テセウスは消え去った。ただし倒したことで消滅したのではなく、宝具による空間転移という形で。
自分達を捕えていた大迷宮が崩壊していく。迷宮内に発動者であるテセウスがいなくなったことで核を失ったからだろう。地震にもびくともしないビルだって柱がなければ脆く崩れ去るのと同じだ。
兎も角これで迷宮からの脱出は果たした。後は劉邦と一緒に攻めてきた秦を追い払えば万事解決――――なんて考えが甘い幻想であると、自分達は直ぐに思い知る事となった。
「先、輩。これ、は……?」
「くそっ! 一足遅かった!」
外界に戻ってきた自分達が最初に感じたのは灼熱。劉邦の寝所は今や火の海に包まれていた。
マシュが咄嗟にシールダーのスキルで守ってくれたので、炎が自分達を焼くことはなかったが、この炎の勢いはもはや止めようがないのは明らかである。そして遠方から聞こえてくる兵士達の悲鳴が、もはやこの城が陥落したという絶望的現実をこれ以上ないほどに告げていた。
この事態に歴戦の英霊であるディルムッドと、将の樊噲は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
軍組織とは確固たる拠点と補給を確保することによって成り立つ。それのない軍など単なる賊に過ぎない。地理が滅茶苦茶になった
「あちゃ~。この様子じゃ碭は落ちちまったみてえだなぁ~」
だが軍の長たる劉邦は『最悪の事態』を想定していたのか、まったく何でもないことのように言った。
出会ってから姑息さばかり目立つ劉邦だが、一応人類史における屈指の大英雄の一人であることに違いはない。漢王朝四百年の歴史を築き上げた業績と偉業は、アレキサンダー大王やユリウス・カエサル、そして始皇帝にも劣るものではないだろう。
もしかしたら彼には何か打開策があるのかもしれない。
「沛公。どうしますか?」
「はは、どうするかだって?」
瞬間、劉邦の笑顔が吹き飛んだ。
「ンなことこっちが聞きてぇはボケェえええっッ!! なんなの、これ!? 変なデカいのに寝込みを襲われるわ、剣からなんか火が出るわ、死ぬ思いして迷宮から出たら今度は城陥落!?
呪われてんのか畜生! やってられるか糞! なんで俺はいつもいつも少し流れがこっちに向いてきた瞬間に絶体絶命の窮地に陥るんだよ!」
ダムを決壊させた濁流のように劉邦が溜まりに溜まった不満をぶちまける。その剣幕は樊噲が諫言を躊躇う程のものがあった。
だがしかし無理もないかもしれない。劉邦からすれば気付けば自分の住んでいる国の地形が滅茶苦茶になって、英霊率いる傀儡兵の集団と孤立無援の状態で戦う羽目になっているのだ。魔術について一切知識のない劉邦からすれば、文字通り右も左も分からない中で戦ってきたわけである。寧ろ劉邦はよくやってきた方だろう。
それに劉邦という男は自分の命の危機にただ泣きわめくほど愚かな男ではない。
「問題はこっからどうすっかだな。城が落ちてんのは間違いねえとして、せめて生き残って踏ん張ってる奴等がいるのか、敵がどんくらいの規模かくれえは把握しておきてえべ。じゃねえと逃げるに逃げられん」
「逃げる前提なんですか?」
「勝てねえ戦にゃ逃げるのが最適よ。城を枕に討ち死にってのは俺の性質じゃねえし、魏咎のように民のために我が身を犠牲になんてのも怖気が奔るしな。生きて生きて……生き延びてやるさ。生きてさえいりゃ運が巡ってくることもあるだろう」
劉邦から吐き出されたのは一切の虚飾のない剥き出しの本音。
生きる。生きて生きて生き延びる。例え肉親を犠牲にしようと、民草を囮にしようと、忠実な家臣を生け贄としようと己だけは絶対に生き延びてみせる。
見方によっては醜悪な、けれど否定できぬ輝きがそこにはあった。
