私のヒーローと世界の危機と愛しい日常風景   作:淵深 真夜

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引き続き、ジェノス視点です。


死んでもいいけど死ねない

 自分の部屋で床に座り込み、ベッドにもたれかかる。

 何もする気が起きなかった。

 食事も、自分のパーツの簡単なメンテもせず、到底眠れないこともわかっていた。

 PCの電源をつけて少しは何かを調べておこうとも思ったが、自分は何も知らないことに気が付いて、結局何もしないまますぐに電源を落とした。

 

 飛び降りたと彼女は言ったが、それがどこなのかも、あいつらとの関係は俺の想像通りクラスメイトかどうかもわからない、知らないことに気が付いた。

 知っていたからと言って、それを今更調べて何になるのかさえもわからない。

 

 ただ、何かがしたかった。

 3年前から変われないで、逃げ出せない、今もなお絶望の世界で生きていることにすら罪悪感を抱くエヒメさんに、どうしても何かがしたかった。

 

 先生が3年かけても救い出せない彼女を、俺なんかが容易く救えるとは思っていない。

 けれど、俺はエヒメさんの一つ一つはささやかで何気ない言葉や行動で、大きく変えられた。

 

 あの人が俺の事を「その人」ではなく「そのサイボーグ」と呼んでいたら、俺への対応が警戒心から他人行儀で事務的なものだったら、俺の復讐に関して全肯定、もしくは全否定していたら、もしくは興味を示さず何も言わなかったら、先生の強さの秘密を聞かされて落ち込んでいた俺が、適当にあしらわれていたら……。

 どれもこれも、されてもされなくても文句など言えないささやかなことばかりだ。

 

 けれど、一つでも欠けていたら俺はきっと、あの人に恋などしなかった。

 良くて友人、悪ければ先生の妹としか思わなかっただろう。

 4年前に失った全てと同等の、もう二度となくしたくはない大切な存在になんて、ならなかった。

 

 小さくて、ささやかで、俺自身も「大したことがない」と思って切り捨てて見向きもしなかったけれど、本当は欲しかった、必要だったものをあの人はくれたから……。

 

 俺自身が救いになれなくても、俺の何かが救いのきっかけに、材料になればいい。

 その為に何かがどうしてもしたかったが、結局なにも思い浮かばずただ俺は無気力に座り込んでいるだけだ。

 

 ……結局、慰めることも出来なかった。

 エヒメさんを抱きかかえたままアパートの前に戻った時、丁度フブキが帰るタイミングだったらしく、先生も何があったのか珍しくフブキを見送るために出て来ていた。

 

 先生もフブキも、俺がエヒメさんを抱きかかえて帰って来たことに状況が把握できずひどく驚いていたが、俺が「先生」と呼びかけた時、エヒメさんが顔を上げて先生の方を見れば先生の表情が一変した。

 エヒメさんを物扱いした、あのストーカーの成れの果てに対して見せた、堪えきれない怒りと悔やんでも悔やみきれない後悔に歪んだ顔だった。

 

「エヒメ!」と先生が呼んだ瞬間、俺の腕から彼女は消えた。

 密着していたらその触れているものと一緒に跳ぶはずなのに、彼女は一人で空間を渡り、先生の、兄の元に跳んで、その胸の中で泣き叫んだ。

 

「お兄ちゃん……。お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん!!」

 

 いきなり抱き着いて泣きじゃくる妹を先生はしっかりと抱きしめて、背を軽く叩いて頭を撫で、少しでも落ち着くように安心できるようにとしながら何があったかは訊かず、ただただエヒメさんに言い聞かせた。

 

「……大丈夫だ。大丈夫なんだ、エヒメ。

 お前は兄ちゃんが守ってやるから、だから、大丈夫だ」

 

 先生はエヒメさんが不安げに「お兄ちゃん」と呼び続けるのが治まるまでそう言い続け、泣くのはやめないが少しは落ち着いたあたりで俺と、さらに状況が理解できなくなって困惑しているフブキに、「悪い。こいつを連れて帰るわ」とだけ言って、そのまま俺と同じように抱きかかえて自宅に戻って行った。

 

 フブキに何があったのかを訊かれたが、どうしても答える気にはなれず後日にしてくれと言えば、素直にあの女は「……わかったわ」と答えた。

 だが、悔やむように顔を歪ませて「……私、チケットをあげない方が良かった?」という質問に俺は、「……すまない」としか返せなかった。

 

