「三十七度三分……うん、まだ微熱はあるけど十分落ち着いてきたわね」
「…………ん……?」
冷たく、ひんやりとした感触を額に感じた。不明瞭な意識を起こして、重い瞼を開く。
「駄目よ、まだ寝てないと……まだ本調子じゃないんだから、大人しくしてなさい」
「…ああ……もしかして俺、ぶっ倒れたりしました?」
「ええ。熱もあったし、意識も朦朧としていたみたいで……元気になって良かったわ」
お団子を食べてた辺りから記憶が曖昧だ。アレだろうか、昨日から徹夜でゲームしてたのが響いたのだろうか……永琳さんが折角の休日を使ってうちに来てくれたのに、それを結局仕事で終わらせてしまうなんて、申し訳ない……
「あの、その……本当にありがとうございました。そして、本当にご迷惑おかけしました!」
「あ、頭を上げなさい。私は大したことはしてないわよ。むしろ、色々としてもらったのは私の方だし……まあ、取り敢えずは寝ていなさい。完治した訳じゃないし、お礼を言うのはまだ早いわ」
俺が蹴飛ばした布団をかけ直し、寝るように促す永琳さんだが、寝る前に、一つだけやらなきゃいけないことがあった。
「今って何時だか分かりますか?」
「多分十一時ぐらいかしら……」
「じゅ、十一時!?」
一時頃に永琳さんが来たはずだから、ざっくり八時間以上は寝ていたのだろう。本当に永琳さんには迷惑をかけてしまった様だ……今度コレとは別に、何かお礼をしなければ。
「日付が変わってなくて良かったです……あの、すぐ戻ってくるんでちょっと待っててください!」
「分かったわ」
冷蔵庫付近の戸棚を開け、閉まっておいた小包を取り出す。それを手に永琳さんの元へと戻った。
「……永琳、その…いつもありがとう。もし良かったら、受け取ってほしい」
「あら、ありがとう。開けてもいいかしら?」
「どうぞどうぞ」
小包の中から出てきたのは、銀色の腕時計だった。人里で売っていて、少し高かったがこれも永琳さんへのお礼の為、と思って奮発して買った物だ。
「腕時計、丁度欲しかったのよ。ありがとうね」
「いえいえ」
早速手に着けて、鏡の前でポージングする永琳。見ているだけで嬉しく、楽しい気持ちになってきた。やっぱり、大切な人が喜んでくれているのって良いなあって思う。
「そういえば……なんで急に?」
振り返りつつ永琳さんが質問した。苦笑しつつ答える。
「前に俺が、永琳さんの誕生日聞いたの覚えてます?」
「ああ…そんなこともあったわね」
その時の回答は、長い時間を生きすぎていつの間にか忘れてた、という物だった。
「でも、どうしても普段のお礼が出来る記念日とか欲しいなー…って思って、失礼ながら母の日を選ばせて頂きました。いや、未婚の永琳さんに大して大変失礼だなと思ったんですけどこれくらいしか……」
「……ふふふ」
歩み寄られ、ぎゅっ、と優しく抱き締められた。甘い香りが鼻腔を突く。柔らかく、温かい気持ちが胸に広がった。
「本当に失礼ね……ちょっと傷ついちゃったわよ?」
「……ごめんなさい」
「まあ、そんなこといったら母どころか遥かご先祖様って年齢だから気にしないけど」
肩をぐいっと掴まれ、向かい合う姿勢になった。永琳さんの真っ直ぐで綺麗な瞳。それに見つめられると、あたかも心の奥が見透かされているような錯覚を感じた。
「でも……少し傷ついた責任をとって、今度からはこの日をきちんと祝えるように、私をお母さんにしてくれない?」
「えっ」
悪戯っぽく笑う永琳さんに、少し戸惑ったが、本人の要望とあっては断れない。分かりました、と頷き一言。
「分かったよ、お母さん!」
「えっ」
今度は永琳さんが戸惑っている。どうしたのだろう。自分で言っておいてやっぱり恥ずかしくなってきたのだろうか。しかし恥ずかしがっていてはいけない。何てったって、これを今度からは毎年やるのだから。
「どうしたの、お母さん?」
「どうしたのも何も、私が言ったのはこういうことじゃなくて……」
珍しくあたふたとした永琳さん可愛い。しかし、こういうことじゃないっていうのはどういうことなのだろう。
「私が言ってるのはそういうことじゃなくて、私に貴方の子―――」
「だーれだ?」
永琳さんの目を覆い隠すように、唐突に誰かの手が現れた。まあしかし、幻想郷において突然虚空から何かが現れた場合は犯人はほぼ一人しかいない。
「……八雲紫ね」
「ご名答」
ニヤニヤと笑いながら、スキマから体を這い出してきた紫さん。対照的に、永琳さんの表情は少し曇っていた。
「人のプライベートに水を差して、何のようかしら?」
「貴女こそ、先程から何をしていたの?」
「何を、って……別に何も。二人で喋ってただけよね?」
「え?ええ、まあ」
困惑しつつ頷くと、紫さんは何かを納得したように頷く。
「ふうん。邪魔したわね。でも、もう日付も変わる時刻よね?今から夜道を歩くのはいくら貴女でも面倒でしょうし、私が送りましょうか?」
「ありがたい提案だけど、生憎、今日は泊まっていくつもりよ。まだ彼の体調も治っていない様だし」
え、聞いてないんですけど。そんな声が喉まで出かかったし、永琳さんに迷惑だから断った方がいいだろうか、と脳内でわちゃわちゃ考えていると、紫さんが永琳さんを部屋の外に連れ出した。
「二人っきりで話したいことがあるのだけれど、いいかしら?」
「……ええ」
何を話すのか少し気になったが、それよりも今は眠気が勝っていた。
大きく欠伸をしながら伸びをしつつ布団に倒れ込むと、自然と意識が遠のいていった。
◇◆◇◆◇◆◇
「貴女は自分の我が儘で、彼を傷つけすぎた」
八雲紫は静かに言葉を紡ぐ。八意永琳は、何も言わずに彼女を少し睨んだ。
「別にちゃんと恋をして、手順を踏んで、真剣なお付き合いをするというなら誰も止めないでしょう。でも、薬を使って彼に偽りの病を刷り込んで、恩を売ってその上自分の好きなように弄んで……流石に止めないわけにはいきませんわ」
「……別に、何をしようと私の勝手でしょう?
「
だから今もこうやって見守っているのよ、と紫。
「彼が幻想入りするときに望んだ、『平穏無事で誰とも揉めずにそれでいて楽しい幻想ライフ』……を守るためにね」
「……暗躍するのは勝手だけれど」
諦めたように溜め息を吐いて、永琳は体を翻した。
「それが誰も望まない結末だということくらい、貴女も分かっているんじゃないかしら?」
永琳の言葉に、紫は感情の読めないポーカーフェイスで返す。
「……帰るなら、スキマで送り届けましょうか?」
「別にいいわ。彼には、悪いけど明日も仕事だから帰るわ、って言っておいて」
「分かったわ」
じゃーねー、と閉まる引き戸に手を振り続け、足音が聞こえなくなった頃に、八雲紫は静かに口元を歪めた。
「……分かってるわよ、そんなことは」
若気の至りでした(遠い目