尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第八話『本音 その二』

 シゲ婆さんの件が落ち着くまでには、相当時間を要してしまった。

 

 シゲ婆さんを抱えて適度な所まで下り、救急車を呼んだのは良いが、救急隊員に後を任せてしまうわけにもいかない。

 病院まで同伴し、診療中にシゲ婆さんの家族に連絡を入れた時点で、一時間が経過していた。

 その間、ヌバタマとの約束を忘れていたわけではない。

 ヌバタマの事は常々気にかけていたのだが、連絡手段を持たない彼女には連絡の取りようがないのだ。

 無意識のうちに貧乏ゆすりが出て、それに気がついては足を止め、感情を表に出さないように改める。

 何度もそれを繰り返しているうちに、ようやくシゲ婆さんの家族が到着し、一緒に聞かされた診療結果は軽傷……単なる捻挫であった。

 

 千尋ちゃんありがとう、と拝むように感謝してくるシゲ婆さんや、孫の浩之、それにシゲ婆さんの息子夫婦と、

 一家全員から何度も頭を下げられ、しまいには謝礼をさせて欲しいと懇願さえされたが、千尋はそれを固辞した。

 特別な事をしたつもりはないし、今はそれよりもヌバタマだ。

 一家を振り切るようにして病院を飛び出した彼は、タクシーで映画館へと直行した。

 そうして、大幅に遅刻しながら映画館に着いた頃には……もう上映は終了していて、次の客が入場した後だった。

 せめてヌバタマに謝ろうと、会場を歩き回ったのだが、着物姿の少女はどこにもいない。

 あれだけ目立つヌバタマを見落とす事は、考えられない。

 とすれば、彼女の居場所は一つ。

 千尋はかぶりを振って、重々しい足取りで夜咄堂(よばなしどう)への帰路に着いた。

 

 

 

 

 

「……ただいま」

 擦れたような声を出して、夜咄堂の玄関を開ける。

 声に張りがない理由は、気まずさだけではない。

 雨中の千光寺(せんこうじ)山を、シゲ婆さんを抱えて下り、病院に同伴し、

 更には、診断結果の不安とヌバタマを待たせている焦りに耐え続けていたのだ。

 心身共に大いに疲労していたが、まだやるべき事は残っている。

 照明が灯っておらず、薄暗い店内を覗き込むと、窓際の席に、ヌバタマがぽつんと一人で腰掛けていた。

 どこか、声を掛けにくい雰囲気が、遠くからでも伝わってくる。

 千尋は顔を伏せかけたが、意を決すると、小さく息を吸いこんでからヌバタマへと近づいていった。

 

 

 

「ああ、その、ヌバタマ……?」

「………」

 彼女は、無言で顔を上げた。

 そこにある表情を目にして、千尋は強い緊張を覚える。

 

(うん。そうだよな……)

 これまで彼女が見せた事がない猛烈な憤りが、そこにはあった。

 その憤りが瞳に宿り、強く、限りなく強く千尋を見据えていた。

 どうやら、弁明できる状況ではなさそうだ。

 それに、そもそも千尋は、弁明という選択肢を選ぼうとは思っていない。

 形だけではなく、謝罪の意をしっかりと込めたつもりで、千尋はゆっくりと頭を下げた。

 

 

「ヌバタマ、すまない」

「……約束。ど忘れでもしましたか」

 ヌバタマが、やっと口をきいた。

 垂れた頭の上から聞こえてくるそれは、思っていたよりも抑制が効いていた。

 しかし、冷たい。

 淡々と言い放たれたその言葉からは、単なる怒声以上の怒りが伝わってくる。

 千尋は、なおも頭を下げ続けた。

 

 本来なら、弁明をするべき瞬間なのかもしれない。

 ここで、シゲ婆さんを助けていたと言ってしまうのは容易い。

 しかしその話をすれば、どう誤魔化そうとしても、自分が墓地に立ち寄っていたと知られる可能性が高い。

 そうすれば、今度はヌバタマを悲しませてしまう。

 未だに、茶道で父を亡くしたと気に病んでいると、悟られてしまう。

 この期に及んでも、自分の意を押し隠そうとするのはどうだろうか、とも思った。

 それでも、口にするわけにはいかない。

 何故ならば、これは幼い頃に築かれた、自分の行動……

 

(いや)

 

 ……ふと、思い留まる。

 

(本当に、行動原理だからなのか?)

