尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第八話『本音 その一』

 鼻歌が、聞こえる。

 夏の陽気を連想させるような、アップテンポで気を高ぶらせるような鼻歌だ。

 鼻歌の主の機嫌の良さが伝播してくるようで、聞いている方としても気分が良い。

 その発生源のヌバタマが、上機嫌を隠そうともせずに軽やかな足取りで机や窓を磨く姿を、

 千尋は会計棚で頬杖を突きながら眺めていた。

 

 彼女の機嫌の良さは、もう一週間程続いているだろうか。

 仕事に関しては基本的に律儀でお堅いヌバタマが、

 今のように鼻歌を歌ったり、時折突然思い出し笑いを浮かべたりする事もあったのだから、機嫌の良さは相当なもののようだ。

 

 その理由を、千尋は理解していた。

 直接聞いてはいないのだが、自室のカレンダーに、勝手に『予定』を書き込まれているのだから、分からないはずがない。

 その予定を約束をしたのは当の千尋なのだが、未だに少々の抵抗を覚える予定でもある。

 しかし、こうも当日を待ち遠しくされてしまっては、話は別だ。

 彼女との予定に対する抵抗が徐々になくなっているのを、千尋は薄らぼんやりと自覚していた。

 

 

 

「……ヌバタマ」

 窓を拭く彼女を呼ぶ。

 くるりと身を翻して近づこうとした彼女を手で制し、距離を保ったままで千尋は話を続けた。

「映画。明日だな」

「そうですね。もうずっと楽しみにしていました!」

「おい。ガッツポーズして雑巾振り回すんじゃない」

「あっ……えへへ、ごめんなさい」

 ちろっと舌を出して謝ってみせる彼女に、千尋は目を細める。

 これだけはしゃいでくれているのだから、少々目立ってしまうのは我慢せざるを得ない。

 正直に言えば、彼女と出かけられるのは千尋も少し嬉しいかもしれない。

 否、まあまあ、嬉しいかもしれない。

 否否、相当嬉しいかもしれない。

 なんとも、現金なものである。

 軽佻浮薄(けいちょうふはく)っぷりを自覚しつつも、感情を抑えるのはなかなかに難しいものだった。

 

 

(まあ、付喪神(つくもがみ)という存在がバレさえしなけりゃ何の問題もないし。

 むしろ、可愛い子とデートできて……

 ……ん? ……デート?

 い、いやいや、違うだろう。何考えているんだ俺は)

 

 その文言が自然と浮き上がってきたのは、先日の唐津合宿で岡本と話した事の影響だろうか。

 デートの文字が、そのまま千尋の脳裏に居座ろうとする。

 大げさに首を左右に振ってそれを振り払い、千尋はまた口を開いた。

 

 

 

 

「ところで、ヌバタマは映画館には一人で行けるよな」

「行けますが……一緒に行かないんですか?」

「明日は大学があるし、その後に野暮用もあるからな。

 現地集合した方が都合が良いんだけれど、構わないか?」

「そういう事でしたか。はい。それなら大丈夫です。ただ……」

 ヌバタマが雑巾を机に置き、一度は制したのに近づいてきた。

 千尋の前まで来て、ぐいと顔寄せてくる。

 千尋はその分のけ反りながら、切れ長の目で彼女を見下ろした。

 

「む、むう……なんだ?」

「野暮用って、何ですか?」

「野暮用は野暮用だよ。聞くのが野暮ってもんだよ」

「千尋さん、夕方頃になるとふらっと出歩く事が多いですよね。それですか?」

「………」

 

 図星であった。

 基本的に毎日出かけているのだから、気づかれても仕方はないのだが、

 どうやら、行先まではまだ隠し通せているようで、焦りと同時に安堵も覚える。

 自分の言動で、誰かに負の感情を与えたくはない。

 その為にも、行先だけは絶対に教えられないと、改めて千尋は誓う。

 次からは、もっと気を付けて出かけよう。

 そう胸に刻んで、彼は肩を竦めてみせた。

 

 

「……俺にも色々あるんだよ」

「むう。詳しく教えてくれないんですか?」

「ああ、駄目。お前だって俺に隠し事の一つや二つ、あるんだろ?」

「そ、それは……」

 彼女は明らかに目を逸らした。

 同時に、挙動不審な程に瞳があちこちを向いている。

 

(お……本当に何かあるのか?)

