あれからの事は正直よく覚えていない。気づいた時にはアジトへ帰ってきていて、自分の部屋のベッドに腰を下ろしていた。
ボナパルトに言われた言葉が耳に焼き付いて消えない。こうして目を瞑っていると思考回路の空白を埋め尽くすように、彼の言葉が脳内に再生される。
〝人理を修復すればルイ・シャルルは死ぬ〟
そんなことはないと叫びたかった。誰がルイを死なせてなるものかと反論できればどれほど良かったことか。
人類史が修復されるということは、歴史が元の正しい形に戻ることを意味する。そしてルイ・シャルルが正史において辿る未来は既に決まっているのだ。
ルイ・シャルルは死ぬ。両親を無惨に処刑され、革命家による監禁と虐待の末に、肉体と精神をすり減らして衰弱死するのだ。なんの救いも安息も、ルイには与えられない。ルイ・シャルルには一欠片の希望すら残らなかったのだ。
「もしかしたらマリーがルイ16世と一緒に特異点を作り上げたのも、だからなのかも」
オルレアンで出会ったマリーは天然だけれども高潔な
だからこそ確信をもって言える。マリー・アントワネットが自分のために、特異点を作り出す元凶となる筈がない。きっと夫であるルイ16世も一緒のはずだ。
フランスの民衆のためでも、自分のためでもないならば、残った理由なんて一つしかない。
(自分の、子供のため)
正しい人類史から外れた特異点であれば、ルイ・シャルルの生存という本来有り得ぬ可能性が存在しうる。ルイ・シャルルの死という確定された未来は焼却されるのだ。
藤丸立夏は覚えている。民を心から愛していたマリーが、一度だけ民への憎悪を垣間見せた時を。あれはそう彼女が息子について話している時だった。
民の幸せを願うという彼女の信念。それを曲げてまで祈ったのは『自分の子供が長生きしてほしい』という当たり前のもの。
それを自分はぶち壊そうとしているわけだ。
彼女のなにより大切な子供を味方にして。傷つけさせやしないと宣言しながら、無自覚に未来を奪おうとしていた。
「ああ……なんて、無責任」
自分で自分の顔面を殴りつけてやりたい気分だった。
グランドオーダーを止める訳にはいかない。自惚れでもなんでもなく人類最後のマスターである自分が死んでしまえば、人類史はチェックメイトだ。2017年の到来をもって、地球の未来は閉ざされるだろう。
地球総人口70億人の話ではない。これから生まれ出る何百億、あるいは何兆人の生命が自分の双肩にかかっているのだ。
「聞いてる、ドクター?」
『ああ。聞いているよ』
虚空に囁くと三秒ほどの間隔の後、ロマンの聞きなれた声が返ってきた。
無性にカルデアに一時帰還したいと弱音を吐くのを堪え、蜘蛛の糸を掴むように口を開く。
「人理とルイの両方を救う方法って、ないんですか?」
『藤丸くん、それは』
「分かってます。俺が都合の良いことを言ってることは。でもほんのちょっぴりと可能性があるなら聞いておきたくて。お願いします」
『……分かった、なら応えよう。結論から言うと不可能だ。ルイ・シャルル、つまるところルイ17世が死亡することは歴史的事実として確定している。
ある分野においては
「ほんの、少しだけでもですか?」
『いや〝結果〟さえ同じなら〝結末〟を微妙に変えることはできる。死ぬはずの命を幾つか生存させることもできるだろう』
「っ! そ、それじゃ――――」
『だけどそれはあくまで〝無辜の民〟の話だ。残酷な話になるけど一般人が100人くらい死のうと定められた〝結果〟はびくともしない。けどルイ・シャルルはそうじゃないだろう』
でも、となおも往生際が悪くロマンへ反論する。
「ルイは、子供なんですよ! 人類史になにか影響を与えたわけでもない、ただの子供なんです! だったら無辜の民と、なにが違うって言うんですか!」
『確かに藤丸くんの言う通りルイ・シャルルはなんら人類史に影響を与えてこなかった。仮にルイ・シャルルという人間が存在しなかったとしても、人類史はさして変わらなかっただろうね。
でもね。ルイ・シャルルはルイ16世の王太子。ブルボン朝の正当なる後継者なんだよ。そんな彼が死なずに長生きしたとしたら、確実にその後の人類史は変わってしまう。
だからルイ・シャルルの死は
「――――、」
変な希望を残してはそこが弱点になるという配慮があったからか。ロマンは一部の隙もないほど完膚なきまでに藤丸立夏の淡い期待を粉砕した。
「なんですか、それ。定められた運命とか量子記録固定帯って。そんなんじゃまるでルイは、殺されるために生まれてきたもんじゃないか! そんな馬鹿な話があっていいんですか!?」
ロマンに当たっても仕方がない。そんなことは理性では分かっていたが、感情が納得してくれなかった。出口を求めて荒れ狂っていた激情が、言葉になってロマンへ向けられる。
