あれから劉邦軍は自分達が当初目指していた集落へ進軍することになった。
といっても部外者に当たる自分達の要望で、いきなり劉邦軍団を動かせる筈がない。進軍先を決定させたのは自分達ではなく、土方歳三の言葉だった。
「北東の集落に道士風の格好をした男の目撃情報があった。公孫勝である可能性は高いと思います」
後から聞いた話によると土方は生前に治安維持組織に身を置いた経験を活かし、劉邦軍団では主に情報収集担当として活動しているらしい。
そして本隊と連絡がとれなくなった劉邦軍団が当面の戦術目標として定めているのが、入雲竜・公孫勝を秦軍より先に確保することだった。
秦軍がどうして一介の道士に過ぎない公孫勝を血眼になって探しているかは分からない。だがあれだけ熱心に探す以上は、必ず道楽ではない確固たる理由がある。ならば公孫勝の身柄を秦より先に抑えることが出来れば、状況を打開する糸口も見えてくるはず。
これが軍団の長たる劉邦が定めた方針であり、これには頼りないとはいえカルデアの責任者(仮)のロマンも頷いていた。
『こちらの解析だとあの傀儡兵の正体は90%の可能性で始皇帝の兵馬俑の反応と一致した。状況からみても始皇帝が聖杯の持ち主と考えていいと思うよ。
そして始皇帝は史実を紐解く限り病的なまでの合理主義者だ。絶対に無駄なことはしない。もしかしたら第三特異点における「
下品さには目を瞑る方向でいこう……。文字通り右も左も分からない状況下で、明確な戦術目標を定められるあたり高い能力を持っているのは間違いないしね』
異常事態への対応力といえばオケアノスのドレイクが群を抜いていたが、彼女の場合は常識を鼻で笑いながら踏破する非常識人。常識外の世界など寧ろ彼女の故郷のようなものだ。
一方で劉邦は常識に身を置きながら、非常識な事態に素早く対応してきている。自分も劉邦と同じで常識人寄りだから、余計に劉邦の持つ環境適応能力が際立ってみえる。
そして恐らくこの適応力――――生き残る力というべきものこそが、劉邦を下賤の身から天上人まで伸し上がらせた武器なのだろう。
ともあれ今は未来の皇帝より、目の前の目的である。
森の中で出会った『入雲竜』と呼ばれた道士。恐らくあれが公孫勝だったのだろう。だとしたら北東の集落はもう立ち去った後の可能性の方が高い。無論そのことは劉邦に伝えておいたが、その集落に公孫勝の行方についての手掛かりが残っている可能性もあると劉邦が判断したため、結局軍団の進路が変わることはなかった。
そんなわけで北東の村落への進軍中。折角なので自分達は、一足早くこの地に召喚されていたらしい土方と話すことにした。
「土方さんはどのくらい前にこの時代に召喚されたんですか?」
「かれこれ一か月ほど前になるかな。丁度この世界がこんな風になったばかりの時だよ。
最初はかなり驚いたけどね。聖杯戦争なのに私を召喚したマスターはいないし、しかも呼び出された時代が秦王朝末期だ。私からすれば書物の世界に入ったような気分だったよ」
「書物の世界……。江戸時代でも中国の古典文学とか人気だったんですか?」
「勿論だよ。あの時代は水滸伝が大人気だったが、近藤さんなんかは特に三国志が大好きでね。中でも関羽に憧れててさ。真似して義兄弟の契りなんて結んだもんだよ」
三国志の関羽といえばその勇猛さもさることながら、主に殉じた義の人として有名だ。
新撰組局長・近藤勇が大勢が決しようとも薩長に降るを良しとしなかったのは、関羽と同じ義の心が根底に根付いていたが故なのかもしれない。
「だからこの時代についてもよく知ってる。私は劉邦より項羽の方が好きだったけどね。おっと、これは今の立場じゃちょっと不敬だったかな。告げ口はよしてくれよ?」
そう言って土方歳三は悪戯っぽく笑う。土方歳三は初対面の印象通りの気の良い人だった。ただそれでも引っかかりを覚えてしまうのは、やはりイメージの違いがあるのだろう。
我慢できなくなったのか。とうとうマシュが思い切って疑問をぶつけるため「あの」と声を掛けた。
