聖剣伝説 Hunters of Mana   作:変種第二号

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妖精と狩人

 

 

 

「報告。アストリア攻略部隊がジャドを出発、戦時行軍速度にて進軍中。夜にはアストリアに到達する予定」

 

「……御苦労」

 

 

その報告を、ウェンデル侵攻部隊のひとつを任されたルガーは、不機嫌さを隠そうともせずに受け取った。

彼と指揮下の部隊は今、アストリア近郊とウェンデルを繋ぐ陸路の要所である滝の洞窟、其処から北に約15㎞の地点で監視任務に就いている。

監視対象はジャド防衛隊の敗残兵、そしてすぐに押し寄せるであろうアストリアからの避難民、それらの動きそのものだ。

滝の洞窟には光の司祭による結界が張られ、ウェンデルへの進軍を阻んでいる。

だが、アストリアを追われた大量の戦時難民が押し寄せれば、何らかの反応が在ってもおかしくはない。

故にこれを監視し、結界が解除されればすぐさま部隊を進め、聖都の目と鼻の先に橋頭保を築く事。

それがルガーに下された指令であった。

 

 

「ルガー様、アストリアの異邦人についてですが……本当に、侵攻部隊に知らせずとも?」

 

「構うな、どうせ奴等は耳を貸さん。人間どもを殺す事しか頭にないのだからな」

 

 

副官の懸念に、ルガーはつまらなそうに答える。

先日ジャドで行われた軍議での光景は、彼の戦意を白けさせるには十分に過ぎるものだった。

 

湖畔の村アストリア。

世界最大の湖であるアストリア湖を挟み、聖都ウェンデルの対岸に位置する人間達の集落。

村と呼ばれつつも、実際のところファ・ザード大陸に存在する人間達の集落、各国首都や商業都市を除いたものの内では圧倒的な規模と人口を誇っている。

ジャドからウェンデルへと至る巡礼路に於ける最後の中継地点として栄え、物流を担う各商会が落とす資本により村は加速度的に発展した。

マナの脆弱化により湖が荒れる以前は、湖上を通りウェンデルへと至る大規模な水上交易路も在った程だ。

湖に船が出せなくなったのは此処5年ばかりの事だが、それでもアストリアは巡礼者たちの中継地点として繁栄し続けた。

 

そんなアストリアには、大規模な防衛戦力というものが存在しない。

ジャド防衛隊、そしてウェンデルの武装神官隊といった強力な戦力を有する勢力に挟まれ、その双方からの守護を受けている以上、余計な戦力の保持は財政を圧迫するだけだった。

精々が街路や村内に迷い込んだラビ、マイコニドといったモンスターを駆除する程度の為に、装備調達や練度維持の為の予算を継続的に割き続ける事など誰も望まなかったのだ。

故にアストリアは志願制の自警団、人口に比してごく小規模なそれしか戦力を持たない。

だからこそ当初のウェンデル侵攻作戦では、アストリアに対しては制圧をちらつかせての威嚇に止め捨て置き、そのまま聖都侵攻へと向かう手筈であったのだ。

 

ところが、洞窟の入り口に当初の予想よりも遥かに強固な結界が張られており、即時進軍は望めないという事が判明するや否や、侵攻軍の一部からアストリアを攻撃すべしとの声が上がり始めた。

ウェンデルへの侵攻が叶わぬのなら、見せしめにこの人間たちの集落を焼き払い、ビーストキングダムの武威を世界に示すべきだと。

一部の部隊に蔓延し始めたこういった類の主張に、ルガーは鼻白んだ。

このウェンデル侵攻の意図を全く理解していない、単なる鬱憤晴らしを目的にしていると丸解りの主張に、軽蔑を通り越して馬鹿馬鹿しささえ覚えた程だ。

 