『――――なるほど。剥き出しになった生の感情。貪欲で原始的な生存欲求はそれ故に合理性がある。始皇帝ほどじゃないにしても私の最良のパトロンに少し通じるところがあるな。こんな男だからこそ生々しい欲望渦巻くの戦乱の時代を最終的に生き延びられたというわけか。
ああ、生き延びることこそ何よりも優先される。正に道理だとも。死ねば人は終わる。魂が天に召されようと地へ堕ちようと、死んでしまえばこの現実世界になんら影響を及ぼすことが出来なくなるんだ。だったら全てを犠牲にして生き延びないとね』
ロマンと共にモニタリングしているダ・ヴィンチは、いつになく熱の籠った声で捲し立てた。
西洋圏とは様々な面で異なる東洋世界。その礎を築き上げた英雄を目にしたことは、万能の天才の心を揺るがすものがあったのかもしれない。
ふと横にいるディルムッドに視線を向ける。ディルムッドは発することもなく、静かに見定めるよう劉邦という男を直視していた。
万能の天才ダ・ヴィンチは劉邦の生き汚さを〝良し〟と評したが、果たして騎士たるディルムッドの内心は如何なものなのか。それはマスターである自分にも窺い知ることは出来なかった。
「義兄上にカルデアの皆様方も。どうやら悠長に話している時間もなさそうですよ」
「みたいだね」
自分達が迷宮から脱出したのを嗅ぎつけたのか傀儡兵が寝所に集まり出していた。
数はざっと三十体ほど。サーヴァント級の実力者がこちらには三人もいるので三十体の傀儡兵など物の数ではないが、ちんたら戦っていては次から次へ湧いてくるのは経験則で知っている。手早く片付けて脱出するべきだろう。
しかし樊噲やディルムッドが掃討に出るよりも早く、傀儡兵は突風のように現れた黒い影によってバラバラに切り刻まれた。
「沛公! 戦列にサーヴァントらしき巨漢が加わったのでもしやと思いましたが、やはり迷宮から帰還を果たされていましたか」
「土方さん!」
「マシュ……それに。いや、礼を言わせてくれ。よくぞ沛公を連れ戻してくれた。お蔭で不幸の中から幸を一つだけ拾うことが出来そうだ」
土方は微笑み礼をもって謝意を告げた。純粋たる感謝に僅かに空気が和らぎかけるが、樊噲の渋い声が一気に現実へ引き戻す。
「それより土方。察するに城は落ちたのだろう? 我々は一刻も早く義兄上を連れて脱出せねばならん」
「ご安心を。脱出路は確保してあります。こちらへ」
考えている時間はなさそうだ。この火炎地獄のただ中にいれば待っているのは死という末路だけ。逃げた先に絶望が待っていようとも、絶望の中にある一筋の希望を信じて今は逃げるが勝ちである。
土方の案内で自分と劉邦達は炎上する城を全速力で脱出する。
「それより土方。外にはお前だけじゃなく曹参、夏侯嬰、周勃達もいたはずだろう。なのにどうしてこうも短時間で城が落ちた? 敵軍は余程の大軍だったのか?」
走りながら樊噲がそう問うた。
土方が劉邦軍に入ったのは当然ながらこの時代が特異点化した後なので、土方歳三は軍中でも一番の新参者といえる。そんな土方が軍の幹部たりえているのは彼の能力を見抜いた劉邦の采配もあるが、土方歳三が将として強い人間的魅力を持っていたからでもある。記録において新撰組隊士から母親の如くに慕われたという史実に偽りはなく、土方はその人柄で劉邦軍の古参達とも良き関係を築くことが出来たのだ。
だからこそ樊噲は解せないのだろう。同じく古参たる将達に土方歳三という男までいて、どうしてこんなにも早く城が陥落してしまったのかが。
「いや。秦軍を率いていた将の一人は以前と同じ宋江。彼の使う数々の『宝具』は厄介なものでしたが、敵軍の数は寧ろ先の一戦のせいで減っていた程ですよ。敵将が宋江だけなら私は兎も角、曹参将軍達なら十分持ち堪えられたでしょう。
