大地を踏みつけ、悠然と君臨しているのは天馬よりも勇壮で、神馬よりも美しく、どんな名馬より雄々しい黒馬だった。
自分は誰よりも速く駆ける。人間風情に己を御せるものか、英雄如きが自分を乗りこなせるものか、怪物などに屈するものか。毛並みよりも純黒の眼はそう告げていた。
だがそんな馬が全幅の信頼と敬服を置いて、馬上の男に身を許している。人間にも、英雄にも、怪物にも従わないが――――今この私に乗る人だけは別だ。自分は馬なんて乗ったことのない人間だが、この馬が考えていることははっきりと分かる。
そして偉大なる黒馬に跨る男は、正に英傑と呼ぶに相応しい威風をもっていた。
風に靡く外套は漆黒。林のように静かな佇まいをしているが、いざ戦となれば烈火となって戦陣を圧巻するであろう迫力がある。
なによりも目を引くのが威容にして異様な眼だった。一つの眼に二つの瞳を宿した重瞳子。自分の知識が間違っていなければ、東洋世界において聖王貴人の証とされる身体的特徴だったはずだ。
「…………」
「先、輩」
声が出ない。まるで丸裸で獅子と対峙しているかのようだ。黒馬と馬上の豪傑の圧倒的気魄に、森さえ呑まれ静まっている。
暫しの沈黙。馬上の豪傑は自分とマシュを見比べた後、ゆっくりと地面に倒れている三人の盗賊に視線を向けた。
「楚人じゃ」
馬上の豪傑が漸く声を発する。神仙をも凌駕する佇まいに反して、その声は若々しかった。
「話さずとも同郷の俺には、同じ楚人は勘で分かる。そして貴様等――――」
「っ!!」
三人の盗賊へ向けた慈しみとは対極の、魂魄すら焼き尽くす灼熱の眼光が自分達へと向けられた。
「楚人が分かるのと同じように、そこの盾を構えた
「聖杯!?」
「というと貴方がこの時代の――――」
ジル・ド・レェ然り、ロムルス然り、イアソン然り、マキリ・ゾォルケン然り。
これまでの特異点では聖杯を持っている元凶は、最終局面に至るまでは自分達の拠点から動かないでることが多かった。だから漠然と聖杯の所有者は最後に戦うものという固定観念が芽生えつつあったのだが、それ故に衝撃は大きかった。まさか聖杯の持ち主といきなり戦う事になるだなんて。
「まぁどちらでも良い。死ねぃ、疾く死ねぃ。楚人の敵は
押し寄せてくる殺意の濁流に、心が流されそうになる。
だが駄目だ。ここで自分が倒れたらこれまでの全てが無為になってしまうし、なによりもマシュが諦めず立っているのに、マスターである自分が先に諦めるなんて出来ない。
「先輩。戦闘回避不可能です。交戦以外、私達の生存確率は皆無と判断します」
『無茶だ二人とも! 二人だけで勝てる相手じゃない! 現地の他のサーヴァントと協力しないと!』
「分かっている」
各特異点の聖杯所持者達を倒してきたのは、自分とマシュだけの力ではない。ジャンヌ、ネロ、ドレイク、モードレッド……その時代で出逢ったサーヴァントの助けあってこそだ。二人だけではきっと勝てやしなかっただろう。
けれど撤退しようにも、自分達の移動速度ではあの黒馬のスピードから逃れられるはずもない。かといってソロモン王のように気紛れで見逃してくれるような慢心は、この豪傑からは欠片も感じられなかった。
故に戦うしかない。戦って血路を開く以外、道はないのだ。
「カカッ! 良い塩梅の気迫じゃわい。殺し甲斐が……」
無骨な大矛が天を衝くように振り上げられる。
「あるのう!」
裂帛の気合いと共に大矛が振り下ろされた。
振り上げた矛を敵目掛けて振り下ろす。それ自体はなんの特徴もない、それこそちょっと戦を齧っただけの新兵だって出来るような初歩的動作だ。
だというのにこの豪傑が振り下ろした大矛は全てが埒外だった。
速度が埒外。
重量が埒外。
気力が埒外。
威力が埒外。
その他合計九百九十九にも及ぶ全てが埒外。
本能が理解する。人間が届かぬ超越者たるサーヴァントを更に超越したEX級サーヴァントの力というものを。
この領域の英霊が振るう矛は、それそのものが並みのサーヴァントの宝具に等しい破壊力を秘めるという絶望的事実を。
矛は空間を薙ぎ払いながら、マシュの頭上へと降りてくる。だが
「宝具、展開します……!」
デミ・サーヴァントであるマシュは、自分より数瞬早くそのことに思い至ったらしい。そのことが自分達の命を救った。
擬似展開されるのは
あくまで擬似展開であって真の真名解放ではないため真価を発揮できないが、彼の聖剣すら防ぎきった防御だ。そして鉄壁の守りは此度も命を護った。
