手すりを掴みながら階下に降りると、窓際の席に座っている女性が、ひらひらと手を掲げて合図を送ってきた。
会釈をして近づきながら、一度だけ耳にした彼女の名前をなんとか思い出す。
「いらっしゃいませ。恵さん、でしたっけか」
「あら? 名前を話した事……ああ。知紗が教えたのね。
ええ。水谷恵と言います」
「分かりました。水谷さんですね」
「別に恵で良いのに。……って、これじゃあ知紗みたいね。ふふっ」
水谷が口元に手を当てて小さく笑う。
岡本とは対照的な、温和で柔らかな雰囲気の女性だった。
知性を感じさせる眼鏡と、ロングスカートの出で立ちからも、そう感じるのだろう。
「お気持ちは嬉しいのですが、水谷さんと呼ばせて頂ければ幸いです」
「分かりました。それでは水谷でお願いね。三回も来るんだから、私から名乗るべきだったかしら」
「いえ……ところで、それ程お店を気にいって頂けたのですか?」
「ううん。そうねえ。お店というよりは……」
水谷が喋りながら片目を瞑る。
「……千尋君が気になるかしら」
「お、俺が……!?」
思わず、素の口調が飛び出してしまう。
狼狽えようが面白かったのか、水谷にはくすくすと笑われる始末だった。
「ふふふっ。そう、千尋君が。だって、知紗の大事な後輩なんですもの」
「………」
どうやら、男性としてという意味ではないようである。
「知紗ね。サークルに後輩が出来た時は、毎日のようにその話をしていたわ。
ちょっとヒョロヒョロしていて頼りないだの、でも誠実そうだだの。
初めてのサークルの後輩が凄く嬉しかったみたいね」
「……いやはや」
「あまり千尋君の話ばかりするものだから、少し妬けちゃったくらいよ。
……でも、良かった。本当に良かったわ。
私は陶芸は分からないから、あの子の話し相手すら務まらなかったんですもの。
千尋君。良かったら、今後も知紗の力になってあげてね」
「……はい」
先日の岡本との会話を、ちらと思い出した。
控え目に、だが確固たる意志で頷く。
水谷は目礼を返し、それからその目を窓の外へと向ける。
「それと、もう一つ。私、花が好きなの」
「花、ですか」
千尋も窓際まで近づいて、庭を眺める。
「ええ。このお店のお庭に咲いている花も目当てなのよ」
庭の手入れは殆ど
近くにありながら縁遠い夜咄堂の庭に咲いているのは、殆どが茶花だ。
ツバキ、ナデシコ、ワレモコウ。
アサガオ、ムクゲに、タマアジサイ。
他にも、大きさも彩りも様々な夏の茶花が、庭の隅にある澄んだ池を彩るように咲き誇っている。
改めて見てみれば、然程花に興味のない千尋でも、思わず嘆息が零れそうな光景だった。
「千尋君。知ってるかしら?」
知らない、とつまらない返しを思いついたが、流石に口にしない。
水谷は、遠い目で庭を見つめたまま、言葉を続けた。
「茶道というよりは、植物学の方面から知ったんだけれどね。
お茶で使うお花って、地味な花が多いのよ。
……いいえ、地味というよりは、山野草というべきかしらね」
「ふむ」
「どの流派でも、洋花はあまり使わないらしいわね。
その理由までは分からないけれど……私にとって大事なのは、山野草が用いられているって事。
このお店のお庭に咲いている花も、茶席で使うのかしらね。山野草が多いのよ。
だから、ここは私のお気に入り」
「なるほど。登山して見に行くよりは楽ですからね」
「……ううん。私の場合は、ちょっと事情があるのよね」
水谷の声が、僅かに陰った。
「私ね。あまり、脚が強くないの。子供の頃に交通事故に遭っちゃって」
そっと視線を水谷に移せば、彼女はなおも庭を見つめ続けていた。
物静かな雰囲気こそ変わりはなかったが、彼女の瞳には憂いが感じられる。
「ロープウェイが無かったら、このお店に通うのも辛いかも。
……だから、登山して山野草を眺めたりとか、ちょっと難しいわ。
本当は、そうしてみたいんだけれどね」
座ったまま、じっと庭を……否、庭の奥にある幻想の野山を見つめる水谷。
彼女の口から出たのは、甘受の言葉だった。
言葉も仕草も儚げな水谷は、まさしく、座れば牡丹を地で行っていた。
千尋は思わず、そんな彼女に見惚れてしまったが、気づかれないうちに視線を庭に戻す。
夏の陽光に照らされた茶花達は、相変わらずすくすくと咲き誇っていた。
◇
「のっびのっび~♪ 育ってきたぜワッレモッコ~♪」
その日の夕方の事である。
開け放っている窓の外から、凄まじく音程を外したオリベの歌声が聞こえてきた。
たまたま客がいないのが幸いであったが、或いは、客がいないからこそ歌っているのかもしれない。
が、どちらにしても歌を聞かされる千尋はたまったものではない。
文句の一つでも言ってやろうと、雪駄を履いて庭に出ると、オリベは庭の花に水を与えながら歌を口ずさんでいた。
「オリベさん、その奇妙な歌を止めてくれませんか」
「奇妙とはなんだね。ワレモコウの成長を祝う素敵な歌ではないか」
