この日、Z市にいたのは偶然に過ぎない。
忍具の補充と研ぎに出していた刀を受け取りに来ていただけだ。
忌々しく屈辱的だが、まだ俺はあいつに、サイタマに追いついていないことを、あのバカバカしい「マジ反復横跳び」とやらで思い知った。
もちろん、それであいつに挑むのをやめるだの、殺すことを諦めるつもりは毛頭ない。
いつかではなく次こそ必ずあいつに勝つと決めて、そのために俺は武器も選びに選び抜いていたら、怪人が現れたと警報が鳴る。
愚鈍な一般人向けの玩具ではなく、本職の為の忍具なんて扱う店がカタギなわけもないので、店員も客である俺もそんな警報、しかも災害レベル虎程度など思うことはなく無視していたが、ほぼ間を置かずに鬼レベルの災害が現れたのは、さすがに少し驚いた。
そして鬼レベルなら奴が、サイタマが倒しにやってくるかもしれんと思いつき、店を出た。
認めるのは非常に屈辱的で癪だが、奴に敵わないことを思い知らされてまだ日も浅い内に、再戦を挑む気はさらさらない。
ただ、そもそも俺は奴が俺以外の相手と戦っている所を見たことがないことに気付き、奴の理不尽なまでの強さやスピードの秘密や、それを攻略するヒント、弱点などを探れないものかと思い立ち、俺は怪人の元に向かっただけだった。
その途中で、偶然見つけただけだ。
エヒメが、どう見ても痴話ゲンカの域を超えた面倒事の渦中にいるのを、見つけただけだ。
事情は知らん。知る気もなかったから、説明も求めなかった。
ただ、無性に気に入らなかったから始末したまでだ。
リスクを負う覚悟などなく、多勢の力と相手の良心に頼って自分の欲求のみを押し通す奴らの愚かさが、他人事でも不愉快極まりなかった。
研ぎ終えたばかりの刀が、何の意味も価値も見いだせない屑の血脂でさっそく汚れたのが不快だが、まぁ試し切りにはなったか。
そんなことを考えながら刀を鞘に直し、その場に座り込むエヒメの顔を見てふと、現状があの日、この女と初めて出会った時の再現であることに気づく。
あの日とは、違う部分の方が多いがな。
場所といい、俺が忍び装束ではなく私服であることといい、俺が殺したのは怪人ではなくどんなに愚かで汚らしくとも人間であることといい、エヒメが返り血にまみれていることといい、共通点の方が少ないくらいか。
……初めて、俺が人を殺す場面をこの女は見た。
知識としては知っていただろうが、今初めてこいつは俺がどういう人間かを正しく認識して、そして目の前に散らばる人だったもの残骸とその匂いに耐えきれず、嘔吐した。
それを、黙って俺は眺め続ける。
こいつがいるのなら、近場にサイタマがいる可能性は高かったが、もはや俺の興味はサイタマからこいつに移る。
相変わらず俺の予想をとことん裏切るこの女の目が、俺の足をこの場にとどめる。
俺が人を殺しても、「怯え」ではなく「怒り」の色を宿した目が無性に気になった。
* * *
あらかた胃の中のものを全部吐き出して、エヒメは服の袖で口元をぬぐって俺を睨み付ける。
前から思っていたが、お前は本当に見かけによらず男前というかワイルドというか、勇ましいところが妙にあるな。
「なんだ? 文句があるなら聞いてやる。言ってみろ」
「私に関しての情報源がどこなのか、訊けませんでした」
俺が少し挑発もかねて言ってやると、まっすぐに俺を見たままこの女は即答しやがった。
殺すほどのことはしていないだの、俺に人殺しをして欲しくなかっただの、蕁麻疹が出てきそうな綺麗事でもほざくかと思ったら、やたらと現実的な文句だったので、思わず俺は素で「それはすまんな」と謝ってしまった。
「……いえ、助かったのは事実ですから……わがまま言ってすみません。それから、ありがとうございます」
むせ返る血の匂いで気分が悪いのか、顔色悪く頭を押さえつつもこいつは自分の非を認め、俺に謝罪と礼を口にする。
「何だ。殺しそのものに文句でもつけるかと思ったら、案外素直だな」
「……さすがに自分が殺そうとしてた相手には、同情はあまりしません。
それに、……あなたが『人殺し』であることは初めからわかっていたことです。思うことはありますけど、それは私の想像力や理解、覚悟が足りなかっただけのことだから、ソニックさんにぶつけちゃダメでしょう?」
