尾道の商店街に並ぶ店々は、衣料品や日用品の個人経営店が多い。
それらの店は仕事と生活が密着している為に、陽が落ちれば早々とシャッターを降ろす所も多く、
初夏の月明かりが港町を照らす頃には、商店街はじわじわとその形姿を変えていた。
夜に姿を変えるのは、店舗だけではない。
雑踏と共に町を歩く人々の顔ぶれは、地元の者よりも観光客が多かった。
夜の商店街を歩く人々は、昼の人々と比較すると、意気揚々と町を
皆、観光地の夜に気分が高揚しているのだ。
気温は徐々に高まっていて、夜とはいえ、静かな熱気が身体に纏わりつくのだが、
その熱気もまた、彼らの気持ちを昂ぶらせているのだ。
観光地とはいえ、田舎町でもある尾道では、人々の夜の行き先は決まっていた。
居酒屋、もしくは食事処。この二つに絞られる。
その中でも、特に多くの人が向かっているのが、食事処……それもラーメン屋である。
醤油と瀬戸内の魚のダシで作ったスープに、背油が大量に浮かんだ尾道ラーメンこそが、この町最大の名物だからだ。
店によっては、店外に長蛇の列を成す事もあるのだが、決して名ばかりの名物ではない。
さらりとした舌触りながら、濃厚な味を口内に広げてくれる尾道ラーメンは、
地元の者もしばしば好んで食べており、千尋や岡本も例外ではなかった。
「……で、なんで私達も誘われたんでしょうか?」
商店街の端に位置する、カウンター席オンリーの狭いラーメン屋『しげ』。
その店の暖簾を始めて潜ったヌバタマは、割り箸を手に取りながら、感じていた疑問を口にした。
彼女の表情には戸惑いの色が浮かんでいるが、仕方がないかもしれない。
なにせ、ヌバタマと一緒に外食をしに出かけるのは、これが初めてなのだ。
付喪神は、食事を摂ろうが摂るまいが活動できる。
ただ、味覚は存在しており、食事の喜びを感じる事はできるので、日々の三食は千尋と共に摂っていた。
誰かと一緒に食べる方が、千尋としても楽しいのだ。
ただし、それはあくまでも家庭内での話だ。
これまで付喪神達と外食をした事がなかったのは、難問を解決できなかったからに過ぎない。
それ即ち、金銭事情。
頭の痛い問題は、いつでも千尋について回るのであった。
「俺だけ良い物食ってちゃ、気が引けて旨く感じられないんだよ」
手をひらひらと躍らせながら、離れた席のヌバタマに返事をする。
彼女との間には、オリベと岡本が座っていた。
「でも、お邪魔しちゃって申し訳ない気もしますが……」
「良いって良いって。岡本さんも、賑やかな方が良いって言ってくれてるし」
「もぐもぐっ……そうだぞヌバタマ。食べないというのなら……もぐ……お前の分は私が貰うが? ぷはあっ!」
間に座るオリベが、先に出てきたチャーシュー麺大盛り、餃子、生ビールを胃に叩き込みながら言う。
あまりにも激しい大喰らいっぷりに、千尋とヌバタマはただ唖然とするばかりだったが、
同じく生ビールを煽っていた岡本は、楽しそうにオリベの背中を平手で叩いた。
「はっはっはっ! オリベのおっちゃんは面白いなあ!」
「ヒャッヒャッヒャッ! そうだろう、そう……んぐっ!? ゲホ、ゲホッ!! く、苦しい、叩かな……」
「はっはっはっはっはっ!!」
「んぐ、んぐぐぐぐーっ!!」
「はははははっ!」
「おっちゃんと姉ちゃん面白いなあ!」
二人の掛け合いに、居合わせた他の客が笑い声をあげた。
十人も入りきらない狭さの店なだけに、その笑い声は壁に響いてこだまする。
気が付けば、他の客のみならず、千尋やヌバタマも笑っていた。
暖かな、実に暖かな空気であった。
「お待たせしました。尾道ラーメンです」
そこへ、店員がラーメンを持ってくる。
中学生くらいの顔付きの、大人しそうな少年だった。
「はは……あ、そこに置いといてくれるかな」
「はい……のわあっ!??」
店員の声がひっくり返った。