ビーストキングダムの本当の目的は、獣人の力を世界に示す事だ。

1年以上も前からウェンデル侵攻の噂を意図して各国に流し、ジャドやウェンデルの守りを固めさせたのもその為。

強固に、幾重にも築かれた防衛線を電光石火の勢いで突破し、引き裂き、粉砕し、踏み潰す。

人間どもが膨大な戦力と資本を投入し展開した決死の防衛線が、ビーストキングダム軍により為す術も無く崩壊してゆく様を、陽の光の元に暮らす全世界の人間どもに見せ付ける為に。

獣人を未開で野蛮な獣の亜種と看做す人間どもに、自分たちが戦力でも戦略でも獣人に後れを取っているのだと、その魂まで恐怖と共に刻み込む為に。

そして、その目的はジャドを半日足らずで陥落させた事によって、既に半ば以上が果たされていた。

 

ジャドが雇い入れた傭兵団、フォルセナを始めとする各国の兵士崩れの寄せ集めは、侵攻前の予想を遥かに上回る規模となっていた。

ウェンデルからビーストキングダムによる侵攻に関する情報を得ていたジャド領主と各商会は、住民たちの生活が脅かされる事と莫大な富を生む交易路を失う可能性を恐れ、金を惜しむ事なく世界中から傭兵を掻き集めたのだ。

その恐怖を扇動しているのが、当のビーストキングダムより各国有力者の周囲に送り込まれた間諜であるとも知らずに。

 

そうしてフォルセナの傭兵はおろか、ナバールを放逐されたシーフやローラントのアマゾネス崩れ、果てはアルテナの元魔導兵やウェンデル武装神官崩れまでを大量に雇い入れたジャドは、それらを取り纏めるだけの優秀な軍師を有していた事も在り、鉄壁の防衛体制を築く事に成功した。

駄目押しとばかりに、過去に滅びた軍事大国ペダンの流れを汲む傭兵団までもを受け入れた彼等が、商人ギルドより齎された豊富な物資を背景に持久戦を繰り広げるつもりであった事は明らかだ。

誰もがジャドの攻略は容易ではないと考え、長期戦の末にビーストキングダム側の撤退に終わると信じて疑わなかっただろう。

その鉄壁の防御を前に舌なめずりする、当のビーストキングダム軍を除いては。

 

優秀な間諜による綿密な事前調査、人間関係や組織間確執を利用した工作による内部攪乱、備蓄物資や防衛施設に対する破壊工作。

長いものでは実に数年前より仕込まれていたそれらの工作は、攻撃開始の瞬間を以って一斉に牙を剥いた。

更に獣人兵の圧倒的な身体能力と戦闘技能が加わり、強固であった筈のジャド防衛体制は砂上の楼閣の如く瞬く間に崩壊していったのだ。

 

敵も個々の能力は高く手強かったものの、確固たる戦略に基づき戦闘行為を執る獣人たちの前に、嵐に曝された葦の如く薙ぎ倒されていった。

そうして僅か半日足らずでジャドの戦力を文字通り『消滅』させたウェンデル侵攻軍は、民衆に対し『抵抗しなければ危害は加えない』と宣言、更にこの内容を徹底する事によって獣人が非文明的な蛮族ではない事を示してみせたのだ。

これらの情報は各国の間諜や商人、そして旅人によって風の如く世界を駆け巡り、ビーストキングダムに対する畏怖の念を拡散していた。

まだ全ての地域に於ける情報が纏まった訳ではないが、各地の間諜により齎される現地の反応は、ビーストキングダムと獣人に対する人間達の印象が、多分に恐れを含んだものになりつつある事を伝えている。

それは同時に、獣人達へと確かな自信を齎すものであった。

 

自分達は虐げられ陽の下を追われた被害者ではない、人間達に恐れられ警戒されるだけの能力を持った種族なのだと。

正しくこれこそが獣人王の狙い、獣人としての誇りを取り戻す事。

人間達への復讐という大義名分など表向きの事だと、各部隊の指揮官は誰に言われずとも理解していた、その筈だった。

 

