「待てよー。逃げるなよー」
楽しかった夏休みも後半に入り、何故楽しい時間は過ぎ去るのが早いのだろうと、億劫な気分をまといつつも、好きな漫画の買い物を済ませて、早く帰って読もうと帰宅している最中の話でした。
その帰りの道中、私が言ったら嫌味に聞こえてしまうかも知れないけれど、嬉しくも小学生と鬼ごっこをしているような無垢で可愛らしい台詞を吐きながら走っている、撫子の大好きな暦お兄ちゃんの姿と出くわす事が出来たのです。
本当に、台詞は上の通り、じゃれているかの様な可愛らしい物です。
しかし、上記の台詞を一人叫び、一人ではしゃいで、何かを満面の笑みで追い掛けているかのように走っている暦お兄ちゃんは、私には些か常軌を逸した変質者にも見えました。
撫子の大好きな暦お兄ちゃんがです。
しかし暦お兄ちゃんは変質者等ではありません。私は確信を持って言えます。
何故なら、いつもは優しい暦お兄ちゃんが、眼が血走らせ、涎を垂らしながら、前屈みに虚空を揉みしだこうとしている様に見える、その姿に目を瞑りさえすれば、何の変質性も伺えられない、本当に可愛らしく、カッコいい撫子の知っている暦お兄ちゃんそのものだからです。
うん。
やはり暦お兄ちゃんカッコいいです。
しかし撫子はどうしたのでしょうか、魔がさしたのでしょうか、どうかしてしまったのでしょうか。そんな大好きな暦お兄ちゃんがどういう訳かどうにも心配になり、声をかけてみる事にしたのです。
狂ったように走りながら歩道橋の階段を下りてくる暦お兄ちゃんに、撫子は階段の下からちょっと離れた場所から手を振って声をかけます。
「こ、暦お兄ちゃーんっ!」
「うぇ? あ? せ、千石!?」
暦お兄ちゃんは気付いてくれたみたいです。
それは良かったです。
しかし問題は、急に声をかけられてビックリをしたのか、見られてはいけない物を見られてはいけない人に見られた時に見せそうな焦った形相を見せた暦お兄ちゃんが、駆け下りていた階段から足を踏み外して、落ちてしまった事です。
た、大変です!
「暦お兄ちゃん! 大丈夫!?」
撫子は、階段の中段辺りから下段まで落ちて、撫子の好きな昔の漫画のようにピヨピヨと雛を飛ばして気を失っている暦お兄ちゃんの元にすぐさま駆け寄って、暦お兄ちゃんの体を揺すります。
暦お兄ちゃんは吸血鬼か何かだそうで、傷はすぐにもある程度自己治療出来ていたのですが、意識は中々戻らず、撫子が救急車を呼ぼうとしたのですが、その目前に朦朧と頭を抑えながら起き上がってくれました。
「大丈夫だった!? 暦お兄ちゃん! ごめんなさい! 撫子のせいで……!」
「ん……。あれ? ここは何処だ……?」
意識は戻ったようですが、暦お兄ちゃん、どこかいつもと違うような気がしました。
「こ、暦お兄ちゃん、どうしたの?」
「暦……? あれ僕は何を……? えっと、君は……」
あれ? これってもしかしまして……。
「暦お兄ちゃん? まさか……」
そのまさかでした。
「僕は……誰だ…………?」