尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第六話『置筒竹花入 その一』

 季節が、猛っていた。

 

 連日空を覆っていた梅雨の雨雲は完全に姿を消してしまい、

 眩い程の陽光を遮るものは、今はもう空には何も浮かんでいない。

 上からは直接、そして下からはアスファルトの照り返しで、夏の陽は人々を包むように燦々と輝いていた。

 なんとか逃れようと日陰に入った所で、次に頭を悩ませるのは瀬戸内海の影響だ。

 港町特有の湿気が作り出すサウナのような空気からは、屋外にいる限り逃れようがない。

 更には不思議なもので、それ自体には何も暑さも篭っていないというのに、

 あちらこちらから聞こえてくる蝉の鳴き声は、体感温度をぐいぐいと引き上げてくる。

 

 陽と、風と、音。

 あらゆるものが、情熱の季節の到来を告げていた。

 

 

 

「しかし、こりゃあ酷い暑さだな」

 夏の猛りに苦しめられているのは、千尋とて例外ではない。

 日課の墓掃除に来ていた千尋は、濃紺の空を恨めしそうに見上げたが、そうした所で日差しが弱まるものでもない。

 次からは、帽子を被ってくるなり何なり、日光の対策をしてこよう……そう思いながら視線を前に戻せば、そこには若月家の墓がある。

 今日の掃除の仕上げとして柄杓で水を掛ければ、僅かに水飛沫が飛び散るが、それが心地良い。

 ほんの少しだけ気分を良くして、彼は墓に刻まれる名前を見つめた。

 

 

 

「父さん」

 ……とつとつと。

「父さんが亡くなってから、俺の生活は……随分と変わったよ」

 言葉を噛みしめながら、千尋は語る。

 付喪神(つくもがみ)達や、夜咄堂(よばなしどう)を始めて出会った人々の顔が心中に浮かぶ。

 だがそれらはすぐに消えてしまい、その後で湧くように出てきたのは、父の姿だった。

 皆は、目元が特に似ているというのだが、千尋にはその自覚はない。

 千尋の心中に居座っている父は、キツい目つきの自分よりも、よっぽど優しげな瞳でこちらを見ていた。

 

 

「夜咄堂に来たら、いきなり付喪神なんかが出てくるんだもん。

 父さんも、仕事を家庭に持ち込まないようにしていたんだろうけれど、

 流石にこんな大事は、教えておいて欲しかったなあ。

 ……でもね。新生活も、悪くはない」

 ちらり、と斜め後方を見やる。

 視線の先……千光寺(せんこうじ)山の中腹には、夜咄堂がある。

 

 

「正直言うとね。最初は茶道を始めるのには抵抗があったよ。

 なんせ、父さんや他の家族も、茶道に奪われたんだからね。

 ……今でも、茶道に対しては複雑な気持ちだよ。

 それでも茶道を始めた理由は幾つかあるんだけれど……やっぱり、シゲ婆さんの笑顔が印象的かな。

 お客さんが、笑ってくれるんだ。楽しんでいるんだ。ついさっきまで泣いていたのにさ。

 何がそんなに良いのか……それが気になって、茶道は続けているよ」

 

 そう告げて、墓に深々と頭を下げる。

 父の姿が、夏の蜃気楼のように揺らぎ始めた。

 頭を上げて墓に背を向けると、その揺らぎは一層強まり、もう表情を読み取る事ができなくなる。

 

 

 

 

「でも……」

 誰もいない墓地を歩きながら、千尋は呟く。

 

「……でも。どうせお店をやるなら、父さんと一緒が良かったな」

 

 

 

 

 口の中にしか響かない、消えてしまいそうな声だった。

 父を亡くしてから約三ヶ月。その間、千尋の胸から悲しみが消えた事はない。

 だが、どうにもその思いは、まだ本物ではないのかもしれない。

 

 それは、生活の安定に関連している。

 父を亡くした直後は山のような事後処理に追われていたし、

 事務処理が一息付くと、入れ替わるようにして夜咄堂の経営に忙しく取り組んだ。

 夜咄堂が落ち着いた今では、大学通学を再開している為に、やはり暇とは言い難い。

 