ひっくり返ったのは店員の声だけではなく、ラーメンの器であり、そして……
「わわっ!??」
慌てて身体を捻ったのが功を奏し、正面からのラーメンの直撃というみっともない姿は免れた。
だが、千尋を守るようにしてラーメンに向かい合った上着の裾が、ぐっしょりと濡れてしまう。
上着の下に着ていたTシャツ越しに、熱気と湿気がじわりと漂ってきた。
「も、もも、申し訳ありません!!」
「ああ、良いよ。ええことよ。おしぼりだけ、もう一つ貰えるかな」
猛烈な勢いで謝る店員の言葉を制し、苦笑しながら人差し指を立てる。
店員は言葉を失ってしまったようだが、今一度なよなよと頭を下げ、店の奥へとおしぼりを取りに行ってくれた。
これ位の幸薄には慣れているし、『しげ』の店員に必要以上に気を遣わせたくはなかった。
この店は、千尋と全く無関係ではない。
接点は、カウンターの奥にいる店主だった。
「千尋ちゃん、ごめんよ。本当に大丈夫かい?」
「気にしないでよ、シゲ婆さん。洗濯すれば良いだけだし」
「でもねえ」
「じゃあ、また今度夜咄堂に来て、お茶を飲んでくれるかな。そのお返しが一番嬉しいよ」
「……千尋ちゃんは、ほんに良い子ねえ」
カウンターの奥で調理に勤しんでいた店主、シゲ婆さんは、顔の皺をくしゃりと歪めて微笑んだ。
「さっきの店員さん、随分幼いですね。お孫さんですか?」
オリベを叩くのに飽きた岡本が、シゲ婆さんに尋ねる。
「そうだよお。浩之と言ってね。まだ中学三年生なのよ」
「じゃあ、お店の手伝いなんだ。偉いなあ」
「手伝いというよりは、修行かねえ」
シゲ婆さんが、微かに目を細める。
「まだ先の話だけれどね。高校を卒業したら、お店を継ぎたいと言ってくれているのよ。
だから、今のうちにお店に慣れさせようとしているんだけれど……」
「まだまだこれから、と?」
「そういう事。おっちょこちょいでねえ」
「……へえ」
そう呟いたのは千尋だった。
シゲ婆さんとの間に広がっているラーメンの湯気を眺めながら、感慨深そうに頷く。
ほんの少しだけ、浩之という少年に興味が湧いた。
千尋の場合は、成り行きで夜咄堂を継いでいるので、動機や意気込みは全く異なる。
しかし、若くして店を預かるかもしれないという立場には、少なからず親近感を感じる事が出来た。
浩之少年も、奮闘している。
同じ未成年ながら、店を預かろうとしている。
ラーメンの湯気の中に、浩之少年が映ったような錯覚を覚える。
だが、その浩之少年はすぐに、茶筅を振る自分へと姿を変えていった。
(い、いや……何を考えているんだ、俺は。店の経営だけならともかく、茶道まで頑張らなくても……)
慌てて、ぶんぶんと顔を横に振る。
一体何事なのかと横目で見やるヌバタマらの視線が、少しだけ痛かった。
「だけどねえ。心配はしとらんのよ」
シゲ婆さんが、新しく麺を茹でながらしみじみとそう言う。
続けられた言葉に、千尋はまた視線をシゲ婆さんへと移した。
実に穏やかな……初めて千尋が点てた抹茶を飲んだ時のような、優しげな顔が、そこにはあった。
「祖母馬鹿かもしれんけれどね。
あの子は……ちゃんとやれるようになるよ」
◇
岡本との食事は、ラーメン屋の一軒で終了した。
調子に乗ったオリベが、居酒屋への梯子を提案したのだが、一行の中には未成年及び外見未成年が若干名いる。
提案をあえなく却下され、なおも駄々をこねようとするオリベは、ヌバタマに引きずられて
一方の岡本は、飲酒量が多少嵩んだ為に、海沿いで風に当たって酔いを醒ますと言い出した。
その話を聞いて、岡本を一人にする程、千尋も薄情ではない。
構わないで良いから、と苦笑して断る岡本に強引に付き添い、二人は酔っ払いが路上に正座する夜の商店街を歩いて、波止場に向かった。
「いやあ、それにしてもオリベさん、随分食ってたなあ」
歩き出してすぐに、岡本が口を開く。
「ラーメン替え玉三杯に、ビールも三杯だっけ?
