店の中に反響する雨の音、時折窓を揺らす風の音。そのどれもが彼の耳には届いていない。額を流れる脂汗、馬鹿みたいに大きな音を鳴らす心臓。そのどれもがただ不快で仕方ない。
処刑台で銃を向けられた囚人はこんな気分なのだろうか。
「どうした、何を狼狽えている。まさか、自分の行いが気付かれていないとでも思っていたか」
鼓動が出す爆音の間をするりと抜け、目の前に佇む女性—―雨宮の言葉が頭に入り込んでくる。
雨宮結弦。帝国海軍最高権力者にして、最強の提督。最強と言っても本人の物理的な強さの事ではない。彼女の強さはその指揮能力にあった。敵艦隊の行動、編成、出現パターン、全てを予測し殲滅する。
過去に失敗した作戦は皆無。いつしか彼女の艦隊は『無敗の艦隊』と呼ばれ、数多く存在する鎮守府や敵である深海棲艦の間にも知れ渡っていた。
「…答えない所を見ると図星か。残念だったな、お前のこれまで行動は全て把握済みだ。こんな所に店を構えながら、よくもまあ深海棲艦を連れ込むなど大それた事ができた物だな。ある意味称賛に値するぞ」
明らかに皮肉を込めた口調。黒島は口を閉ざしたまま彼女と向かい合っていた。予測不能な事態、だが、こんな状況に陥ったのは初めてではない。この一ヶ月の間いくらでもあった。黒島は焦らず、ゆっくりと思考回路を整えてく。
「…いつまでも黙りこくっていないで、何か言ったらどうだ。こんな事をしてたのも、お前なりに理由があっての事だろう。コーヒーの礼だ、話くらいは聞いてやる」
雨宮はそう言うとイスの背もたれに体を預ける。
唐突に訪れた最悪の事態。だが、これは同時にチャンスでもある。レ級達が無害である事を彼女に分かってもらえば、望んでいた人と深海棲艦が共存する世界が現実になるかもしれない。
心臓の音は治まった。すでに覚悟は決まっている。黒島は自分の思いを胸に、口を開いた。
「…そりゃあ最初は怖かったですよ。海軍が何年も戦ってる『人類の天敵』が、いきなり目の前に現れたんですから」
レ級と会ったあの日。初めて見たレ級は、黒島にとって恐怖の象徴でしかなかった。数多の視線を潜り抜けてきた海兵達にさえ恐れられる『怪物』。殺されると思ったし、殺される覚悟もした。
「でもね、そいつは俺の想像していた化け物とは、全然違っていました。戦う意志なんてなく、ただ底なしに明るくて、大食らいで、ちょっぴり抜けてるところもあって…。俺には、どこにでもいる普通の女の子にしか見えませんでした」
頭の中に、テーブルを囲んで楽しそうに談笑する彼女達の姿が浮かび上がる。
「それからいろんな子達と出会いましたが、皆一緒でした。人類の敵だなんて言われている彼女達も俺達と同じように、同じテーブルを囲んで、一緒に笑い合う事ができるんです!俺は、それをここで知る事ができました。そして知ったからには、俺にはそれを伝える義務がある…!」
黒島は、真っすぐな瞳で雨宮を見つめた。
「人と深海棲艦は共存できる!それが、俺が彼女達と過ごした時間の末に出した答えです」
静けさを取り戻した店内に、再び雨の音が響き始める。黒島は雨宮の回答をじっと待っていた。伝えるべき事は伝えた。彼女もきっとこの気持ちを理解してくれるはずだ。黒島はそう確信していた。
そして、その思いに彼女は―――
「――――――――馬鹿か貴様は」
侮蔑を込めた瞳で、一蹴した。
「ようやく口を開いたかと思えば、何だ今の話は。人と深海棲艦の共存だと?くだらない妄言も程々にしておけ」
「く、くだらなくなんかない!本当に彼女達は――」
「戦う意志は無い、か?笑わせるな。奴らにそんな意志があるのなら、そもそも戦争など起こってはいない」
雨宮は否応なしに黒島の言葉を切り捨てる。
「仮に貴様の言葉を鵜呑みにして、この戦いを和解という形で終止符を打ったとしよう。それから何が起こると思う。深海棲艦に居場所や家族を奪われた者達が、こんな終結に納得すると思うか?ありえないな。一度芽生えた憎悪は相手を焼き尽くすまで絶える事は無い。憎悪は殺意となり、再び戦いを巻き起こす。そしてその殺意は深海棲艦だけでなく貴様や貴様と同類の人間にまで牙を向ける。最後には人間同士の殺し合い、最悪の結末だ。そうなった時に、貴様は一体どうする。血みどろになった世界で、同じ世迷言を唱えられるか?」