けれど秦軍を率いていた将は宋江だけではなかった。もう一人いたのですよ。……嘗て六国を滅ぼした秦国の大将軍が一人、李信が」
「り、李信だとぉ!?」
これに驚愕を露わにしたのは、劉邦だった。
「馬鹿言うんじゃねえ! 李信含めた秦の六虎将はもう寿命なり粛清なりで全員くたばったはずだろうがっ! なんで死んだ李信が将になって―――――って、そういやサーヴァントってのは死人が蘇ってどうたらこーたらするって類の呪いだったな。親玉が始皇帝だとすると他の六虎将も蘇ってやがんのか? 王翦はまだしもお願いだから白起まで蘇ってこないでくれよ。あんなん項羽の次に相手にしたくねえよ」
劉邦が泣き言を言うなんて……いや、いつものように言っているが、それでもここまで取り乱すあたり相当だろう。
ただ生憎と自分は始皇帝、劉邦なんていう有名所は知っているが『李信』なる人物については知らないのでしっくりこなかった。
けれど問題はない。こういう時の為にカルデアには頼りになる
「そういうわけでドクター。李信とか六虎将ってなんなんですか?」
『どういうわけかは知らないけど、六虎将っていうのは秦国で特に勇壮さを称えられた六人の将軍達の事だよ。アーサー王伝説の円卓の騎士とか三国志の五虎将みたく最強の六人みたいな感じで捉えてくれればいいよ』
「成程。その李信という将軍はその一人というわけなんですね?」
『うん、マシュの言う通りだよ。けど李信に関しては記録があんまり残ってないから、僕も余り詳しい事は分からないんだけどね。というか李信は本人より子孫の方がとんでもないのが多いし』
活躍すれば必ず歴史に残る訳ではない。極端な話だが全人類が裸足で逃げ出すほどの偉業を成し遂げた人物であろうと、その偉業を誰一人として後世に伝えなければ、後世の人間は誰一人としてそれを知る事はない。
歴史書は必ずしも真実をありのままに語るものではないが、そもそも語られていない歴史というのも人類史には多々あるものだ。李信もそういう余り活躍を後世に伝えられなかった英雄なのだろう。
「沛公! ご無事でしたか!」
南門から出ると劉邦軍の将の一人が馬を走らせてくる。将は馬からするりと降りると跪き、
「どうかこの馬をお使いください。敵将が気付く前にお逃げくだされ」
「この手際の良さ。うちの軍は逃げ足だけなら項羽軍にも負けねえべ」
苦笑いしながらの劉邦の言葉に返答できた者は誰もいなかった。
総大将である劉邦が自虐するだけあって劉邦軍の撤退は実に鮮やかなものだった。
敵軍を率いる将の一人は李信。秦国六虎将の中でも特に電撃戦と速攻に秀でた猛将である。だからこそ劉邦軍は李信が城を完全に落とし切る僅かな間に一気呵成の退却を成した。
これが楚漢戦争時の劉邦であれば他の居城や陣地へ逃げ込み、追手に対して執拗なゲリラ戦を仕掛けることで出血を強要するという厭らしい戦術に打って出ただろう。しかしながら碭以外に拠点を持たない今の劉邦軍にはそれは出来ない。劉邦軍のとれる道はあてのない放浪という最も不味いものだけだ。
拠点を失った軍は脆い。蕭何の手腕により放浪中でも食料が枯渇するという最悪の事態にこそ陥ってはいないが、既に将来を不安視して兵卒からどんどん逃亡者が出始めている。対策として見張りをたてても見張りの兵ごと逃げ出すという有様に、さしもの劉邦や名将達もお手上げだった。後の好敵手が辿る末路と余りにも似通った状況は歴史の皮肉を感じざるを得ないだろう。
「随分と、寂しくなっちゃったね」
カルデアのマスターである自分は、あくまで劉邦軍にとっては『客』という立場だ。だから軍が崩壊を始めている現状も劉邦軍の諸将ほどショックではないが、こう真綿で首を絞められていくようにゆっくり崩れていく只中に身を置くのは辛いものがある。