だというのに一部の頭に血が上った連中は、その本来の目的など忘れてしまったかの様だ。

否、恐らくは初めからどうでも良い事だったか、或いは蹂躙の悦びに溺れてしまったのだろう。

ジャドでの戦いは、一方的ではあっても卑劣ではなかった。

奇襲という形とはいえ、戦いを生業とする者たちを、真正面から正々堂々と打ち破ったのだ。

だが今、一部の者たちが行おうとしている事は違う。

あれは戦う力を持たない不特定多数の弱者、抵抗すら儘ならないそれらを一方的にいたぶり、嬲り殺さんとする愚行だ。

 

別段、ルガーに人間に対する配慮や憐憫が在る訳ではない。

老若男女問わず、人間など幾ら死のうがどうでも良い事だ。

だが、アストリア侵攻の主張には眉を顰めた。

住民がどうなろうと知った事ではないが、虐殺の結果としてビーストキングダムの名誉が、不本意な形で汚されるのではないかと危惧しているのだ。

人間どもがどの様な蔑意を抱こうが構いもしないが、だからといって獣人全体を見下す悪材料を進んで提供する必要は無い。

況して、弱者に対する蹂躙に悦びを見出すなど、不名誉以前に強者としてあるまじき愚行ではないか。

そんな事も理解できない者が、一部とはいえ味方内に存在する事が不愉快でならなかった。

他の多くの指揮官も同様の心境だったのだろう、軍議での渋い表情が今も瞼の裏にちらつく。

 

 

「我々は結界が解除される機会を窺い、後続部隊の為に侵攻路を開く。乱痴気騒ぎはやりたい奴等に任せておけば良い」

 

「……彼等の始末は、あの異邦人が付けてくれると?」

 

「本国に戻したところで、ああいった手合いの処理には手を焼く。ならばいっそ、この地で自分たちの短慮を思い知った方が良い。上もそう考えたからこそ、部隊を再編して奴等を纏めたのだろう」

 

「生きて戻ってくれば良し、そうでなければ……」

 

 

だからこそ、侵攻軍最高指揮官は決定を下した。

アストリア侵攻を唱える一派を隔離すべく、ジャドで侵攻への参加を志願する者たちを取り纏めると、彼等を1つの特別侵攻部隊として編成し、限定的な指揮権と独自作戦行動の許可を与えたのだ。

彼等がアストリアを焼き払い、住民を虐殺したならばそれで良し。

世界各地に散らばる間諜たちが、事実を幾分かビーストキングダムに都合良く改竄して、その上で畏怖を煽るべく話を広めるだけだ。

彼等がアストリアの制圧に失敗し、敗退するのならばそれもまた良し。

思い上がった馬鹿どもの目を覚まし、同時に救い様の無い愚者をも間引いてくれるだろう。

その際の醜聞もまた、間諜の手に掛かれば幾らでも改竄できるのだから。

そう考えたからこそ、最高指揮官はアストリアの異邦人についての情報を、侵攻部隊の指揮官へと伝えなかったのだ。

 

今やウェンデル侵攻など果たされようがされまいが、ビーストキングダムにとって重要な案件ではない。

既に作戦は犠牲を最小限に止め、かつ最大の利を得つつ撤退する、その時期を窺う段階だ。

目の前に致命的な罠が在るというのに、その真ん中に置かれた餌に飛び付くなどという愚行、大して知性の無いモンスターでさえ犯しはしない。

なれば自ら望んでそれを行う連中は、そういった知性の薄いモンスター以下の存在という事なのだろう。

 

 

「……奴等は強い、臭いで解る。あれだけ濃密な獣血の臭い、気付かない方がどうかしている。そんな事も解らない奴は、どの道この先は長生きできまい」

 

「相手は実質2人、普通ならば如何に浅慮な者どもとはいえ、我が軍の兵士たちの前に一飲みでしょうが……」

 