 

 一瞬、胸が強く疼いた。

 猛烈な違和感と共に、強い孤独感を感じた。

 一体何だったのだろうか。

 だが、感情を分析するような余裕はない。

 今、気持ちを向けるべきは、約束をすっぽかされた少女なのだ。

 

 

 

 

「……何も言わないんですね」

「本当に、すまない」

 呆れたような口調のヌバタマに、もう一度謝る。

「いい加減、頭を上げて下さい」

「しかし」

「上げて下さい」

「………」

 許すから上げろ、というわけでもなさそうだった。

 有無を言わさぬ彼女の口調に、千尋はやむを得ず従う。

 すっと頭を戻して……千尋の胸は、もう一度強く打たれた。

 

(あ……)

 思わず、言葉が漏れそうになる。

 呼吸が途切れて、表情が固まってしまう。

 自分を強く睨みつけているヌバタマの瞳には、今にも零れそうな程に溜まっているものがあった。

 

 

 

 

「……楽しみに、してたんです」

 ヌバタマは言葉を噛みしめるようにそう言った。

 涙を零さないように、慎重に喋っているようにも感じられた。

「うん」

「流行り物だからだけじゃありません。

 ……千尋さんと出かけるのを、楽しみにしていたんです」

「うん」

「だから……」

 ヌバタマの声が、掠れる。

「……だから、残念です。本当に。千尋さんには失望しました」

「……うん」

 

 千尋は、三度頷いた。

 他に、何ができようか。

 哀しみに満ちたヌバタマを前に、彼は頷く他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヌバタマは、もう何も言おうとしなかった。

 何も言えなかったのかもしれない。

 それ以上言葉を発すれば、滴が頬を伝いそうな程に、彼女は涙を溜めていた。

 物言わずに窓の外を眺め続けるヌバタマに対し、もう一度深く頭を下げた千尋は、店の外へと出て行ってしまった。

 それと入れ替わるようにして、台所の方から木がきしむ音がする。

 ヌバタマは、視線の端を音の方にくれたが、またすぐに外を向いた。

 彼女の様子を伺うかのように、そっと台所の扉を開けて中から出てきたのは、オリベだった。

 

 

 

「いやあ、随分と派手にやっていたようだなあ」

「………」

 オリベの口調は、普段と変わらない飄々としたものだった。

 ヌバタマは彼を無視したが、それに関係なく、オリベはヌバタマの向かいに腰掛ける。

 だが、オリベもまたヌバタマを見据えようとはせず、椅子を軋ませながら外の景色に視線を向けた。

 そして訪れる、暫しの沈黙。

 雨打つ音だけが、夜咄堂に響き続ける。

 やがて、先にオリベの方が口を開いた。

 

 

「……千尋の事が、嫌いになったかね?」

「……いえ」

 ヌバタマの声は、消えてしまいそうな程に小さい。

 彼女は首を横に振り、顔を伏せた。

 

「そうかね。ならば良かった」

 オリベの声が僅かに喜色ばむ。

「オリベさんが喜ぶ事じゃありません」

「いいや、そんな事はないよ。しかし、嫌いじゃないなら、どう思っているんだね?」

「少し、失望しています」

「ほう。どういう所に?」

「……単にど忘れしたんじゃない事は、分かります。

 何か、私に言えないような理由が……あったんだと思います」

 ヌバタマがとつとつと語る。

 二人は、なおも対面せずに会話をかわし続けた。

 

 

「……でも、約束、破られたんです。

 言えない理由があったとしても……言って欲しかった」

「なので、失望したと」

「………」

 ヌバタマがまた沈黙する。

 だが、オリベにはそれだけで、彼女の意が十分に伝わったようであった。

 彼は椅子を軋ませるのを止めると、ヌバタマに向き直った。

 一方のヌバタマは、やはりオリベの方を見ようとはしない。

 それでもオリベは構わずに、彼女の前で人差し指を突き立てた。

 

 

 

「ヌバタマ。先程、電話があった」

「………」

「シゲ婆さんからの礼だったよ。初めは何の事かは分からなかったがね。

 どうも話を聞いている限りでは、シゲ婆さん、墓地で転んで足を捻ったらしい」

「え……?」

 ヌバタマが、息が漏れるような声を出した。

 反射的に持ち上がった顔には、狼狽の色がはっきりと映っている。

 

