私のヒーローと世界の危機と愛しい日常風景   作:淵深 真夜

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月が綺麗な夜の夢、と……

 一歩足を踏み出せば、クスクスと嗤われる。

 その声に息を飲めば「何してんのよ!」と怒声が飛ぶ。

 とっさに謝ろうとするけど、声が出ない。

 何も言えないまま立ち尽くすと、舌打ちされて呼吸の仕方もわからなくなる。

 

 周囲に人はいない。

 ただ、汚泥のような不定形のものが、血走った目で私を見てる。

 ニヤニヤと嘲笑って、睨み付けて、私の全てを否定する。

 

 その視線から逃げ出したいのに、足は動かない。

 あぁ、そうか。

 もう私の足はないんだ。

 

 ぬらりと、複眼のようなものが光る。

 足元から、足だった部分から、私をざりざりと噛み千切り、齧り取り、咀嚼して、私を食い荒らしてゆく。

「ずるいずるいずるいずるいずるい」

 無数の蟲が、人の顔をした蟲が口々に同じ事を永遠と繰り返しながら、私を食い尽くしていく。

 

「何であんたばっかり。私だって欲しい。私に頂戴。あんたばっかりなんてずるい。欲しいの。いいでしょ? 私がもらっていいよね? 何でダメなの? ずるい。私のなのに。私のなのよ。あんたのなんて、ある訳ないじゃない」

 

 何を言っているのかわからない。

 何が正しいのか、どう反論したらいいのか、私が間違えているのか、何をしたらいいのか何もわからなくなっていく。

 考える力さえも食い潰されて、蟲が私の身体を、全身を、私を、私だったものを覆い尽くす。

 

 最後に残された眼球が、私を見下ろす彼女を映し出す。

 

 食い尽くされたはずなのに、その声は鼓膜を震わせた。

 

「卑怯者」

 

 ヘラの言葉で、私だったものが、私の残骸が悲鳴を上げる。

 

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!

 

 絶叫して、私は逃げ出した。

 彼女の言う通り、私は卑怯者だ。

 

 * * *

 

「わかった。思い出した。……わかったから、『あいつ』の名前を出さないでくれ」

 気が付くと、そこにいた。

 

 夢であることは初めからわかっていたけど、いきなり悪夢から場面転換して、目の前でお兄ちゃんとジェノスさんが向き合って何か話をしている。

 状況がわからずあたりを見渡せば、自分の家のはずなのにただでさえ少ない家具がさらに減って、ないはずのベッドが置いあるからやっぱり夢だ。

 もしかしたら隣のジェノスさんの家設定かもしれない。入ったことがないから知らないけど、なんとなくこの寝る為だけの部屋という感じがそれっぽい。

 

 そして何よりも二人が私に気付いた様子がないから、あぁこれは疲れてたりストレスが溜まったらよく見てたあの夢だ、と気付く。

 いつもは知らない場所をフラフラと探索するだけで、知ってる人が登場なんて一度もしたことがないはずなのに、今日は珍しい。

 

 ……それほど、私にとってストレスだったんだろう。

 どこか遠くに、私なんか誰も知らない所まで逃げ出したいんじゃなくて、どうしてもお兄ちゃんと……ジェノスさんに会いたかったんだろうね。

 

 けれど、会った所で意味はない。

 ただでさえ夢でしかないのに、二人は私に気付かない。

 私の姿は見えず、私の声は聞こえない。

 私はただ、幽霊のようにそこに立ち尽くして二人のやり取りを見ているだけしか出来なかった。

 

 項垂れていたお兄ちゃんが、いきなりのけぞって天井を仰ぎ見る。

 見た事のない悔やむような泣くのを堪えてるような、それを誤魔化すような歪んだ笑みを張り付けて、自分がしてきた事は、この3年間は意味がなかったと嘆いても、私には何もできなかった。

 

 違うよ。お兄ちゃんは、十分すぎるくらいに私を助けてくれたよ。

 何が得意だったのか、何が好きだったかもわからなくなってた私に、私の好きだったもの、得意だったものを思い出させてくれた。

 歩き方も、呼吸さえもどうやっていいかわからなくなってた私の一つ一つを、「頑張ったな」「よく出来たな」「すげーな」って褒めてくれて、私にどうやって生きたらいいかを教え直してくれたのは、お兄ちゃんだよ。

 

 お兄ちゃんがいなかったら、私は何処にも行けないまま、何にもなれないまま、誰でもなくなって消えるしかなかったんだよ!!