「奴等がそんなに甘い連中なものか。死ぬぞ、大勢。半数も戻ってこれれば良い方だ」

 

 

ふん、と鼻を鳴らし、ルガーは吐き捨てる。

馬鹿どもがどうなろうと知った事ではない、寧ろ手痛い損害を受けて大いに思い知るべきだと。

自分達を含む大多数の獣人には関係のない事だと、地獄を見る者にはそれ相応の理由が在るのだと。

 

後に、彼は思い知る事になる。

半数などという見積もりが、どれだけ甘いものであったかと。

この世には『獣』を恐れるのではなく、憎悪して止まぬ存在もあるのだと。

 

 

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視界を埋め尽くす赤い光。

瞼の内からでも解るその明るさが、陽の光によるものであると理解すると同時に、彼女は微かな声を零しつつ瞼を上げた。

未だ霞が掛かった意識の中、幾人かのくぐもった話し声が脳裏に響く。

 

 

『……まで行くのか、あの娘を連れて? 結界が在る以上、洞窟は使えないぞ』

 

『迂回路は無いのか、船でも良い』

 

『無理だ。陸上は森が深くてとても抜けられんし、船は此処数年ほど湖が荒れてあまり岸から離れられないそうだ』

 

 

窓から差し込む赤い光。

夕刻だろうか、外では子供たちに家に帰るよう促す声が響いている。

柔らかい布の感触。

その表面に手を突き、ゆっくりと体を起こす。

何時も通りに背中の羽を軽く羽ばたかせ、身体を浮かせようと試みた。

 

 

「ん……きゃっ!?」

 

 

だがその瞬間、強い風が吹くと共に体に掛かっていた布が飛び、更に調度品を巻き込んだのか何かが板張りの床に落ちる音が響く。

大した音ではなかった為か、聞こえてくる話声が途切れる様子は無い。

 

 

『そもそも、あの少女は本当に役に立つのか? 確かに人間には見えないが、だからといって……』

 

『あの羽を見ただろう? 御伽噺の妖精そのもの、人間の言葉を操る知性も在る。情報源としては有用だと思うが』

 

『丁度良いじゃあないか。ウェンデルの最高権力者は、マナとやらの知啓深い賢者と聞く。目的地も同じとくれば、上位者もどきの情報を集めるのにこれ以上の適地は無いだろう』

 

「あ、え、嘘!?」

 

 

部屋の外から聞こえてくる声を意識に留めながらも、彼女は重大な事に気付いた。

彼女は衣服の類を身に着けておらず、生まれたままの姿であったのだ。

聖域では特に気にするものでもないが、人間たちと接触する際にこれでは流石に羞恥が勝る。

フェアリーとて歴とした女性、羞恥心も在れば女性としての尊厳も在るのだ。

慌てて自分が吹き飛ばしたシーツを拾い、その身を覆い隠す様に巻き付ける。

其処で、漸く気付いた。

 

 

「……夢じゃ……なかった?」

 

 

身体が、大きくなっている。

花弁に隠れられる程の大きさだった身体が、人間と同じ程度にまで大きくなっているではないか。

室内に姿見が在る事に気付き、ぎこちなく立ち上がると躓きそうになりながらも歩み寄って、全身を映してみる。

 

 

「これは……何で、こんな事が……」

 

 

其処に映し出されていたのは、自分が良く知る女性に似た少女の姿だった。

外見から推測される年齢は17から18頃だろうか。

水色掛かった翡翠の髪を腰まで伸ばし、エメラルドの様な透き通った緑の瞳を持つ少女。

その顔立ちや立ち姿は、彼女が敬愛して止まないマナの女神に何処となく似通っていた。

肩を滑り、床へと落とされるシーツ。

その下から現れたのは、紛れもないフェアリーとしての象徴、虹色を湛えながら透き通ったカゲロウの様な4枚の羽。

咄嗟に折り畳めないかと試してみると、羽は背中に張り付く様にゆっくりと折り畳まれてゆく。

後には、尖った耳以外には人間と大差ない、可憐な少女のみが残された。

 

