ナタリアが人形へと姿を変えたあの日から一週間が経った。
結果的に彼女は仕事面では事故前以上の成果を挙げるようになった。
私が情報を集め指示を出し、彼女が誤差を修正し引き金を引く。
いつもと変わらない日常の風景。
仕事が終わると彼女は後片付けのためM110を分解し始める。
慣れた動作でライフルケースへと収める彼女の姿。
いつもなら私は彼女へ労いの言葉をかけるとともに、報告書など後回しにして夜の街へ彼女を連れ出すのだろう。
だがそれが出来ない。ナタリアはもういないのだから。
ケースを片手に持ち、私の命令を待つ少女は…ナタリアではない。
ナタリアの顔を、姿かたちを真似たなにか…なのだ。
彼女ではないからこそ…。
私の心の中では利己的な感情が芽吹こうとしていた。
そうか…。今になってやっとマルコーの気持ちが少し分かった気がした。
彼女を義体棟へ送った後、気が付けば私はジャンの部屋を訪れていた…。
いつもの日常。
新聞を買い、通りを歩きベンチでカフェを飲む。
いつもと変わらない日常。
日記によると、かつての私はこうしてディーノ様と一日を過ごしていたらしいのですが、隣のディーノ様は答えてくれないし、私にはなにも分かりません。
自室で自分の日記を読んだときは複雑な気持ちでした。
日記など書いた覚えはないのに、確かにそこには自分の筆跡で日々の記録がされていたからです。
自身のこと、親友達のこと、そして…ディーノ様のこと。
そこには愛、憎しみ、苦悩と葛藤、年頃の少女が抱く感情が豊かに色づいていました。でも日記を読んでもなんの感慨もありません。思い出せずに苦悩する魂など既に無いのですから。
忘れてしまっている自分に不安になることなどありませんでした。
なぜなら、私などもともと存在しなかったのですから。
思い出す必要など…ありません。
近い将来、私は死ぬ運命にあるでしょう。
私が望み、ディーノ様の望む結末。
人形にはふさわしい末路…。
「なあ、ナタリア」
深く乱雑な思考から私を現実に引き戻す声。ディーノ様。
「何でしょう。ディーノ様」
「本当に何も覚えていないのか?」
ディーノ様の目は確かに私を捉えていますが、どこか遠くを見ているよう。
まるで私の影を探すように…。
「何を…でしょうか」
「だから、今までのことだよ」
「自分のつけたであろう日記を読んでみましたが…特には。人の日記を読んでいるみたいで、少し怖くなりました…」
「そうか…」
そう言ってカップに残っていたカフェを飲み干す。
「…決心はついたよ…」
確かにディーノ様は言いました。瞳に宿る暗い情炎。
……?
私は…この眼を知っている…?でも…どこで…?
「それがディーノ様の選択であるなら、私はそれに従うだけです」
抱くはずのない疑念を掻き消すように、私は答えるしかありませんでした。
私の人生に選択はありません。選択を迫られたときには、すでにその機会を失っているのです。理不尽ではありますが、そんなものなのだと。
今回もまた同様に。
占拠された鐘楼の制圧ならびに首謀者であるジャコモ=ダンテの確保。
私達に与えられた仕事。
ジャコモ=ダンテの掲げる旗の下、主義という垣根を越えて集まったヴェネチア派、ミラノ派、左翼主義者の憂士達。
コルト9mmSMG。
私に与えられた獲物と得物。
私の任務はシルヴィアさん、キアーラさんとともに正面玄関の制圧、その後に展望台を目指すというもの。
裏ではトリエラさんとベアトリーチェさんが外壁から登坂し鐘楼内への潜入を試みます。
何度も戦ってきているはずなのに、実地に降り立ってやっと再認識できる。私達は同じ死地に赴く兵士なのだと。
「シルヴィアが敵をひきつけ、キアーラは現れた火点を攻撃する。ナタリア、君の仕事はGISと共に二人の援護だ。正面玄関の制圧を確認したら、後は状況を見て行動しろ」
「了解しました。ディーノ様」
ディーノ様。あなたは言ってくれないのですね。
-早く片付けて帰ろう-とは…。
カウントダウンの宣言。5…4…3…2…。
閃光。リコさんの音響閃光弾。合図ですね。
「突っ込め!」
シルヴィアさん、キアーラさんを先頭に百メートルにも満たない渡し板を無心で駆ける。
私も二人の後に続く。階上からの銃撃。身体を引き裂かんとする鉄の嵐が私達を包みこみますが、なんなくすり抜け反撃。タイプライターのように小気味いい音を立て、心地よい振動を私に伝えるコルト9mmSMG。作戦前にディーノ様から新しく頂いた牙。9mm弾が対象を撃ち抜く頃には、シルヴィアさんとキアーラさんが玄関前に到着。
通信から聞こえたのは後続を待たずに突入しろとの指示、二人はそのまま扉を破って突入しました。
遠目から見えたのは…対人地雷…。…まずい!