 

 そう叫んでも、お兄ちゃんは振り返ってくれず、全然違う方向を見て呟く。

 

「……俺は、3年前に『ヒーロー』なんか目指さないで、『あいつ』を殺してでもエヒメの前にもう二度と現れないようにした方が良かったのかもな」

 

 ……やめて。

 お願いだから、やめて。いやだ。そんなこと言わないで。

 お兄ちゃんが夢を諦めるなんて、ヒーローであることを後悔なんかしないで!

 

 お兄ちゃんは、ヒーローだよ!

 昔からずっと、ずっとずっと私のヒーローだよ!

 だから私は、もう自分に何もなくなって、自分がわからなくなって、生きていていいのかどうかもわからなくなって飛び降りても、それでも本当は死にたくなくて、取り戻したくて、自分を思い出したくて、助けて欲しかったから、だから……跳べたのに。

 

 お兄ちゃんの元まで、跳べたのに……

 

 お願いだからお兄ちゃん……、そんなことを言わないで。

 私なんかのせいで、お兄ちゃんのしたいことを、夢を諦めないで……

 

「……サイタマ先生。それは、間違いです」

 

 お兄ちゃんに届かない声を張り上げて、泣くしかない私の声が代弁するように、ジェノスさんは言った。

 

「貴方がその手を『奴』の血で汚してしまったら、それこそエヒメさんは全てを失います。

 ……だから、お願いします。

 何もかも奪いつくされて、壊されて、自分の命すらも自分のものと思えなくなってしまったあの人に唯一残された、『奴ら』に奪われることなく守り抜いた、『エヒメさんのヒーロー』を、否定しないでください」

 

 見えてない、聞こえていないのは、一度も私に視線を向けないことで明白なのに、まるで私の声が聞こえたかのように、彼は私の言葉を、お兄ちゃんに伝えたい願いを言葉にしてくれた。

 

 ジェノスさんの言葉に、私の願いにお兄ちゃんは少し気まずげな顔をして、撤回してくれた。

 ……ごめんなさい、お兄ちゃん。

 お兄ちゃんだって、弱音を吐きたくなるときだってあるのは分かってる。そんな弱音を吐かせたのは、私だってこともわかってるよ。

 

 でも、お願い。それだけは言わないで。

 私は大丈夫だから、ちゃんと頑張るから、救われるから、だからどうか「ヒーロー」であることを後悔だけはしないでと、私に気づかないお兄ちゃんの背中にすがるようにしがみついた。

 

 我慢するから、立ち直るから、明日にはいつも通りになれるようにするからって、出来もしないのはわかってるくせに、それでもお兄ちゃんにあんな顔をさせたくないから、お兄ちゃんのしてきたことを無意味にしたくないから……

 

 お兄ちゃんが悲しむから、心配するから、誰も幸せになんかなれないから。

 だから、話しちゃだめだと思ってた。自分の中で、どこにも出て行かないように閉じ込めて、抱え込んでいた。

 

 それなのに……、それなのに――

 

「……あいつ、お前には話したのか」

 

 お兄ちゃんは、笑った。

 今にも泣きだしそうなのに、すごく喜んでいるのがわかる声と顔。

 

 私が、昔を思い出してまた何もわからなくなって、どうやって償えばいいのか、私に何の価値があるのかもわからなくなって、抱え込む余裕がなくなったから溢れ出してしまった言葉。

 

 ジェノスさんの重荷になるとわかっていたくせに、どうしてもこの人に受け止めてもらいたい、この人から私の意味と価値を教えてもらいたいと思ってしまって、吐き出した言葉を、吐き出してしまったことを、お兄ちゃんは喜んだ。

 

 誰も幸せになれないと思ってた。

 私が我慢をしていたら、それでいいと思ってた。

 

 吐き出してしまった時、ジェノスさんの辛そうな顔が見ていられなかった。

 吐き出したって、楽になんかなれないで後悔だけが積み重なった。

 

 ……なのに、お兄ちゃんは喜ぶんだ。

 私が辛いことを我慢せずに、吐き出したってことを。

 

 そしてジェノスさんも私が吐き出した時、あんなに辛そうな顔をしていたのに、……私が話したということを喜んでくれた。

 

 もう、十分なのに、私と出会えたことを幸せだと言ってくれただけで私は十分なのに、ジェノスさんは改まってお兄ちゃんに頭を下げて語った。

 

 私が吐き出したことを「話してくれた」と言って、十分すぎるくらい嬉しくて、だからこそ弱くて何もできない私が嫌で泣いたのに、「何もできなかった」と自分を責めて、自分を無力だと語って、それでも無機質なはずの金の瞳は生きているものにしか出せない強い輝きを帯びて、まっすぐにお兄ちゃんを見て言った。