雨宮の言葉はただの仮説に過ぎない。しかしそうとは分かっていても、その言葉はあまりに現実味を帯び過ぎていた。黒島も、こうなる未来を予測できなかったわけではない。だが、理想を追い求めるが故に、その影に潜む闇から目を逸らしてしまっていた。そして今まさに、それがとうとう刃となって、黒島に突き付けられた。
「……でもそれは、あくまで仮説の一つでしょう。そうならない可能性だって、ゼロではないはずだ。だったら…」
「貴様はこれを博打か何かと勘違いしていないか?結果がよければ全ていいという訳ではないのだ。それくらい分かるだろう」
思いは絶えず溢れ出るものの、それを表す言葉が思い浮かばなかった。
「…本当に聞いた通りの人間だな。他人の言動、感情に影響されてすぐに決意が揺らぐ。自分の意志など無く、ただ周りに合わせて身の安全を確保しようとしている。結局貴様は、自分の事しか考えられない身勝手な人間だ。―――はっきり言ってやろうか」
そして、とどめを刺すように、
「貴様のような人間には、そんな幻想を語る資格すらない」
雨宮の言葉が、黒島の心を貫いた。
無力な自分に嫌気がさす。肝心な時に限って動かない体が心底恨めしい。やりようのない感情を堪えるように、拳を握り込む。
部屋の中に、雨の音だけが響く。そしてその静寂を破るように、ベルの音が鳴った。
店の入り口に立つ人物を見て、黒島は驚愕に目を見開いた。
黒いレインコートを着た白い少女、レ級がいた。
よりにもよってこんな最悪のタイミングで…!心の中で悪態をつきながらも、黒島はレ級の元へ駆け出していた。
こうなったら仕方ない。何としても、彼女だけは逃がす。そんな思いで手を伸ばす。そしてレ級は――
その手を掴む事無く、その場に崩れ落ちた。
「…………え?」
ゆっくりと、倒れたレ級に視線を向ける。次の瞬間、首を絞められたかのような感覚が襲った。
彼女の体は、真っ赤に濡れていた。
「レ……級…?」
震える声で、彼女の名を呼ぶ。その言葉に、答えは返ってこない。
「まだ生きてるよ」
レ級の代わりに答える者がいた。その声の主を、視界に捉える。
「川内ちゃん…?」
そこには、見慣れた忍者のような服装の上に艤装を装着した川内の姿があった。
「やっぱり艤装がないと大した事ないね、砲撃一発でこの様だよ。せっかく久しぶりにまともな夜戦ができると思ったのに、残念だなー」
つまらなそうに口を尖らして、川内はそう言った。
「何で…」
「何でって…おかしな事聞くんだね。深海棲艦を殺すのが、私達艦娘の仕事。マスターも知ってるでしょ?」
川内がレ級の髪を掴み持ち上げると、赤く染まったレ級の顔が目に入った。頬を伝った血が床に落ちて、滲む。
「川内、下がっていろ。後は私が請け負う」
雨宮はそう言ってイスから立ちあがると、呆然と立ち尽くす黒島の元へと向かう。
「深海棲艦に手を貸した者の処罰は決まっている。極刑だ。だが、貴様は本来私にとって守るべき対象だ。余り酷な事はしたくない。そこでだ、貴様に最後のチャンスを与えてやる」
ゴトン、と重い音を立ててテーブルの上に何かが置かれる。ぐらつく視界に、黒色の鉄の塊が入った。実物は見た事がなかったが、それが何かはすぐに分かった。拳銃だ。
「これでそいつを殺せ。そうすれば、貴様のこれまでの行動には目を瞑ってやる」
―――――彼女が言っていた事は正しい。
「弾は込めてある。後は引き金を引くだけだ」
確かに自分は幻想を語る資格もない人間だ。周りに同調し、妥協する道を進んできた。
だが、それでも―――
『サ、クロサンモ、皆デ一緒ニ食オウゼ』
例え誰が何と言おうと、レ級達と共に過ごしてきたこれまでの時間は、彼女達の笑顔は、紛れもない本物だった。そして今、その笑顔を守れるのは自分しかいない。ならば――
(俺の、するべき事は―――)
「…………アーア」
――――その時、聞こえるはずの無い声が聞こえた。そして、
「モウ、イイヤ」
巨大な白い鞭が、川内の華奢な体を薙ぎ払った。
唐突な出来事に反応する事もできず、川内は壁に激突し、沈黙した。
枷が無くなり、自由になったレ級がゆっくりと立ち上がる。
その身に獰猛な笑みと、赤い灯火を宿して。
――――何が起きた?