激しい衝撃と閃光。とっさに私は、水の中へ飛び込んでいました。
…身を刺すような冷たさの中で状況を分析する。左腕が動きません。破片を浴びましたか…?
眼は…大丈夫。…左腕に大きな骨のような金属片…いや、吹き飛ばされたシルヴィアさんの部品の一部か…。大丈夫。まだ動ける。
あの時ほどじゃない…あのときほど…?
湧き出る疑問に蓋をし、水から上がり通信を行うが壊れたのか無反応。仕方ありません。
「キアーラさん!無事ですか!」
戦友の安否を確認するため私は叫ぶ。
「…なんとかねっ!ジャンさんから指示が入った!後続が到着するまでここを死守しろって!」
キアーラさんからの返事があり安堵する自分がいる。
違う…こんな…私は人形のはず…。
「分かりました!すぐにそちらに向かいます!」
先ほどの衝撃でコルト9mmSMGはどこかへ飛んでいってしまったため、たまたま落ちていたシルヴィアさんのベネリM1を拾い上げ玄関へ駆け出す。
残弾は8発。これならまだ闘える。
玄関に到着した時、キアーラさんは壁に寄りかかったまま応戦を続けていました。
先の爆発で吹き飛んだのか右腕は無く、鮮血を滴らせていました。
「お互いひどい状態だね」
キアーラさんは力なく笑います。
「私達にはこれくらいがお似合いなのかもしれませんね。私が応じますので、キアーラさんは援護を!」
階上から降りてくる敵に向かいベネリを立て続けに発砲。
ヒット。よし。いけます。続けてベネリの引き金を引く。
ガチっという不快な金属音と手ごたえ。撃てない…回転不良!?
……こんなときに!
すぐにベネリを打ち捨て、ホルスターからグリズリーを抜き片手で構える。
銃撃、左足に衝撃…。足を抜かれた…。
前のめりに身体が崩れるが這いつくばったまま応戦。45ウィンチェスターマグナム弾が標的の頭部を吹き飛ばす。
意識は朦朧としますが、不思議と闘志は衰えません。
義体の宿命か…戦場では精神が高揚します。
でも、動機も目的も無いわけじゃない。
理由があるから戦うのです。
大切な…担当官じゃない、私の愛する人、ディーノ=ブッツァーティのために!!
……ここで初めて自分のことに気がつきました。私はただ、自分の感情に気がつかない振りをしていただけなのだと。
色々なものを失ってしまったけれど、私の心は、感情は死んでいなかった…小さくではあるけれど、私の中で生きていたのです!
思い出せなくたっていい。思い出は…またつくっていけばいいのですから!
だから生きたい。生きて帰りたい。そして…帰ったらディーノさんに謝らないと。
謝らないと…私、忘れた振りをしていただけなんだって…もう手遅れかもしれないけれど、もう一度やり直したいんだって。
もう人形の振りはできない…。私は人間だったって高らかに、あなたが私に命を吹き込んでくれたんだって!
ディーノさんの前でそう言いたい。今はその気持ちで一杯です。
…もうすぐGISの第二分隊が到着するはずです。
ですからここは…守りきります!
