尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第六話『置筒竹花入 その二』

 手すりを掴みながら階下に降りると、窓際の席に座っている女性が、ひらひらと手を掲げて合図を送ってきた。

 夜咄堂(よばなしどう)に来てくれるのはこれで三度目なので、顔だけはもう覚えているのだが、問題は名前だ。

 会釈をして近づきながら、一度だけ耳にした彼女の名前をなんとか思い出す。

 

 

「いらっしゃいませ。恵さん、でしたっけか」

「あら? 名前を話した事……ああ。知紗が教えたのね。

 ええ。水谷恵と言います」

「分かりました。水谷さんですね」

「別に恵で良いのに。……って、これじゃあ知紗みたいね。ふふっ」

 水谷が口元に手を当てて小さく笑う。

 岡本とは対照的な、温和で柔らかな雰囲気の女性だった。

 知性を感じさせる眼鏡と、ロングスカートの出で立ちからも、そう感じるのだろう。

 

 

「お気持ちは嬉しいのですが、水谷さんと呼ばせて頂ければ幸いです」

「分かりました。それでは水谷でお願いね。三回も来るんだから、私から名乗るべきだったかしら」

「いえ……ところで、それ程お店を気にいって頂けたのですか?」

「ううん。そうねえ。お店というよりは……」

 水谷が喋りながら片目を瞑る。

「……千尋君が気になるかしら」

「お、俺が……!?」

 思わず、素の口調が飛び出してしまう。

 狼狽えようが面白かったのか、水谷にはくすくすと笑われる始末だった。

 

 

「ふふふっ。そう、千尋君が。だって、知紗の大事な後輩なんですもの」

「………」

 どうやら、男性としてという意味ではないようである。

「知紗ね。サークルに後輩が出来た時は、毎日のようにその話をしていたわ。

 ちょっとヒョロヒョロしていて頼りないだの、でも誠実そうだだの。

 初めてのサークルの後輩が凄く嬉しかったみたいね」

「……いやはや」

「あまり千尋君の話ばかりするものだから、少し妬けちゃったくらいよ。

 ……でも、良かった。本当に良かったわ。

 私は陶芸は分からないから、あの子の話し相手すら務まらなかったんですもの。

 千尋君。良かったら、今後も知紗の力になってあげてね」

「……はい」

 先日の岡本との会話を、ちらと思い出した。

 控え目に、だが確固たる意志で頷く。

 水谷は目礼を返し、それからその目を窓の外へと向ける。

 

 

「それと、もう一つ。私、花が好きなの」

「花、ですか」

 千尋も窓際まで近づいて、庭を眺める。

「ええ。このお店のお庭に咲いている花も目当てなのよ」

 

 庭の手入れは殆ど付喪神(つくもがみ)達に任せていて、千尋は触った事がなかった。

 近くにありながら縁遠い夜咄堂の庭に咲いているのは、殆どが茶花だ。

 ツバキ、ナデシコ、ワレモコウ。

 アサガオ、ムクゲに、タマアジサイ。

 他にも、大きさも彩りも様々な夏の茶花が、庭の隅にある澄んだ池を彩るように咲き誇っている。

 改めて見てみれば、然程花に興味のない千尋でも、思わず嘆息が零れそうな光景だった。

 

 

 

 

「千尋君。知ってるかしら?」

 知らない、とつまらない返しを思いついたが、流石に口にしない。

 水谷は、遠い目で庭を見つめたまま、言葉を続けた。

 

「茶道というよりは、植物学の方面から知ったんだけれどね。

 お茶で使うお花って、地味な花が多いのよ。

 ……いいえ、地味というよりは、山野草というべきかしらね」

「ふむ」

「どの流派でも、洋花はあまり使わないらしいわね。

 その理由までは分からないけれど……私にとって大事なのは、山野草が用いられているって事。

 このお店のお庭に咲いている花も、茶席で使うのかしらね。山野草が多いのよ。

 だから、ここは私のお気に入り」

「なるほど。登山して見に行くよりは楽ですからね」

「……ううん。私の場合は、ちょっと事情があるのよね」

 水谷の声が、僅かに陰った。

「私ね。あまり、脚が強くないの。子供の頃に交通事故に遭っちゃって」

 

 そっと視線を水谷に移せば、彼女はなおも庭を見つめ続けていた。

 物静かな雰囲気こそ変わりはなかったが、彼女の瞳には憂いが感じられる。

 

 

 

「ロープウェイが無かったら、このお店に通うのも辛いかも。

 ……だから、登山して山野草を眺めたりとか、ちょっと難しいわ。

 本当は、そうしてみたいんだけれどね」

 座ったまま、じっと庭を……否、庭の奥にある幻想の野山を見つめる水谷。

 彼女の口から出たのは、甘受の言葉だった。

 言葉も仕草も儚げな水谷は、まさしく、座れば牡丹を地で行っていた。

 

 千尋は思わず、そんな彼女に見惚れてしまったが、気づかれないうちに視線を庭に戻す。

 夏の陽光に照らされた茶花達は、相変わらずすくすくと咲き誇っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「のっびのっび~♪ 育ってきたぜワッレモッコ~♪」

 

 その日の夕方の事である。

 

 開け放っている窓の外から、凄まじく音程を外したオリベの歌声が聞こえてきた。

 たまたま客がいないのが幸いであったが、或いは、客がいないからこそ歌っているのかもしれない。

 が、どちらにしても歌を聞かされる千尋はたまったものではない。

 文句の一つでも言ってやろうと、雪駄を履いて庭に出ると、オリベは庭の花に水を与えながら歌を口ずさんでいた。

 

 