自分の子供染みた癇癪にロマンは黙って聞いていた。憎しみを受け取るのも自分の役目ともいうべきロマンの態度に、血液が蒸発するほど熱くなっていた頭が少し冷める。
「すみません、ロマンは俺の質問に応えてくれただけなのに。怒鳴ったりして……本当、なにやってんでしょうね、俺
『…………何を言うんだい。謝るのは僕の方だよ。緊急事態とはいえマスターの重責を、一般参加枠だった君一人に押し付けてしまっている。
ただこれだけは言わせておいてくれ。藤丸立夏、君がその特異点で如何なる行動をしようとも、それは全て所長代理である僕の責任だ。君が重荷を背負う必要はないんだよ』
「ありがとうございます。でも、きっとこれは他の人に渡していいものじゃないと思うんですよ……俺が、俺自身が決めないと」
それがルイ・シャルルの〝友達〟として通すべき筋だろう。
ロマンの責任を放り投げて自分は知らんぷりだなんて、そんなことをやった日には自分で自分を許せなくなる。
「お悩みのようですねぇ、マスタァー。そんな貴方に
「……なにしにきたんだ?」
ノックもせず壁を擦り抜けるように現れたメフィストフェレスを睨みつける。
不躾な侵入はカルデアで慣れっこだが、今はいつも通りにさらりと受け流せる気分ではない。
「これはこれは手厳しい! 悪魔が召喚者の前に現れる理由なんて一つでしょう。貴方の抱いている悩みを解決しにきたのですよ」
「本当に?」
他の者ならば降って沸いた希望に目を輝かせるところであるが、相手はあのメフィストフェレスだ。
このサーヴァントのやることなすことには絶対に裏がある。メフィストフェレスには悪い意味での信用があった。
「本当ですとも! マスターは人理を修復すればルイ・シャルルが死ぬことを悩んでいるのでしょう! だったら考えることはありません。
私は悪魔ですが今回に限りは一切の嘘も詭弁も弄さず、あくまでも貴方のサーヴァントとして無償の助言をしましょう!」
どうせメフィストフェレスのことだから欲望に忠実に従え、などと悪魔らしい事を言うのだろう。
そんな自分の予想は即座に打ち砕かれた。
「ルイ・シャルルの命は見捨てるべきです」
「え?」
「おやおやァ。どうしたのですかマスター? もしかして佞言と分かっていてルイ・シャルルを優先するべきとでも言って欲しかったので? 残念。私は心を入れ替えて善側に味方する良いメフィストなので、正しい助言しかしませんとも。
ルイ・シャルルの命と人類史。天秤に乗せるまでもありません。人類史全てにたかが小僧一人の命が釣り合うはずもないでしょう。幼児殺しの罪など、この大義の前には容易く流れる!」
「やめろ!」
「止めませんよ。発言を欲したのはマスターでしょう? 既に契約は結ばれていますから、それが終了するまで私は喋ることを止めません」
令呪で『黙れ』と一喝したい衝動にかられるが、出来なかった。それは理性が止めたというわけではなく、単純に不可能だったからである。
メフィストフェレスはカルデアによって召喚されたサーヴァントではなく、この地に呼ばれたはぐれサーヴァントの一騎だ。自分とはあくまで仮契約の関係であって、彼に令呪は効かない。
「人類史救済! 人理修復! これなる大義と比べればルイ・シャルル一人の命など
絶対正義。
メフィストフェレスの突きつけてきた四文字が精神に突き刺さる。
〝人理修復、人類史救済。巨大すぎる大義だ。対立する者は問答の余地なく悪となる程の〟
いつかの特異点でカルナにも突きつけられた言葉が蘇ってくる。
そう、自分達カルデアの目的は正しい。焼却された人類史を修復し未来を取り戻す。これほど明善な大義名分は他にはない。
だが余りにも正し過ぎるのだ。この世に絶対的正義は存在せず、正義の反対側には対極の正義が存在する――――という世の条理が捻じ曲がるほどに。カルナが言った通り、対立する側が問答無用で悪となってしまうのだ。
ボナパルトは『悩め』と言っていたが、本当は悩む余地すらありはしなかった。
「く、くひひひひひひひひひひひひ! いいですよその顔ッ! その顔が見たかったのですッ! やはりこちら側についたのは正解でした!
悪人が悪を成すなど当たり前、悪が人を殺めるのも当たり前! なんの面白味もない! なんの捻りもない!
善人が正義のために死にそうな顔で成す悪行こそ最高の
疑問が一つ氷塊した。この愉快犯がどうして人理を修復する側に回っているのか。
ふと鏡に映る自分を見る。そこに映る自分は今朝と別人なほど冷たくて、目には光が宿っていなかった。
第一章のテーマが『対極の正義』なら第二章のテーマは『絶対的正義』です。