鉛のように重くなった体から、鉄分混じりの息を吐き出す。
どれほど長く盾を振い続けただろうか。特異点の数々の戦いでマスターを守り続け、もはや自分の手足も同然となった大盾。それが今や星でも持ち上げているのかと錯覚するほどに重い。
ふと窓から空を見上げた。太陽の位置は戦いを始めた時からそう動いていない。それで漸くマシュは自分がまだ三十分たらずしか戦っていないことに気づき愕然とする。
「ふんっ! 特異点を修復してきた歴戦のサーヴァントかと期待したがこんなもんか」
マシュを見下しながら黒衣のサーヴァントが鼻で笑う。
反論することはできなかった。息があがっている自分に対して、黒衣のサーヴァントは呼吸一つ乱していない。これで「違う!」などと吠えたところで道化なだけだ。
しかし例え無様だろうとここで膝を屈するわけにはいかなかった。
例え自分がどうなろうと、背中にいるマスターだけは守らなければならない。
デミ・サーヴァントでもシールダーとしてでもなく、人間としての感情がマシュに力を与える。
鉛の肉体を鉄の意思で引っ張り、眼前の敵を見据えた。
「まだ、です。まだ終わりじゃありません」
「死んでも主君を守ろうって気概は中々のもんだがな。貴様には敵の命を食らおうっていう意思が足りねえ。そんな温い殺意じゃ俺には届かんぞーーーッ!!」
黒衣のサーヴァントの鉄鞭がしなり、マシュの盾に隕石でも衝突してきたかのような衝撃を与える。
鉄鞭が纏っていた雷は盾で弾かれたが、衝撃の痺れまで盾は弾いてくれない。稲妻のような痺れがマシュの両手から全身を駆け巡る。それが一秒の間隙もなく連続で打ち込まれるのだ。特異点で多くのサーヴァントと交戦した経験がなければ、とっくの昔にマシュの全身は原型も残さない程に擂り潰されていたことだろう。
それに武器の性能にも救われた。マシュの盾はキャメロットにおいて多くの騎士が集った円卓そのもの。宝具として最高峰の神秘をもっている。例え聖剣の直撃を受けたとしても、この盾は消し飛んだりはしない。故に一撃一撃が火山の噴火にも等しい破壊力をもつ鉄鞭にも耐えられていた。
しかし基本的に戦いというものは守っているばかりでは勝てはしない。籠城戦などで守って守りきれば勝てる戦いというのも存在するが、今回は寧ろ守り切って勝つのは相手の側だ。
今この瞬間にもボナパルトの足止めが限界に達し、燕青やデオンが駆け付けてくるのではないか。宮殿外で待たされたオルランドがやってくるのではないか。
そう思うと一刻も早く目の前の敵に一撃を与えなければ。マスターの言う通り倒す必要はない。一撃を与えてちょっとした隙を作れればいいのだ。それでこの場から脱出することができる。
(なのに遠い……! そのたったの"一撃〟が万里の彼方のように遠い……!)
防戦一方のマシュだが、マスターがガンドなどの援護射撃をしてくれたことで、攻めるチャンスは何度かあった。
しかしどれだけ裂帛の気迫を盾にこめようと、それが黒衣のサーヴァントに当たることはない。盾どころか風圧すら、黒衣のサーヴァントの鎧を掠めることすら出来やしなかった。
黒衣のサーヴァントが言っていた、相手を食らおうとする殺意。それがないというのもあるのだろう。シールダークラス云々ではなく精神性が『守る』ことに秀でているせいで、マシュは相手を『殺す』戦いでは本領を発揮しにくいのだ。
けれどそれは原因の一つでしかない。いや一つですらないだろう。マシュは過去の戦いでも自身で敵サーヴァントを倒したことだってある。攻めより守りに秀でているならばそれなりの戦い方というものがあって、マシュは実戦の中でそれを掴んでいた。
故にマシュが黒衣のサーヴァントにまったく一撃を与えられないのは、単純に相手の技量が途方もないものだからだ。
「はぁぁぁぁぁッ!」
繰り出す技の一つ、張り上げる声の一つに魂がこもっている。剣舞のような華麗さなど何一つとしてないのに、合理性の極まった武は惚れ惚れするほど美しい。
第五特異点で出会った神槍李と同じだ。人の身にあって神域に踏み込んだ武勇というのは、殺人技の生々しさなど関係なく、かくも人を感動させる。
もっともそんな感動を抱いている余裕など、実際にそれと打ち合うマシュにありはしないが。