 フブキは何も悪くない。

 エヒメさんはまだ情緒不安定だったが、完璧に避けられていた昨日までとは違って俺とまた話してくれるようになったきっかけや、俺を後日からかうためだとしてもエヒメさんは着飾らせて「デート」らしいお膳立てをしてくれたことに関しては、素直に感謝している。

 あいつらと出会ってしまったのは、運が悪かっただけだ。

 

 だけど、俺はフブキから一刻も早く離れたかった。会話ができる余裕などなかった。

 フブキは何も悪くないとわかっていても、あの女に……ヘラを連想させるあいつと会話をしていたら、間違いなく俺はフブキに八つ当たりをしていただろう。

 

 そうして、部屋に戻っても俺は何もできないことを悔やみ続けることしかできない。

 ……エヒメさんから全てを奪ったあいつらに対する憎しみを、募らせる以外何もできなかった。

 

 * * *

 

 ただひたすら自分を責めて、想像の中で何度奴らを焼き尽くしたかは覚えていない。

 けれどそんな無意味なことでも時間だけは潰れたことを知ったのは、玄関のチャイムが鳴った時。

「ジェノス、ちょっといいか?」と、先生が扉の向こうから声をかけてきた時だ。

 

 それでようやくもうとっくに日が落ちていることに気付くが、それはどうでも良かった。

 俺は即座に立ち上がって玄関に向かい、扉を開けてすぐに先生の要件をお聞きするのではなく、図々しくも俺がまず訊いた。

 

「先生! エヒメさんは!?」

「泣きつかれて寝たよ。だから、ちょっと上がらせてくれ。話が聞きたい」

 

 俺の無礼さを先生は咎めなかった。それはいつもなら先生が寛容だからだろうが、今回はそんな余裕もなかったからだろう。

 どんな怪人と戦った後でも見たことのない、先生の疲弊しきった様は見ていられなかった。

 

 俺は先生を招き入れる。

 元々この部屋は俺が寝ることと、あとは私物置き場としか使っておらず、誰かを招くことを想定してなかったので椅子や座布団の類もなく、ベッドに腰かけることを勧めたが、先生は「いや、いい」と断って床に胡坐をかいた。

 飲み物の有無を尋ねてもそれもいらないと答えられ、俺は先生と向き合って正座すると、サイタマ先生は頭痛を堪えるように頭に片手をやって率直に俺に訊いた。

 

「ジェノス。何があった? 悪ぃけど、俺はあいつからは何も聞いてないんだ」

 

 先生の問いこそが、エヒメさんの傷の深さだろう。

 誰よりも何よりも信頼している兄にすら、吐き出すことが出来ないほどの「トラウマ」そのものと再会してしまい、そして何も出来なかった自分を悔やみながら俺は、流れていないはずの血を吐く思いで伝えた。

 

「……ヘラに……出会いました」

「誰だそれ?」

 

 しかし、即答で返された言葉に若干気が抜けた。

 忘れるものなのか? と一瞬思ってしまったが、先生にすらエヒメさんは何も語らなかったという事を思い出し、エヒメさんがいじめられていたことは知っていてもその主犯格であろうあの女の事はまるっきり初めから知らないのかもしれないと思い直す。

 

 しかし俺がヘラの外見の特徴、ついでにその取り巻き達の事を説明すると怪訝な顔をしていた先生の顔がみるみる険しくなり、俺の説明を途中で制して止めた。

「わかった。思い出した。……わかったから、『あいつ』の名前を出さないでくれ。

 あいつ……エヒメは未だに、街中とかTVで同じ名前を聞くだけで過呼吸を起こすんだ。……俺も、ブチ切れて八つ当たりしそうになるからやめてくれ」

 

 ……忘れていたわけではなく、忘れようとしていたのか。

 それほどまでに奴は、エヒメさんだけではなく先生さえも傷つけたのか。

 

「……すみません」

 俺が頭を下げると、「謝んな。お前は悪くねぇよ」と先生は言ってくれるが、エヒメさんが奴と出会ったことを知って先生の顔に疲労の影が増している。

 

