時は劉邦軍がテセウス及び宋江の両将率いる秦軍を、見事に撃退した数刻前まで遡る。
特異点発生前も後も変わらず大秦帝国の政治の中心であった宮殿は、凍てつく程の沈黙に包まれていた。
玉座に座する始皇帝は眉間に皺を寄せ、常日頃の数百倍の硬度の鉄面皮を貼りつけている。群臣達も余りのことに始皇帝の顔色を伺うことすら忘れ絶句していた。
彼等の視線が注がれているのは、裁きを待つ死刑囚のように始皇帝の眼前に跪く二人の将軍。その背には神妙にて沙汰を待つ傀儡将達もいたが、誰一人としてそちらに目を向ける者はいなかった。
二将軍の出で立ちは正に敗軍の将というもので、実際その印象に誤りはない。二人は戦に敗北し、こうして始皇帝に事と次第を報告するために戻ってきたのである。
これだけなら珍しくもない話であるが、その一人が秦国に知らぬ者なき名将・王翦だというのが二重の意味で最悪だった。
「同じ事を二度も聞くのは無駄だと知っているのだがな。サーヴァントとして老いと無縁の身となったというのに、どうにも朕は耳が遠くなったようだ。
王翦将軍。もう一度だけ答えろ。今、なんと申した?」
怒鳴っている訳ではない。息を荒げている訳でもない。だが始皇帝は静かに、そして確実に激怒していた。
徹底した合理主義者の冷血漢の始皇帝だが、その本質は激情家である。絶対零度の氷塊に閉じ込められているだけで、心の奥底にはマグマよりも熱い感情が煮えたぎっている。この冷たい問いかけは、その一部が氷塊よりあふれ出たようなもの。
絶対君主である始皇帝の怒りは、それだけで一国が滅びる原因にすらなりうる程のものだ。如何な気骨の士であろうと、これを浴びれば気絶は免れないだろう。
だが始皇帝に跪く王翦もまた音に聞こえし英傑である。国を滅ぼした英雄が、今更国を滅ぼす怒りに慌てふためくことはなく、毅然とした表情で真っ直ぐと始皇帝に応えた。
「臣、陛下より六十万の兵を与えながらも、みすみすこれを失い、敗北したるは全て我が責によるところ。今は土塊の身といえど、この上は如何なる御裁きをも受ける覚悟でございまする」
敗軍の将となったのが王翦だったのは不幸中の幸いだったかもしれない。
もしこれが他の者であれば始皇帝の激情は完全に爆発し、その怒りを沈むのに総大将とその三賊全員の血が必要だったことだろう。だがそうはならなかった。
王翦が六虎将筆頭にして最高の名将たる所以は、なにも単純に戦に強いからではない。
純粋なる武勇と破壊力であれば蒙武が上回るし、奇襲などの電撃戦では李信の方が強いだろう。
王翦には蒙武の武勇も李信の疾さもない。だが王翦はとにかく負けないのだ。どのような戦いにおいても『確実に勝てる』という状況を作り出した上で、絶対に負けない戦い方をする。もしも王翦が負ける事があるとすれば、それは『確実に勝てる』という算段が出来ていないにも拘らず、強引に出陣させられた場合だけだ。
今回のチンギス・ハンとの一戦は、始皇帝にとっても負けの許されない戦いであった。劉邦軍のような反乱軍の生き残り相手の戦とは訳が違うのである。
故に王翦が勝つために必要とした要求は全て呑んだし、寧ろそれ以上の用意を整えてやった。なのに負けたのである。しかも総大将である王翦自らが出頭してくるほどの惨敗で。
どうして負けたのか――――膨れ上がった疑問は怒りすら呑み込んで、始皇帝を落ち着かせた。
「敗因は?」
「……!」
「傀儡兵六十万、六虎将三人、対騎馬民族に特化したサーヴァントを三騎、指揮能力をもつサーヴァントがお前の隣にいる男含めて二騎、更にはキャスターとアサシンを二騎ずつ。
全てだ……朕はお前の出した要求全てに応えたはずだ。これだけあれば『勝てる』というお前の言を信じて。これだけ膳立てを整えてやったというのに、よもやただ負けたなどとは言わぬな」
相手が〝蒼い狼〟チンギス・ハンだったなどというのは言い訳にならない。少なくとも始皇帝はそんなことで納得はしない。
敵がチンギス・ハンだろうとアレクサンドロス大王だろうとユリウス・カエサルだろうと、無敵の将軍・王翦が『勝てる』と言った戦力を与えたのだ。
なのに負けたのである。であれば責任の所在を突き止めるより、敗因を聞き出す必要がある。
「……チンギス・ハンとの戦いは、一進一退なれど僅かに我が軍の優勢に進んでおりました。しかし戦いの最中に一人の騎兵が乱入してきたのです」
「サーヴァントか?」
「それは間違いなく。あれはサーヴァントだったよ。馬に乗っていたし、ライダーのサーヴァントだろうな」
始皇帝の問いに応えたのは王翦ではなく、その隣にいた将だった。
鎧の衣装は王翦と同じ中華系だが、体に秘めた魔力量は傀儡将の器では到底収まらない。
