「……店の方向性の事だな」
「はい。どうしても、元に戻すつもりはないのですか?」
やはり、日中と同じ事を言われる。
しかし、彼女の瞳は、日中のそれとは少しばかり違っていた。
日中に懇願された時のような、同情心を煽られるようなものではなく、
もしかすると、彼女の中では既に諦めがついているのかもしれない。
ならば千尋としても、これ以上お茶を濁すわけにはいかなかった。
腰を据えてヌバタマに向かい合う決心をして、千尋はゆっくりと返事をする。
「……そうだな。代案があれば考えるが、生活を考えればこのままいくしかないな」
「そう、ですよね」
「落ち付いて抹茶を点てられないのが、そんなに嫌か?」
「そうなのですが……私が点てられないだけなら、我慢できます」
ヌバタマがふるふると首を振る。
「何よりも、宗一郎様のご意思を継げないのが、哀しいのです」
「……父さんの、意思?」
その名を聞くだけで、身が引き締まった気がした。
じっとヌバタマを見つめながら、言葉の続きを催促する。
「宗一郎様の代では、常連のお客様も確かにいましたが、やはりお店が繁盛しているとは言い難い状態でした。
それもそうでしょう。
お出しできる物も、ありきたりなものばかり。
強いて他のお店と違う点を挙げれば、茶室が備わっているというくらいのものですから」
「………」
「それでも、宗一郎様は店の方針を改めようとはなさいませんでした。
そのお抹茶と和菓子だけではなく、茶の湯の良さ自体を、皆様に感じて貰いたかったからです」
「………」
引き込まれるように、ヌバタマの話を黙って聞く。
父は、家庭に仕事の話を持ち込まなかった。
仕事と息子。両立させようとしていた父の、せめてもの気遣いだったのだろう。
それだけに、父がどの様な思いで仕事に取り組んでいたのか、千尋は殆ど知らない。
先日、シゲ婆さんに茶室で話して貰った時もそうだったが、ヌバタマの言葉にもまた、初めて知る父の一面があった。
「何故、それ程までにお茶を大切にして下さるのか、伺った事があります。
私達は茶道具。茶道を愛するのは当然の事ですが、宗一郎様はそうではないのですから。
……そう。あの時の宗一郎様は、優しい瞳でこう仰いました」
「……ん」
「誰かが、自分の茶で笑顔になってくれる。
ただただ、それが嬉しいのだよ……と」
「………」
「私は、そのお気持ちを継ぎたいのです……」
ヌバタマが、一度言葉を切る。
顔を伏せながら、それでもしっかりと千尋の耳に届く声で、その先は告げられた。
「……それが、
つまりは。
それが、ヌバタマらが
付喪神の遺伝子に、それほどまでに強く、至高の一服を振舞いたいという気持ちがあるのだろう。
或いは、持ち主の気持ちに応えたいという気持ちかもしれない。
いずれにしても、理屈ではなく、本能が、夜咄堂で働く事を求めているのではないか、と千尋は思う。
茶道を好まない千尋には、手放しには理解できない感覚だ。
茶道は、千尋の全てを奪ったのだから、無理もない。
しかしながら千尋は、やはり茶道が縁で新しい生活を迎えてもいる。
理解はできないが……
それに自分はともかく、ヌバタマらにとっては大切な事なのだ。
なのであれば……。
「……父さんの方針、か。
父さん、そんなにお茶やお客様を大切に思っていたんだな」
しみじみと呟く。
「もちろん、それはそうでしょう。
ただ、お金の事はどうでも良い、というわけでもないようでした。
……私どもがお給料を頂いていなかったのにも、理由があるのですよ」
「生活が苦しいからだろ?」
「少し、異なります。千尋様の為です」
「俺の?」
帰ってきた予想外の答えに、思わず早口になる。
「ええ。……宗一郎様は、私が働くようになってから間もなく、一度私に頭を下げられたのですよ。
お前達の茶は大事に守っていく。その代わり、給料を出す余裕はない。
その分は、息子の為に割り当てたい……と」
ヌバタマが、高い声でそう言う。
父の宗一郎とは全く異なる、女性特有の声だ。
発せられた父の言葉とて、真似たわけではないのだろうが、威厳ある父の口調とは似ても似つかない。
だというのに、彼女の声が父の声に感じられて、仕方がなかった。
不意に、胸に熱いものがこみ上げて、ヌバタマに背を向けながら目を瞑る。
「父さん……」
小さく、最後の肉親の名を呼んだ。
父は、かくも自分の事を想ってくれていたのだ。
保護者であれば当然であるとは、千尋も理解している。
しかし、当然の、ありきたりの想いだろうと、千尋にはそれが嬉しくてたまらない。
そして、その父はもうこの世にいないのだと思うと、それが悲しくてたまらない。
張り裂けそうな想いを感じながらも、堪えなくてはならない、と思う。
墓に布団は掛けられない。
それでも志になら掛けられる。
今は、嘆いている時ではないのだ。
◇
「……で、今日から野良犬達は不要ってわけか?」
「そういう事になった。野良犬達にはお前から宜しく伝えておいてくれ」
「うへえ。面倒臭いなあ……まあ、良いけど……もぐっ」
翌日。
野良犬達を管理する為、夜咄堂を意気揚々と訪れたロビンを待っていたのは、犬カフェ終了のお知らせだった。
投げやりに振られる尾は、彼の煩わしい心情を表しているのだろう。
だが、ロビンは嫌とまでは言わない。
昨日、彼にせがまれた通りに、二千五百円の高級肉をご褒美として与えていたのが、功を奏したようだった。
