水谷が
こうも暑いと常連客の足は遠のくばかりだし、多少入り組んだ所に店がある為に、偶然見かけて涼みにくるような一見客もいない。
今日も、客は午前中に二組に来ただけだ。
こんな日なのだから、おそらく午後になっても水谷は来ないだろう。
そう高を括っていた為に、麦わら帽子を被った水谷が玄関を開けた時は、千尋は酷く慌ててしまった。
「や……これは……いらっしゃいませ。すみません、準備が……」
「あら。今日はまだ開店していなかったの?」
「ああ、えっと、店の事ではなく……と、とりあえず席へどうぞ。冷たい水をお持ちします」
そう言って水谷を中へ案内しつつ、オリベに目配せをすると、千尋の意を察した彼は二階へと上がっていった。
茶室の準備は、このままオリベに任せておけば問題ないだろう。多分。
安堵した千尋が水を運んでくると、水谷は窓際の席に座っていた。
窓を開け放ってはいるものの、今日は殆ど無風で、極楽の余り風に期待はできない。
それどころか、窓際の席は少々日差しが厳しく、むしろ寛ぐには適さない席だ。
それでも彼女が窓際に座る理由は、一つしか思い浮かばない。
彼女は、山野草を眺めるのが本当に好きなのだろう。
「今日も茶花目当てですか?」
ことり、と音を立てて水の入ったグラスを置きながら尋ねる。
「ええ。……あ、ううん。もちろんお店の食べ物や、千尋君とお話する事も楽しみよ?」
「それはありがとうございます。……ところで、その食べ物なんですが、今日はお勧めがありまして」
「何かしら」
「宜しければ、二階でお抹茶セットでも如何ですか?
お茶ですから当然暑くはありますけれど、意外とすぐに冷えるものですし、茶花も飾っていますよ」
「お抹茶……」
水谷はぽつりと呟くと、千尋の顔を見上げてきた。
眼鏡の奥の目尻が、すぐに下がる。
麦わら帽子を脱ぎながら、水谷は小さく頷いた。
「それじゃあ、一服頂こうかしら」
「では、こちらへ」
水谷を連れて階段を軋ませると、階上からは釜が煮立つ音が微かに聞こえてきた。
茶室へと入れば、部屋の隅に備えられた釜の隙間から、湯気がほっそりと伸び始めている。
おそらくオリベは、準備を終えて、隣の水屋に控えているのだろう。
手早く用意できる電気炉を用いた事を差し引いても、この短時間で見事なお手並みという他なかった。
「どうぞ、中へ」
水谷を毛氈の上に案内してから一度退出すると、案の定水屋にはオリベがいた。
言葉は交わさずに親指を突き立てあって挨拶を交わしてから、必要な茶道具だけを手にし、もう一度茶室へと戻る。
入室の挨拶を交わそうと座した所で、水谷が全くこちらを見ていない事に気が付いた。
(……心、ここにあらず、って所か)
内心苦笑しながら中に入る。
視線を花に奪われていた水谷は、それでようやく千尋に気が付いた。
「あら、千尋さん。ごめんなさい、お花に見入っていて……」
「いえいえ、お気になさらないで下さい」
優しく笑いながら茶道具を
「今日のお花は……わざわざ説明するまでもありませんかね」
「ふふっ。ワレモコウね。お庭に咲いていたものかしら」
「ええ。オリベさんらが毎日お世話していたものです。茶席に飾ったワレモコウも悪くはないでしょう?」
「そうかもしれないわね。花入れに飾ると、また違って見えるわ」
「その花入れは、
昨日覚えたばかりの花入れの名を口にする。
竹製の相当すすけた花入れだが、それも当然の事。
オリベから聞いた話によれば、桃山時代に作られた四百年物で、この店一番の古株の茶道具なのだ。
花入れの正面には、鉈で垂直に切り落としたような跡があった。
なんでもこの跡が、置筒竹花入の見所らしいのだが、千尋には良さが分からない。
その為に、この先の役目はオリベに頼んでおり、背後から折良くオリベの声が聞こえてきた。
「ようこそいらっしゃいませ」
「オリベさん。どうもお邪魔しています。素敵なお花に花入れね」
「ヒャッヒャッヒャッ! そいつはどうも。特に花入れには、少しばかり逸話があるのですよ」
「どんなお話かしら?」
「興味があらば、お話しましょう」
オリベが小さく頭を下げ、正座したままでずいと茶室内に入ってくる。
「実はその花入れ、桃山時代の武将が作ったとの逸話が残っているのです。
残念な事に武将の名前までは伝わっておりません。
ですが、逸話は事実。その証拠が、花入れの正面の切り落とした跡ですな」