「はい。これまで幕舎にいた警護の兵隊の方々がいなくなってます。恐らく私達に兵を回すほどの余分がなくなってきているのだと考えられます。……護衛兵の関さんと張さんと漫才トークが聞けなくなって寂しいですね、先輩」
「うん。あの人達、まだ残ってるのかなぁ」
「どちらにしても生きておられることを祈るばかりです」
最初の護衛兵だった呂さんと董さんの二人は真っ先に脱走したというし、二人も逃げてしまったのかもしれない。
逃げたとしても大陸は滅茶苦茶だ。生きていくのは難しいだろうが、幾ら二千年以上前の人間だろうと言葉を交えた人には生を全うして欲しいと思うばかりだ。
「なにやら浮かない顔だね、二人とも。こんな状況だから無理もないことだけど」
自分達の幕舎に入ってきたのは、黒いコートを羽織った土方歳三だった。
軍が放浪中のせいか若干の疲労感はあるが、兵隊と違って顔には生気がしっかりとある。これは何も彼がサーヴァントの身だからではないだろう。
「土方さん! どうですか、その状況は?」
「変わりなし、絶望真っ只中さ。軍中はもう完全にお通夜ムードだよ。あ、沛公含めた半分くらいは夜逃げムードだったよ」
「大丈夫なんですか、この軍」
「一応まだぎりぎりのところで軍としての纏まりは保っているよ。ちゃんと中核の将達は全員残っているし。そこは流石と称賛する他ないね。
「そこは笑うところなのでしょうか?」
マシュがツッコミを入れると土方は笑った。笑うしかないという笑いだった。
「けどやはり絶望的な事には変わりはない。この大陸の地理が滅茶苦茶になって嘗ての自領の場所すら定かじゃなく、向かう先も行く当てもなし。皮肉な事にそのせいで脱走兵も帰る場所がなくて抑え気味なのは幸いだけどね。
そして城を落とした李信だって城を落とした程度で満足するほど生温くはないだろう。私ならこの機会に劉邦軍壊滅を狙って追撃を仕掛けるし、たぶん李信も既に動いているはずだ。
軍がこんな有様なのに李信率いる秦軍と戦ったら十中八九全滅。私や君達が奮闘すればサーヴァント戦では勝利を掴めるかもしれないけどね。遠からず劉邦軍は終わりだよ」
「それにしては御身は泰然と構えているな」
「貴方にはそう見えるかい?」
ディルムッドの槍のような詩的に土方は神妙な顔付になった。
「そうでした! 土方さんは確か蝦夷地では連戦連勝負け知らずの常勝将軍! 彼の二股口の戦いでは自軍の倍以上の新政府軍を撤退させた事もあると聞きます。もしやなにか秘策があるのでは?」
マシュは日本人ではないが、ロマンがわりと日本通な事が影響してそれなりに日本には詳しいほうだ。新撰組についても普通の英霊以上に良く知っているし、新撰組の活躍を描く物語において土方歳三といえば名将というイメージが強い。
だからこそ土方歳三ならばなんとかしてくれるのではないか。マシュにはそういう期待が見えた。
「……期待を裏切るのは酷だけど、ないよ。私が泰然としていられるのは単に負け慣れているだけだ」
「!」
「〝常勝将軍〟なんてメダカを龍と呼ぶくらいの過大評価だよ。私は古の英霊達のように負け戦を勝ち戦にしたことなんて一度もない。勝った戦は勝てる戦だけだし、そもそも苦渋を舐めさせられた経験の方が多い。
二股口の戦いだって〝数〟以外の条件が圧倒的有利だったから勝てただけ。他の戦地へ派遣されていたら惨敗していたよ。これは断言できる。
後世ではやたらと持ち上げられているが土方歳三なんてその程度の人物。沛公やディルムッド殿のような真の英霊と肩を並べるには不相応な男だ」
「――――東方の侍よ。あまり己を卑下するものではない」
浪々と語る土方に何も返せない中で『待った』をかけたのは、西洋の騎士であるディルムッドだった。
「ディルムッド殿?」
「俺は貴公の事を聖杯が与えた知識以上は知らんが、聞くところによれば新撰組なる治安組織の副長で後には長となったそうだな。
