将である宋江こそ取り逃がしたものの、どうにか秦軍を追い払う事に成功した劉邦軍は、当初の予定通り公孫勝についての情報を聞く事にした。
震えながら劉邦の前に立つのは、宋江に人質にされていた少女である。先の虐殺の恐怖が残っているせいで、少女の肩は小刻みに震えていた。
顔色は蒼白で、とても公孫勝について証言が出来るような状態ではない。
無理もないだろう。集落の民が話しているのを耳に挟んだのだが、あの少女は宋江の襲撃で両親を失っているそうだ。両親を失い自分もあわや殺されそうな目に合いながら、冷静さを保てる子供などいやしないだろう。
「あの、沛公。あんな事があったばかりですし、もうちょっと日を置いてからにした方が……」
樊噲を始めとした劉邦軍の将達は何も言わないので、マシュが恐る恐るそう提案する。
惨劇に見舞われ心に深い傷を負った少女への当たり前の配慮。けれどその配慮が当たり前なのは現代においてのことだ。残念ながら古代中国、それも乱世において現代の倫理観は通用しない。
「駄目だ」
「け、けれど」
「俺達は別にこの集落を助けに来たんじゃねえ。あくまで公孫勝の行方について聞きにきただけだ。大体な、日を置くってったってその間に兵士を食わせる飯――――は、うちの飯番がなんとかするとして、軍をここに駐留させるにゃ色々と用意がいるんだぞ。
その間に唯一の拠点が秦に落とされっちまったら、本国や項羽将軍のいる本隊と連絡がとれねえ俺達は、全員纏めて秦に降伏でもするしか生きる見込みがねえんだぞ。いや降伏しても親玉の俺を秦が許してくれるとは思わねえけどな。配下のために我が身を犠牲にってのも御免だし、そうなったら身分も名前も放り捨てて逃げるっきゃねえか。乞食にまで身を窶せばどうにか生きていけんだろ」、
「義兄上。話が脱線してます。客将達が引いているのであんまり本音を暴露しないで下さい」
「樊噲の指摘に賛同です。そりゃ昔の貴方は碌に仕事もせずに食っちゃ寝している極潰しの類でしたが、なにを間違ったか今や楚国の重鎮の一人なのです。それに相応しい言動を心がけるべきかと。あと私をどこからともなく兵糧を生みだす魔法の壺扱いしないで下さい」
「そう言うなよ。そこの魔法の壺が言う通り、俺なんて年がら年じゅう酒と女と博打の事しか考えてなかった屑の小悪党なんだぜ。幾ら取り繕ったって育ちの悪さは隠せねえよ。流石に項羽将軍とついでに壊王様相手にゃ必死こいて取り繕うけどな」
蕭何の切実な訴えは華麗にスルーしつつ劉邦が言い訳する。
冬木市ではアーサー王。フランスではヴラド三世、ローマではネロやカエサルなどのローマ皇帝に後の征服王であるアレキサンダー。この他にも色々な王や皇帝を目にしてきたが、自分を『屑の小悪党』などと評する人は初めてだ。
時代的にまだ皇帝でも王でもないからなのかもしれないが、この劉邦なら皇帝になってからも同じような事を言っていそうだった。
「長くなったが、そいうわけで日を置くっていうのはなしだ。あー、納得して頂けたかね、客将殿」
少女の事を思うならば、やはり日を置くべきだと主張したい。しかし、
『二人とも、ここは沛公に賛成しておこう。特異点修復には沛公の軍は不可欠だし、ここで衝突して決別なんてことになったらアウトだ。
それに……これから僕は酷く冷たい事を言うよ。今回の虐殺や少女が傷を負ったという事実も、特異点が修復されれば全てはなかったことになる。二人のことだし、だから見捨てていいなんて暴論には納得しないだろうけど、やはりここは我慢してくれ』
先程ターミナルポイントを設置したことで、ロマンからの念話は厭になるほど正確だった。
マシュはうつむき、鬱血するほど手を握りしめている。幾ら特異点修復の為で、事が終わればなかったことになるといっても、マシュには少女の傷を開いてまで情報を得ようとするなんて選択はないのだろう。だからこれは自分の役割だ。
「分かりました。情報を聞きましょう」