 

「……これ……あの夢の所為なの? どうして……私に、何が?」

 

『とにかく、詳しい事を訊いてみよう……どうやら、もう起きている様だしな』

 

『我々は巡回に出るぞ、戻りは日付が変わってからになるだろう。最近は北の街を陥とした獣どもがうろついているらしいからな』

 

 

その時、部屋の外から聴こえてきた声に、彼女は慌ててシーツを拾い再び身体に巻き付ける。

そうして小走りで寝台まで戻り、なんとはなしにその上へ跳び乗り縮こまった。

ノックの後、返事が無い事を確認してから、ゆっくりと開かれる扉。

 

フェアリーは思わず身体を震わせ、体に巻き付けたシーツに顔を埋める様にして、開いた扉の先に佇む人物を睨む。

曖昧な記憶の中、今にも息絶えんとしていた自分の前に現れた影と同じ、漆黒の衣装に身を包んだ男が其処に居た。

記憶の中と違うのは、外套を脱ぎ物々しい手甲などを外し、目元と耳以外を覆い隠すマスクや羽根の様な帽子を脱いでいる点だ。

 

短く刈られた漆黒の髪に、同じく漆黒の瞳。

何処となく血色が悪い様に見受けられる肌、顎には薄い無精髭。

顔付きとしては、獣人にも似ているだろうか。

外見から推測される年は青年と呼べる頃、恐らくは成人するか否かといった所だろう。

身体つきは鍛えられており、全身が固く引締まっている様だ。

背丈も、恐らくはフェアリーよりも頭ひとつ分以上に高いだろう。

固いブーツの音を鳴らし、室内へと入って来る。

 

 

「目が覚めた様で何より。気分は?」

 

「……此処はどこ?」

 

「アストリアという村らしい。君が目指すウェンデルとやらは湖の向こうらしいが、今は其処へ至る道が閉ざされている。運が悪かったな」

 

 

言いながら、男はフェアリーの傍らへと歩み寄り、寝台横の台の上に手にしていた木のプレートを置いた。

その上に乗せられた皿には薄く切られた丸パン2枚とバター、傍には其々イチゴらしきジャムと蜂蜜の入った小さなポットが2つ。

湯気を立てるカップと砂糖が入ったポット、バターナイフにスプーン。

慎ましやかだが上品な、それでいて温かみのある食事。

 

 

「君の見た目は妖精そのものだが……御伽噺には詳しくなくて。食事は?」

 

「……花の蜜なら、少し」

 

「……あぁ、そう」

 

 

今にも消え入りそうな声で答えると、一瞬だが彼は絶句した様に動きを止めた。

そして頭痛を感じているかの様に額に手を当てたが、すぐに気を取り直した様に仕切り直しを図る。

 

 

「……蜂蜜は大丈夫そうだな。この家の御夫人が用意してくれたんだが、念のため肉は避けてくれたそうだ。果肉やバターは?」

 

「多分、大丈夫……だと、思う」

 

「なら、食べてみてくれ」

 

 

そう言うと、男は踵を返して退室する。

フェアリーは訳も解らぬまま、恐る恐るナイフに手を伸ばすと、バターを掬ってパンに塗り始めた。

自身が食事をする訳ではなかったものの、こういった人間の日常生活に対する最低限の知識は持ち合わせている。

実践は初めての事だが、それでも鼻腔を満たす甘い香りには抗えなかった。

バターを塗り終えた箇所を、おっかなびっくり齧る。

千切れたパンを口の中で租借し、じんわりと染み渡る素朴な甘みに思わず零れる声。

 

 

「おいしい……」

 

 