問うが貴公に付き従った者達の中に貴公を慕う者はいなかったのか? そうではないだろう。貴公の過去は知らずとも今を知る俺には分かる。貴公には命を賭けて付き従った
ならば己を下げるな。それは転じて貴公に従った者達まで貶める行為に繋がるぞ」
将の気持ちは将になった者にしか分からない。ディルムッドは将ではなく、どちらかといえば将に付き従う側の英霊だ。
だが――――否、だからこそ〝付き従う立場〟として将に言えることがあった。
「忠告、痛み入る。胸に染みるよ。けどね、思ってしまうのさ。私達は幕臣としての誠のため薩奸長賊と戦ってきたが、本当にそれは正しかったのか、とね。
散々尊王攘夷を叫んでいた癖して掌返して夷狄と手を結び、ずっと何もしてこなかった朝廷をさも日ノ本の正統が如く揚々と担ぎ上げて、卑劣な手段で三百年日ノ本を守り続けた幕府への恩を忘れ弓引いた薩長共。連中を敵と定め戦う事に生前はなんの疑問も抱いていなかったが、一度死んで後世を知れば私の目にも見えてくるものはある。
幕府を倒した薩長は作ってしまったんだよ。清にも夷狄にも負けぬ強い国を。日本が列強の一角たる露西亜をも破るほどの成長を遂げたのは間違いなく薩長の功だ」
「土方さん……」
自分達の前で土方は悩みを吐き出す。そこに鬼の副長も菩薩もいない。そこにいたのは当たり前に悩む等身大の一人の男だった。
「まったく英霊召喚というのは残酷なシステムだよ。先を知らず死んだ者にも、こうして冷酷に
薩長の作った国が正しかったならば、私達の戦いは間違いだったのか。蝦夷地で薩長に反抗を続けたのは日本の歩みの足を引っ張る事に過ぎなかったのか。新撰組はあるべきではなかったのか。
主義主張も善悪も気にせず戦えれば楽なんだがね。近藤さん亡き新撰組の長を継いだ者には許されない。それは逃げだ。
私よりも遥かに先を見据えていた榎本さんなら何か解を持っているのかもしれないけれどね。不明な私は迷うばかりで答えは一向に見付からない」
今度はディルムッドも何も言いはしなかった。騎士として〝従う者〟としての発言に意味はない。もし土方歳三に何かを言える者がいるとすれば、それは王侯や将軍のような人の上に立つ者だけだろう。それも土方歳三のように『歴史の流れ』という残酷なものに押し流された経験のある者だけ。
当然だが自分にそんな経験は一度もなく、だからこそ何も言えなかった。しかしマシュは、
「私は人の上に立った経験がないので、土方さんの悩みに知った風な口を利けません。けれど結果論で行動が間違いだと決めつけるのは、違う……と、思いたいです」
迷いながらも絞り出したマシュの答えに、土方はまるで年の離れた兄のように微笑む。
「すまないね。悪い空気を更に悪くしてしまったようだ。特異点の解決とは関係ないことだし気にしないでくれ。
大丈夫だよ。こんな悩みで刀を鈍らせたりしない。私の過去の戦いの是非は兎も角、人類史焼却を防ぐという大義は絶対的に正しいもののはずだ。正邪がはっきりしているのなら迷いようがないさ」
もしかしたら自分は幸運だったのかもしれない。
人類史焼却という未曽有の悪行をなしたソロモンは悪であり、それを倒そうとする自分達は必然的に善側に立っている。立ってしまえている。
これでソロモンがやった事が人類史の焼却などではなく、ある種の救済であれば自分も土方のように己の善悪について悩んでいたかもしれない。
「もし。宜しいでしょうか?」
そんな時、幕舎の外から兵士の声がした。
「あ、はい。なんですか?」
「申し上げます。沛公様がお呼びです。直ぐにお越しください」
「沛公が? 分かった。行こう」
劉邦が態々自分達を呼ぶという事は何かがあったのだろう。
待たせては悪いので土方と一緒に劉邦の幕舎へ急いだ。言うまでもなくマシュとディルムッドの二人を同伴である。