 千尋は物珍しそうにヌバタマを見つめる。

 言い逃れのつもりで発した言葉だったのだが、どうやら変な所を突いたようだ。

 何を考えているのか分からないオリベなら十分にあり得る話なのだが、ヌバタマに隠し事があるとは意外だった。

 一体何なのか、突き詰めてみたい衝動に一瞬駆られてしまうが、止めておく事にする。

 ヤブヘビで、また自分が追及されてしまう可能性もないとは言えないし、

 付喪神の少女に出来る事など、たかが知れている。

 おそらくは、隠れてドーナツを食べている程度のものだろう。

 

 

 

 

 

「ま、いいさ。それより明日は現地集合。オッケーな?」

「あ、は、はい。分かりました」

 ヌバタマが慌てて頷く。

「あとな……」

「まだ、何か?」

「ああ」

 千尋は、一度言葉を切った。

 

 ヌバタマの内緒とは別に、気になっている事が一つある。

 これも聞くつもりもなかったのだが、殆ど無意識のうちに言葉が漏れてしまった。

 言葉を切ったのは、やはり聞くのを止めようかという躊躇だった。

 

 千尋の脳内に幾多の小さな千尋が募り、会議が開始され、即座に終了する。

 議長席に座っている千尋は、力強く親指を突き立てていた。

 つまりは『聞いて良し』である。

 

 

 

「ああ、そのな……」

 平静を意識して声を出す。

「はい」

「……ヌバタマはさ。俺と出かけるの、楽しいか?」

「………」

 問いを受けた彼女は、目をぱちぱちと瞬かせた

 だが、それはゆっくりと細められていく。

 黒い瞳からは、一切の世辞が感じられない。

 紛う事なき本物の笑みだけがあった。

 

 

 

「はい。それはとても」

 小さく首を傾けながら、ヌバタマはそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第八話『本音』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当日は、早朝から生憎の雨空だった。

 傘を差せば問題なく凌げる程度の降雨量なので、交通には支障がないのだが、

 それでも屋外での予定を控えていた千尋にとっては好ましいものではない。

 大学の講義が終了しても未だに滴る雨に、少しばかり憂鬱になるが、気が滅入った所で雨が止むものでもない。

 仕方なしにバスに乗って尾道駅前まで戻り、雨で滑ってしまわないよう重々気を付けながら、千光寺(せんこうじ)山の墓地を目指して歩く。

 父の墓を掃除しに行く途中に、自分まで石段で滑って怪我をしてしまっては、笑い話にもならない。

 

 

 

「……それにしても、人が多いな」

 その道中、町を行く人々を眺めながら、ぽつりと独り言を零す。

 先程から千光寺山の石段に差し掛かったのだが、上がる人、下がる人、どちらも絶え間なく視界に入ってくる。

 いくら観光都市とはいえ、雨の日にそれだけ観光客がいるとは思いもしなかった。

 その理由がなかなか分からない千尋であったが、石段を下る父母と子供一人の親子連れとすれ違って、ふと閃いた。

 

 

(あ。もう七月末か……夏休みなのか)

 合点がいった千尋は、親子連れの背中を見下ろしながら、一人で頷いた。

 大学生や社会人は別としても、高校生以下は既に夏休みに突入しているのだから、人が増えるのも当然の話だ。

 誠に残念ながら、夜咄堂(よばなしどう)の客数には殆ど影響がない為に、これまで気がつかなかったのだが、

 世間では、観光シーズン真っ只中なのだ。

 

(子供連れって事は、家族旅行か……)

 

 立ち止まって振り向くと、親子連れはもう遠く離れていた。

 だが、彼らが発する楽しげな話し声は、まだ微かに千尋の耳に届く。

 きっと、彼らは僅かな夏の日を満喫しているのだろう。

 実に微笑ましいものだ。

 思わず頬の筋肉が緩んだが、すぐにそれはもの寂しさに変わる。

 

