ナタリアの日記   作:Grim Monolith

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今回は短めに


-暗雲-

 私の足に少女がしなだれかかっています。少女はうつむいたまま、無言であり、その表情を窺い知ることは出来ません。でも、私は知っています。

 これは”わたし”なのだと。

 私とは似ても似つかない、黄金のような光沢を放つ髪、紅を塗った真紅の唇。

 小柄であるにも関わらず艶かしく、劣情を誘うような肢体。

 

 少女の顔がゆっくりと持ち上がる。

 

 心の中で警鐘が鳴り響く。

 やめてください…。見たくない。お願いです。許してください。

 目を閉じようとしても、瞼は切り裂かれたかのように、閉じることを許しません。

 眠りながら夢を見るのが嫌いです。

 悲しい夢に涙するのが嫌いです。

 過去なんて振り返りたくありません。知りたくもありません。語りたくありません。

 私のとっての過去なんて、そんなものなのです。

 懐かしいなんて感情は…ありえません。そんなものは唾棄すべき感情です。

 だからお願いです、そんな貌を…私に見せないで…。

 

 …少女の貌は悦楽に歪んでいて、その青い瞳に映る私の貌は…同じ様に狂喜した雌犬そのものでした…。

 

 …目を覚ますと、いつもの現実。頬には乾いた涙の痕。

 また、夢を見ていたのでしょうか。

 私には過去がありません。思い出せないのです。

 思い出せても、断片的なものなのです。

 大きな部屋にたくさんの簡素なベッド。まるでそれは病室のよう。

 あるいは薄汚れたベッドに、錆びた金属製の注射器、香水、体液の入り混じった、むせかえるような匂い。私を取り囲む男達の嘲笑。まるでそれは見世物小屋のよう。

 それが、私が覚えているものの全てです。

 ですが、そんなものは関係ありません。

 

 私の隣で寝息を立てている、愛する人こそ私の全て。

 

 ○月○日 晴れ

 今日でディーノさんとの休暇が終わりました。

 真実を打ち明けたその日から、私は穏やかな日々を過ごしていました。朝はいつものエディコラで新聞とコーヒーを買い、散歩をしながらのんびりと食事をとり、一日が終わるのを待つ。まるで、エルザとラウーロ担当官の死がなかったことのように振舞いました。振舞い続けました。

 

 明日からまた、死体を数える日々が始まります。

 壊れかかった人形には、さぞお似合いの様子でしょう。

 

 ○月×日 晴れ

 休暇明けの初日から早速の大捕物。仕事の内容は五共和国派のエンリコ=ベルディーニ達の拘束および無力化。既にローマ支局の職員が潜伏先を突き止め、襲撃準備を行っています。私達フラテッロは追加の制圧要員として要請を受け、私とディーノさんは休暇明けということで、バックアップとして配置されています。

 私は邸から逃げてきた構成員を足止めするため、スコープ越しに周囲を警戒していましたが、スコープを覗くだけで終わりました。

 なぜなら突入からわずか数分で敵勢力を無力化しただけでなく、エンリコの確保にまで成功してしまったのですから。

 主に、トリエラさんとヘンリエッタさん、リコさんの活躍によって。

 やはり三人は優秀ですね。私も見習わなくては。

 

 追記:暗視スコープでも、星って見えるのですね。私はオリオンくらいしか分かりませんが。

 

 ○月△日 晴れ

 クラエスさんの家庭菜園が形になってきました。私は差し入れとして、マグに入れた紅茶とガレッティをもっていきました。代わりの報酬として育て上げた野菜を希望しました。いつになるかは分かりませんが、私が生きている間にもらいたいものです。

 

 次はアンジェリカさんのお見舞い。病室前に着いたのですが、アンジェリカさんは先客のトリエラさんと談笑中。せっかくなので扉越しに二人の会話を聞きました。

 やはり…まだアンジェリカさんは本調子ではないようですね。今日は、面会はやめておきました。

 

 …聞くべきではありませんでした。人の言葉に簡単に揺らぐ自分に不安になってきます。でもこれも私の歩いた道であるはず。残しておかなくてはいけません。

 でもそれは誰のために…?

 

 夜、こうして日記を書いている頃にはあの4人は、いえ、アンジェリカさんを含めて5人ですね。今頃流星雨を見ている頃でしょう。私も参加するか迷いましたが、今日は昼間のこともあり参加しませんでした。

 

 ラジオからは第九が流れています。確かに、こんな素敵な夜にはぴったりなのかも知れませんね。もしかしたらみんなで歌っているのかも…仲睦まじく歌う少女達の姿に思わず笑みがこぼれます。そんなことを思いながら私は眠りにつきました。

 

 追記

 アンジェリカさんの言葉が忘れられません。

「楽しいことも、哀しいことも…大切なことはかんたんに忘れちゃうのにね…」

 でも私は、書き続けます。残していきます。この身体が動かなくなるまで。

 

 △月○日 晴れ

 今日は庭でリコさんとジャン担当官さんを見かけました。そばに松葉杖をついている見知らない人がいました。ジャンさんのいないときを見計らってリコさんに話を聞いてみると、その方は五共和国派に資金提供をしている富豪、ピリアッツィ氏の会計士をしていて、裏帳簿の持ち出しをしたため公社で保護したそうなのです。リコさんはウフィッツィ美術館の話を、楽しそうにしてくれました。ボッティチェッリがお気に入りになったとか。

 その感性がうらやましい…。ディーノさんを通して、ジャンさんに画集をプレゼントするよう、それとなく言っておきましょうか。

 私は美術品を観ても、あまり感慨が生まれないですが、ジャンヌ・エビュテルヌの肖像画は”いいな”と思いました。なにがいいのか、表現はできなかったのですが、確かにいいな…と感じたのです。

 

 △月×日 曇り

 今日はビアンキ先生のカウンセリングの日でした。

 いつも通りの記憶力のテストから。写真の顔を覚えている自分に安堵しました。私の義体は試験的に成人女性の体躯に近づけているため、未成熟な精神との乖離をビアンキ先生は心配しているようでしたが、私はこの身体を感謝しています。だって、ディーノさんと二人、並んで歩く姿はまるで恋人のように見えるから。

 

 私は先生に、最近頭に浮かぶ断片的なものについて相談をしました。先生は顎ひげをいじりながら考え込み、何かをカルテに書き込むと心の落ち着くお薬だよ…と一杯のココアをいれてくれました。

 

 ココアは甘くておいしかったのですが、部屋から出る前にちらっとカルテを盗み見たあの文字が少し気になりました。

 

 …思いだしてきている?譜面の修正が必要か?

 

 なんのことでしょうか。よく分かりませんが、今日は良く眠れそうです。

 

 △月△日 曇り

 アンジェリカさんがいつの間にか退院していました。退院日は聞いていたのに、そんな大事なことを覚えていなかった自分が嫌いになりました。

 最近、こんなことばかり…。

 

 先のピリアッツィ氏の事件を、担当官の方たちはよく話しています。なんでも事件の担当者が悉く「ピノッキオ」なる人物に消されているのだと。近いうちに公社にも捜査の要請が来るとのこと。いやな感じがします。

 

 書いていた日記から顔を上げ窓の外をみると、空は見るからに重く暗そうな雲に覆われ、嵐が来ることを告げていました。

 


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