綿のような雲すら物ともせずに照り付けてくる太陽の輝きに反して、二度目となるフランスの空気は肌寒かった。原因は陽射しの温かさを吹き飛ばすほどの冷風のせいだろう。
嘗てレイシフトした第一特異点から此処はざっと三百年離れているが、どことなく〝見覚え〟があるのは、ここが人の手が入っていない草原だからだろうか。
「フォーウ! フォフォウフォーウ!」
毎度のように勝手にレイシフトに同行していたフォウが、懐かしい空気を吸い込むようにマシュの胸から飛び出す。
「フォウさん! 一人で行っちゃ危ないですよ。まだ何かあるか分からないんですから」
「……フォウって〝人〟単位で数えていいのかな。どっちかというと匹のような」
草原を跳ねるように駆けていくフォウを追うマシュを見送りながら呟く。
そういえば前にマシュがフォウのことを『特権生物』と呼んでいたが、実際のところフォウはどういう動物なのだろう。
見た目はなんとなく犬っぽいが、虹色の毛並みの犬なんて自然界に存在するはずがない。とすれば魔術界に存在する幻想種の類なのだろうか。
『良かった。今回のレイシフトはどうやら何事もなく完了したようだね』
小さな旅の同行者について思考を巡らせていると、カルデアからロマンが立体映像つきの通信を送ってきた。
「はい。普通にフランスの草原です。いきなり船の上とか森の奥深くとか砂漠の中とかじゃないですよ。オルレアンの時のようにワイバーンが飛んでたりもしない、のどかなフランスです。もう写真とって送りたいくらいで」
『それは残念だったね。前のように私もレイシフトしていたなら、写真の百倍素晴らしい写生してあげたんだが』
レオナルド・ダ・ヴィンチによるフランスの草原の写生。オークションに出品すれば軽く一千万は超えそうだ。
彼女(もしくは彼)が一緒でなかったことが、今更に惜しくなってきた。
『まぁ異常がないのが一番さ』
「寒いのがちょっと難点ですけど」
『β特異点は11月、冬に入りかけの時期だからね。こちらからもちゃんと君達のことを観測できている。どうやらそこはヴェルサイユの北……ナンテールの付近のようだよ』
「特異点の中心はヴェルサイユでしたよね。じゃあここから南へ行けばいいんですか?」
『うん。改めて言うことでもないけど、そこは間違いなく人類史焼却の要因たる特異点だ。一見平和そうでも、必ずどこかで普通なら有り得ない異常が起きているのは間違いない。そしてその異常はヴェルサイユにあるはずだ。
ヴェルサイユにはターミナルポイントを設置するにうってつけの霊脈もあるし、先ずはヴェルサイユを目指そうか。ナビゲートは任せておいてくれ』
「了解ですっと」
いくら前にもレイシフトしたことのある国とはいえ、地図もなしにヴェルサイユへ向かうことなど出来ない。行き先をナビゲートしてくれるのは実にありがたいことだった。
空を埋め尽くすワイバーンの群れもいないことだし、のどかなフランスの風景を眺めつつヴェルサイユへ行くとしよう。
不謹慎なのは重々承知だが少しピクニックにでもきた気分だ。
もはや恒例になりつつあるレイシフト早々の待ち構えていたかのような敵の襲撃もないし、今回のレイシフトは未だ嘗てないほど平和な旅になるかもしれない。
「のどかなムードに癒されているところ申し訳ありません。先輩、七時の方向で戦闘反応です」
「だよね、そうくると思ってた」
抱きかけた淡い幻想は五秒で打ち砕かれた。
フォウを連れ戻したマシュの報告に項垂れる。
だが自分がこの時代にきた目的は観光などではなく人理修復だ。この戦闘反応がそれに関わっているのかどうかは定かではないが、可能性がある以上は無視できない。
マシュの示した方向へ視線を向ける。まず目に映ったのは統一された軍服を身に纏った十数人の兵士達だ。彼等は必死の形相で何かを猛追している。
「っ! 先輩!」