 

「これからも、エヒメさんを、俺の大切な人を守らせてください」

 

 ――なんて、都合のいい夢。

 気づかない方が幸せだった、諦めた方が楽なのに、期待なんかしない方が傷つかずに済むのに。

 そう思っているくせに、そう思って逃げようとしているくせに、私の深層心理はあまりに図々しくて貪欲だ。

 

 逃げられないのはわかってる。

 だってもうこれは、私の贖罪じみた誓いなんかもう関係ない。

 正真正銘、ただの私の願望で逃げたくないだけなんだから。

 

 この人が好きだって気持ちから、もっとこの人に近づきたいという望みから、私は逃げ出せない。

 

 ……大丈夫。もう本当に、強がりなんかじゃないよ。本当に私はもう大丈夫だよ。お兄ちゃん。ジェノスさん。

 私はちゃんと、「私」だってわかった。

 もう誰にも、神様にだって奪い取らせない、守り抜くってものがちゃんとある。

 

 私の世界の柱と、私が歩いていくための杖だけは、誰にも渡さないし壊させない。

 

 贖罪なんて後ろめたい気持ちから強迫観念のようにするんじゃなくて、私自身が決めたことだから、大切なものを守るためのことだから。

 だから、もう逃げない。ちゃんと立ち向かえる。

 ……今すぐには、まだちょっと無理かもしれないけど。

 

 でも、もう私は折れない、挫けないよ。

 たとえ夢でも、夢だからこそ、私が何を望んでいるのかがよくわかったから。

 

 お兄ちゃんがこんな風に笑えるように、ジェノスさんに本当にそう言ってもらえるように頑張ろうって、目標を持てたから。

 だから、……もう大丈夫。

 

「ったく、お前は本当にクソ真面目でエヒメが大好きだな。もう結婚しろ。そして、爆発しろ」

 

 でもお兄ちゃん、夢の中でさえデリカシーがないのはどうよ!!

 やめて! ただでさえ現実でもジェノスさん、たまにリアル爆発起こしかける時があるのに、夢だと本当に爆発しかねないから本当にやめて!!

 

 幸いながら、私の深層心理もそんな展開は当たり前だけど望んでいなかったから、ジェノスさんは爆発しなかった。

 

 代わりに、少し困ったように笑いながら言われた返答に、私が爆発しそうになった。

 

「……そうですね。しかし、前者は今すぐにでもしたいですが、後者は先生からの命令でも無理です。

 俺は、死んでもいいですけど死ねませんから」

 

 ――あぁ、本当に私の欲望と願望が丸出しで恥ずかしくて、なんて都合のいい夢。

 

 * * *

 

「おはよう、お兄ちゃん。トーストは何枚食べる?」

 朝、いつものように朝ごはんの準備をしながら起きたお兄ちゃんに挨拶をしたら、お兄ちゃんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしながら、「……2枚」と答えた。

 

 ハト豆な顔になるのは予想できてたけど、それでも答えるのは予想できなかったからちょっと笑ったら、お兄ちゃんがもはや幽霊でも見るような顔になって、私に「お前、大丈夫なのか?」って問い詰めた。

 

「あー……えーと、まだ頭の中でグチャグチャしてる部分はあるし、正直、また会ったらって思ったら外に出るのが怖いけど……でも、大丈夫だよ。

 だって、お兄ちゃんとジェノスさんがいるし」

 

 私が本音で答えたら、お兄ちゃんの方もそれが強がりとか心配をかけないための言葉じゃないことを理解したのか、とりあえず納得はしてくれた。

 どうして昨日あそこまで昔みたいに息することすら忘れかけて何もできなくなってた私が、ここまで回復した理由の理解はできないみたいだけど。

 

 そりゃそうだ。

 でも、ごめんお兄ちゃん。説明は恥ずかしすぎて出来ない。

 

 まぁ、もともと結果が良ければそこに至る経緯なんかどうでもいい人なので、少し釈然としないものはあっても深追いはしないで、お兄ちゃんはいつも通り着替えて布団をたたむ。

 そして、折り畳みのテーブルを組み立てたところで、私は意を決してお兄ちゃんに言ってみた。

 

「……お兄ちゃん。……ちょっとお願いがあるんだけど……、えっと、あの……ジェノスさん、呼んでもいいかな?