「前言撤回します。その奇妙な声を止めてくれませんか」
「君は人を気遣うくせに、私に対しては、時々とても失礼な事を言うね」
オリベが顔だけ振り返って口を尖らせる。
本気で拗ねているわけではないようだし、そんな人だと思ったからこそ、千尋も憎まれ口を叩いている。
まだ一ヶ月少々の付き合いなのに、不思議とオリベには、遠慮なしにものを言う事ができた。
「はいはい。……で、何をしていたんですか?」
「ワレモコウのお世話だよ。なんせ、そのうち茶室で用いるからね」
「茶室で……?」
思わぬ言葉に反応して、オリベの肩越しに花を覗き込む。
初めて名を聞くその植物は、濃紫の葡萄のような花を携えた茶花だった。
見ようによっては毒々しくもある花の下の茎は、ススキにも似た背丈をしている。
橙色の夏夕空に向かってぐんぐんと背を伸ばしていて、活力のある花のように感じられた。
「これを茶室で、ですか。誰か知り合いでも来るんですか?」
「いや。今日来ていた恵ちゃん、だったかね。彼女の事だ。
なんでも、夜咄堂を気にいってくれているそうじゃないか。
また来てくれるだろうから、その時に茶室に案内すると良いよ」
「なんでまた。別にお抹茶には興味がないようでしたが?」
「向こうに用事がなくても、こっちにはあるのだよ。
……彼女は、
「あ……」
思わず、息を飲む。
その存在を知って以来、今日まで目にする機会のなかった付喪神達の能力、日々是好日。
一般人の感覚では分かり難い茶道の良さを、限界まで感じてもらえるこの能力が必要だと、オリベは言っているのだ。
「能力の意味は、忘れちゃいまいな?」
「ええ。対象者の感受性を引き上げて、茶の良さを感じてもらう、とかなんとか」
「そんな所だな。……恵ちゃんは癒しを必要としている。
我々付喪神には、それが分かるし、分かったからには癒してやりたいのだよ。
別に、構わんだろう?」
「………」
少しだけ、考える。
水谷の必要としている癒しが何なのか。それは千尋にも大まかに推測できる。
悩みが解消できるのなら、そうしてあげたいと思うし、日々是好日には何かしらの副作用もないようである。
なのであれば、答えは決まっている。
それでも千尋が思案したのは、自身の腕の方だった。
日々是好日の効果には、疑う所がない。
しかし、従来通りであれば自分が茶を点てる事になるが、それで良いのだろうか。
ヌバタマの言葉を借りれば、まだ基礎の基礎を覚えたばかりなのだ。
何か粗相をして、茶席を台無しにしてしまわないだろうか。
その可能性に一度気が付いてしまうと、次々と嫌な可能性だけを想像してしまう。
水で茶を点てはしないか。
清めていない茶碗を使ってはしまわないか。
茶碗をひっくり返してはしまわないか。
不安要素は、止め処なく溢れ出た。
「ちなみに、当日は私が補佐しよう」
そこへ、オリベが言葉を付け足した。
「補佐……ですか」
「うむ。千尋の腕も心配ではあるが、それはそれだ。
そもそも能力を使う為には、私かヌバタマがいなくてはならないからね」
「……ふむ」
千尋の心中を知ってか知らずかの言葉に、少しだけ安堵する。
考えれみれば、初めてシゲ婆さんに茶を点てた時も、オリベの一言で落ち着く事ができた。
普段は頼りない男なのだが、茶事となれば話は別。
オリベと一緒ならば、上手くやれるかもしれない。
「ちなみに、野郎が来た時はヌバタマに任せるからね。
私が手伝うのは、女性が来た時だけだ」
やっぱり、上手くやれないかもしれない。
「……はぁ。ま、良いですよ。それではお願いします」
結局、千尋は嘆息しながらも頷く。
店の主の承認に、オリベは手にした水差しを無造作に投げて拳を握った。
「よぉーし! 恵ちゃんの為に一肌脱ぐとするかあ!」
「あっ、物を手荒く扱わな……あれ?」
オリベが投げた水差しを手に取りながら、千尋は小首を傾げた。
先程まで気が付かなかったが、オリベが使っていた水差しは、陶器だったのである。
「この水差しは焼き物ですか?」
水差しは、何の装飾も施されていない土瓶であった。
武骨というよりは、単に造りが荒いだけの土瓶で、汚れも酷い。
だが厚さだけは相当なもので、オリベの杜撰な扱いにも全く堪えた様子は見受けられない。
「ヒャッヒャッヒャッ!それは水差しというよりは、
茶席に、水を入れておく為の容器、
その水指に水を継ぎ足す時に、この水注を使っているじゃないか」
「あ、もちろん水注は分かります。……でも、なんで庭で水注を?」
千尋の問いに、オリベはにやりと歯を見せて笑ってみせた。
「これはロビンだよ。この土瓶の付喪神がロビンなのだ。
ドビンがロビンになっちまった、ってわけだな。
茶には興味がないから土瓶は好きに使ってくれ、と言われているのでね。
こうして、有効活用しているのだよ。ヒャッヒャッヒャッ!」
なんとも酷い扱いなのであった。