君の名前を教えてくれるかな。
名前なんて私にはありませんよ…あなたの望むよう、好きに呼んでください。
それより…私と遊びませんか?
お金はあなたの出せる金額で大丈夫ですので。
お客さんをとらないと、私…。
どんなことをしても私は大丈夫ですから…どうか…お願いします…。
…私を…買ってください…。
○月○日
日記をつけろという彼の意図が分からない。いずれにしろ命令であればそれに従うだけ。
そんな目で…見るな。
○月×日
担当官ディーノ・ブッツァーティとバールでエスプレッソを飲んだ。私には味は分からない。必要もない。ただ暖かいなと思った。
○月△日
クラエス。レモングラスのハーブティー。忘れない。忘れたくない。
○月□日
最近、任務の合間に担当官は私を色々な場所へ連れ出してくれる。理由を聞くと、彼は
「もう二度と後悔したくないから」それだけ言って押し黙ってしまった。
部屋から出てきたベリサリオに私は問いかける。
「ナタリアの状態は?」
「ナタリアにはヘンリエッタと同様の条件付けのリセットを行ったが…最も彼女の場合は肉体、精神と共に蓄積したダメージが予想以上だった。ぼろぼろの精神をつなぎ合わせても綻びが出るだけだからな。封印という生易しいものではなく、負荷をかけて彼女の記憶を全て焼ききった上で…青写真を新しく引き直した。彼女はナタリアだが、君の知っているナタリアとは似ても似つかぬ別人、先のような奇跡には期待しないほうがいいだろう。彼女はまさしく、少女の姿をした機械人形だ」
一呼吸置いてベリサリオは続ける。
「人の心というものはいつまでたっても分からんが、君の望んだ結末だろう?」
そう言ってベリサリオは部屋へ続く扉を開けて立ち去った。
正面にはうつむいた姿勢で椅子に腰掛けている彼女。
ここから彼女の表情をうかがい知ることは出来ない。もっと近づかなくては。
私に迷いは無い。彼女に向かい、歩みを進める。
「顔を見せてくれ、ナタリア」
彼女が顔を上げる。ぽっかりと空いた虚のような眼。見つめ続ければ吸い込まれる狂気を…深淵を私は目の当たりにした。思わず息を飲み込む。
…気圧されてはいけない。これは私の償い。最期まで彼女に寄り添うこと、贖罪なのだ。
「まずは…そうだな…。君の名前を教えてくれるかな」
即座に彼女が反応する。
「ナタリア・ギンズブルグ。義肢・サイバネティクス試験体XA-14-07。担当官はディーノ・ブッツァーティ。私は…社会福祉公社ならびにディーノ・ブッツァーティに忠誠を誓う兵士です」
光の宿らない眼であるが、ナタリアは確かに私を捉えている。ナタリアが私を見てくれている。こんな状況なのにそのことが痛く嬉しい。
「よろしい。ならば次の質問をしようか。君の得意な料理はなんだい?」
「料理はしたことがありません。また、そのような知識も持ち合わせていません。それとも、それは任務に必要なことなのでしょうか」
無機質で透明な声。質問であるはずなのに、そこには一切の疑問の感情も無い。
だが、それは私も同様だ。動揺の感情など芽生えない。
「これがなんだか分かるかい?」
そう言いながら一冊のノートを取り出し、ナタリアに手渡す。装丁は白い合皮。表紙には天使の羽が金字で刻印されている。
室内には頁をめくる乾いた音だけが響く。彼女の表情から感情を読み取ることは依然出来ない。
「日記帳です。誰のものかはわかりませんが。少なくとも今の私には必要の無いものです」
静かにノートを置き、彼女は返答する。
「ナタリア、君のものなんだ。よく見て欲しい」
「これは任務に必要なものなのでしょうか」
壊れた玩具のように彼女は繰り返す。私にはなぜか、それがひどくおかしく思えてしまった。私も既に壊れているのかもしれないな…。
…"彼女"はもういないのに。私は"彼女"を冒涜しているのかもしれない。私は彼女の死体を掘り出そうとしている墓荒らしになろうとしているのか。でも、これが過ちであっても、もう君の手は離さない。離してたまるか。
「もちろん必要さ、ナタリア。君に命令を与えよう。まず一つ目はそれに日記をつけること。二つ目は、これから一緒に食事に行こう」
そう言うと、私は彼女の手をとり、歩き出した。彼女は何も言わずに私につき従う。
白磁の様なその手には…確かに熱が宿っていた。
…クローチェ兄弟…。私は君達が羨ましい。
私は決して、君達のようには割り切れないだろうから。
今なら胸を張って言える。
ナタリア、君のためなら死ねる、と。
午前中は哨戒と称してディーノさんに連れまわされたことで終わってしまった。彼が何を考えているのか分からない。…疑う必要など無いのだが。
廊下でヘンリエッタと合流。互いに無言のまま歩く。
途中、彼女を横目で見るがヘンリエッタの視線は正面を向いたまま。
…私達は同類だ。そのことだけは、よくわかる。
「おかえり、ヘンリエッタ!ナタリア!」
ヘンリエッタとともに室内へ入るとリコが元気よく出迎えてくれた。
手には柔らかそうな抱き枕。その無邪気さが、煩わしい。