それを考える時間もなかった。視界の端から白尾が迫り、傍にあったテーブルごと黒島を弾き飛ばす。全身を襲う鈍い衝撃。170センチ以上ある黒島の体が宙を舞い、カウンターテーブルに叩き付けられる。
「―――ぐッああああああぁぁァァッッ‼‼」
直後に右腕に激痛が走った。折れてはいない。だが骨が軋むような感覚に思わず声が上がる。
悶絶する黒島を一瞥すると、レ級は最後の標的――雨宮を視界に捉える。
レ級は赤い軌道を描きながら雨宮に向かって肉薄し、拳を振り被る。
だがその行動は、突如向けられた殺意によって停止させられた。川内だ。
向かってくる川内を叩き潰そうとレ級が尾を振るう。しかし、川内には当たらない。流水のような滑らか動きでそれを躱しながらレ級に近付き、鳩尾に強烈な一撃を叩き込む。
「ゴァッッ…‼」
嘔吐くレ級に、川内は容赦なく踵落としを喰らわせる。
艦娘、深海棲艦を問わず、艤装を纏っている者とそうでない者では身体能力に明確な差が出る。決着は、瞬く間に訪れた。
「……アト、チョットダッタ…」
床に組み伏せられたレ級が声を漏らす。そして、
「アトチョットデ…オ前ラヲ全員ブッ殺ス事ガデキタノニ‼」
憎悪に帯びた声が、店の中に響き渡った。
「オ前ラハイツモソウダ!肝心ナ時ニイツモ邪魔バッカリシヤガッテ…!」
―――耳を塞ぎたい気分だった。
「セッカクアノ府抜ケタ姫共ヲ出シ抜イテ、馬鹿ナ人間ニ媚ビテマデ立テタ計画ガ全テ水ノ泡ダ!…コノ忌々シイガラクタ共ガァ!」
だが、痛む腕ではそれすら叶わない。自身の思いとは裏腹に、レ級の言葉が頭の中に響き渡る。
「コレデ終ワルト思ウナヨ…オ前ラヲ水底ニ引キ摺リ落トスマデ、私ハ何度デモ蘇ル。精々深海ノ恐怖ニ怯エルガイイ!」
―――あの嵐の日から一ヶ月。喧騒に満ちた日々の思い出が、浮かんでは消えていく。喋るのが苦手な港湾棲姫。お転婆だが優しい心を持つ北方棲姫。深海からの客に慣れず、いつもどこか落ち着かない様子だった加賀。見栄っ張りだが小心者の防空棲姫。大食いなのが玉に瑕だが、それでもいざという時は頼りがいのあった赤城。そして――
思い出の中と、現実でのレ級の姿が重なる。
そして、黒島亮は答えを導き出す。
痛みに悲鳴を上げる体に鞭を打って立ち上がり、おぼつかない足取りで歩きだす。静観する雨宮の前を通り過ぎ、レ級の前に立った。
足下には丁度拳銃が転がっていた。まだ無事な左腕でそれを拾い上げると、引き金に指をかけ、狙いを定める。
もう迷いなど、どこにもなかった。
八月十四日、午後十時。勢いを増した雨音が、銃声を掻き消した。
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