 ……もう、自分は彼らのような経験はできないのだ。

 できる事と言えば、ちょうど今からやる予定の、墓掃除位のもの。

 だが、それでも良いと思う。

 若月家の墓を清め、父らが眠る墓石に対面している時は、寂しさを忘れる事ができる。

 それは逃避だと、千尋は自覚していた。

 家族を懐古する範疇を超え、亡き人に囚われすぎていると、自分でも思っていた。

 それでも、止められないのだ。

 理屈では分かっていても、寂しさを埋めるものが他にないのだ。

 

 

 

 

 自分への嘆息を零し、千尋は歩調を速めて墓地に足を踏み入れた。

 山の下の商店街等ならまだしも、観光地でもなんでもない墓地には、普段から人気(ひとけ)がない。

 その上、雨まで降っているのだから、今日は千尋の他には誰もいないようだった。

 千尋とて、片手に傘をさした状態では掃除しにくい事この上ない。

 それでも、彼は墓を清めたかった。

 決意新たに深く頷いて、早速若月家の墓掃除に取り掛かる。

 墓の汚れを拭き取り、供え物を取り換え、今日は水拭きを割愛して、時間にして五分少々。

 しかしながら、片手の塞がった無理な体勢でそれらを行った為か、掃除を終えた時に額には汗をかいてしまっていた。

 滴る汗と跳ねた雨水を、持参のタオルで拭ってから、千尋は墓石を改めて眺めた。

 毎日掃除をしているのだから、殆ど変りはないように見受けられたが、達成感は十分に得られた。

 

「……ま、こんなもんか」

 もう一度、頷く。

 日頃であれば、この後で少しばかり父との想い出に浸るのだが、今日はそうもいかない。

 ふう、と息を付いて腕時計を見れば、ヌバタマとの約束の時間が大分近づいていた。

 慌てる必要はないが、道草を食う余裕もなさそうだった。

 何が起こるから分からないのだから、早く切り上げようと、墓から離れようとしたその時だった。

 

 ――何かが、起こってしまったのは。

 

 

 

 

 

「あ、いたたたああっ!!」

 雨雲をつんざくような、痛々しい女性の悲鳴が墓地を駆け抜けた。

 思わず声のした方を見れば、それは墓地の入口から聞こえていた。

 誰かが、微かに体を震わせながら蹲っている。

 反射的に駆け寄った千尋は、傍に辿り着く前に、それが知人である事に気が付いた。

 

 

「シ、シゲ婆さん!!」

 途中から傘を投げ出し、蹲っているシゲ婆さんを抱え起こす。

 彼女はうっすらとした苦笑を携えていたが、表情が震えている。

 何かしら、痩せ我慢をしているのは明白だった。

 

「シゲ婆さん、どうしたの!?」

「あ、あら、千尋ちゃん……お参りに来たんだけれど、ちょっと足を滑らせてね。少し休めば大丈夫よ」

「大丈夫なわけないじゃない。あんなに大きな悲鳴を上げて!」

 声を荒げながら、しかしシゲ婆さんを支える腕は慎重に動かしながら、

 彼女をじっと観察すれば、下半身の震えが特に激しいように感じられた。

 目立った外傷はないようだが、脚を捻ったか、或いはもう少し大きな怪我を負っているかもしれない。

 

 千尋は、ちらとヌバタマの事を思った。

 だが、彼女との約束は瞬く間に霧のように消え去ってしまう。

 ヌバタマには悪いが、それどころではない。

 心中でヌバタマに一言謝ってから、付近に落ちていたシゲ婆さんの傘を、当人に持たせる。

 それから、なるべく刺激を与えないよう、そっとシゲ婆さんを抱え上げてみれば、彼女の身体は子供のように軽かった。

 

 

「ち、千尋ちゃん……?」

「救急車はここまで上がってこれないと思う。悪いけれど、山を下るまでちょっとだけ我慢してね」

 有無を言わさずにそう言いきると、千尋はシゲ婆さんを抱えて墓地から出た。

 下山するまで、十分か十五分か。

 完全に下りきらずとも、車が上がってこれる所まで行けば、救急車を呼べる。

 そう長く無理な体勢を強いる事はないだろう。

 千尋は足早に、千光寺山を下りだした。


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