尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第五話『七月三重殺 その三』

 防波堤に座って揺らめく水月を見ているうちに、岡本の酔いは醒めてしまった。

 何気なく振りかえれば、商店街のネオンはいつの間にか数が減っている。

 歓楽の夜も、もう間もなく静寂の夜へと移り変わる。

 夜の帳が降り切らないうちに帰ろうという話になり、駅まで歩く岡本に千尋は同行した。

 ……その最中の出来事だった。

 

「……あれ?」

 異変に気が付いたのは、千尋だった。

 シゲ婆さんの店の窓が開け放たれ、そこから明かりが漏れている。

 ポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認すれば、午後十時を軽く過ぎている。

 千尋の記憶が確かなら、シゲ婆さんの店はもう閉店する時間だった。

 

「シゲ婆さんの店、まだやってる……」

「掃除でもしてるんじゃないの?」

「ですか、ね」

 二人で首を傾げあいながら、店の前まで歩いた。

 物音を立てないよう、ゆっくりと顔を持ち上げて中を覗く。

 店内ではカウンター付近の照明だけが灯っていた。

 そのか細い光の中で、人影が忙しなく麺生地を捏ねている。

 忘れるはずもない、数時間前に見た顔だ。

 人影は浩之だった。

 

 

 

「なんだ。浩之君か」

「閉店後の修行、って所かな」

「そうでしょうね」

 岡本に同意しながら、更に窓際に歩み寄る。

 せっかくだから、一言くらいは激励の言葉でも掛けていこうと思う。

 

 片手を掲げ、気軽に声を――

 

 

 

「やあ、浩……」

 

 ――掛けられない。

 口が、手が、体が固まってしまう。

 千尋に身動きを許さなかったのは、他ならぬ浩之の姿であった。

 

 

 

 

「………」

 隣の岡本も、浩之に目を奪われてしまう。

 二人の視線の先にいる浩之の顔つきは、ラーメンをひっくり返した時の頼りない表情とは似ても似つかない。

 目を見開き、汗を迸らせ、地面をしかと踏みしめる。

 鬼気迫る表情を浮かべ、血涙振り絞らんばかりの勢いで、幾度も幾度も生地を押し潰す。

 今の彼に似た姿を、千尋は他所で何度か見た事がある。

 

 仁王。

 

 その様は、まさしく寺院の守護神たる金剛力士だ。

 大地を踏みしめ、害をなさんとする者を睨み付ける。

 小柄の中学生の浩之とはかけ離れた体格の大男だ。

 

 だが、浩之の風格はまさしく仁王そのもの。

 千尋は、胸を震わせながら、なおも浩之に視線を奪われる。

 彼から目を逸らす事ができない。

 寺院を守る仁王の如く、いつかこの店を継ぎ守る為、彼は戦っているのだ。

 

 ふと、シゲ婆さんの言葉を思い出す。

 ちゃんとやれるようになる……あの信頼の一言は、浩之の姿勢を知っていたからだろうか。

 例え、今は半人前でも、失敗をしようとも、一心不乱に目標へと向かい続ける姿を知っていたからだろうか。

 無論、本心はシゲ婆さんに聞かねば分からない。

 だが、千尋にはそう思えて仕方がないのだ。

 それはきっと、浩之の姿が自身の琴線に触れているからだろう。

 自分より三つほど年下の中学生の姿に、千尋は一人の人間として、強く惹かれていた。

 

 

 

 

 

「……千尋」

 沈黙を破ったのは、岡本だった。

 

「帰ろう。早く」

「……岡本さん?」

 彼女の短い言葉に反応して、顔を覗き込む。

 夜闇の中で、彼女の両の眼は爛々と輝いていた。

 

 

「今日は付き合ってくれてありがとな。

 ……やるべき事が、やっと分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数日が経った。

 大学への通学を再開した千尋の生活は、にわかに忙しくなった。

 日中は大学に通い、帰宅してからは夜咄堂(よばなしどう)で働く日々。

 入学直後に忌引きで学校を休み、スタートラインがぽっかりと欠けている千尋には理解できない講義が多く、必然的に相当な自習が必要となった。

 帰宅後も、仕事の他にも、家事全般や習慣となっている墓掃除、更には茶道の稽古もちょくちょく組んでもらっている。

 こうなってしまうと、他の用事はなかなかに入れ難いものがあるのだが、

 千尋は、そこへ更にもう一つ、日々の予定を捻じ込んでいた。

 

 

 

 