「そんな良い肉、俺だって食えないんだからな。少しは味わえよ」
「もぐぐぐぐっ? くちゃ、もぐもぐもぐ」
「食ってから喋れ」
ロビンの頭をぽんぽんと叩いてから、立ち上がる。
ふと、少し離れた所で、ヌバタマがにこにこしながらその光景を眺めているのに気が付いた。
ヌバタマの後方の客席には、昨日とはうってかわって、客は誰一人としていない。
表の看板に『犬カフェ終了しました』と書いただけで、夜咄堂はまた元の暇な茶房へと逆戻りしてしまった。
それでも、この少女は満足そうなのだ。
父も、同じように笑ってくれているだろうか。
感傷に浸りながら、千尋はヌバタマに向かって手を掲げた。
「なんだ。嬉しそうだな」
片目を細め、苦笑しつつ声を掛ける。
「はい。宗一郎様が欲された茶房に戻りましたので」
「随分と父さんを慕っているんだな」
「なんだ千尋。嫉妬か?」
「煩い」
茶々を入れてきたロビンを、先程よりも少し強めに叩く。
漫才コンビのような二人に、今度はヌバタマは控えめな声を立てながら笑った。
「ふふふっ。仲が宜しいようで」
「ヌバタマも止めてくれ。そんなんじゃない。
……しかし、なんだな」
「はい?」
ヌバタマが笑顔のままで首を傾げた。
そう。笑ってくれたのだ。
先日とは打って変わって、見る者を幸せにする笑顔が、そこにはあるのだ。
「誰かが、自分の茶で笑顔になってくれる。ただただ、それが嬉しい……か。
父さんの気持ち、少しは分かる気がするよ」
「ですが、今はお客様はいませんが……」
「客はいなくても、お前が笑顔だろう?」
「あ……」
ヌバタマが、はっと目を見開いた。
だが、その目はすぐに細められる。
彼女は、両手の前で手を組みながら口を開いた。
「……千尋さん。ありがとうございます」
「それより、お店の事、また考えなきゃな」
照れ隠しにそっぽを向きながら、そう呟く。
それはそれで重要な問題なので、ヌバタマも頷いて同意の意を示してくれた。
「ええ、そうですね。なかなか難しそうですが……」
「簡単に解決しちゃ、苦労はないからな」
犬カフェをやめたというだけで、集客問題については何も解決していない。
生活が懸かっているのだから、捨て置けない問題なのだ。
それを考えると、正直な所、気が滅入る千尋であったが……。
「どうしようもなくなったら、茶道具、何か売るからな」
「ええー……千尋さん、それはやめましょうよ」
「付喪神が宿っていない奴にするから安心しろ」
「宿ってなくても駄目ですよ。むうう」
ヌバタマが不機嫌そうに唸り声を漏らす。
とはいえ、一体どうしたものか。
千尋が思案に暮れようとした、その時だった。
「すみません……」
玄関から声が聞こえた。
顔を向けると、客と思わしき女性が中を覗きこんでいる。
どうにも、見覚えがある顔。
記憶を掘り起こしてみれば、すぐに思い出す事が出来た。
特徴的な丸眼鏡を掛けたその女性は、昨日接客した相手だった。
「あ、はい。いらっしゃいませ」
慌てて女性に駆け寄りながら、ヌバタマにロビンを手のひらを払うような仕草を見せる。
それだけで彼女は意を察してくれたようで、ロビンを台所へ追い回してくれた。
犬カフェ終了を告げているのにロビンがいては、どうにも都合が悪い。
「今日は随分空いているみたいですけれど、お休みですか?」
女性客が店内を覗き込みながら訪ねる。
「いえ、営業しております。ですが、犬カフェは……」
「あ、そっちは良いんです。もちろんワンちゃんはワンちゃんで可愛かったですけれど」
眼鏡の女性客はそう言うと、口に手をあてがいながら笑った。
「……でもそれ以上に、店員さんが親切に接してくれたのが嬉しくて」
「!!」
「だから、今日は純粋にお茶を頂くつもりで、友達と来ました」
一瞬、言葉を失った。
しかし、すぐに
本当の集客とは、そういう事なのかもしれない。
深い感謝の気持ちと共に、千尋は頭を下げた。
「ありがとうございます。今日はごゆっくりとお寛ぎ下さい」
「あ、その声!」
だが。
頭を下げきった所で、随分と甲高い声が聞こえてきた。
眼鏡の女性客の声でも、ヌバタマの声でもない。
当然ながら、ロビンでも、千尋の部屋で漫画を読んでいるオリベの声でもなかった。
一体誰の声なのかと思いながら、ゆっくりと頭を上げた千尋の正面には、やはり眼鏡の女性客がいる。
……そして、先程までは気が付かなかったが、彼女のすぐそばに、もう一人女性がいた。
「私の声が、何か……?」
視線の中心を、もう一人の女性客に向けながら尋ねる。
随分と身長が低い女性で、ぱっと見は中学生のようにも感じられた。
だが、視線を全身から顔へと移せば、十分に大人びた顔付きである事が分かる。
おそらくは、自分と同等か、やや年上といった所ではないのだろうか、と千尋は判断した。
腰の辺りまで伸ばした茶髪が目を引く、紛うことなき美人であった。
「やっぱり、千尋じゃないの。こんな所で何やってんだお前……?」
長髪の女性は、親しげに千尋の名を呼ぶ。
名まで呼ばれたのだから、おそらくは何らかの面識があるのだろう。
「はあ」
「……その返事、まさかアタシの事、忘れたんじゃないだろうな?」
女性がツカツカと詰め寄ってきた。
顎を思い切り上げて、千尋の顔を真下から見上げるようにして声を荒げる。
身長の割に、随分と威圧感のある人だった。
「岡本だよ! 大学の先輩の岡本知紗!」
「……あっ!」
千尋は、はっと目を見開いた。