「この跡が……?」
水谷はまじまじと切り落とした跡を見つめる。
「普通の茶人であれば、このような武骨な面は造らないでしょう。
戦の一端が焼き付けられたような、この豪快な切り落としこそが、戦場を駆け回った者の証。
他には一切の飾り気がない、文字通り竹を割ったような潔さの花入れです。
……私はこの、武将の魂が具現化されたような花入れが大好きでしてな。
見ているだけで活力を分けてもらえるのですよ。
戦場を生き抜き、動乱の世を駆け抜けた生命力が、この跡には宿っている気がするのです」
「なるほ……」
水谷の言葉が、掻き消された。
いや、千尋がそう錯覚しただけなのかもしれない。
なにせ、オリベの解釈と同時に茶室が眩い閃光で満たされ、一瞬ながら気が遠のいたからだ。
この『力』を受けている彼女も同じ感覚を受けているのだろうか、と思いながら水谷を強く見つめて、視界を整える。
その力を認識しながら目にするのは、これが初めてだった。
「……我も、こう、ありたい」
揺らぎと閃光が収まるのと入れ替わりに、水谷はそう呟いた。
自身の言葉を噛み締めるような、ゆったりとした、だが力強い言葉だ。
「ワレモコウの名の由来ですな」
「山野草、好きですから」
水谷は笑顔で頷く。
胸に両手をあてがいながら、彼女は更に言葉を続けた。
「こうありたい……の『こう』とは、一体何を指しているのかまでは分かりません。
もしかすると、見る者それぞれの心の中に答えはあるのかもしれませんね。
……そうだとすれば、私は今、こう感じたのです。
私も、こうありたい……この花と、花入れのようにありたい……」
言葉に溜めを作りながら、水谷は千尋の方をを向いた。
眼鏡の奥に潜む水谷の瞳は、発せられた言葉同様に、爛々と輝いていた。
「生命力に満ち溢れるこの花のように、強く生きたい。
そして、この花入れを作った武将のように、躍動したい。
もっと、もっと体を強くして、いつかは山野草を見に行きたい。
……千尋君、オリベさん。ありがとう。なんだか元気が出てきたわ」
「……それは、良かったです」
微笑みを返しながら、ちらと席主のオリベを見る。
茶の良さを深く認識できる能力、日々是好日の存在を認識すると共に、千尋は内心でその能力に舌を巻いていた。
ただ自分が説明しただけでは、これ程の感動を水谷に与える事は叶わなかったであろう。
この男達、付喪神との生活が日常と化した為に錯覚していたが、やはり彼らは人ならざる存在なのだ。
人智を超えた存在と能力。
千尋にとっては、それは謎に満ちつつも、実に頼もしいものだった。
「……さて、一服差し上げますね。お茶席はここからが本番ですよ」
釜の方を向き、気持ちを落ち着ける。
千尋の前では、どっしりとした
しかしながら、蓋の隙間から立ち上る湯気は、まるで自身の出番をせがむかのようだった。
◇
水谷が帰ったのを見届けると、千尋は二階の水屋に向かい、今日使った茶道具を洗い始めた。
釜や茶碗といった、洗っては拭くだけの茶道具は、清めるのに然程手間はかからない。
面倒臭いのが、抹茶の入っている
何よりも、抹茶を元の容器に戻すのが面倒臭い。
「ち、ひ、ろ、くんっ!」
「のわっ!??」
思わず手にしていた容器をひっくり返しかけるが、辛うじて落とさない。
あからさまに眉を顰めながら振り返れば、そこにいるのは案の定オリベだった。
千尋のしかめっ面に恐縮する様子もない彼は、にやにやと笑いながら、板張りの床にどっしりと胡坐をかいた。
「今日の茶席、なかなか上手く出来たじゃないか」
「……それはどうも」
素直に頷いた後で、以前の自分ならば、頑なに否定していたかもしれないと思う。
難色を示す程でもなくなったのは、やはり茶道に取り組もうと思うようになったからだろう。
そこまで考えて、千尋はふと、思い至った。
「……ところでオリベさん。一つ聞きたい事があるんですが」
「ほう、何かね? 遠慮なく聞いてみたまえ」
オリベが膝の上で頬杖を突きながら頷く。
「さっきの日々是好日で、水谷さんが感動してくれましたよね」
「そうだったね。上手く感じ入ってくれたようで良かったよ」
「そこなんです」
茶漏斗を手離し、オリベの瞳を真剣に凝視する。
オリベの瞳に自分が写っている事を視認しながら、千尋は更に話を続けた。
「日々是好日は茶道の良さを感じられる能力……との事ですけれど、茶道の良さって、一体何なんでしょう?」
