涙が、雨と交る。
涙雨がヌバタマの顔をくしゃくしゃにする。
彼女は、それも憚らずに口を開いた。
「よくありませんっ!!
もう、いい加減にしてくださいっ!!」
「………」
「そうして、何でも自分だけで背負い込むの、止めて下さい!
もっと……もっと、千尋さんの事……私達に教えて下さい!!」
「ヌバ、タマ……」
「辛い事があるなら、別け合えば良いじゃないですか!
助け合えば……ひっく……良いじゃないですか……!!
だから……だから……えぐっ……
もっと私達の事、信じ……くだ……ひっく……」
ヌバタマの声が、しゃくり喘ぐようになった。
涙はなおも零れ続け、それに比例するかのように声が声ではなくなる。
ただただ、嗚咽だけが漏れるようになる。
少女の綺麗な瞳が、涙で押し潰された。
それでも彼女は目を瞑らない。
千尋から視線を外そうとしない。
それは、千尋もまた同様だった。
乾いた瞳で、ヌバタマを見下ろし続ける。
……だが。
不意に、千尋の手から力が抜けた。
傘は、風に飛ばされるようにして後方へと転がっていった。
彼は、それに構う素振りを見せない。
ゆっくりと。
互いの気持ちを確かめるような速度で、千尋の手はヌバタマの背中へと回された。
「……!!」
「……ごめん、な」
雨音に掻き消されそうな、小さな声。
顔を寄せていなければ、聞き取れないほどの声。
「怖かったんだ」
「………」
「怖かったんだ。本当は……
相手を気遣ってたからじゃ、ない。
自分の事ばかり、考えていたんだ……」
千尋の声が、水気に浸される。
彼が目を閉じると、涙が頬を伝う。
ヌバタマを抱く腕は、酷く冷たかった。
「誰かが、どこかに行くのが怖かった……
嫌われるのが、怖かった……!」
「嫌うわけなんか……」
「怖かったんだ……ずっと、怖かったんだ……!
大事な人に嫌われて、皆がこれ以上どこかに行くのが……怖かったんだ……!」
本音が、漏れた。
体が、腕が、声が震えている。
全てを曝け出しながら、涙と共に全てを打ち明けた。
「千尋さん……」
ヌバタマは、ぽつりと主の名を呼んだ。
「……私は……」
それから。
「……私達は……」
彼女も、ようやく目を瞑る。
「……もう、大丈夫ですから。
辛かったですよね……一人で抱え込んで。
でも、もう……もう、大丈夫、ですから……」
ヌバタマは、力強く千尋を抱き返した。
千尋の胸の中で、優しい声を掛ける。
……涙雨は、まだ止もうとしない。
◇
翌日、千尋は大学を休んだ。
そこまでしなくても、と恐縮するヌバタマを笑い飛ばし、二人は朝から映画館へ行った。
上映開始から少々日が過ぎている事と、朝一番の上映に駆け付けた事もあって、
他に客は殆どおらず、周囲からそれ程視線も集める事なく、二人は映画を観る事が出来た。
とはいえ、千尋は映画の内容をあまり覚えてはいない。
心を許した者と、同じものを楽しむ。
ただそれだけで、心が十分に満たされて、映画には集中していなかったのだ。
しかし、その浮つきが、その後に支障をきたす様な事はなかった。
「それにしても、面白かったですねえ。本当に面白かったです」
ヌバタマが、先程から何度も同じ言葉をまくし立てている。
映画を見終えた二人は、近くの喫茶店で休息を取っていた。
当然の如く、会話の中心となるのは映画の感想なのだが、
ヌバタマは、映画自体はともかく、感想語りは二の次三の次としていた。
だからこそ、中身のない感想の連発である。
それでは、一体今の彼女の最上位に付けているのは、何なのか。
「ううん、それにしても、このドーナツ美味しいですねえ……」
彼女が、片手を頬に当てて顔をほころばせる。
花より団子とは良く言ったものだった。
「好きなだけ頼んで良いからな。昨日のお詫びだ」
彼女の向かいに座る千尋は、そう言って肩を竦める。
すると、ヌバタマは困ったように眉を下げて、顔の前で手を左右に振った。
「お詫びだなんてとんでもないです。昨日は私こそ、何も知らずにごめんなさい」
「いやいや、俺の方が」
「私が」
「俺が」
「私が」
「「……ぷっ!」」
譲り合いの末、顔を揃えて吹き出してしまう。
千尋は、それ以上の笑いを必死に堪えながら、注文品の抹茶を啜った。
(それにしても、なあ……)
それにしても。
千尋は今日、何度もその言葉を思い浮かべていた。
とにかく今日という日は、それにしても心が躍ってしまう。
自分でも異常だと思うような浮かれ具合なのだが、嬉しいものは嬉しい。
人ならざる者、付喪神。
その少女に、こうも暖かな感情をもたらされるとは思いもしなかった。
これまでの、相手の反応を伺っては感情を押し殺していた自分が、必ずしも間違っているとは思わない。
だが、それに意固地になりすぎて、不明であった事は事実だ。
昨日、正直に告白した事でやっと気が付けた、自分の殻に籠り続ける事も問題だ。
要は、加減なのだろう。
相手を想う。
その考え方を根本に据える事には、何の問題もない。
その為に、どう気遣うのか。
或いは気遣わないのか。
互いの距離も踏まえながら、最も適した行動を取る。
それこそが、本当に相手を想うという事なのだろう。
いつだったか、オリベが教えてくれた、
どうやら、まだまだそれを極めるには至っていないようだ。
(……相手を想う……か)
抹茶をテーブルに戻しながら、眼前の少女をちらと見る。
付喪神の少女は、視線に全く気付く様子はなく、肩を左右に揺らしながらお品書きを眺めていた。
ヌバタマに対して、特別な想いを抱くようになったのを、千尋は否定しない。
元々、魅力的な少女であるとは思っていた。
それに加えて、彼女と共にいるだけで、胸が暖かくなるようになった。
全てを打ち明けても、もう怖くはない。
ライクなのだろうか。
ラブなのだろうか。
先日、唐津で自問した問いを、もう一度思い浮かべる。
天秤は……ふらふらと揺れて、いくら眺めても落ち着こうとはしなかった。
「千尋さん。お言葉に甘えて、追加注文しても良いですか……?」
ヌバタマがお品書きをぱたりと閉じ、上目遣いで尋ねてきた。
今は、この暖かな一服を純粋に楽しもう。
思い悩んでいると、せっかく頼んだ抹茶の味が落ちてしまうではないか。
(……そう。うまいんだよな、これ)
視線を一瞬だけ抹茶に移す。
おそらくはアルバイトが
その理由ならば、おおよその見当がつく。
やはり、ヌバタマの存在が大きいのだろう。
もしかすると、これが茶の良さというものかもしれない。
心の安息と共に喫する抹茶。
考えてみれば、これ程美味なものも、そうそうないだろう。
まさか、その良さを喫茶店の一服で知ろうとは、思いもよらなかった。
「あの、千尋さん? 千尋さーん?」
「ああ。分かってる」
千尋は考えるのを止めた。
眼前にいる、安寧を齎す少女の瞳に意識を移す。
「なんでも好きなのをどうぞ」
にこりと笑って頷く。
ヌバタマは、鏡写しの如く笑い返してくれた。