「初めて名前を伺った時はその……少し驚きました。失礼ながら土方歳三は『鬼の副長』と呼ばれる程の、恐い人だと思っていましたから。
なのに実際に会って話してみると全然鬼っぽくありませんでした。寧ろ菩薩です。菩薩の副長です」
「ぼ、菩薩は言い過ぎじゃないかなぁ。私は後世で評されているほど大した人間じゃないし菩薩だなんて恐れ多いよ」
「けど鬼にも見えませんよ?」
マスターとしてマシュに援護射撃をすると、土方歳三は照れ臭そうに頬を掻いた。
「まぁ私も鬼呼ばわりされる程のことをやった自覚はあんまりないんだけどね。やっぱり宇都宮で逃げ出した兵士を斬り捨てたのが原因かなぁ。緊急時とはいえ彼には本当に可哀想なことをしてしまったよ。
けど局中法度を作ったのは主に芹沢と近藤さんだし、あんまり規律を厳しくしてた覚えはないんだけどねえ」
「生前の英雄の人格が正しく後世に伝わるとは限らない」
「ディルムッド?」
「中には後世の創作が史実をねじ曲げてしまうことも多々ある。俺より後の英雄だがアーサー王の例もその一つだ。騎士王は英霊の座にも男として伝わっていたが、実際の騎士王は女だった。無論その剣の冴えは性別という下らん枠を超えた獅子の業だったが。
土方殿も同じように後世において実像と異なる『鬼』のイメージを付与された口なのだろう」
そうだ。後世に伝わる史実と事実が異なる事例を、これまで自分は何人も出会ってきた。
冬木におけるアーサー王が少女の姿をしていたのもそうだし、人々のイメージにより英霊としての姿を失い完全に
「だけど大丈夫ですよ、若きマスター。幸い私はドラキュラ伯爵などと違って日本以外での知名度は無きに等しい。ましてやここは古代中国、私の知名度など皆無です。鬼になんてなったりしませんよ」
「うん、それなら」
「まぁ――――――敵を拷問する時は別ですけどねぇ……フフフフ」
ゾクッと首筋にナイフを当てられたような悪寒が体を凍てつかせる。
土方が垣間見せた〝笑み〟は、これまでの柔和な頬笑みとはまったく正反対の、背筋が冷たくなる鬼の微笑だった。
だがそれも一瞬のこと。直ぐに『鬼の副長』から『菩薩』に戻っていた。
「ジョークですよ。それに拷問するのは内通者と敵だけです。貴方にはやりませんよ」
「はは。土方さんが敵じゃなくて良かったですよ……」
その時だった。前方から慌てた様子の早馬が走ってくる。
「伝令ー! 伝令ー!」
何事かと思えば早馬は真っ直ぐ劉邦の下へ行くと、馬を降りた。
「どうした? 何かあったのか?」
「北東の村落が秦軍の襲撃を受けています! 数は約三千!」
「ちっ! 先を越されたか!」
劉邦が舌打ちする。傀儡兵で構成された秦軍が無秩序に略奪などという蛮行に出るとは考えられない。劉邦軍と同じように公孫勝の目的情報を入手した秦軍による襲撃と考えていいだろう。
「だが三千ってなら大した数じゃねえな。進軍速度を上げろ! 集落へ急行するぞ!」
「お待ちを! その三千の中に一人とんでもない豪傑がいます。ご注意下さい!」
「豪傑だぁ? そんなに強ぇのか?」
「は、はい! もう虎が二本足で動いているような男で! 二挺の斧を振り回している黒い肌をした男です!」
「黒い肌に、二挺の斧……?」
これに反応したのは劉邦ではなく土方だった。土方は馬足を進め、伝令に問いを投げる。
「一つ構わないか。その豪傑の名前は分かるか?」
「も、申し訳ありません! それは分かりませんでした。け、けどそいつが大声で呼んでいたので秦の大将の名前は分かりました」
「へぇ。どんな名だい? 六虎将の誰かじゃなけりゃいいが」
興味をもった劉邦が尋ねた。
「宋江です、宋江と呼ばれていました!」
その名を聞いた劉邦軍の反応は静かなものだった。聞いた事のない名前だし、今日倒した傀儡将と同じ歴史に名を残すこともなかった木端将だろう。そう思っているのだろう。
だが自分達や土方など未来を知る人間達の反応はまったくの正反対。開いた口が塞がらず固まっていた。
宋江。それは梁山泊首領にして序列一位の好漢、水滸伝における主人公の真名だった。