顔色やその様子からして明らかに殺人に対して拒絶反応を起こしてると知りつつ、先ほど以上に挑発をしてみても、この女は淡々と答えるだけ。
その目に、激情を宿しながらも俺にぶつけてはこない。
「……なら、お前はいったい何に怒っているんだ?」
目の前に俺がいながら、俺を見ていないようなその態度が気に入らなかった。
苛立つ理由はそれだけだ。
こいつの怒りの対象が気になる理由は、それだけだ。
青い顔でふらつきながら立ち上がり、まっすぐに俺を見てエヒメは答える。感情を押さえつけていた声音に、怒気をかすかに溢れだたせて。
「……この事態を引き起こした、私の情報を餌にして自分の手を汚さずに私を排除しようとした、思い込みが激しくて問題はあっただろうけど、それさえなければ私を襲うなんて考えなかった、ソニックさんに殺されなかったし、ソニックさんも殺さないで済んだのに、こんな事態を引き起こした私の『敵』と、こんなことを引き起こすまで逃げて放置し続けていた『私』にです」
……同情しないと言いつつも、俺が「人殺し」だということはわかっていると言いつつも、殺すほどではなかっただの俺に人殺しをして欲しくないだの、蕁麻疹が出そうなことを思いながらもお前は、俺のしたことを肯定して、お前が怒り、そして見据えるのはそれか。
本当にこいつは相も変わらず、どうしようもないほどに光にも影にも属さない薄闇だな。
闇を肯定しつつも決して闇と同化しない女は、バラバラになった死体から何かを探して、拾い上げた。
「何をしてるんだ?」
拾い上げたのは、確実に重くなって使いにくいくらいにカバーを装飾したスマホ。
血で汚れたそれの画面をやはり袖でワイルドにぬぐって電源を入れるが、パスが掛かっていたことに舌打ちしてからエヒメは答える。
「……私を取り囲んでた時、スマホを操作してたから……SNSかなにかに実況してたなら、……私のことを少し知ってた理由がわかるかもって思ったんです」
「そもそも、お前はいったい何があって、こんなところでリンチされていたんだ?」
答えられても、そもそもの事の発端を知らなければ意味がよくわからなかったので尋ねてみれば、原因はエヒメ自身ではなくあのポンコツサイボーグであることに思わず笑った。
こいつ、本当に厄介ごとを引き寄せる天才だな。
「はっ! つまりはあの木偶は散々お前を守るだのなんだの言っておきながら、肝心な時にいないどころか逆恨みの元凶になっていたわけか」
「……別にそこは良いんです。思い込みが激しくて自分勝手な人に好かれた責任を求めるのは、間違いです。
私を襲ったこと、殺そうとしたことの罪は彼女達だけが背負うべきもので、ジェノスさんには何の関係もありません。
……それよりも私はどうやってこいつらが、『私』を知ったのかが気になります」
他の奴らの鞄を漁って、スマホを取り出しながらエヒメはあの役立たずを擁護するのが気に入らない。
「あのサイボーグのストーカーだったのなら、あれを調べる片手間でお前のことも知れるだろうが」
暗に自分のストーカーにさえも気づかなかった役立たずと言ってみるが、「それはないです」と即答で否定したのも気に入らない。
が、その根拠を聞いて俺も少し気になった。
「この人たち、私の名前すら知らなかったみたいなのに、私が高校をちゃんと出てないことは知ってたんです」
スマホは全部パスが掛かっており、そこから情報を得ることを諦めたエヒメがため息まじりで答えた言葉で、思わず俺も考え込んだ。
サイボーグのストーキングでもしていたら、というかしていなくても、こいつと一緒にいるところを少し聞き耳立ててさえいれば、会話から名前くらいは普通に知れるだろう。
執着対象はサイボーグの方だから、エヒメの方は聞いていても興味がなかったから覚えていなかったと一瞬考えたが、本気かどうかはさておき、包丁なんぞを持ち出すほどに嫉妬して憎悪する対象の名は忘れんだろう。
名前を知らないとすっとぼけただけだとしても、恍ける意味はなく、何よりこいつが高校をちゃんと出ていないという情報はどこから得た?