そう思った矢先のことでした。
鐘楼から大きな爆発音が聞こえ…天井から瓦礫の雨が振ってきました…。
作戦前に私はジャンからの申し出を嬉々として受け入れていた。彼女を捨て駒にする。あれはもはやナタリアではない。彼女ではないから、使い潰すことできる。その時は罪悪感の欠片など無かったはずだった。なぜなら、あれは彼女ではないから、人形なのだからと自分に言い聞かせながら。
…鐘楼占拠事件での犠牲者はGISの殉職者10名、ヴェネチア派の死者12名、公社は義体2名を失った。
結果だけを言おう。彼女は生き残った。生き残ってしまった。
キアーラと共に瓦礫の中から救助された彼女の状態は以前にも増してひどいものであったが生きていた。私は担架で運ばれていく彼女に黙って付き添っていた。
彼女は青ざめた顔で眠るように目を閉じていたが、私に気がつくと弱々しげに微笑んで言ったのだ。
「ディーノさん。忘れてしまっていて…ごめんなさい…」
頭を金槌で殴られたかのような衝撃。私は自分を恥じた。
ジャンに彼女を捨て駒として扱うよう頼んだ自分を呪った。
彼女は生きることを望み、縋っていたのに私はその可能性すら切り捨ててしまっていたのだ。彼女と向き合いもせず逃げていたのだ。
いまさら…遅すぎる。遅すぎたんだ…。涙が頬を伝う…。
「すまない…ナタリア…本当に…すまない…」
「大丈夫ですよ…。ディーノさん。まだ私は…生きていますから…これから…いくらだってやり直しが出来ますよ…」
嘘だ。彼女自身分かっている。この状態で治療を行えば、今度こそ彼女自身の人格がなくなってしまうことに。やり直しの機会が与えられることなどないということに。
しかし私はそんな彼女の優しい嘘に…付き合ってあげることしかできなかった。
彼女の右手を握る。
「そうだな…。傷が治ったら…食事に行こうか。セバスチァーノ通りにいい肉料理とワインを出すリストランテがあるんだ…。だから今は…休みなさい」
私も嘘をつく…。彼女の嘘と踊ることが…今私にできる償いなのか…。
「ふふっ…。約束ですよ…。ディーノさん…楽しみにしてますね…」
私の手を握り返すと…彼女は瞳を閉じ、寝息を立て始めた。
…さようなら…ナタリア…。
私は心の中で、彼女に別れの言葉を述べた…。
…生き残ってしまいました。いえ、私にとっては生き抜いたといえるのでしょうか。
ベアトリーチェさんは鐘楼に仕掛けられた爆弾と共に逝き、シルヴィアさんも対人地雷で…。
私は奇跡的に瓦礫の中から救助され、こうして担架に揺られています。側にはディーノさんが付き添ってくれています。ディーノさんの顔には捨てたはずの人形が戻ってきたかのような恐怖や罪悪感を混ぜ合わせたような感情が貼りついていましたが、私には関係ありませんでした。
自分のありのままの感情を言う。今の私に必要なのはこれだけなのですから。
私が謝罪の言葉を述べると、彼もまた、涙を浮かべながら私に謝罪の言葉を…。
ですから、そんな顔をしないでくださいと…前にも言ったはずですよね?ディーノさん。
私は彼を勇気付けるための嘘をつきます。
ほら、すぐにいつものきどったディーノさんに。
だから…泣かないでください…。
私は恐らく死ぬでしょう…。
いえ、身体は元通りになるはずですが、私という自我は…投薬に耐え切れずに消えてしまうでしょう。もっと早くに自分の気持ちに気づくべきでしたが、いかんせん遅すぎました。
でも、人生ってそんなものなのだと…思うしかありません。
最後の最期で、人間としての私を取り戻すことが出来ました。奪われるだけの人生でしたが、帳尻はあわせられたのではないのでしょうか。
後悔はありますが、不思議と恐れはありません…。
そんな幸せな気持ちの中で私の意識は緩やかに微睡んでいきました…。