花の蜜とはまた違う、パンの柔らかさとバターの甘味、香ばしい麦の匂い。

今度はジャムを塗り、一口。

口の中一杯に広がるイチゴの香りと甘さ、爽快な酸味に幸せな溜息が漏れる。

次いで試した蜂蜜は慣れ親しんだ花の蜜の甘さに似ていたが、しかし花のそれよりも複雑な甘みとバターとのハーモニーが絶品だった。

そうして、ゆっくりと初めての食事を堪能する彼女の前に、再び何かを手にした男が戻ってくる。

 

 

「君の服を融通して貰った。羽は……無理そうなら、何か仕立てをして貰おう。服の着付けは此処の御夫人が教えてくれる。それまでは、まあ……ああ、ごゆっくり」

 

 

女性用の服を持ってきた男は、しかしすぐに出て行った。

何処か呆れた様な顔をしながら。

首を傾げて見送ったフェアリーだったが、すぐに意識の外へと追いやり残りのパンを平らげる作業に戻った。

嗚呼、偉大なるかな女神の加護。

イチゴジャムとバターの組み合わせが、途轍もない至福の時を齎してくれる事に気付いてしまったのだから。

 

 

============================================

 

 

「ごちそうさま! 凄く美味しかったわ!」

 

「……そりゃ、良かったよ。だが、礼は御夫人に」

 

「もうしたわ。だから、今のは持ってきてくれた貴方の分」

 

 

結局、一時間近くも掛けてたっぷりと紅茶まで堪能したフェアリー。

彼女は更に長い時間を掛けて衣服を身に着け、今になって漸く満ち足りた様子で椅子に腰掛けていた。

渡された服は村娘のものの様で、羽を畳んだ彼女は難なくそれを身に纏う事が出来たのだ。

流石に慣れない服を着る為には手助けが必要だったが、それはこの家の主の妻と幼い娘が手伝ってくれた。

既に美味しい食事で緩んでいたフェアリーの心は、何も訊かず親身にあれこれと教えてくれた奥方と、透き通った羽を見てはしゃいでいた娘との語らいにより完全に解れている。

そして夜の帳が完全に下りた頃になり、漸く男との情報交換に移ろうとしていた。

 

 

「先ずは、助けてくれてありがとう……助けて、くれたのよね?」

 

「どうやったと思ってるんだ?」

 

「……私の『宿主』になってくれたんじゃないの? 記憶が曖昧だけれど、出会った時に言ってなかったかしら」

 

「初耳だぞ。『宿主』とはどういう意味なんだ」

 

「そのままの意味よ。私達『フェアリー』をその身に宿す者、即ち世界の危機を救う『勇者』となる者の事よ」

 

 

またも男が額に右手をやり、頭痛を堪えるかの様に俯いた。

左手の指が、椅子の上で組まれた脚、その上で膝を叩いている。

訝しげに男を見つめるフェアリーの前で、やがて男は顔を上げた。

 

 

「……『勇者』というのは過去にも居たのか? 何をやったんだ」

 

「一番新しい『勇者』はフォルセナの『英雄王』リチャード陛下よ。12年前、世界を支配せんと各国に戦いを挑んだドラゴン達の王『竜帝』を滅ぼし、世界を滅亡の縁から救った方なの」

 

「なら、その『英雄王』に頼めば良かったんじゃないか?『勇者』なんだろう彼は。取り憑いてる……やっぱり『フェアリー』って名前なのか? 彼女を通じて世界を救って貰うよう頼めば……」

 

「取り憑いてるって言い方やめてよ。『英雄王』に宿っていた『フェアリー』は『竜帝』と相打ちになって亡くなったわ。それに、一度『フェアリー』を宿した人間に別の『フェアリー』が宿る事はできないの」

 

「無理に『宿主』を確保する必要はないだろう。危機を伝えるだけで良いんじゃないか」

 

「それも無理。私達は『マナの聖域』の外では、徐々に衰弱して最後は死んでしまうの。だから私達は『聖域』を出ると、先ず『宿主』を探すのよ」

 

「適当な人間に取り憑いて伝えたり、人間を乗り継いで……」

 