「お前が平日の昼間でも普通にその辺をうろついてるからそう思っただけの、テキトーな罵りじゃないのか?」
「多分違うと思います。学校に行ってないくせにとかじゃなくて、学校をちゃんと出てないくせにって言ってましたから」
確認で尋ねてみて返された答えで、確かにその発言なら根拠も何もない罵りが、偶然事実だったではないと納得する。
「学校に行ってない」「学校に行けなかった」ならともかく、「学校をちゃんと出ていない」は、こいつが進学はしたがドロップアウトしたこと、普通に進んでいれば卒業をしている歳だということを認識していないとまず出てこないセリフだ。
「……こいつらに見覚えと、情報漏洩の心当たりは?」
「見覚えはないです。人の顔と名前を覚えるのは得意じゃないですけど、そもそもあまり人と関わらない引きこもり生活ですから。
漏洩の心当たりは……あります」
さらに念押しで質問を重ねてみると、エヒメは自分のケータイを取り出して、操作しながら答える。おそらくはその、「心当たり」にあたっているのだろう。
が、指がガタガタと震えっぱなしなので、ガラケーでうまく打鍵できずいる。
ネットに繋ぐだけでも1分近くかかるほどにまったく落ち着いていない、体はこの現状、死体に囲まれて殺人者たる俺と二人きりというこの状況を全力で拒絶しているというのに、変わらずこの女はここにいる。
怯えではなく、怒りをその目に灯して。
こいつを押さえつけて、抵抗できずにいたこいつに包丁を突き刺そうとしていた女どもとは違う、自分がこれからすべきことを、そのリスクを理解したうえで覚悟を決めた目で、「敵」を見据えていた。
エヒメの手から、ケータイを抜き取り検索画面を開いて問う。
「何を調べたらいいんだ?」
ポカンとマヌケ面で俺を見上げてエヒメは答えないので、「早く言え」と急かせば、こいつは笑った。
いつもの緊張感のないへらっとした笑みよりぎこちないが、それでもこの女は俺に笑いかける。
……本当に、こいつはバカだ。
だが、この現状を理解できていない笑みはいつもより早く掻き消える。
サイタマと無駄によく似たマイペースさを持ってるこいつでも、一瞬しか忘れられないほどの怒りを再び目に灯し、はっきりと答えた。
「ジェノスさん……鬼サイボーグのファンクラブ系の掲示板を探してください」
* * *
何で俺があのポンコツのファンクラブなど検索せねばならんのだ? と検索単語を打ち込む時点で嫌になったが、幸か不幸か検索作業に時間はかからなかった。
……本当に、俺はともかくこいつにとっては幸か不幸かわからんな。
「はっ! 本当にあのサイボーグは、何の役にも立たんな。スクラップにした方が、環境にもいいんじゃないか?」
目にしたものの率直な感想を言いながら、エヒメにケータイを渡す。
エヒメはその画面に表示されたものを見ても、表情自体は変わらなかった。心当たりがあったのなら覚悟も決めていた、想像通りのものだったからだろう。
顔立ちそのものはほとんど変わっていないが、今よりだいぶ幼い、おそらく中学生ぐらいの頃の自分の写真が晒されたネット掲示板をただ見ていた。
燃え盛る業火のような怒りを、その目に湛えてながら。
見つけるのは簡単だった。
さすがにネットマナーが行き届いた健全なファンサイトの掲示板には書き込まれていなかったが、率直に言うと妄想ダダ漏れで頭がイかれてる奴らが集う、アンチ・アングラ系の掲示板では完全に祭り状態で、レスが追い付かない程だ。