「おう、来たか」
幕舎では既に劉邦軍の諸将が勢揃いしていた。どうやら自分達が一番ビリッケツらしい。
「どうしたのですか? まさかまた敵が――――」
「いいや。今回は朗報だぜ。なんと偵察の兵が沛を見つけたって言うんだ!」
「ほ、本当ですか!?」
沛公と劉邦が呼ばれている事からも分かる通り、沛というのは劉邦が挙兵した最初の本拠地である。
劉邦が正式に楚の幹部となってからは既に本拠地は映っていたが、それでも特異点化前までは劉邦の領土の一つだった。その沛が見つかったという事は、劉邦軍は当てのない放浪生活から解放されるという事を意味していた。
「おう。ここから北に進んだ所にあったらしい。沛にゃ秦軍もいねえみてえだし、あそこに戻ればどうにか軍を立て直せる。これで九死に一生を得られそう、」
「御注進! 御注進!」
「どうした! 今は重要な軍議中だぞ」
「し、秦軍の追手が直ぐそこまで迫っています! このままでは追いつかれます」
「このタイミングで!?」
天国から一転しての地獄。
敵軍を率いるは猛将・李信と賊徒・宋江。李信は速攻に秀で、宋江は数々の宝具を操る難敵だ。捉えられれば一貫の終わりである。
「沛公。このまま沛へ逃げたとして間に合うかどうか。もし途中で追いつかれれば全滅は必至。ここは誰か殿を命じになられるのが最良かと」
諸将が顔を青褪める中、蕭何が冷静に提案する。
「……殿、か」
確かにそれが一番最良の決断には違いない。全員で逃げて全員死ぬより、一部を犠牲にしてそれ以外が助かるのが賢い判断というものである。
故に劉邦は素早く蕭何の提案を容れ、殿を用いる事を決めた。
けれどここで問題となるのは人選である。殿に選ばれた将は確実に生きては帰れないだろう。なにせ相手が相手だ。生きて戻れると楽観するほうがどうかしている。
下手な人間を選べば役目を放棄して逃げ出す危険性がある。かといって樊噲や夏侯嬰のような自分の懐刀を切り捨てるのには抵抗があった。
しかし樊噲のような猛将や曹参のような戦上手でなければ、秦軍相手に殿の役目をこなせないにも確か。
「沛公。では私が――――」
真っ先に名乗り出たのは樊噲。それを見て劉邦も『残念だが止むを得ない。残された子に報いることで供養としよう』と思いかけた時だった。
「待たれよ樊将軍。貴方は沛公の義弟、軽々しく命を投げ捨てるものではない。私がやりましょう」
樊噲を制して土方歳三が名乗り出た。
「土方さんが!?」
これに最も驚いたのは土方と縁の深いカルデアの面々。特にマシュだった。
劉邦は目を細め、土方の面構えを見る。それで腹は決まった。
「……土方か。兵はどれだけいる?」
「無用、一人で十分です。これでもサーヴァント、数を補う切り札は持っています故」
一人で足止めなど普通なら笑い飛ばすか叱りつけるかしたところだが、これまで散々サーヴァントの出鱈目な奇跡の数々を目の当たりにしてきた劉邦である。土方の答えにゆっくり頷いた。
「分かった。任せたぞ」
「御意」
死にゆく我が身に語る言葉はない。そう告げる様に土方は颯爽と幕舎を出て行こうとする。
マシュがそれを止めようとするが、土方は笑って首を横へ振った。
「そんな顔をするな。誰か一人が死ぬのであれば、死者である私が真っ先に死ぬべきだろう」
死神の憑いたサムライを止める事は誰にも出来ない。
土方歳三は劉邦に無言の別れを告げ、一人で最後の戦場へと赴いて行った。
「後書き」
ちょっと急ぎ足ですが、このままダラダラやっていても仕方ないので土方さんの退き口。たぶん秀吉ルートはありません。この流れで次回も土方さんのターンです。
しかしそろそろ公孫勝とか出さないと不味い。始皇帝なんかラスボスなのに最初しか出てない……。