「ああ、ああ、怪我は軽い捻挫らしいから気にしないで良いだと。

 とは言っても、年齢が年齢だし、心配ではあるがね……。

 で、ちょうどそこに居合わせた千尋が救急車を呼んで、病院まで同伴してくれたそうだ。

 その事に対する礼の連絡で、私まで何度も何度も謝られてしまったよ」

「!!」

 ヌバタマは、体を跳ね起こした。

 激しく椅子を鳴らしながら立ち、上半身で圧し掛かるようにして机に手をかける。

 瞠目(どうもく)する彼女の口は、微かに震えを伴っていた。

 

 

「そ、それって……もしかして」

「うむ。千尋はシゲ婆さんを助けていて、約束に遅れたのだろう」

「な、なんで……」

 それだけ口にして、頭を左右に振る。

「なんで、そう話してくれなかったのか……かね」

「………」

「千尋はね。我々に気を遣っているのだよ」

 オリベの声は、厳かだった。

 ヌバタマを励ましているようにも、たしなめているようにも聞こえる、威厳ある声だった。

 

 

「どうも千尋は、普段から足繁く墓地に通っては、故人を偲んでいたようだな。

 寂しがるのも無理もない。なんせ、まだ宗一郎が亡くなって三ヶ月ちょっとだものな。

 その上、千尋にとって宗一郎は最後の肉親だ。

 時折表面に出ている通り、あれは相当悲しみに耐えていると思うよ」

「それは、なんとなく分かります……」

「……だがね。千尋は、その心境を知られたくないようだ。

 いや、決して嘆いている事が恥ずかしいというわけではない。

 問題は、宗一郎の死因にある」

「………」

 ヌバタマはオリベを見つめる事で、先の言葉を催促する。

 一方のオリベは、値踏みでもするような目つきでヌバタマを見つめたが、

 やがて彼は、言葉をかみ締めるように続けた。

 

「……知っての通り、宗一郎は茶道具を守って死んじまった。

 それを未だに嘆いていると、茶道具の付喪神達は立場がなくなる……という事だ」

「そんな」

「茶道具の存在がなければ、宗一郎は生きていた。

 付喪神達が、そのように自身を責めてしまうかもしれない。

 ……千尋はそう考えて、気を遣っているつもりなんだろうね」

「………」

「ヌバタマ?」

「……分かりません」

 ヌバタマが、ぼそりと呟く。

「そんな……板挟みになるような事までして……

 一人で強がって……ひた隠しにして……

 悲しいのに……なんで……誰にも頼らないの……」

「全くだねえ」

 

 

 オリベは呆れたように頭を抱える。

 それから、彼は立ち上がって、おもむろに夜咄堂の窓を開けた。

 外に降り注ぐ雨は徐々に勢いを増していて、降雨の音が店内に響き渡る。

 いつの間にか勢いが強まった雨の音は、まるで急流の濁音のようだ。

 

 暫し、二人して何も言わない。

 雨音だけが聞こえる夜咄堂に立ち尽くす。

 オリベは雨空を見上げ続け、ヌバタマは呆然と俯き続けた。

 そうしているうちに、雨音に新たな音が混じった。

 それに気が付いたオリベは、ゆっくりと振り返る。

 

 

「……涙雨、だな」

「え……?」

「お前さん、自分で気が付いとらんのか?

 泣いとるじゃないか」

「あ……」

 オリベの指摘を受け、ヌバタマは自身の頬に手を宛がった。

 そうして触れる事で、彼女は、涙が伝っていた事にようやく気が付いた。

 放心のあまり、気が付いていなかった彼女は、慌てて瞼を押さえる。

 

「私……」

「千尋の為に泣いていたのだろうね」

「……はい」

 静かに肯定する。

 それから彼女は、夜咄堂の玄関へ向って歩き出した。

 

 

「……ヌバタマ」

 オリベが、背中越しに声を掛ける。

 先程よりも、凛とした声だった。

 

 

「入れ込むと、後が辛いぞ」

 

 

 ヌバタマは、僅かに足を止める。

 だが、何も言わない。

 ただ小さくオリベに会釈をして、彼女は夜咄堂を出て行った。


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