弾かれる大矛。馬上の豪傑は僅かに眉を動かすと、
「使っておる盾も悪くない。が、使い手はまだまだじゃのう。宝具の性能を引き出せておらぬわ」
「くっ……!」
「マシュ!」
「感謝です」
第二撃。宝具の連続展開は厳しい。かといってあの矛の一撃をまともに受けてはただではすまないだろう。受けて駄目なら躱すしかない。カルデアで支給された魔術礼装の力を使い、マシュに回避効果を付与する。
そしてどうにか矛の第二撃も凌ぎ切った。そこからの第三、第四撃、第五撃まで回避したところで回避効果が消失した。
魔術礼装カルデアの付与効果は優れたものばかりだが、如何せん自分の魔力量では再発動までにかなりのインターバルを要する。宝具発動に必要な魔力も溜まっていない。よって第六撃は受けるのも回避するのも不可能だ。
「だとすれば! マシュ、攻めるんだ!」
「はい!」
こちらから攻勢に出る他ない。三連続攻撃の後に生まれた僅かな合間。そこへ全力の一撃を叩きこみ、戦闘継続不可能な程のダメージを与える。
魔術礼装の付与効果の一つである〝瞬間強化〟によって攻撃力を底上げすると、マシュは盾を構えて特攻を仕掛けた。
「甘いわ!」
「かはっ!」
しかし豪傑は迫りくる盾を、生身の拳で殴りつけてきた。
マシュの持つ盾は、宝具の中でも上位に位置する一品。幾らなんでもただの拳でどうにか出来る筈がない。そんな楽観はあっさり打ち砕かれる。
瞬間強化までかけた文字通りの全身全霊の一撃。それを豪傑の放ったただの拳は、いとも容易く凌駕してきた。
鉄拳の衝撃は盾を貫通してマシュを襲い、吹っ飛ばされたマシュは木に叩き付けられる。
『な、なんて出鱈目な……。宝具である盾を単なるパンチで吹っ飛ばして、マシュにダメージを与えるなんて。め、滅茶苦茶だ……』
これまで幾人ものサーヴァントを観測してきたロマンも、いや観測してきたからこそロマンの驚愕は凄まじいものだった。
しかしロマンはまだいい方だ。当事者である自分には言葉すら出てこない。
『こうなったら強制的に二人をどこかへ飛ばすしか……ああ、こんな時に観測が……できなく……っ』
ターミナルポイントを設置していなかっただろう。ロマンとの通信が唐突に途絶える。これで本当に自分達は孤立無援の絶体絶命に追い詰められた。
「まだ、です。まだ戦闘続行は、」
「いや終わりぞ」
盾を杖にしてよろよろと立ち上がろうとするマシュに、馬上の豪傑は止めの一撃を振り下ろそうとする。
「やめろー!」
自分なんかが助けに入ったところで意味なんてない。一緒に斬りつけられるだけ―――――そういう当然の思考すら蒸発して、気付けば自分はマシュの下へ駆けていた。
けれどもどかしい。声はこんなにも早く届くのに、どうして体はこんなにも遅いのだ。自分の手が届くよりも早く大矛が動き、
「払え、
刹那。颯爽と割って入った緑色の閃光が、矛を留めた。
意識せずとも一挙手一投足が自然と華になる風靡な出で立ち。輝く貌に妖しく浮かぶ愛の黒子。共に戦った時間は短かったが、それでも忘れるはずがない。
「ディルムッド、さん!」
残骸との戦いでスカサハにより呼び出された槍騎士、ディルムッド・オディナがそこにいた。
「久しいな、盾の乙女よ。月の女神の次は馬上の覇者とは。そなた等の行く手には難敵ばかりだな」
ディルムッドがこの時代にいて助けてくれたということは、彼こそこの時代に召喚されたサーヴァントの一騎なのだろう。
有難い。ディルムッドの槍捌きの冴えは以前の戦いで存分に見ている。彼ほどの英霊が味方になってくれるならば、この状況もどうにか出来るかもしれない。
「
「いいや。矛を下ろすのはお前の方だぞ、覇王」
長き時を生きた賢者にも、世界を旅する風来坊にもとれる掴み処のない声が森中に響き渡る。
馬上の豪傑にとってその声は馴染みあるものだったらしく、ディルムッドへ向けようとした矛を止めた。
「入雲竜。何じゃ今頃?」
馬上の豪傑が一際大きい木の上に視線をやる。それに釣られるように同じ方向へ顔を向けると、そこには洒落に着崩した道士服を着込んだ男がいた。
「天地を震わす神越の武勇はまことに伝説通りだが、ちと考えが鈍いし早計だったな。その両名はお前の敵ではないし、楚人の敵でもない。そこで転がっている三人は盗賊で、二人はそれを撃退しただけだ。その両名の時代に合わせた言い方では〝正当防衛〟というやつだよ」
「それは
問いかけに必死に首を縦に動かす。
