エヒメさんが一着の服を手にして、俺に笑顔で話しかける。
「ジェノスさん、これはどうですか?」
「エヒメさんが選んでくれたものなら、俺は何でもいいですよ」
これは正直な俺の気持ちそのままだったが、エヒメさんには選ぶ気がないと思われたのか、少しだけ不満げな顔をされた。
「そんなことを言わず、もっときちんと見て選んでくださいよ。せっかくジェノスさんはカッコいいんですから、似合うものを着て欲しいんです」
……ヤバい。俺の服を選んでくれているだけでも嬉しすぎるのに、このセリフはヤバい。
俺は今日一日、この人と一緒にいてコアが暴走せずに済むのかどうかがさっそく不安になった。
きっかけは他愛のない話。
俺はサイボーグの特性上、服をよく破損する。怪我の心配が薄いので、あまり攻撃を避けないからだ。
そして肩のパーツの構造と、掌だけではなく腕全体に焼却砲の砲門があるため、袖のある服は着ることが出来ない。
なので、服の消耗が激しいわりに着れる服が少なくて少し困るという事を雑談で交わした時、エヒメさんは当たり前のように提案してくれた。
「私が直しましょうか? ジェノスさんが着れるように」
初めはもちろん遠慮した。が、彼女は本当に物を作ったり何かを手直ししてアレンジしたりすることが好きらしく、俺が断ったらかなり本気で残念がられた。
俺としてはして欲しくないのではなく、ただエヒメさんの手を煩わせるのが申し訳なかったのであって、むしろその申し入れはこの上なく嬉しかった。
だからそのことを伝えて、本当に迷惑でなければ頼みたいと言えば、この上なく嬉しそうに笑ってもらえたのは俺も嬉しかった。……嬉しかったが、正直に言うと「エヒメさんの申し入れがこの上なく嬉しかった」という部分を、もっと気にして欲しかった。
贅沢は言うまい。今が十分、俺の身に余るほど幸福な時間だろうと自分に言い聞かせる。
そう。エヒメさんと二人っきりで買い物というこの状況は、……世間一般から見たら「デート」と言えるような今の幸せをただ噛みしめる。
定期メンテで博士のラボから直接エヒメさんと待ち合わせたせいで、先生が酷い汚名を被った元凶である二人と出会ったことは災難だったが、それも結果として良い方向に転んだのだからさっさと忘れて、俺はエヒメさんに任せるだけではなく自分でも服を選ぶ。
「ジェノスさんはハイネックの服が似合うと思うですけど、大丈夫ですか?」
「はい、腕が動かしやすく、戦闘に支障が出なければ基本的にこだわりはありません」
そんな会話を交わし、サイボーグなってから考えたこともなかった、故郷や家族と同時に失ったはずの穏やかな幸せを噛みしめていた。
……噛みしめようとしていた。
が、先ほどから俺たちに向けられる気配が、俺の穏やかな幸せも日常も許さず、苛立たせる。
殺気などといった、明らかに危険な気配ではないのがまた厄介だ。
殺気というほど積極的でも覚悟を決めている訳でもない、粘着質でありながら言い訳がましい、ドロドロとした臆病で卑屈な怒気が一番、表現として正しいだろう。
初めの方は、俺が偶然ではなく完全に意図して俺たちをつけていることを把握していなければ、気のせいかと思う程度だった。だからエヒメさんを不安がらせるのも悪いので、警戒は緩めないまま放置していたんだが……。
さすがにそろそろ、俺の我慢が限界だ。
危害こそはまだ加えそうにはないが、エヒメさんも先ほどから後ろを振り返ることが多くなってきている。勘が良ければ、違和感を覚える程度にまで相手は醜い感情を膨れ上がらせていた。
「……エヒメさん、少しだけここで待っていてくれませんか?」
「え?」
俺の言葉に、エヒメさんは不安げに顔を歪ませた。
自分ではなく俺の身を案じて泣きそうな顔をする人に、訳はあとで必ず話す、怪人などではないから心配はしないで欲しいと言い聞かせ、俺は店の外に出る。
そして、先ほどからずっと俺たちをつけ回していた、ろくに隠れもごまかしも出来ていなかった素人の前に俺は立ちはだかった。
「先ほどから何の用だ?」
バレバレの尾行をしていたのは、女子高生二人。……今日は平日なのだが、制服のまま真っ昼間から何をしてるんだこいつらは?