締めにおにぎりまで頼んで、人間の胃袋じゃないみたいだなあ」
「いやはや……全くです」
歯を見せながら苦笑いをする。
付喪神の胃袋です、とは言えなかった。
「……で、どうでした? 気分転換とやらは出来ました?」
「ん? ……うん、一応は出来たよ」
岡本の返事は暗い。
彼女の眉は微かに顰められていた。
「出来たけど……良い作品が作れる気はしないな」
「そう簡単にはいかないものですね」
「結局、飯に付き合ってもらったばかりで悪かったな。……あ、煙草良いか?」
「またですか。どうぞ」
「飯の後には欠かせないんだよ」
手の甲を前面にしたVサインを作って笑いながら、V字の上に煙草を添えて火を付ける。
千尋と岡本、二人しか歩いていない夜の商店街に、煙草の火の明かりが灯った。
岡本の体が歩行運動で揺れるたびに、蛍のような明かりもまた上下運動を繰り返す。
「千尋。お前、良い奴だよな」
「……突然何を言い出すんですか」
全くもって不意打ちの一言だった。
一瞬口籠ってしまい、生じた間の後に絞り出した声は、どこか早口になってしまう。
「いやさ。殆ど面識のない先輩の飯に、文句も言わずに付き合ってくれてるじゃん」
「文句を言えば、付き合わずに済んだんですか?」
「いや、言おうと言うまいと付き合わせた」
横暴なのである。
「……でも、なんで俺なんです? 昨日の友達もいるじゃないですか」
「恵の事だね。確かに恵は友達だけれど……今回は、お前が陶芸サークル部員だから、付き合ってもらったんだよ」
岡本が煙草を一気に吸い上げ、短い煙草は瞬く間に燃えカスと化した。
それを上手に携帯灰皿で救い上げた彼女は、真っ直ぐに前を向きながら言葉を続ける。
「あたしさ。子供の頃から陶芸やってたのよ。
両親がどちらも陶芸家でさ。ああ、別に跡を継ぐ為強要されてたんじゃないぞ。
そこは自分からだな。働く両親の姿に憧れて、自分から
「サラブレッド、って奴ですね」
「……どうだろうだな。
ただ、両親が作る器は間違いなく凄かったよ。陶芸で飯も食えていたのが、本物の証さ。
あたしだって、先々はそうありたいと思っている。それで、かれこれ十年は陶芸尽くしの日ってわけ。
……友達と擦れ違い続ける十年でもあったけどね」
千尋の心臓が、小さく、だが強く鼓動した。
危うく漏れる所だった吐息を口の中で押し殺し、首を横に向ける。
隣を歩いている小柄な先輩が、更に小さく見えたような気がした。
夜の商店街には、二人の靴が地面を叩く音だけが鳴り響いていた。
「とんでもなくマイナーな世界だからね。陶芸をやる友達なんか一人もいなかった。
恵みたいな普通の友達はいっぱいいたよ。決して友達自体がいないわけじゃない。
でも、同好の士はなし! 中学、高校、大学に入ってもなし!」
「大学も……ですか。俺が入部する前も、陶芸サークルでは一人だったんですか?」
「そうだよ。……だから、陶芸で繋がった友人は、千尋が初めてなんだよ」
岡本の声がにわかに高くなった。
それだけで彼女の機嫌の良さが窺い知れる。
対照的に千尋は、気まずさのあまり視線を落としてしまった。
喜んでくれている所に申し訳ないのだが、自分は幽霊部員なのだ。
陶芸に全く興味がない、ただの頭数なのだ。
「あの……」
「分かってるよ。興味がない幽霊部員だってんだろ?」
岡本は、そう言いながら前へと駆け出した。
いつの間にか二人は商店街を抜けていて、彼女の前には防波堤が広がっていた。
夏の海の潮風を感じられる位置まで駆けた彼女は、くるりと踵を返す。