 先生は項垂れていた頭を上げて、そのまま勢いでのけぞって天井を仰ぎ見ながら呟く。

「……わかってはいたんだけどな。臭いものに蓋してるだけで、何も解決してないことは。

 でも、マジで全然、……未だにあんなに怯えて、3年かけて取り戻したものが全部ぶっ壊れるくらい何も癒えてなかったのは……さすがに堪えるな」

 

 口元を引き攣らせた自嘲の笑いが痛々しい。

 ヒーローとしてあまりに気高く、尊い矜持を持つ先生にとって、未だに誰よりも何よりも救いたい存在が、何も救われていなかったことを思い知らされたのは、もはや存在否定に近いのだろう。

 

 だからか、先生は俺なんかに初めて、弱音らしき言葉を口にした。

 

「……俺は、3年前に『ヒーロー』なんか目指さないで、『あいつ』を殺してでもエヒメの前にもう二度と現れないようにした方が良かったのかもな」

 

 相手は怪人でも怪物でも、指名手配犯ですらない。イジメを行っていたとはいえ未成年の少女であり、そのイジメすらも認知されていないのなら善良な一般市民として扱われる。

 それを殺すのは、この世から排除するのは、ヒーローとしてはもちろん人としても最低な行いなのに、俺は否定できない。

 

 ……あそこまで人を生きながらに殺し尽くした奴らが「善良」で、そんな汚物を排除することが「悪」だなんて、俺には納得できない。出来るわけがない。

 

 それでも、俺は答える。

 

「……サイタマ先生。それは、間違いです」

 

 先生の言葉を、おそらく初めて否定する。

 

「貴方がその手を『奴』の血で汚してしまったら、それこそエヒメさんは全てを失います。

 ……だから、お願いします。

 何もかも奪い尽くされて、壊されて、自分の命すらも自分のものと思えなくなってしまったあの人に唯一残された、『奴ら』に奪われることなく守り抜いた『エヒメさんのヒーロー』を、否定しないでください」

 

 何もかも失い、飛び降りて、そうやって彼女はきっとその時に「跳ぶ」という手段を得たのだろう。

 命すらもなげうってようやく、残ったただ一つの元にたどり着けたのだろう。

 

 それほど……エヒメさんにとって先生は、何よりも手放せない、手放したくない大切な人で、拠り所だったはずだ。

 ヒーローになろうと志した時から、とっくの昔から先生は間違いなく、エヒメさんのヒーローだった。

 

 だから、先生の弱音を仮定の話であっても肯定してはいけない。

 先生の手が「奴」の血で汚れてしまったら、それこそエヒメさんは先生が周囲から非難されようがされまいが関係なく、「自分の所為だ」と罪悪感を抱き、自分が疫病神だと思い込んで、……あとはどうなろうと「終わり」でしかないだろう。

 

 また、自ら命を断とうとするのか、それとも言葉通り生きた屍になるか。

 

 おそらくはその、二通りしかない。

 

「……あぁ。わかってる。悪い。今のは忘れてくれ」

 俺が言うまでもなく、先生の方がその最悪の結末を理解していたのか、すぐに前言を撤回して俺は安堵する。

 やはり先生はどこまでも気高く、どれほど傷ついても「正しさ」を見失わない人であることを再確認していたら、ふと先生が俺の言葉で気になる部分があった事に気付いたらしく、少しだけ疲労や怒りの色を薄めて俺に尋ねた。

 

「そういや、ジェノス。お前、何で知ってるんだ?

 ……エヒメが、自殺未遂したことを」

 

「俺、話した覚えねーぞ」と首を傾げる先生に、帰り道でエヒメさんが話してくれたことを伝えると、先生は目を丸くした。

 その様子に俺の方も呆気を取られて、「先生?」と呼びかけると、今度は先生が破顔した。

 

 ただでさえめったに笑わない先生が、今にも泣きそうな顔をして笑った。

 泣きそうであったが、それは悲しみや悔し涙の類ではない。

 零れ落ちたとしたらそれは、うれし涙であることがはっきりとわかるほど、嬉しそうに先生は笑った。

 

「……あいつ、お前には話したのか」

 

 先生の言葉に驚愕する。

 俺の表情で察したのか、俺が訊く前に一度首を横に振ってから先生は答えてくれた。

「あいつ、何があったのかも、何をされたのかも、何で飛び降りたのかも、俺に話したことねーよ。俺が積極的に訊かなかったってのもあるけど、いくら『話して楽になるなら話せ』って言っても、一度も話さなかった」

 

 ……あの人は、どんな思いで俺に吐き出したのだろうか?