名前こそは晒されていないが、顔を全く隠していない写真と、高校を中退しただの、自殺未遂をしただの、学校で傷害やら盗難事件を起こしただの書き込まれていたら、そりゃ他人の不幸が好きで仕方ない奴は騒ぎ立て、自分こそがあのサイボーグの理解者だという妄想を懐いてる奴は、この情報をぶちまけている奴の甘言にも乗るだろう。
「鬼サイボーグをこのクソ女から解放してください」を前書きにして、何度も何度も執拗にエヒメの個人情報を書き込む人物の名を、俺は覚える。
何故かそいつは、デフォルトの「名無し」ではなく、「6月」というコテハンを使っていた。
「おい。この『6月』に心当たりはあるのか?」
「……ありますよ。嫌になるくらいに、外れて欲しかったくらいに、ありますよ!」
無表情で画面をスクロールして読み取っていたエヒメが、俺の問いに八つ当たりのように声を荒げて答えた。
胸を押さえてゼイゼイと全力疾走をした後のような呼吸をしながら、エヒメは初めて見せる感情のままに吐き捨てた。
「…………また、お前は利用するだけ利用して、奪って、そして捨てる気か。あの、寄生虫がっ!」
純度の高い憎悪を吐き出して、胸を押さえながら、ぜんそく患者のような呼吸をしながら、エヒメはふらつきながら歩き出す。
返り血を浴びたまま、俺よりもこいつの方がどう見ても殺人犯な格好のまま、路地から出ようとしたのでさすが腕を掴んで止めた。
「おい。何してる。そのまま出て行ったら、職質どころじゃないだろうが」
単純に息苦しくて体が辛いからか、それとも呼吸を阻害するほどの怒りを抑えつけるためか、やたらと緩慢な動作でエヒメは振り返り、言葉は弱々しく、けれど目と言葉はどこまでも強く俺に答える。
「……ごめん、なさい、ソニックさん。……はな、して……。行かなくちゃ……。
私、こいつだけは許せない……。私は……今度こそ…………」
「別にお前がどこで誰をどうしようがどうでもいいがな、自分の特性を忘れてるんだか使えないんだかな精神状態で行って、何になるんだ?」
エヒメの主張をぶった切って言ってやれば、怒りに滾っていた眼がきょとんと丸くなり、数秒間を置いてこいつは言った。
「……あ、そっか……。テレポート……すれば良かったんだ」
……忘れてたのか、この女。
本当にお前にテレポートは宝の持ち腐れだなと嫌みの一つや二つでも言おうかと思ったが、その前に相変わらず空気を読まないこの女は言う。
ふわりと柔らかく微笑んで、エヒメは言った。
「ありがとう、ソニックさん」
その礼は、何に対する礼かは知らない。
尋ねる前に、電源でも落としたかのように、こいつは急にぶっ倒れたからだ。
「!? おい! エヒメっ!?」
とっさに抱えて呼吸を確かめてみるが、起きてた時よりもずっと安らかな呼吸をしながら、この女は寝やがった。
状況的に気絶と言った方がいいのだろうが、寝てるとしか言いようのない無防備な顔が無性にムカついたので、このまま地面に転がしてやろうかと思ったが、同時に少し気になることに気付き、転がすのは後回しにして俺はエヒメを抱きかかえてみた。
間違いなく、以前抱きかかえて跳び回った時と体重に差分はない。40キロ半ばと言った所か。
……間違いなく、差分があっても1キロ2キロ程度だと言うのに、それでも違和感が消えない。
妙に、エヒメの体が軽く感じる。
まるで、魂でも抜けたようにその身体は軽かった。
タイトルの「レウコクロリディウム」がなんなのかわからない方、ググるのはお勧め出来ませんので、自己責任でどうぞ。
ぶっちゃけ、タイトルは割とテキトーにつけたので意味わからなくても問題ありませんし。