 だが、これからは違う。

 

 大学生活が落ち着けば、ようやく暇ができるようになる。

 気持ちが落ち着けば、父の死を強く感じるようになる。

 何物にも遮られずに襲い掛かってくる事実を、直接感じるようになる。

 父と店を経営したかったと思ってしまうのは、その前触れなのだろう。

 千尋は、そう分析していた。

 

 

 

 

「……じゃあな。父さん。

 あまり長く外出すると、付喪神達が心配するしね」

 

 そう言い残して、墓地を後にする。

 耳に届くのは、どこか遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六話『置筒竹花入(おきづつたけはないれ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お目怠(めだる)うございました」

「はい。大変結構でございました」

 稽古の締めの挨拶を受けたヌバタマが、にこにこと笑いながら返事をしてくれる。

 千尋の言葉もヌバタマの返しも、余程の事がない限りそう発すると決まっている、お約束の挨拶だ。

 だが、お約束の割には、ヌバタマは本心から笑っているように見受けられた。

 

 

「さて。次は私が一つお()てしましょう」

「あれ? 今日の稽古はもう終わりじゃないのか」

「稽古じゃありませんよ。純粋に、一服しましょうという事です。下で点ててきますね」

 一時間の正座をものともせず、すっと立ち上がったヌバタマが階下に下りる。

 確かに、台所でお湯を沸かして作るのであれば、稽古でもなんでもない。

 合点がいった千尋は、炭火で熱くなっている釜から離れ、毛氈(もうせん)に胡坐をかいて待つ。

 暇潰しに天井の板の節目を心中でなぞっていると、ヌバタマは茶碗を手にしてすぐに帰ってきた。

 

「はい、どうぞ」

「サンキュー」

 軽く礼を述べて茶碗を口につける。

 殆ど粘り気のない、さらりとした薄茶が喉へと流れてきた。

 後から感じられる淡い苦みも、実に心地良い。

 一般的に苦いと認識されている濃茶とは異なる、薄茶独特の清涼感と少々の苦みは、稽古の緊張を適度に解してくれた。

 日常的に飲むような事こそなかったが、美味であるとさえ千尋は思っていた。

 

 

「ふう。ごちそうさん」

「いえいえ。お粗末様です」

 ヌバタマはなおも笑っている。

 考えてみれば、今日は稽古の最中も笑っている事が多かった。

 別段、笑顔が珍しいわけではなかったが、どうにも目について仕方がない。

 

 

「……なんだよ。さっきからニコニコしちゃって。何か良い事でもあったのか?」

「ええ、千尋さん絡みで」

「俺? 俺、何かしたっけか?」

「はい。この所、千尋さんが随分とお稽古に熱心なようで、嬉しいのです。

 基礎の基礎ですが、お薄茶点前だって、もう完全に覚えてしまわれましたし」

「……一ヶ月程稽古すりゃ、誰だって覚えるさ」

「そうかもしれませんが、千尋さんが前向きに取り組まれるようになったのが、大事なのですよ。

 何か、心に期す事でもあったのですか?」

 

 あった。

 岡本を励ましたくて、更には客を笑顔にする魅力を知りたくて、茶道に取り組んでいる。

 だが、それをそのままヌバタマに話してしまうのは憚られる。

 別にヌバタマを気遣っているわけでもなんでもなく、単に自身が気恥ずかしいだけではあるのだが。

 

 

 

 

「……特には」

 結局、ぶっきらぼうな言葉を投げかける事しかできない。

「あら。それでは気紛れですか?」

「どうだろうな」

「どうだろうって……夜咄堂の主人ともあろう方が、いつまで経ってもそれではいけませんよ」

 ヌバタマの表情に困惑の色が見え始めた。

「別に構わないだろ。興味が湧かないんだよ」

「興味が湧かない? こんなにも楽しさに満ち溢れているというのに!」

 なんとも大袈裟な語り。

 だが、彼女は本心から驚いているようであった。

 その証拠に、すぐに居住まいを正したヌバタマは、正座したままでぐいと千尋に近づき、睨みつけるように顔を凝視してくる。

 間に畳の縁を挟んだだけの超至近距離に、思わず千尋は上半身を逸らしてしまう。

 しかし、ヌバタマがその分顔を寄せてくるので、二人の距離は離れない。

 間近で見るヌバタマの白い肌と、吸い込まれるような黒髪、そして赤く小さな唇。

 三色が作り出した美しい少女に、反射的に手を添えてしまいそうになった。

 