「オリベさん、その奇妙な歌を止めてくれませんか」

「奇妙とはなんだね。ワレモコウの成長を祝う素敵な歌ではないか」

「前言撤回します。その奇妙な声を止めてくれませんか」

「君は人を気遣うくせに、私に対しては、時々とても失礼な事を言うね」

 オリベが顔だけ振り返って口を尖らせる。

 本気で拗ねているわけではないようだし、そんな人だと思ったからこそ、千尋も憎まれ口を叩いている。

 まだ一ヶ月少々の付き合いなのに、不思議とオリベには、遠慮なしにものを言う事ができた。

 

「はいはい。……で、何をしていたんですか?」

「ワレモコウのお世話だよ。なんせ、そのうち茶室で用いるからね」

「茶室で……?」

 思わぬ言葉に反応して、オリベの肩越しに花を覗き込む。

 初めて名を聞くその植物は、濃紫の葡萄のような花を携えた茶花だった。

 見ようによっては毒々しくもある花の下の茎は、ススキにも似た背丈をしている。

 橙色の夏夕空に向かってぐんぐんと背を伸ばしていて、活力のある花のように感じられた。

 

 

 

「これを茶室で、ですか。誰か知り合いでも来るんですか?」

「いや。今日来ていた恵ちゃん、だったかね。彼女の事だ。

 なんでも、夜咄堂を気にいってくれているそうじゃないか。

 また来てくれるだろうから、その時に茶室に案内すると良いよ」

「なんでまた。別にお抹茶には興味がないようでしたが?」

「向こうに用事がなくても、こっちにはあるのだよ。

 ……彼女は、日々是好日(にちにちこれこうにち)を必要としている」

「あ……」

 思わず、息を飲む。

 その存在を知って以来、今日まで目にする機会のなかった付喪神達の能力、日々是好日。

 一般人の感覚では分かり難い茶道の良さを、限界まで感じてもらえるこの能力が必要だと、オリベは言っているのだ。

 

「能力の意味は、忘れちゃいまいな?」

「ええ。対象者の感受性を引き上げて、茶の良さを感じてもらう、とかなんとか」

「そんな所だな。……恵ちゃんは癒しを必要としている。

 我々付喪神には、それが分かるし、分かったからには癒してやりたいのだよ。

 別に、構わんだろう?」

「………」

 少しだけ、考える。

 水谷の必要としている癒しが何なのか。それは千尋にも大まかに推測できる。

 悩みが解消できるのなら、そうしてあげたいと思うし、日々是好日には何かしらの副作用もないようである。

 なのであれば、答えは決まっている。

 

 それでも千尋が思案したのは、自身の腕の方だった。

 日々是好日の効果には、疑う所がない。

 しかし、従来通りであれば自分が茶を点てる事になるが、それで良いのだろうか。

 ヌバタマの言葉を借りれば、まだ基礎の基礎を覚えたばかりなのだ。

 何か粗相をして、茶席を台無しにしてしまわないだろうか。

 その可能性に一度気が付いてしまうと、次々と嫌な可能性だけを想像してしまう。

 水で茶を点てはしないか。

 清めていない茶碗を使ってはしまわないか。

 茶碗をひっくり返してはしまわないか。

 不安要素は、止め処なく溢れ出た。

 

 

「ちなみに、当日は私が補佐しよう」

 そこへ、オリベが言葉を付け足した。

「補佐……ですか」

「うむ。千尋の腕も心配ではあるが、それはそれだ。

 そもそも能力を使う為には、私かヌバタマがいなくてはならないからね」

「……ふむ」

 千尋の心中を知ってか知らずかの言葉に、少しだけ安堵する。

 

 考えれみれば、初めてシゲ婆さんに茶を点てた時も、オリベの一言で落ち着く事ができた。

 普段は頼りない男なのだが、茶事となれば話は別。

 オリベと一緒ならば、上手くやれるかもしれない。

 

「ちなみに、野郎が来た時はヌバタマに任せるからね。

 私が手伝うのは、女性が来た時だけだ」

 やっぱり、上手くやれないかもしれない。

 

 

 

 

「……はぁ。ま、良いですよ。それではお願いします」

 結局、千尋は嘆息しながらも頷く。

 店の主の承認に、オリベは手にした水差しを無造作に投げて拳を握った。

 

「よぉーし! 恵ちゃんの為に一肌脱ぐとするかあ!」

「あっ、物を手荒く扱わな……あれ?」

 オリベが投げた水差しを手に取りながら、千尋は小首を傾げた。

 先程まで気が付かなかったが、オリベが使っていた水差しは、陶器だったのである。

 

「この水差しは焼き物ですか?」

 水差しは、何の装飾も施されていない土瓶であった。

 武骨というよりは、単に造りが荒いだけの土瓶で、汚れも酷い。

 だが厚さだけは相当なもので、オリベの杜撰な扱いにも全く堪えた様子は見受けられない。

 

 

「ヒャッヒャッヒャッ!それは水差しというよりは、水注(みずつぎ)だね。

 茶席に、水を入れておく為の容器、水指(みずさし)があるだろう?

 その水指に水を継ぎ足す時に、この水注を使っているじゃないか」

「あ、もちろん水注は分かります。……でも、なんで庭で水注を?」

 千尋の問いに、オリベはにやりと歯を見せて笑ってみせた。

 

「これはロビンだよ。この土瓶の付喪神がロビンなのだ。

 ドビンがロビンになっちまった、ってわけだな。

 茶には興味がないから土瓶は好きに使ってくれ、と言われているのでね。

 こうして、有効活用しているのだよ。ヒャッヒャッヒャッ!」

 

 なんとも酷い扱いなのであった。


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