「………」
「水谷さんも、そして以前オリベさんと茶室でご一緒したシゲ婆さんも、茶道の良さを感じてくれました。
自身の境遇に適した感銘を茶道具から受けた……それは分かります。
他にも、良い所が山ほどあるのも、ヌバタマから聞かされましたし、分かります」
「……ふむ」
「……でも、俺自身が、それらを良いと感じた経験は、ないのです。
教えて下さい。茶道の良さとは……そして、それを感じるには、どうすれば良いのでしょうか」
「答えるのは、容易い問題だ」
オリベが、普段よりも低い声で言う。
胡坐に頬杖という自由極まりない恰好ではあったが、声色には真剣味が篭っていた。
「……だが、おそらく私が言葉で説明しても、やはり納得はできんだろう」
「なら、どうすれば良いかだけでも」
「茶を点て続ける事だな」
オリベはあっさりとそう言ってのけた。
「教えておこう。良い茶人の席であれば、日々是好日は使う必要がないのだよ。
それは即ち、能力を使わずとも、客に茶の良さを感じ取って貰えるからだ。
あの能力は、確かに客の感受性を豊かにする。だが、茶席の本質を変化させるものではないのだ」
「つまり、俺が良い茶人になれば、自ずと良さを悟れると?」
「左様」
「………」
千尋は、沈黙した。
オリベの言っている事は理解できるのだが、やはりまだ漠然としている。
何を以てすれば、良い茶人となり得るのだろうか。
それに、基礎の基礎を学んだばかりの自分が、それ程の域に達するには、どれだけの年月を要するのか。
いずれも霧の中を模索するような話である。
だが、珍しく教えてくれたオリベに不満を口にするのは憚られて、疑問を吐露できない。
そうして、気難しい顔をしながら黙り続けていると、オリベがまた肩を叩きながら立ち上がった。
「強いて助言をすれば、千尋はもう、その答えを知っているはずだ。
単に経験が少なく、身に付いていないだけだ」
「俺が……知っている?」
「だから、深く案ずる事はない。ただ茶の道を歩き続ければ、自ずと掘り起こせるさ」
その言葉に、幾らかの安堵を覚える。
ひたすらに取り組めば行き当たるのならば、考える方で頭を悩ませずに済む。
それはそれで良いとして、オリベが自分の不安を読み当てたのには、内心舌を巻いた。
「……オリベさん、時々俺の心を読みますよね」
「何年生きていると思っておる。若造の考える事くらいお見通しよ。ヒャッヒャッヒャッ!」
相変わらずの甲高い笑い声。
だが、癪な笑いではない。
むしろ今回に限っては、凝り固まっている頭を解して貰った気がした。
オリベの言う通りならば、随分と気は楽になる。
仕方なし。
千尋の口の端は、そう物語らんばかりに緩んでいた。
「ま、そういう事だ。精進したまえよ」
「……それしかないようですね」
「私も漫画にでも精進してくるとしよう。ヒャッヒャッ!」
オリベはそう言い残すと、袴の埃を払いながら階下に去って行った。
千尋も立ち上がり、階段の傍まで歩いて彼を見送る。
オリベの姿が見えなくなり、水屋に戻ろうとした所で……千尋は足を止めた。
(あれ? 今……)
今、目に入った光景に何か違和感があった。
顔を動かさず、眼球をぐるぐると回して視界を隅々まで舐めまわすように見る。
とはいえ、然程物が置かれていない廊下だ。
違和感の答えは、すぐに見つかった。
(この水墨画……)
千尋の目は、茶室の上に飾られた水墨画で止まった。
色が薄い為に、何の絵なのか分からなかった水墨画の色味が、今では濃くなっているのだ。
濃くとはいっても、まだ純粋な墨汁で描かれたほどの濃さではないが、何が描かれているのかは辛うじて理解できる。
野山と思わしき場所を、数名の人間らしき生物が昇っている絵だ。
水谷にも、このように歩いてほしいとの意を込めて、オリベが入れ替えたのだろうか、と千尋は考えた。
(……いや、でも、茶席でこの水墨画の話はしなかった。
特に意味もなく、水墨画を変えたんだろうか。
そうだとしても、薄くて良さが分かりにくいな……)
暫しオリベの意図について考え込んだ後、千尋は肩を竦める。
先程、茶の道を歩き続けば行き着くと結論付けたばかりの事だ。
「……そのうち、この水墨画の良さも、分かるのかもな」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、千尋は水屋へと戻って行った。