物静かな佇まいでありながら、自然と発せられる龍の如き気迫は王翦どころか始皇帝にも劣らぬものがあった。
始皇帝が聖杯を用いて呼びだしたサーヴァントの中でも、戦闘力・指揮能力の双方において特に優れた男である。これで主君に対しての忠実さがあれば
だからなのか始皇帝に対して特に畏まることもなく、群臣達の非難の目に晒されながらも憮然とした態度を崩す事はなかった。
「恐らくは聖杯のカウンターとして呼ばれたサーヴァントの一騎なのでしょう。あのライダーは戦場に現れるや否や我が軍と敵軍を無差別に攻撃していきました。
我が軍もモンゴル軍もサーヴァントを向かわせ邪魔なライダーを排除しようと動いたのですが、奴は単独でその悉くを返り討ちに。
このままでは不味いとモンゴル軍と一時休戦し、総力をもってライダーと当たったのですが、それでも倒せず。やがて公孫勝と思われるキャスターが、多数の神獣・神兵を率いてライダーの加勢に現れ………」
〝壊滅した〟
王翦のその言葉は、無音の宮殿内に重々しく伝わっていった。
「公孫勝はその後、どうした?」
「傀儡兵の斥候に追わせましたが……見失いました」
たった一人のサーヴァントによって秦軍とモンゴル軍双方が壊滅したなどと、常人であれば到底信じられる話ではない。突如として隕石が降ってきた、という法螺の方がまだ信憑性があるくらいだろう。
けれどこの場にいる中で始皇帝だけは王翦の弁明を世迷言と切り捨てるつもりはなかった。
何故ならば始皇帝本人が1189年の特異点で自ら実証しているからである。強力無比な一騎のサーヴァントは、万軍を凌駕しうると。
極めて我の強く自尊心の強い始皇帝だが、英霊の座には自らに比する英霊がいる事は憎々しく思いながらも承知している。もしそんなサーヴァントが出現したのならば由々しき事態だ。
「それでそのライダーはどんなサーヴァントだった? 我が軍とモンゴル軍を壊滅せしめたということは、余程強力な宝具なり特殊能力を持っていたのだろう」
「…………陛下。それが」
「どうした? なにを躊躇している」
「いえ、それが………何も、使わなかったのです」
「なに?」
「あのライダーには万軍を焼き払う聖剣も、如何なる武器を跳ね返す不死身の肉体も何もなかった。奴にあったのは極まった武芸と人間として究極域に達した身体能力。それだけでした。
ただそれだけ……そう、それだけに我が軍は成す術もなく滅ぼされたのです。悪夢のような光景でした。降りかかる対人、対軍宝具の悉くが純然たる力に捻じ伏せられていった。私の描いた戦略が、戦術が個人の武勇で引っ繰り返った。こうして命を拾った今でも信じられない。あれはなんだったのか」
「馬鹿を言うな――――!」
サーヴァントの強さとは〝宝具〟の強さと言い換えてもいい。白兵戦や魔術戦などサーヴァントにとっては小手調べに過ぎず、宝具同士の激突こそが勝敗を分ける。
中には英霊の技量に宝具が追い付いていないタイプもあるし、最底辺の格のサーヴァントには宝具すら持たぬ雑魚もいるだろう。しかし宝具や特殊能力を一切持たず、単純な武のみで英霊軍団を壊滅させるような化物など有り得ない。
ただ始皇帝の冷静な部分は囁いていた。これは傀儡将である王翦から齎された情報。傀儡将が主である始皇帝に対して嘘を言う筈がない。ならばこの報告は紛れもない真実であるのだと。
王翦から齎された衝撃の情報は、法家の権化たる始皇帝をもってして冷静さを取り戻すのに一分の時間を要した。
「…………一つ、この不才の身で分かったことがあります。あのライダーの武は正に神越。我が生涯に出逢った数々の豪傑もあれと比べれば木っ端。されどあの戦の流れを本能的に見抜く重瞳は、嘗て私が戦った項燕と同じものでした」
「!」
二代目を継いだ愚帝によって凋落するより以前、まだ始皇帝が中華統一という偉業を成し遂げる更に前。宰相として李斯という傑物を置き、古今無双の六虎将を軍事の頂点とした秦は全盛にあった。
その全盛期の秦軍を全滅せしめた男こそが項燕。秦における最後にして最大の宿敵である、大楚国に名を轟かせた鬼将である。
モンゴル及び秦の両軍を単騎にて圧倒せしめ、項燕に通じる眼力を持つ。これだけの情報があればその真名は自然と察しがついた。
「――――敵は項羽か」
「恐らくは」
史実において実際に秦を降伏させたのは劉邦だが、章邯率いる秦の主力を散々に打ち破り引導を渡したのは項羽だ。劉邦など例えるなら瀕死の虎に止めだけ刺したようなもの。仮に百人の劉邦がいても、一人の項羽がいなければ秦が滅びる事はなかっただろう。