「せ、先輩?」
「マシュもいいね」
敢えて命令するように強い語彙で確認する。
「……了解、です。すみませんマスター。私のせいで……」
「マシュはそのままでいいんだよ」
最前線で命のやり取りをしているマシュと違って、自分は後ろで指示を出すだけなのだ。
だったらせめてマシュの代わりに業くらいは背負いたい。
「客将方も納得してくれて良かったぜ。じゃあ早速だが公孫勝って道士についての話を聞かせてもらおうか」
「…………え、あ……」
「ん? 怯えるこたぁねえよ。変に隠し事したりせずに知ってることを全部喋ればいいんだ。どんな些細な事だったとしても俺達は秦軍みたく虐殺とかしねえよ。ちゃんと恩賞だって出すぜ。親が死んじまったんなら生きていくにも金が要るだろう」
人間の『生きようとする底力』は侮れるものではない。少女の反応に自分はそのことを思い知る事になった。
証言すれば金を出す。この単純な餌を劉邦が出した途端、くすんでいた少女の眼に生命の灯が宿ったのだ。
「こ……公孫、勝…………っていう人なのかは分かりません……名前は聞いて、ませんでしたから……。けど道士みたいな格好をした人とは、会って話しました」
「ほう。何を話した?」
「……あんまり、大したことは。天気の話とか、日々の生活の話とかばかりで……。そういえば道士様は、帰り際に桃をとっていきました」
「桃?」
「……は、はい。自分と知り合いの分で二つ要ると仰って……」
桃というキーワードに思い当たるものがあって「あっ!」と声を挙げる。
「どうした?」
「俺とマシュが出会った『入雲竜』も桃を食べてました! 間違いありません!」
「となると公孫勝の知り合いってのは、お前達にいきなり襲いかかってきたっていう騎兵かぁ。こりゃ振り出しに戻っちまったかな。お前達は公孫勝の行き先については分からねえんだろう?」
「はい。お役に立てずにすみません」
「構わねえよ。その時は俺達や秦が狙ってるなんて知らなかったんだろう? それに役になら十分たってもらってるさ。これまでの働きでな。ありがてえもんだよ」
手をパタパタと振りつつ劉邦はマシュの謝罪をあっさりと流し、逆に感謝の言葉を伝えてくる。
少女に対して冷たい態度をとったと思えば、一転してこの懐の深さ。器が大きいのだか小さいのだかいまいち掴めない。
「あ……あの……」
「おっと悪ぃ悪ぃ。ちゃんと話してくれたんだ。その分は払うさ。おい」
蕭何が恩賞の入った袋を手渡す。それを受け取った少女は中を覗き込み、仰天した。
「は、沛公様! こ……これ!」
「ん? 少なかったか?」
「お……多すぎ……ますっ! こんなに……沢山……なんて……。私、大した事を話せて……ないのに……」
「なぁに気にするな。死んだ馬の骨を買っただけだ」
「?」
「お前の面倒はこの集落の長にするよう申し付けてある。達者に生きろよ」
「は、はい! あ……ありがとうございます! 沛公様、この御恩は決して……忘れません……」
少女は頭を地面に擦り付けるほど感謝しながら出て行く。
両親を失った少女がこれから先どうやって生きていくのか心配だったが、あの調子だと問題はなさそうだ。
「(あの女の子への対応で冷たい印象を受けましたが、やはり漢王朝を興す徳者です。ちゃんとあの子の事も考えていたんですね)」
マシュが主従間のラインを通じて、少しだけ嬉しそうに言う。
自分もそう素直に思いたいのだが『死馬の骨を買う』故事を知っているだけに厳めしい表情を浮かべてしまった。
大した情報を持っていない少女にあれだけの恩賞を出せば、噂を聞いた少女以上の情報を持っている者はこぞって劉邦を訪ねてくるだろう。しかも集落の者達への人気取りにもなる。
徳者の仮面に潜む打算と計算。士は恩賞欲しさに劉邦の下へ馳せ参じ、何も解らぬ民衆は彼こそ大徳の王と拍手喝采する。
なんとなくだが劉邦がどうして自分より遥かに強い項羽を倒して皇帝となれたのか分かったような気がした。