「お姉さん、注文お願いしますー」
「こっちも注文お願いー」
「あぁん、プウちゃん可愛い!」
千尋の声でも、オリベの声でも、ヌバタマの声でもない。
他ならぬ、客の声である。
「本当にうまくいっちゃったよ……」
客席から聞こえてくる活気ある声に、千尋は未だに戸惑いつつも、溜まっている注文を台所で片づけていた。
一つ一つは大した調理ではないのだが、とにかく数が多い。
調理に専念して、接客をオリベとヌバタマに任せていなければ、到底捌ける状況ではなかった。
とはいえ、むしろ忙しいのは二人の方だろう。
なにせ、
「なっ、なっ。俺の言った通りだっただろー?」
台所に入り込んでいるロビンが偉そうにのたまう。
付喪神とはいえ、体の造りは犬。
甚だ不衛生な状態なのだが、仮に客が台所を覗いても、今なら苦情の類は寄せられないだろう、と千尋は思う。
「まさか、お前の言う犬カフェが、こんなに客を呼び込むとはな……」
「知り合いの野良犬で可愛い奴をフル動員したからな。これくらいは当然だぜ」
「トリミング代も馬鹿にならなかったけどな」
「俺へのご褒美も忘れるんじゃないぞ?」
「はいはい……」
次々と生じる出費に嘆息するが、あまり憂慮はしていない。
この調子なら、トリミング代は今日の売上だけで取り返せるだろう。
接客中の犬達は夜咄堂で飼っているのではなく、あくまでも野良犬なので、連日のシャンプーは欠かせないが、それでもまだお釣りは来る。
それ程に、ロビンの提案した夜咄堂犬カフェ化計画は成功していた。
店内に犬がいる事をあらかじめ説明した上で、一階に五匹程犬を解き放っただけで、客が殺到したのだ。
それも、多くは若い女性客。
今日も既に、全ての席が若い女性客によって埋められていた。
恐るべきは口コミ効果である。
「千尋さん、注文入りました。
サンドイッチ二つと、ホットコーヒー二つですー」
空いた食器を手にしたヌバタマが台所に入ってくる。
そこで、千尋の足元に転がっているロビンの姿を見つけた彼女は、眉を思いっきり顰めてみせた。
「おいおい、女の子がそんな怖い顔するなよ。一応見た目はJCなんだからもったいないぜ?」
「ふざけないで下さい! 普段お店を手伝わないばかりか、犬だらけにしておいて……」
「分かった。じゃあ今からでも手伝うよ。俺も接客してくれば良いかな」
「駄目です! ロビンさんに女性の接客をさせちゃ、何をするか分ったものじゃありません」
「俺のストライクはJCだけだから安心しろって」
「馬鹿犬!」
「でもごめんな。お前は『生後』十五年でも『生産後』は百十五年だからNGだ」
「駄犬!!」
散々にロビンを怒鳴り散らす。
それからヌバタマは表情を一変させて、それこそ犬のような懇願の目つきで千尋を見上げた。
「ねえ、千尋さん」
「ああ……まあ、言いたい事に予想はつくが、なんだ?」
「お店、やっぱり元に戻しましょうよ。
千尋さんの生活が大変なのは、私も理解しましたけれど……。
お給料だっていりませんし、映画も我慢しますから」
「むう……」
ヌバタマが泣きそうな声で訴える。
視線を合わせるのが辛くて、千尋は顔を背けながら唸る事しかできなかった。
ヌバタマの言いたい事は重々分かる。
茶を愛するヌバタマにとって本当に重要なのは、一服を所望する客なのだろう。
しかしながら、客が増えたとはいえ、二階で抹茶セットを注文する客は皆無なのである。
仮に増えたとしても、雰囲気が一変した一階の喧騒は、茶室にまで影響を及ぼすだろう。
その上、犬の世話なんて仕事が加わったのだから、憂鬱になってしまうのも無理はない。
しかし、この人気を捨て去り難いのも現実だ。
元の夜咄堂に戻れば、また常に金策の日々となる。
同程度の集客案さえあれば、戻すのもやぶさかではないのだが、容易に代案が見つかるのなら苦労はない。
結局、何も言えずに視線を逸らし続ける。
そこへ、客席から店員を呼ぶありがたい客の声が聞こえてきた。
「あ……呼んでるみたいだな。今度は俺が行ってくる」