謂わば秦にとっては呼吸する大災厄にも等しい存在だ。サーヴァントとしての力量が埒外なのは勿論、秦を滅ぼしたという歴史的事実が始皇帝のような秦国出身のサーヴァントには毒として働く。そういう意味ではチンギス・ハンよりも相性の悪い天敵とすらいえるかもしれない。
「同時代を生きる〝項羽〟は特異点化の際に弾きだしたが、よもやサーヴァントとしての〝項羽〟までこの地に呼ばれているとはな。これが〝運命〟だと? 忌々しいぞ吐き気がする」
自分が死んで直ぐの時代にレイシフトしたのが拙かったのか。1189年では予想外なほどスムーズに事が運んだ反動がきたのか、どうにも予定が狂ってばかりだ。
思考を切り替える。魔術王麾下にあったチンギス・ハンがやられたことで、全体の戦略図は大きく変わった。
これまではチンギス・ハン討伐に力を注いできたが、これから優先すべきは項羽の捜索及び抹殺。公孫勝の捕縛や劉邦軍の撃滅などは後で幾らでも出来る。
「ああ、しかしその前に雑事を一つ片付けておかねばな」
直後。王翦の後ろに控えていた傀儡兵の一人に、無数の槍衾が突き刺さった。
群臣達は元より王翦やその隣のサーヴァントすらが驚愕を露わに傀儡兵を見る。
「―――――――フフフ。賓客を迎えるにしては不作法じゃないか」
傀儡兵――――の皮を被った〝何者か〟は、彼を突き刺していた傀儡兵達が呑み込まれるように消えた。
渇いた拍手の音が反響する。皮を脱ぎ捨てた男は、如何な手品か天井を歩きながら始皇帝に歩み寄ってきた。
「だけど私の擬態を見抜いていたのは流石だ。いつから気付いた、と問うのは無粋だね。察するに最初から分かっていて放置していたんだろう?」
男は天井から飛び降りると、音もなく地面に着地する。
危ういながら否応なく惹きつけられる魔性の色気。蕩けた銀細工のような佇まい。妖しく艶やかな王気を放ちながら、瞳の奥には澄み切った蒼穹が広がっている。整った唇から微かに覗くのは、幾人もの生き血を啜った純白の牙だった。
この男こそがチンギス・ハン。中華を犯せし者。〝蒼き狼〟と異名をとった魔人。彼のイスカンダルと唯一比肩する東の征服王だ。
「そこの王翦の指揮ぶりは史書を読み解いた以上。我が愛し子等とは比べるまでもないが、傀儡兵の仕組みも使い捨ての雑兵としては中々。ここに居並ぶ群臣達とて私を前にして逃げ出さないとは、中々肝が据わっている。実に……実に喰らい甲斐のある獲物だ。食欲が疼く。胃袋が渇く。こんなにも欲情したのは久方ぶりだ。
なぁ。これは勧告というよりかは提案なのだがね。私の物にならないか? 君達の兵力を、能力を、勇気を――――私に捧げておくれ。その代わり私は君達に『幸福』を与えよう」
「朕の暗殺を企てた賊は多いが、我が前に立ちながら降伏せよなどと言う精神障害者は初めてだ」
「仏頂面するなよ。これは君の為でもあるんだ。人間というのは究極的には自分の幸福の為に生きる。そして『幸福』というのは領土を拡大したり、人間を支配したりすることじゃ決して得られない。握手をしよう。私の手をとれよ、嬴政。私がお前に幸せを教えてやる」
始皇帝からの返答は降り注ぐ矢だった。
「無礼者が。その薄汚い唇で〝私〟の名を呼ぶとは。もはやその命が存在する事を許容できん。褒美だ。貴様は皇帝としてではなく、サーヴァントとして殺す」
「フフフ。私も死んだふりなんて無様を晒して項羽から逃げてきた身だ。薄汚いというのは否定せんよ」
始皇帝が玉座から立ち上がると、亜空間より現れた白銀の甲冑が装備される。
自らの提案を無碍にされたチンギス・ハンだったが、特に激昂した様子はなく、寧ろこれから自分が奪う事になる命の大きさに笑みさえ浮かべてみせた
中華を支配した最初の皇帝。
中華を凌辱した災厄の皇帝。
ここに人類史に名だたる二帝が正面より激突した。
更新遅れて申し訳ありません。諸事情あってあれやこれやと試行錯誤していて遅くなりました。
さて、これから始皇帝VSチンギス・ハンになるわけですが、物語の流れとしてはこの戦い。ぶっちゃけあれです。FateルートにおけるアーチャーVSバーサーカーです。UBWルートの伏線のためキンクリして戦いの結果だけ描かれたあのイベントです。
始皇帝のガチバトルは主人公とのラストバトルまでとっておきたいので、本来ならこの戦いもカットすべきところなのですが……………始皇帝VSチンギス・ハンを見たいという読者の方が多いと思われるので次話でやります。
ただやはり物語の流れ的にはカットしたい話ですので、異例の事ですがもし始皇帝VSチンギス・ハンに特に興味を抱かれない方や、流れの本筋を重要視される方は、次々話でさくっと戦いの結果だけ書くので、次話は飛ばして見ないで下さい。
唐突なお願いで申し訳ありませんが、出来ればご一考を。では。