 久しぶりに、みんなで朝ごはん食べませんか? って」

 

 私の頼みごとに、またお兄ちゃんはポカンとした顔になる。

 けど、そのあと優しく笑って言ってくれた。

「そうだな」って。

 

 まだ自分で「朝ごはんを一緒に食べませんか?」と誘う勇気はなかったから、お兄ちゃんに言ってもらったらジェノスさんはすぐに来た。

 そして、「おはようございます」とあいさつした私を見て、お兄ちゃんと同じようにポカンとしながら「……おはようございます」とまさしくオウム返しで挨拶。

 

 うん。わかってたけど、やっぱり私の回復っぷりはおかしいよね。ごめんなさい二人とも、なんか朝から困惑させて。

 とりあえず私はジェノスさんに昨日のことを謝ったら、ジェノスさんは「いいんです、それは! むしろ俺が原因なんですから、謝らないでください! それより、エヒメさんが大丈夫なんですか?」と心配を再燃させてしまった。

 

 その心配が申し訳ないけど、それでも私を大切に思ってくれていることがありがたくって……同時に昨日の私にばっかり都合のいい夢を思い出して、恥ずかしくなる。

 けれど、ジェノスさんにこれ以上心配をかけるわけにはいかないから、私は顔に集まった熱があまり目立っていないことを祈りながら、答える。

 

「はい。おかげさまで」

 

 私の答えに、ジェノスさんとお兄ちゃんが不思議そうに顔を見合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 許さない。

 

 どうしていつもあいつばっかり、私の欲しいもの、私が得るはずだったもの、私のものがあいつのものになるの?

 

 あいつさえいなければ良かったのに。どうしていつもあいつばっかり褒められるの?

 私は何をやっても、「もっと頑張れ」「どうしてこんなことも出来ない?」って言われ続けて、どうしてあいつは「すごい」とか「よく頑張った」とか言われるの?

 あいつのせいだ。あいつが私のそばにいるから、私が比べられるんだ。

 

 いつもいつも、特に頑張らなくても何でもできる卑怯者。

 いつも好きなことしかしてないくせに、私と違って周りから褒められていい気になってる嫌な女。

 パパもママも、私が一番かわいい、うちの子が天才って言ってくれてたのに、いつのまにか言ってくれなくなった。

 

「あの子は出来るのに、どうしてあなたは出来ないの?」って言うようになった。

 ふざけんな。

 あいつが宿題をいつもちゃんとやるのも、部屋の片づけや家の手伝いをするのも、忘れ物をしないのも料理が出来るのも、テストの点がいいのも全部、あいつが好きでやってるだけじゃない!

 好きなことを好きなだけやってるだけで、それがたまたま勉強とかってだけじゃない!

 あいつが好きなことを好きなだけやってるんだから、私が好きなことだけを好きなだけやって何が悪いの!?

 

 だから全部、奪い取ってやった。

 ううん、返してもらっただけ。だって元は私のものなんだから。

 あいつさえいなかったら、私がもらうはずだったものなんだから。

 

 私のものを横取りしていたんだから、利子をつけて返してもらって当然よね?

 だから、たっぷり甚振ってやった。

 周りはみんな、私の味方。みんな、あいつのいい子ぶりっこは大嫌いだって言って、面白いくらいに私の思う通りになった。

 

 あいつが足音を立てるだけでも下品な歩き方と言って嗤って、息をしたら酸素の無駄使いと言って舌打ちをしてやれば、あいつはもう何もできなくなった。

 ただ「ごめんなさい」を繰り返す人形になって、それもそれで面白かったけどすぐに飽きた。

 

 だから、もういらないと言ってやったら、あてつけのように飛び降りやがった。

 バッカじゃないの?

 それで脳みそでもぶちまけて、つぶれたカエルみたいになって死んだから少しは面白かったのに、超能力なんてものを身に着けて、逃げ出した。

 

 何よ。もう何もなくなったと思ったからいらないと思ったのに、まだあるじゃない。

 あいつは私から奪ったものを、私のを返さずに逃げ出した。

 

 卑怯者、卑怯者、卑怯者!!

 

 そして、3年たった今も私に返さずのうのうと現れて、そして私からまた奪う卑怯者。

 

 私を助けてくれたのに。

 あの不細工で気持ち悪い怪人は、「可愛い子は俺の嫁」とか言ってた。

 私狙いなのは明白だった。

 だから、彼が助けてくれたのは私。ほかの女はみんな、ついででおまけ。

 

 あの人は、あのヒーローは、鬼サイボーグは私を助けてくれたのに!

 私のなのに、それなのにあいつは気持ち悪く媚びた格好をして、私からまた奪った。

 

 許さない、許さない、許さない。

 

 いつもいつもずるいのよ、卑怯者。

 

 私のなんだから、あんたのものなんかこの世にないんだから、だからまた、返してもらうわよ。

 

 

 いいでしょ?

 ねぇ……エヒメ。


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