 

 

「な……なんでしょうかね、ヌバタマさん?」

 動揺を隠そうとするあまり、言葉遣いが畏まる。

「なんですか、ではありません。良いですか?

 茶道とは単にお抹茶とお茶菓子を味わうものではないのです」

「お、おう」

「茶の道の名の如く、禅の世界にも通じる精神性を、茶を通じて歩める、尊い行いなのです。

 いえ、もちろんそれだけではありませんよ?

 茶道具の良さに感じ入ったり、亭主が客を気遣ったり、

 日の本の美しさが凝縮された世界に心を浸したり……

 他にもまだまだ、茶道の良い所は山ほどありますよ。

 だというのに、興味が湧かないとはどういう事ですか!」

「わ、分かった。分かったら、少し離れよう。な?」

「……あえっ?」

 間の抜けた返事。

 言いたい事を一通り口にして落ち着いたのか、互いの吐息が感じられる程に顔を近づけていたと気が付いたヌバタマは、

 頬を一瞬で真っ赤に染め上げ、弾き出されるようにして後方へと下がると、露骨に視線を外してきた。

 

 

「あ……! も、申し訳ありません!! つい……」

「ああ、いや、うん。気にしないで。言いたい事は分かったから」

 

 千尋とて、恥ずかしさに変わりはない。

 だが、自分まで慌てふためくわけにはと、見た目には冷静を装って頷いてみせる。

 

 ――しかし。

 

 

 

 

(……いや。分かっちゃいない)

 

 ふと、自身の言葉を振り返る。

 ヌバタマの言う通りなのだ。

 茶道の良さは知りたいのだが、まだ理解には至らない。

 理屈では、ヌバタマが言うような良さがあるとは認識できる。

 だが、千尋自身はそれを良いと感じた経験はないのだ。

 

 無意識のうちに、家族の死が邪魔をしているのだろうか。

 確かに茶道は父をはじめとした家族を奪っている。

 その事実が、茶道の良さに抵抗を与えている可能性も否定はできない。

 

 もしくは、単に実感する経験が少ないからかもしれない。

 この先何度も茶を点て、客の笑顔を見れば、良さが分かるのかもしれない。

 幾多の良器を目にし手にする事で、茶道具の良さが分かるのかもしれない。

 

 或いは、道具が重要なのかも、と思う。

 元々そのような印象を持ってはいたのだが、いざ仕事にすると、茶道具には高価な物が多い事に気が付く。

 茶道の良さが、物の価値に感じ入る事だとすれば、茶道が一般的に馴染みが薄い観点としても合点がいく。

 

 結論は……どうにも、この場では出そうにはない。

 それに、まず答えを出すべきは、未だに顔を背けているヌバタマへの対応だ。

 この気まずい空気をどうやって元に戻したものか。

 ある意味では茶道の良さよりも頭を悩ませる問題であったが、有難い事に、程なくして答えは階下からやってきた。

 

 

 

 

 

「お~い」

 間延びした男性の声。

 二人が茶室の入口に視線と移すと、声の主のオリベは、軽快な足取りで茶室へと入ってきた。

 オリベには階下を任せていたはずなのに、どういうつもりなのだろう、と考えた所で、

 つまりは、その階下絡みで上がってきたのだろうか、と千尋は思い至る。

 案の定、千尋の姿を認めたオリベは、手首を軽く振って手招きをした。

 

 

「千尋や。お客さんがお前と話したいそうだ。

 稽古が終ったのなら、手伝ってくれんかね。

 この間の、眼鏡の女の子だよ」


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