「それでも、良かったんだ」
海を背景に、岡本は笑った。
潮風に吹かれて消えてしまいそうな、寂しい笑みだった。
「……岡本さん」
千尋は岡本を見据えた。
彼女の寂しげな姿には、見覚えがある。
記憶残っている、一番古い光景。
そして、自分の行動原理となった光景。
岡本の姿が、母の葬儀の日に見た父の姿と、ダブって見えた。
力になりたい。
その場だけの言葉ではなく、行動で彼女を激励したい。
感情がふつふつと沸き立つのが、自覚できた。
サークル活動に参加するようになれば、おそらくは喜んで貰えるだろう。
だが『同志』にはなれない。
それだけでは、本気で何かに打ち込む者として、彼女の熱意を理解してあげられない。
(俺が打ち込める事……)
千尋は僅かに顔を伏せる。
一つだけ、思い辺りがあったのだが、それで良いのかと自分を制止した。
茶道。
シゲ婆さんらを笑わせ、一見しただけでは分からない秘めたる魅力を持つ文化。
夜咄堂での日々の中で、茶道に対する興味は、日に日に膨らんでいた。
そしてそれは、千尋の家族を全て奪った文化でもある。
好悪入り混じった複雑な感情は、未だに解き解す事が出来ない。
だが。
だが、と千尋は思った。
何かに打ち込む事で、彼女を元気付ける事ができるかもしれないのだ。
誰かが笑ってくれるのなら、本懐だ。
そう誓ったのだ。
宜しい。
構わない。
取り組んでみようはないか。
――茶道、やってやろうではないか。
「……その。俺、上手く言えないんですけれど」
真っ直ぐに、力の篭った瞳で岡本を見つめる。
彼女もまた、千尋の瞳を見返してくれた。
「頑張りましょう。お互いに」
「お互い?」
「お互いです」
一度、言葉を切る。
「陶芸サークル、俺、ちゃんと行きます。
でも、岡本さんの熱意までは理解してあげられないかもしれない」
「千尋……」
「できる事なら、熱意まで理解したいんです。
道は違っても、何かに打ち込んでいる者同士でありたいんです。
岡本さんはもちろん陶芸。そして俺は……茶道かな、と」
いざ最後の一言を口にすると、胸が痛んだ。
これから自分は、家族を奪った茶道に打ち込むのだ。
だがそれは、決して岡本を理解する為だけではない。
茶道の魅力への興味は、確実に沸き上がっているのだ。
「昨日、オリベさんが言いましたっけか? 俺の店、茶室でお抹茶を点てているんですよ。
とはいえ、前準備もなく父の店を継いでいるものでして、もう苦労の連続です」
「………」
「でも……茶道って、面白いみたいなんですよ。
どこがどう、とは上手く言えないんですけれども……」
「ん」
「そんなわけで、俺、夜咄堂と茶道を極めます。
だから、いつか……」
「いつか?」
「……いつか、先輩が自信を持てる器を焼いたら、それをお店で扱わせて下さい」
「……千尋」
岡本が、顔を伏せる。
五秒か、十秒か。
まだ長く伏せていたかもしれない。
だが、自身の長い髪をかき上げるようにして、彼女は前触れなく顔を上げた。
不意に現れた岡本は、夜闇を照らすような笑顔を浮かべていた。
「ちーちゃんは、諦めるぞ」
突然、わけの分からない事を言われる。
「え?」
「お前にちーちゃんと呼ばせるのは諦める!
その代わり、いつか先生と呼ばせるからな!
陶芸の岡本大先生だ! 覚悟しておけよ!」
ぐっと親指を突き立てられる。
何とも賑やかな先輩ができたものだ。
だが、悪い気はしない。
「……はい!」
千尋は負けじと、親指を突き立て返すのであった。