「千尋さん! 話はまだ終わってません!」
「じ、じゃあな。ヌバタマは少し休んでなよ」
◇
逃げるようにして客席に向かうと、四人掛けの机に座っていた若い女性客が手を上げていた。
近くにはオリベもいたが、彼は別の客からの注文を受けている最中で、手が離せないようだった。
代わりに千尋が小走りで近づこうとするが、足元で眠っていた白雑種犬を蹴飛ばしかけて、歩調を狭める。
喫茶スペース内の雑種犬達は、眠るなり、客と遊ぶなり、自分の尻尾を追いかけるなりと、各々が自由に過ごしていた。
自由気ままな犬達に、まるでロビンが増えたような錯覚を覚えながら、ようやく客席へと辿り着いた。
「お待たせ致しました」
「注文決まりましたから、お願いできますか?」
女性客が丸いレンズの眼鏡を整えて、お品書きを見ながら優しげな声で言う。
「はい。お伺い致します」
「ええと……ダージリンティーと、ショートケーキ。あと、ワンちゃん用おやつジャーキー」
「ありがとうございます。すぐにご用意致します」
「あと、写真もお願いできますか?」
そう言って、恥ずかしそうにスマートフォンを差し出す女性客の膝上には、チワワ犬がいた。
ロビンの知犬の中でも珍しい犬種で、夜咄堂でも現在一番人気の犬である。
聞く所によれば、父の代では夜咄堂の店内撮影は禁じられていたそうだが、犬カフェとなってはそうもいかない。
なによりも、膝に犬を乗せて幸せそうに笑っている女性に、否定的な返答をするのは気が引けてしまった。
「はい、お任せ下さい」
笑顔を浮かべて素直に頷き、女性からスマートフォンを受け取る。
距離を取って千尋が構えようとした……その時だった。
「ヒャインッ!!」
「わ、わわっ!!」
最初に蹴飛ばしかけた犬に足を引っかけてしまった。
犬はすかさず逃げてくれたので、それは良い。
良くないのは……体を九十度回転させてしまった千尋である。
ッデェンッ!!
横転し、背中と尻に鈍い痛みが走る。
両手で客のスマートフォンを持っていた為に、顎を引いて致命傷を守るのが精いっぱいだった。
床が抜けたりしなかったのは、せめてもの救いだろう。
「ま……まあ、ええことよ……」
千尋は、力なく呟いた。
◇
夜咄堂の閉店業務は、普段ならすぐ終わってしまう。
殆ど汚れなかった店内を掃除して、殆ど増えなかった洗い物を終えて、殆ど減らなかった食材を点検するだけ。
連日、三十分もあれば終わってしまう仕事だったのだが、今日は違う。
客が帰り、そして野良犬達が野に帰った後に残されたのは、大量の犬の毛にまみれた店内と、後回しにしていた洗い物、そして空になった冷蔵庫だった。
ただし、嬉しい仕事も一つ程増えている。
店内清掃を付喪神達に任せた千尋は、本日の売上を帳簿に記すべく、自室で金勘定をしていた。
「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ……と。ふふっ……」
みっともなく頬を緩めながら、手元の札束を何度も何度も数え上げる。
諭吉さんが二人、一葉さんが三人、英世さんが二十五人。
他小銭諸々で、しめて5.8742諭吉。
無論、夜咄堂始まって以来の大繁盛である。
たった一日の売上だけで、学問を五回程すすめる事ができる。
思わず、偉人様方に拝みたくなってしまった。
「千尋さん、ちょっと宜しいですか」
早速帳簿に向かい合った所で、扉の外からヌバタマの声が聞こえた。
「ああ、入って良いよ」
「失礼します」
静かな声とともに、そっと扉が開かれる。
中へ入ってきたヌバタマの表情は、日中同様に冴えていなかった。
「掃除、もう終わったの?」
「いえ、そちらはまだですが……お店の事でお話が」
「ああ」
そう言われれば、うやむやにした話があったのを思い出す。
どうにも、逃げられる話題ではないようだ。
しかし、諭吉力を失ってしまうわけにもいかない。
どう説得したものかと考えながら、部屋の片隅に置かれていた座布団を差し出すと、ヌバタマはぺこりと頭を下げてそこに座した。