その何かを見た瞬間、マシュが驚きながらも決意のこもった目に変わった。視線でマシュの言わんとしていることは分かる。自分もマシュと同じ気持ちだ。なにせ兵士達が追いかけている〝何か〟とは一人の子供だったのだから。
年齢はまだ十歳ほどだろう。色素の失せた白髪と、くすんだ碧眼が印象的な少年だった。
一流の職人の仕立てたものであると一目で分かる服といい、きっとこの時代の貴族の子だろう。
あの兵士達がどうして子供を追いかけているかは知らない。けれど子供が襲われているのを見て見ぬふりできるほど、藤丸立夏は冷血にも冷静でもいられなかった。
「マシュ、あの子を助けよう!」
「はい! マシュ・キリエライト、これより戦闘に入ります!」
その命を待っていたとばかりにマシュが兵士達に突貫する。兵士達は突然の敵の登場に一瞬だけ驚いたが、即座に子供を追いかけることを中断し、マシュの迎撃を優先させた。
この迅速な判断力、野盗や脱走兵の類ではないだろう。かなりの訓練を受けた兵士達だ。ただ今度ばかりは相手が悪い。
「だぁぁぁあああ!」
前回の特異点で自らに宿る英霊の真名を知ったことで、マシュの盾捌きはより一層冴え渡っている。
スフィンクスの業火すら掻い潜ってみせる力量は、もはや精鋭が百人束になろうと太刀打ちできない領域に達していた。ましてや十数人程度では敵にすら成り得ない。
殺しはせず、後遺症も残さない絶妙な力加減。
伊達にレオナルド・ダ・ヴィンチを呆れさせるを通り越して感心させるほど、人間相手に不殺を心掛けていた訳ではない。
もしかしたら殺さず敵を無力化する手加減の上手さという点ならば、既にマシュはギャラハッドすら凌駕しているかもしれなかった。
「戦闘終了です」
十四秒。それが十数人の兵士達を征圧するのにかかった時間だった。
「君、大丈夫だった? 怪我はない?」
「え……お兄さんとお姉さんは……? 見たことのない、変な恰好だけど……?」
「へ、変な!? ――――こほん。私達は、決して怪しいものではありません。通りすがりの外国人旅行者です」
「マシュ、それわりと怪しいと思う」
自分より大きな巨盾を軽々と振るう少女と、それと一緒にいる東洋人。残念ながらフランス人の少年からすれば『怪しい』と認定されても仕方がないだろう。
尤もマシュがショックを受けたのは、ギャラハッドから憑依継承した騎士服を『変な恰好』扱いされたからかもしれないが。
「でも少なくとも君の危害を加えるつもりはないのは本当だよ。約束する、俺達は君に酷いことをしたりはしない」
なるべく怖がらせないよう、努めて優しい口調で言う。
「約束? 本当に、酷いことをしないの?」
「もちろん!」
胸を叩きながら頷いてみせると、少年は少しだけ警戒を緩めてくれたようだった。
これなら話が出来そうである。
「俺は藤丸立夏、事情があってこの国に旅をしにきたんだ。こっちのお姉さんはマシュだ」
「マシュ・キリエライトです、よろしくお願いします」
「フォウ! フォーーーーーーーウ!」
「こちらはお供のフォウさんです。人は噛まないので安心して下さい」
「よ……よろしく」
少年の視線がフォウに釘付けになる。やはり初見でフォウの外見はインパクトがあるのだろう。UMAを目撃したように固まっていた。
やはりカルデアに戻ったらフォウの生態系についてロマンに質問した方がいいかもしれない。
「それじゃ、良かったら君の名前も教えてもらっていいかな? いつまでも君呼ばわりはしたくないからさ」
コクンと頷いた少年は、ゆっくりと口を開く。
「俺はルイ……ルイ・シャルルだよ」
『――――――!?』
通信越しでロマンが息を呑む音が聞こえた。マシュも絶句して目を丸くしている。
ルイ・シャルル。それは革命によって処刑された悲劇の国王ルイ16世とマリー・アントワネットの子の名だった。