なんというか状況が少し変な方向に向かっている。てっきりこの時代の所持者はこの豪傑なのかと思ったが、あの入雲竜との話しぶりから察するに、これは。
「入雲竜。貴様、最初から見ておったなら何故それを先に言わん。お蔭で無為な殺生をするところだったぞ」
「はは、許せ。そこの少女の健気な勇気を鑑賞したくて、ついつい止めるのが遅くなってな」
「相変わらず底意地の悪い男じゃわい。――――そこのマスターとサーヴァント。勘違いで襲ってすまんかったのう。なにか詫びを入れたいところじゃが、ちと俺には急ぎの要があってのう。それを片づけてからまた会おうぞ!」
「ちょっと、待った!」
事情はさっぱりだが、兎も角なんでもいいから話を聞かせて欲しい。そう思い呼び止めたのだが、その時既に黒馬は走り去っていた。
来た時がいきなりなら去る時もいきなりである。
「先輩、上を!」
「え? ってあの道士っぽい人もいなくなってる!」
あの豪傑に続いて入雲竜と呼ばれた道士までいなくなってしまった。
この場に残ったのは自分とマシュと縛られた盗賊三人、そしてディルムッド・オディナだけだった。
「何やら慌ただしいが、俺も召喚したばかりで状況を掴めていない。ここは共に行動したいのだが如何か?」
まともに話の通じるサーヴァントが、これほど有難いものだと初めて痛感した。
「陳勝」
中国史上初めての農民反乱の指導者。王侯将相寧んぞ種有らんや(王や将軍になるのに血筋なんて関係ないという意味)と燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや(燕や雀みたいな小さな鳥に、大きな鳥の志は分からないという意味)の名言で有名。
元は秦に徴兵された兵士に過ぎなかったが、任地へ向かう途中で大雨に合い、期日に間に合わなくなったことで反乱を決意。仲間の呉広と共に陳勝・呉広の乱を起こした。
国中が秦の統治に不満を持っていたことも手伝い、陳勝率いる反乱軍は爆発的に増大。遂には農民階級でありながら王位につき、国号を張楚とした。
しかし秦将・章邯に敗れると、御者の荘賈に裏切られ殺されるという非業の死を迎える。ただ彼の起こした反乱を切っ掛けに項梁や劉邦なども各地で決起しており、陳勝の存在がなければ後の漢王朝成立もなかったかもしれない。
また陳勝のような農民出身者が王になるというのは、当時としてはかなり画期的な事であり、これ以後の中華では陳勝と同じく血筋すら定かではない人間が『王』を名乗るという事例が頻発することになる。
もしかしたら中華における『星の開拓者』の一人といっていいかもしれない陳勝だが、失策もかなり多く、秦を滅ぼして天下統一するには器は足りなかったと言わざるを得ないだろう。
作者はそういうことも含めて秦末期で好きな人物の一人なのだが、残念ながらこのssでの出番はない。
「周文」
陳勝配下の将軍。嘗て楚の項燕や春申君に仕えていたが、陳勝が反旗を翻すとその配下となる。
そして陳勝の命を受け数十万の兵を率いて秦本国を攻めると、函谷関を突破して秦を滅亡一歩手前まで追い詰めた。函谷関は魏の信陵君でさえ落とすことが出来なかった、秦建国以来一度も抜かれたことがない要害で、函谷関失陥の報は秦を絶望のどん底に叩き込んだ。だが秦将・章邯に大敗し、函谷関は再び秦のものとなる。
敗れた周文だったが追撃する章邯相手に粘り強く反攻し、二か月もの時間を足止めすることに成功する。そしてこれ以上戦うことは出来ないと判断すると自刎して果てた。
項羽、章邯などの影に隠れているが秦末期における名将の一人であり、彼の稼いだ二か月という時間が、反乱勢力を大いに助ける事となる。
「章邯」
秦王朝最後の名将。少府という文官に過ぎなかったが、周文が函谷関を突破すると、二十万の囚人を兵士として登用するという策を進言し、自らその鎮圧軍の将となる。
将となった章邯は各地の反乱勢力を次々に破り、陳勝、項梁などといった反乱の中心人物をも死に追いやるなど凄まじい戦果をあげた。だが章邯の将才をもってしても、項羽にだけは勝てず、敗北を重ねる事になる。
最終的に趙高に陥れられたことで項羽に降伏するが、それからが更なる悲劇の始まりだった。
「胡亥」
クサレ脳ミソ。
「趙高」
性悪チンナシ。
本編中で解説すると冗長になりそうな話は、これからは後書きで補足していくことにします。今話に出てきた「入雲竜」とかはたぶん作中で説明するのでやりません。