「だからその言い方やめて。私達は一度『宿主』を選んでしまうと、宿主の命ある限り離れる事はできないの。気軽に選べる問題じゃないのよ」

 

「……それで、俺にその『宿主』になれと?」

 

「もうなってるんだと思ってたわ。身体が大きくなるなんて予想外も良いところだけれど、こうして生きていられるって事はね。でも……」

 

 

其処でフェアリーは、疑念と共に改めて男を見つめた。

無言のままに時が過ぎ、やがて溜息混じりに言葉を紡ぐ。

 

 

「……違うみたいね。貴方との繋がりは感じるけれど『マナ』によるものとはだいぶ違う。貴方から『マナ』を受け取っている感じは全く無いわ」

 

「『マナ』というのは、この世界の根源となる物質……と、聞いたんだが合っているか」

 

「物質じゃないわ、純粋な力の源よ。この世に存在する全ては『マナ』から成り立っているの。『マナの女神』が『黄金の杖』を振るい、世界を創造する為に用いた力の根源。それが『マナ』よ」

 

「『マナの女神』……」

 

「でもその『マナ』が今、世界中から消え始めているの。このままでは『マナ』が枯渇し『マナの樹』が枯れてしまう。そうなったら世界は終わりよ。だから私達は『女神様』の命を受けて……」

 

「待て」

 

 

突然、割り込んだ声。

驚くフェアリーの前で、男がゆっくりと身を乗り出してくる。

その眼には、これまでは見られなかった異様な光が宿っていた。

 

 

「実在しているのか……その『マナの女神』は?」

 

「……貴方、何を言っているの? そんなの当たり前……いえ、そんな、まさか」

 

「答えてくれ。その、世界を創ったという『女神』は、今も生きているのか」

 

「あの夢……それに、この身体の中の……この妙な力って、まさか」

 

 

執拗に『マナの女神は生きているのか』と訊ねる男。

しかしフェアリーは、自身が気付いた新たなる異変に気を取られ、答える余裕が無い。

やがて、互いに相手と自分の疑問が食い違っている事に気付いた両者は、示し合わせた様に押し黙った。

そして改めて、互いへと問い掛ける。

 

 

「答えてくれ。『マナの女神』は実在するのか。だとすれば何処に居るんだ」

 

「……もちろん実在するわ。今は『マナの樹』に姿を変え『マナの聖域』で眠りに就いている。でも、精神体という形でお姿を現す事も出来るわ」

 

「……そうか」

 

「こっちの質問にも答えて。貴方、何でマナも女神様の事も知らないの? いえ、それ以前に『宿主』にもならず、どうやって私を生き永らえさせたの? 何で貴方からほんの僅かな『マナ』も感じ取る事が出来ないの?」

 

「おい、落ち着いて……」

 

 

徐々に興奮するフェアリーを宥めようと、男が声を掛ける。

だが、彼女は膨れ上がる疑念を抑える事が出来なかった。

 

 

「私はどうしてこんな姿になったの? 何故『マナ』を必要としない身体になっているの? あの暗くて冷たい悪夢は何!? 貴方は私に何をしたの!?」

 

「待て、悪夢だって?」

 

「答えて!」

 

 

男の目付きが更に変わる。

鋭く、冷たく、何かを見定めんとするかの様に。

何かを訊ねようとする声は、しかしすぐに彼女の発言によって遮られる。

だがその声は、男の疑念を確信へと変えるには、十分に過ぎる程の力を持つ言葉となって放たれた。

 

 

 

 

 

「『狩人』ってなんなの!? 私は『何になって』しまったの!?」

 

 

 

 

 

直後、窓の外が赤く染まる。

轟音と衝撃、鬨の声。

惨劇の夜が、遂に始まった。

 

 

 




フ「やめて! 私に乱暴する気でしょう? 某王女みたいに! (風の国の)某王女みたいに!」(ウ=ス異本)

狩「」

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