 

 おそらくは、先生に話すと先生が激しく悔やみ、自分を救えなかったことに対して罪悪感を抱くから、だから俺に吐き出した程度だろう。

 兄が大切だから吐き出せば少しはマシになれるものも決して吐き出せなかったが、俺ならまだ出会ってもない頃の話だから、さほど重荷にならないと思ったから話した。それくらいの気持ちに過ぎないことは、わかってる。

 

 そうしないと、俺は自惚れる。

 エヒメさんが先生ではなく俺を選んでくれたと、俺になら話してもいいと思ってくれたと、バカげた自惚れを頭から追い出す。

 

 が、どうしても吊り上がる口角は手で覆い隠すしかなかった。

 

 不謹慎なのはわかってる。話してくれたからと言って、俺は結局何も出来なかったことには変わりない。

 ……それでも、どうしようもなく嬉しかった。

 

 先生も、エヒメさんが胸の内に抱え込み続けた重荷を、わずかでも俺に吐き出したことに安堵して、うれしげに、そして少しおかしそうに笑って呟く。

「……そうか。全部がまたぶっ壊れて、なくしたわけじゃねーのか」

 

 先生はそんなつもりはないだろうが、その言葉でまた不謹慎な喜びが俺の胸を占める。

 3年前に奴らに奪われて壊されたものになかったもの、再会した今も壊れずに、失われずに、エヒメさんが持ち続けるものに、俺が含まれているのなら……俺は奴らに決して奪われず、壊されないことを誓おう。

 

「……先生、俺が原因でエヒメさんと奴らが再び関わってしまい、まことに申し訳ありません」

 俺は改めて先生に、頭を下げる。

 先生は「だからお前の所為じゃねぇっつーの」と言ってくれるが、どんなに先生やエヒメさん自身が俺を擁護してくれても、エヒメさんが繰り返し言い続けた謝罪のように、俺は俺自身を自分のしたことだからこそ一生許せない。

 だからこそこれは、許されることを望む謝罪ではなく、一つのけじめと俺の決意証明だ。

 

「俺がきっかけで、俺が原因で、エヒメさんに一番思い出させてはいけないことを思い出させてしまいました。

 あの人は、俺に一番辛かった時期の事を話してくれましたが、俺は何もできませんでした。

 

 ……そんな、無力で無能で、未だに何一つ先生の足元にも及ばない不肖な弟子ですが……、お願いします。

 これからもエヒメさんを、俺の大切な人を守らせてください」

 

 先生に対して失礼な言葉であることは百も承知だが、あえて「先生の大切な妹」ではなく、「俺の大切な人」と言った。

 失礼でも、無礼でも、先生を敵に回してでも、それでも俺にとって守りたいくらいにあの人が大切だと言う意思表示を、先生は苦笑と「恥ずかしい奴」での一言で片づけた。

 

「……言われなくたって、任せるっつーの。お前は、俺にはもったいない最高の弟子だよ」

 

 俺の意思表示に対する返答は一言だったが、その一言で終わらせた理由は、身に余るほどの光栄な信頼と評価だった。

 

「ありがとうございます」

「いちいち土下座すんなって!」

 若干本気で迷惑そうに言われたので頭を上げると、今度は呆れたような言葉を続けられた。

「ったく、お前は本当にクソ真面目でエヒメが大好きだな。もう結婚しろ。そして爆発しろ」

 

「……そうですね」

 

 クソ真面目は昔からよく言われてきたことで、そして結婚に関してはぜひともしたいので肯定する。

 というか、先生。「少なくとも成人するまで絶対に嫁にやらない」と言ったことは忘れているんですね。やはりあの日は、実は結構酔っていたのか。

 そして後者はもう言われなくてもすでに何度かしかけているが、それだけは出来ない。

 

「しかし、前者は今すぐにでもしたいですが、後者は先生からの命令でも無理です。

 俺は死んでもいいですけど、死ねませんから」

 

 先生は俺の言葉に、「当たり前だ。死んだら殺すぞ」と矛盾した返答をして笑った。

 

 ……その言葉を聞きながら俺は、バカなことを考えた。

 

 シメイの「死んでもいいわ」は好きだけど言われたくないと言ったあの人は、この言葉なら喜んでくれるだろうか? と。

 

 


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