岡本知紗の運転するレンタカーは、車も信号も少ない山間の直進道路を走っていた。
彼女の隣に座る千尋の髪は、開け放たれた車窓から入り込んでくる風に晒されていたが、あまりそれを気には留めなかった。
南国の海をバケツですくい、思いっきりぶちまけたかのような濃紺の空が、窓の外には広がっている。
風を切りつつ空だけを眺めていると、車が空を走っているような錯覚を覚えた。
風を体で感じられる夏だからこその錯覚だ、と千尋は思う。
見知らぬ土地の風景に旅情緒を感じるのも良いが、こうして季節を感じるのも悪い気はしなかった。
そもそも、見知らぬ土地とは言っても、山間部が占める割合が大きい広島と、今走っている佐賀の山間の風景には、
然程変わりがないのだから、わざわざ視線を水平に向けて注目する必要はないのだ。
「唐津まであと三十分って所かな。千尋、腹減ってるか?」
「まあ、それなりには」
「そっか。母さんが昼飯用意してくれているはずだから、もうちょっと我慢な」
「お昼まで申し訳ありません」
「ハハッ。私が誘ったんだから気にするなよ」
岡本は前を向いたままで、にかっと歯を見せて笑う。
なんともありがたい話だが、考えてみれば、人の家でご相伴にあずかるのは初めての事かもしれない。
未だ見ぬ昼食への期待に胸が高鳴ったが、どうにも、それは千尋だけではなかったらしい。
「いやー、私達までお邪魔しちゃって、本当に申し訳ない!
昼食はイカだろうかね。イカでいいか、なんちって。ヒャッヒャッヒャッ!」
「イカって唐津の名産品なんですか? 私、食べるの初めてです。
イカ味ドーナツなんかもあったりするんでしょうか……?」
後部座席の二人、オリベとヌバタマが頬を綻ばせて会話に加わってきた。
「ははは。流石にイカ味のドーナツはないかなあ。
……な、千尋。
ヌバタマちゃんって、名前も格好も、考えてる事も変わってて可愛いな」
「そうですかね。はは、は……」
面白そうに笑う岡本に、同じ笑顔でも千尋は苦笑しか返す事が出来ない。
自分が名付けたのですよ、と言うわけにはいかないし、
格好に関しては、尾道駅で待ち合わせた時の岡本の驚きようと言ったらなかった。
この真夏に、和服姿で旅行に加わろうというのだから、事情を知らなければ無理もない話だ。
「あ……ラジオ、付けますね」
少しでも話題を逸らせるようにと、カーオーディオのつまみを捻る。
スピーカーからは、砂嵐音の後、夏の甲子園の地区予選の結果を伝える声が聞こえてきた。
「ほほう。沖縄はもう代表が決まったのか。
第一回の頃に比べると甲子園も盛り上がるようになったなあ」
今度はオリベが妙なことを口走る。
余計な事を言わないように、との意を込めてジト目で後部座席を睨みかけたが、
和気藹々とした二人が目に映ってしまったもので、すぐに怒る気も失せてしまった。
(いやはや……二人を連れて来たのは、浅はかだったかもな)
仕方なしに、密かに内心で嘆く。
なんとも、心労が絶えない旅行になりそうである。
――今回の件の発端は、二週間前の岡本の提案だった。
なんでも、陶芸をやっている岡本の両親は佐賀は唐津住まいだそうで、そこで陶芸を体験する事ができるとの事である。
つまりは、夏合宿と言うよりも、岡本の実家に遊びに行くようなものだ。
おそらくは、岡本からしてみれば、陶芸の話ができる後輩を得た事で、テンションが上がっての提案なのだろう。
だが、男女二人して、片方の実家に遊びに行くのだ。
千尋からしてみれば、妙な勘違いをされる気しかせず、気乗りがする提案ではなかった。
ではどう断ったものか……そう考えた所で、話を聞きつけたオリベとヌバタマが、参加したがったのである。
大学のサークルとは全く関係のない二人だ。
それもまた難しいと断りかけたのだが、ふと千尋は思い留まった。
考えてみれば、確かに他にも参加者がいれば、妙な勘違いはされずに済む。
加えて、僅かな賃金しか与えていない二人の希望なのだから、可能ならば叶えてはあげたい。
そうして千尋の中の天秤に釣り合いが取れた所で、岡本が諸手を上げて賛成した為に、話は決まったのであった。
(とはいえ……二人を長時間連れ出すのは、やっぱり拙かった。
どこかで下手打って、正体がばれなきゃ良いんだけれども……)
皆には分からぬよう、口の中で小さく嘆息をする。
そんな憂慮とは無関係に、博多駅で借りた車は、一路陶芸の町へと向かうのであった。
第七話『唐津合宿』
「あらあらー、本当に大勢で来てくれたのね。いらっしゃいー」
唐津の町の端に位置する岡本窯。
その庭先で出迎えてくれた岡本の母は、娘と同様に小柄で、
しかしながら、娘とは対照的におっとりとした雰囲気を持つ女性だった。
「こんにちは。若月です。後ろの二人はオリベとヌバタマと言います」