「うっ……ぐぅ、ああ!」
遂に腕の筋肉が内側から裂けた。食いしばりすぎて歯は砕けそうだ。体中の水分はとっくに蒸発している。
大の字になって倒れたい、という欲望が耳元で囁くが渾身で無視した。ほんの刹那でも気を抜けば、自分の体は跡形もなく消滅するという確信があるからだ。
不思議と朦朧する意識の中でも、黒衣のサーヴァントのことは捉え続けることができる。
ここまでくると攻めに転じるだとか、援軍が駆け付けてくるだとか、余計なことに思考を割く余裕などありはしない。極限にまで純化された脳は、ただ目の前の敵の攻撃を防ぐことだけに回転する。
きっと今のマシュを第三者が横合いから攻撃すれば、付け焼刃の素人だって打ち倒せてしまうだろう。それほどにマシュの意識は黒衣のサーヴァントだけに集中していた。
「極限状態で扉を一つ開けやがったか。半ば意識が吹っ飛びかけても"守り〟を優先する意思力。ちっとばかし認識を改める必要があるな。だが終わりだ」
黒衣のサーヴァントはあくまでも冷静沈着に。鉄鞭でマシュの盾を絡め取るようにして弾き飛ばした。
「マシュ!」
遠くで、マスターの悲痛な叫び声を聞いた。
「終わりだ。情けに首だけは綺麗に残してやる」
戦場で武器を失った者の末路は一つ。無防備なところを敵兵に切り刻まれての死だ。それはサーヴァント同士の戦いでも同じ。盾という唯一の武器を失ったマシュは、絶望的なまでに無防備だった。
「―――――止むを得んか。介入するつもりはなかったが」
そんな様を影に身を溶け込ませて伺っていた男は、肩を竦め嘆息した。
意識の間を縫うように黒衣のサーヴァントの背後を強襲する黒炎。守ることに秀でたシールダーとは正反対。己の身を削ろうとも、相手を殺そうとする復讐の炎。
片手間に振り払えるものではないと瞬時に判断した黒衣のサーヴァントは、マシュの殺害に傾けていた意思を戻し黒炎を迎撃した。
「敵意もねえ牙のねえ鼠だと放置していたが、いきなりどういうつもりだ?」
黒衣のサーヴァントが殺意を向けると、覆っていた偽装がほどける。
人の形となった陽炎に緑の色彩がつき、現れたのはマシュにとっては見覚えのない、けれど藤丸立夏には見覚えのあるサーヴァントだった。
「やはり気づいていたか剛勇無双の男。看守の目は誤魔化せても、磨き抜かれた心眼は遮れんか」
風もないのに緑色のコートはたなびき、髪の奥で妖しく光のは地獄の底の鬼の
七つの基本クラスのいずれにも該当しないイレギュラーサーヴァント。この世で最も高名な復讐鬼であるが故に、適合したクラスは
「巌窟王……! もしかして助けにきてくれたのか!」
「心得違いをするな。俺はお前に呼ばれて姿を現したわけではない」
照れ隠しだとかそういう温い反応ではない。監獄塔で出会った時とは異なる、明確にこちらを拒絶する態度。
それが彼が自分達の味方として現れてくれたわけではないことを藤丸立夏に教えた。
「今の俺は恩讐の化身たる巌窟王ではない。導きを与えるファリア神父にもエデにもなりえぬ、復讐者だったものの残響に過ぎん。
これは俺ではなく、他の男の復讐劇。他者の恩讐に、赤の他人である俺が加わるなど無粋極まる。あの性質の悪い小説家はまだ誕生していないが、奴ならば『おいおい! 脈絡なく他作品の主人公が登場して、美味しい活躍全部もってくなんてどんな三流展開だふざけんな! こんなの一部の信者以外に売れるかよ!』とでも怒鳴っただろう」
流石というべきか。大デュマと会ったこともない立夏にも『似ている』と確信できるほどの声真似だった。
「同じ
「アヴェンジャー……復讐者。伍子胥の類か。だが道理が通らねえな。傍観者気取りの部外者ならどうして横槍をいれた? あれだけ殺意込めた呪いをぶつけてきて、殺すつもりはなかったなんてほざけば、二度と減らず口を叩けんよう両手両足潰して市井に晒すぞ」
心臓を抉り出す殺意を叩き付けられようと、恩讐の化身であるエドモンは表情一つ変えない。
いくら彼が巌窟王から見届け人に役職替えしようと、魂にまで沁みついた憎悪は決して消えはしないのだ。黒衣のサーヴァントの殺意であろうとも、可視化するほどの復讐心を常に纏うエドモンを圧することはできない。