「……っぷふぅー、っと!」

 岡本が、素潜りから上がってきたかのように息を吹き出す。

 どうやら、轆轤(ろくろ)を回して取り組んでいた成形が終わったらしい。

 部室の隅で陶芸入門書を読んでいた千尋が近づくと、岡本はにんまりと笑って、取り上げたばかりの素地を掲げてみせた。

 土を練り、素地として成形し、釉薬を塗り、そして焼く。

 いずれの工程も重要ではあったが、器の形に直接影響する成形は、岡本が自身の課題として取り組んでいるものだった。

 

「へへっ。どうよ?」

「ううん……何分、勉強不足なもので、素地の良し悪しまでは……」

「ふむ。まあ、それもそうか」

 岡本の手の中にある素地は、茶碗のように見受けられた。

 彼女に話した通り、素地の良し悪しが分からない千尋には、それが如何ほどのものなのか、とんと分からない。

 だが、分からずとも推測する事ならできる。

 満ち足りた笑顔を浮かべている岡本を見る限り、これは良い出来なのだろう。

 岡本は、ふふん、と鼻を鳴らして素地の底を覗き込んだ。

 

 

「まあ、悪くはないんだな……高台、つまりは底だな。

 底と胴のバランスが綺麗に取れたし、胴だけ見ても均等だ。

 後は乾燥させて、素焼きして、釉薬(ゆうやく)ぶっかけて、焼くだけ。

 最終的な出来は焼いてみにゃ何とも言えんが、多分、ごくごく普通の無難な茶碗が焼き上がるよ」

「普通、ですか? その割には満足しているように見えますけれど」

「ああ、満足も満足。大満足だよ」

 岡本はそう言うと、素地を板の上に置いて、空いた手でジャージのポケットを弄った。

 だが、目当ての品の煙草は、ジャージではなく私服のポケットの方に入っている。

 手応えのなさから、すぐに煙草がないと気が付いた岡本だったが、それでも彼女は満足げな表情を崩さず、頬杖を付いて千尋を見上げた。

 

 

 

「あたしさ。スランプって言ったじゃない」

「ええ。そう聞いていましたが」

「あれ、違うんだ。スランプなんかじゃなかった。

 ……単に、あたしの技量不足なだけだったんだよ」

 岡本の声が早口になる。

 真剣な話の時は早口になるのが、彼女の癖のようだった。

 となれば、ふらふらと聞くわけにもいかない。

「ふむ……」

 先の発言を促すようにそう言って、千尋も傍の椅子に腰掛ける。

 

 

「あくまでもあたしの推測なんだけれどさ。多分、技量は今も昔も大差ない。

 大学に入ってスランプだと思うようになったのは、多少は見る目って奴が備わってきたからかもしれないね」

「それじゃあ、この茶碗の出来も、今までと大差ないって事ですか?」

「そうだよ。……でも、それで良いんだ」

 岡本は深く頷いた。

 千尋の方を向いていたが、千尋というよりは、その奥にある何かを見通すような視線だった。

 

 

「両親のようになりたいとか、立派な器を作りたいとか言える技量じゃないんだもん。

 今は、ただ日々研鑽して、自分に造れる物を作り続けるだけ。

 そうだと気がついたら、なんだか気が楽になったよ」

「……成程」

 合点がいった千尋は、先日の夜を思い出す。

 閉店後もただただ訓練に明け暮れる、浩之の凄まじい姿を思い出す。

 岡本が現在の心境に至ったのには、浩之の影響が大きいのだろう。

 なにせ、まだまだ修行中の身なのだ。

 結果を気にする事なく、ただただ研鑽を積めば良いし、そうするべき時期なのだ。

 浩之も。

 岡本も。

 そして、自分もそうだ。

 至らない所は山ほどあれど、ただ、一つの茶に前向きに取り組み続けるべきなのだ。

 

 

 

 

 

「……俺、店がありますから、そろそろ帰ります」

「おお。付き合わせて悪かったな」

「一応、部員ですからね」

 そう言って、はにかみながら立ち上がる。

 岡本に手を振って分かれ、部室から出た千尋は、降り注ぐ初夏の日差しに思わず目を瞑ってしまった。

 殺人的なまでにぎらつく日差しは、空を見上げるのも困難なくらいに眩い。

 これからの猛暑を予感させる、太陽の輝き。

 だが……今は、この眩さが心地良かった。

 

 

「……さて。帰ったら稽古か」

 力強く前を見据え、大股でキャンパスを闊歩する。

 千尋の心中は、火が掛かった釜の如く、七月の日差しによって徐々に沸騰していった。


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