岡本の半歩後ろで、ゲストを代表して千尋が頭を下げる。
「知紗から話は聞いているわー。はじめまして。知紗の母です」
ひとまずは歓迎してもらえているようで、胸を撫で下ろす。
事前に不安に感じていたのは、やはりオリベとヌバタマの存在だった。
宿泊に関する連絡は全て岡本が担ってくれたのだが、
付喪神達については一体どのような説明をつけたのだろうか。
ささやかな疑問を抱きつつも、今はそれよりも挨拶だと思い直し、千尋は話を続けた。
「それにしても、今回は大勢でお邪魔しちゃって、すみません……」
「良いのよー。普段は私とお父さんだけで静かなんだもの。賑やかで嬉しいわぁ。
それよりも、この子がお世話になっているそうで、ありがとうね」
「いえ、お世話になっているのは俺の方です」
「ありがとうねぇ。気遣ってくれるのは嬉しいわ。
でも、本当はうちの子の方が迷惑を掛けているはずよ。
だって、昔からそうなんだもの」
思わず苦笑してしまう千尋であった。
どうにも、お見通しのようである。
「お母さん、あたしの話はどうでも良いから! それよりお父さんは?」
「まだ工房にいるわ。午前中には終わる予定だったけれど、調子が良いみたい」
「ん。分かった」
その言葉を受けた岡本は、一行に目配せをして歩き出した。
千尋らは、岡本の母に一礼をして後を付いていく。
岡本の家は、五部屋程ありそうな二階建ての木造民家だった。
家そのものは標準的な日本家屋のようだが、庭が随分と大きく作られていて、
陶芸の原材料と思わしき名詞が書かれたポリバケツが、庭に無数に置かれているのが特徴的だった。
敷地内には他にも、登り窯や大型の物置が見受けられる。
岡本が向かったのは、その物置の方だった。
「ここ、物置兼作業部屋な。普段はお父さんがいるんだけれど……」
物置……否、作業部屋の戸の前で立ち止まった岡本は、だんだんと声量を落とした。
それから、物音を立てずに戸を僅かに開いて、そっと中を覗く。
それに続くようにして千尋も中を覗くと、大柄な中年男性が背中を向けて椅子に座っていた。
ここからではよく分からないが、おそらく何かしらの作業に勤しんでいるのだろう。
その証拠に、岡本は戸から顔を離すと、大げさに肩を竦めてみせた。
「駄目だな。集中しているみたいだから、挨拶は後にしよう」
「ふむ。一介の茶人として、是非とも陶芸家には挨拶しておきたかったが、作業中とあらば仕方あるまい」
オリベの言葉に、千尋とヌバタマも同意して頷く。
オリベは更に、思い出したように言葉を続けた。
「……ところで、合宿とは何をする予定だったのかね。やはり、陶芸を?」
「うん、その予定。一泊二日で焼成までってのは無理だけど、せめて
ただ、今はお父さんが使っているから無理だね」
「それならば、終わるまで待つとしようか」
「そうは言っても、調子が良いと夜まで作業する事が多いからなあ。……そうだ」
岡本は軽く手を叩いた。
「ただ待ってるのもなんだし、昼を食べ終わったら、夕方まで市内観光でもしようか」
「わあ、行ってみたいです!」
ヌバタマが目を輝かせて大きく頷く。
千尋も、着いた早々に陶芸というつもりもなく、異論はない。
「よかよか。唐津は面白か所が多かよー。そうやねえ……」
岡本がわざとらしく方言を使いながら、指を折って数を数えた。
「まずは唐津城。寺沢広高って戦国武将が建てた城だな。
それから絶景の松林がある虹の松原。唐津バーガー食いながら周っても良いなあ。
後は公開されている窯元を巡っても良いし、市内を単にぶらついても良い。
あ、そうそう。文禄・慶長の役で建てられた、名護屋城の跡地もあるぞ。
ざっとこんな所だが……千尋。どこにする?」
「俺が決めて良いんですか?」
「あたしはいつでも来れるしな。どこでも良いぞー」
「ふむ……」
肩に掛けたバッグを担ぎ直し、少し考え込む。
窯元は、帰って来てから見れるのだから、無理に行かなくても良いと思う。
市内を歩いたり、景色を見に行くのも悪くはなかったが、どうせなら何か学べる所が良かった。
そうなると残る選択肢は二つ。唐津城か名護屋城跡地だ。
どちらでも良かったのだが、後に聞かされた分、名前が頭に残っていた名護屋城跡地を選んだ。
「それじゃあ、名護屋城跡で」
「よし。決まり! それじゃ、昼食ったら早速出かけるか」
「岡本さん、今日運転してばかりですけれど、大丈夫なんですか?」
「飯食えばどうって事ないって。ほら、家の中入ろう。
昼はオリベさん大正解! イカ刺らしいぞ」
岡本はそう言って、景気よく三人の肩を叩いて家の中へと入って行った。
残された三人は顔を見合わせ合ったが、やがて、誰からともなく笑いだし、岡本の後を追ってイカ刺へと向かったのであった。