「殺意はあったとも。殺せるとも思わなかったがな。それに見届け人とて見過ごせぬものはある」
巌窟王エドモンは藤丸立夏と倒れたマシュを守るように、黒衣のサーヴァントの前に立った。
言動のせいでボナパルト以上に立ち位置が掴めないエドモンだが、少なくとも今は黒衣のサーヴァントの敵のようだった。
「面白い。この特異点で何人かのサーヴァントを縊り殺したが、
「ク、ハハハハハハ、ハハハハハハハハハ! 気が早いぞ、黒衣の武人よ! お前の相手をするのは俺ではない! そもそも俺の助けは最初から三十秒ほどの足止めだけと決めている! そら、男のみせどころだぞ藤丸立夏! 女を抱いて立ち上がれ! お前達の本当の援軍が駆け付けたぞ!!」
「その通りでございまァァァァァァァァァすゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウ!!」
「!?」
エドモンが高らかに叫ぶと、それに応えるように邪悪を体現したような道化の嘲笑が宮殿中に響き渡った。
死に化粧のように真っ白な肌に毒花を思わせる紫色の髪。さらには道化師然とした恰好と鋭利なハサミとくれば、それを見間違えることなんてあるはずがないだろう。
初邂逅は第四特異点の時。長く話したわけではないが、そのキャラのインパクトのせいで脳のメモリーの深くに強制的に刻まれてしまったサーヴァント。
その真名をメフィストフェレス。明らかに味方の面をしていない悪魔が、藤丸立夏の援軍らしかった。
「おやおや、奇遇ですねお二人とも。サーヴァント、メフィストフェレス。契約者の依頼で参上しました。早速ですがそこのゴキブリみたいな色合いの人。ロベスピエール宅配便から御荷物を進呈」
狂ったオルゴールのような笑い声をあげながらメフィストフェレスは言う。
いつの間にやったのか、黒衣のサーヴァントの体には懐中時計型のチェーンマインが巻き付いていた。
「貴様――――っ!」
「尋常に立ち合いもせず、不意をついて宝具発動なんて武人の誇り的に有り得ないですよねぇ。人間としての道にもとる所業ですよねぇ~。だけど残念無念! 私、悪魔ですのでぇぇええええ! あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ! それじゃポチッとな。
一方的に捲し立てるのが終わると、黒衣のサーヴァントに巻き付いた爆弾が一斉に起爆する。
並みのサーヴァントであれば確実に致命傷な一撃だが、恐るべきことに爆発の中でも黒衣のサーヴァントの霊基は消えていない。
「呪力の一部を内功でレジストしたか。真名は知らんが、多芸な男だな。まぁいい。見るべきものは見終わった」
「待ってくれ!」
立夏は一人で去ろうとしているエドモンを必死で呼び止める。
ここで呼び止めなければ、次に合う時はもう手遅れになった時だという予感があった。
「復讐劇をやろうとしている他の男って誰なんだ! ルイ16世以外にも聖杯をもっているサーヴァントがいるのか!?」
「それはお前が自分の目で見極めろ、藤丸立夏。なにが正しいのか、なにが悪いのか。この特異点は色濃く元の形を残しているが、だからこそお前にとっては残酷ともいえる。必要なのは答えを出すことだ。
念の為に言っておくが、俺がお前を助けるのは今回限り。次にこういった窮地を迎えたならば、諦めて死ね。嫌なら足掻け」
「待ってくれ、まだ話は――――」
「はい、そこまでですマスター」
「もがっ!」
背後からメフィストフェレスに口を塞がれる。メフィストの筋力はキャスターだけあって高いものではないが、それでも普通の人間である立夏とは比べものにならない力がある。
どれだけもがいても拘束から抜け出すことはできなかった。
「早くアジトにとんずらしますよ。もたもたしてるとあの黒いのが復活しますから。悪魔としての本能的なやつが、あれと正面から戦えば死亡率100%と教えているので」
「……そうだな」
疲労と蓄積されたダメージでマシュは戦闘不能だし、非戦闘員のルイもいる。メフィストフェレスは正直信用できないが、ここは彼の言う通りアジトとやらに行くのが正解だろう。
黒衣のサーヴァントから逃げるように、立夏達はメフィストに連れられヴェルサイユ宮殿を脱出した。