「ただいま」
ヘンリエッタが私の代わりに返事をしてくれる。
「おかえり。その様子だと、大丈夫…そう…ね」
同じく出迎えてくれたトリエラが、言葉を選びながら言う。
無理もない。年頃の少女二人が死んだ魚のような目で入ってきたのだから。
「はい。おかげさまで。それでは、私はこれで失礼します」
そう言って私は部屋を後にする。後ろではリコが引きとめようとなにか言っているが、私には関係ない。
去り際、トリエラと視線が合った。その瞳に映る感情は、戸惑い、諦観、そして…同情。
…繰り返す…私には関係ない。
「まったく、こう寒いと捜索も進まんね」
バールに入るとディーノさんはぼやいた。どうぞ、とカウンター越しのバリスタが2杯のエスプレッソを差し出す。年齢は60代だろう。白髪交じりの黒髪に、黒縁の眼鏡。無表情でいかにもな硬さを感じる。もっとも、私が言えた義理ではないが。
ディーノさんはともかく、私もこの店の常連であったようだ。少なくとも、エスプレッソをいつも飲んでいたくらいには。
「なら、こんなところで休まずに動くべきではないのでしょうか」
目の前のエスプレッソを見つめたまま私はつぶやく。
「相変わらずナタリアは手厳しい。私が言いたいのは、戦士にも休息が必要だってことさ。それに…っと、連絡か」
彼の携帯を握る手にわずかに力が入る。恐らく…。
「ああ、わかった。これから向かう。大丈夫だって。ブリーフィングには間に合うよ。じゃあな」
ディーノさんは携帯を切りながらコップを口へ運ぶと、一息で飲み干した。
「さあ仕事の時間だ、ナタリア。それを飲み終わったら行こうか。それでさ、終わったら夜の街に繰り出そうじゃないか」
彼の能天気な発言を流しつつ、カップを手に取り琥珀色の液体を飲み干す。味はまったく感じられない。けれど…深い芳醇な香り、暖かさ、温もりは…。
「ご馳走様」
そう言って私達はバールを後にする。ふと視線を感じ振り向くと、その初老のバリスタが優しそうな目で私達を見送っていた。
襲撃はあっけなく終わり、物事は滞りなく進む。
私とヘンリエッタが廃ドックへ侵入し、標的を制圧。バックアップなど必要ないほどに、私達は苛烈だ。何の感情も持たずに引き金を引く。標的がぐちゃぐちゃの肉塊に変わるまで。意識は清明なのに、良心だけが抜け落ちた感覚。私達の姿はさながら…病質者のそれだ。
「お帰り」
任務を終え、帰還した私にクラエスが声をかけてきた。
「何か用でしょうか」
私を見つめたままクラエスが続ける。
「少しね。約束、覚えてる?」
「あいにくですが。記憶にありません。前の私との約束事なら、無効なのではないかと」
「約束というか、私はあなたに借りがあるの。やっと菜園が出来たのに、あなたに飲んでもらえないのが寂しいと思ったから。ただそれだけよ」
クラエスが袋からボトルマグを取り出し、私に手渡す。
「なんですか。これは」
「レモングラスのハーブティー。みんなには振舞えたけど、あなたはいなかったから」
「そうですか。では、頂きます。後でボトルは返却しますので。…覚えていればの話ですが」
クラエスの横を通り過ぎ、自室のドアノブに手をかける。
「私は…あなたのこと、忘れないから…」
消え入りそうなクラエスのつぶやきに私は一瞬硬直する。亡霊を振り払うかのように、私は扉を勢いよく開いた。
部屋に入り、ロッキングチェアへ身体を預け、目を閉じる。頭のなかではクラエスの言葉が呪詛のように、まとわりつく。
…忘れないから…
私は忠実な機械人形ではなかったのか。
べリサリオ先生は確かに私を完全な兵士にしてくれたはずなのに。
それなのに…時折沸き上がるこの衝動は何なのか。
堂々巡りの思考を掻き消すように、私はクラエスに貰ったボトルマグに目をやり蓋を開ける。
その名にそぐわぬレモン特有の爽やかな香りが部屋に広がる。私はボトルをカップへと傾ける。黄玉のように澄んだ液体。先のエスプレッソのように、味が分からなくても他の五感へ訴えるこの感覚。私は震える手でカップを口元へ運び…飲んだ。
例えるなら、砂漠に水をこぼすような不毛な行為。
だけど確かにそれは、あるはずのない私の心に染み渡った。
…コン…。コン…コン。コンコン。
扉をノックする音に意識を引き起こされる。疲れていたのだろうか、気がつくと私は机に突っ伏したまま寝ていたようだ。
ノックの音が止んだ。
「ナタリア。起きてるか?」
…!!…ディーノ…さ…ん。彼の声に反応する私はまるで、躾のなっていない野良犬だ。すぐさま扉へ近づき、ノブを捻って開ける。あくまで平静を装い、視線を上に。目の前には馴染み深い担当官の顔。いつもの軽薄そうな顔じゃない。何かしらの覚悟を決めた顔。
彼がゆっくりと口を開く。
「最後になるかもしれないから。君と話がしたいんだ…」
彼の言葉に私は…。私に拒否権なんて無い。
「はい。大丈夫です」と返答する他に…道は無いのだ。
彼と一緒なら、そこがどんな地獄であろうと歩んでいける…そんな気がした。