学生が学校をさぼっているのを補導するのはヒーローの仕事の一部なのか、それはさすがに警察に任せるべきなのかを若干迷っていたら、その女子高生達は状況をわかっていないのか、眼を輝かせてた甲高い声を上げる。
「やだ! 話しかけてもらえちゃった!」
「超ラッキーじゃん! あの、すみません! S級16位のジェノスさんですよね!?」
……予想はしていたが、どうも二人とも俺のファンらしい。
正直言って、俺は自分のファンの存在をありがたいとか嬉しいなどと思ったことがほとんどない。
ファンレターも、子供が拙くとも精一杯頑張って「カッコいいです」などと書いてくれたのを読むのは、コアの奥底、心が温まるが、文章どころか字そのものが崩壊して、「超」や「ヤバい」以外の言葉を知らないのか? と思わせるような手紙は、読むのがただただ苦痛なだけ。
こういうミーハーに騒ぎ立てて、俺が何をしたかではなく俺の顔だけを見て好かれても、何も嬉しくはない。
「だったらどうした? 今はプライベートだ。俺たちに干渉する暇があるのなら、学校に行け。時期的に、まだテスト期間などで早く帰れるという訳でもないだろう」
だから俺は愛想など見せずに、さっさと話を切り上げてここから立ち去るように促すと、女子高生たちはあきらかに不満そうな顔をする。
……唇を尖らせて俺を見上げるその様は先ほどのエヒメさんと同じ仕草なのに、どうしてこちらはこんなにも醜悪なんだ?
それはただの俺の惚れた欲目というものか、それとも本人の心根が現れ出ているのか。
その答えは、簡単に出た。
「え~、そんなかったいこと言わないでくださいよ~」
「プライベートなら、私たちとあそびましょうよ~。息抜きもマジ大事ですよ~」
……俺には連れがいることを先ほどからつけまわして知っているくせに、その存在を無視して俺を誘う図々しさと身勝手さに反吐が出る。
俺の腕に絡めようとした腕を、手加減は十分したが拒絶を露わに振り払って、最後の忠告を口にする。
「早く学校に行け。俺の忍耐が残っているうちにな」
俺が振り払ったことか、俺の言葉か、それとも両方か。とにかく俺の反応がよほど気に食わなかったのか、二人は顔を歪めて俺を睨みつける。
自分の心の醜さをそのまま顔に表して、二人は叫ぶ。
「はぁ? 真っ昼間から女といちゃついてるヒーロー失格にいわれたくないんですけどー?」
「つーか、ヒーローが彼女とか作っていんですかぁー?」
……お前らにとって、ヒーローとは何なんだ? アイドルか何かと勘違いしてないか? イケメン仮面の所為か?
言ってやりたいことは山ほどあったが、どうしてこういう時、女の口はこちらが挟む隙間もなく絶え間なく聞くに堪えない言葉を吐き出せるんだ?
声もやけに甲高くて、頭が痛くなる。
いい加減、本気で焼却砲で消し去ってしまいたくなってきたが、それはもちろん、このまま無視してエヒメさんの元に戻るのも愚策この上ない。
こいつらは嫉妬の対象である本人を前にしたら、特に強く罵られたらパニックを起こして怯えて何も言えなくなるエヒメさん相手なら、喜々として甚振る人種だ。
だからここで、俺を好きなだけ罵って満足して帰って欲しかった。
……なのに、この人はやっぱり大人しく待っていてくれなかった。
「ちょっと顔が良いからってチョーシ乗りすぎなんじゃ……」
「も、もう、なにやってんの!?」
俺を一方的に攻め立てるバカの言葉を、ぎこちなく遮ってエヒメさんはいきなり俺の腕に抱き着いた。
……情けないことに、俺はエヒメさんのいきなりかつ予想外すぎるその行動に完全にフリーズしてしまった。
……誰か当たるどころか挟まったあの感触に、神経の代わりに全感知能力を総動員させてしまったこの時の俺を殺してくれ。
フリーズしてる俺と、いきなり割って入られてさすがに呆気を取られてる女子高生をしり目に、エヒメさんはやはり少しぎこちないまま、俺に対して使っていた敬語をなくして話しかける。
「何、私を置いてナンパなんかしてるの!? 信じられない! もう、早くいくよ!」
そう言って、エヒメさんが俺の腕を引いてその場から去ろうとしてようやく、彼女は演技でこの二人から穏便に、俺を引き離そうとしていることに気付いた。
気付いたが、元々アドリブに弱い性分とまだ腕を挟む実に魅力的な感触が思考をかき乱して、俺は何も言えなかった。
……これが意外なことに、実はよかった。俺とエヒメさんとの間には大きな認識の差異があった事を、この時は気付いてなかったからだ。
「! ちょっ! 待ちなさいよ!」
女子高生が俺とエヒメさんを引き留めるが、エヒメさんはそれを掻き消すように怒ったふりをして俺に言った。
「お昼ご飯はお兄ちゃんの奢りだからね!」
「………………はい?」
まさかの、恋人ではなく兄妹設定だった。
* * *
エヒメさんのセリフで、先ほど以上に意表を突かれた女子高生を無視して人波にまぎれて、完全に引き離したところで通行の邪魔にならない端によってから、エヒメさんが俺に頭を下げる。
「ごめんなさい、ジェノスさん! 何かいきなりアドリブで割り込んじゃって!!」
「……いえ、いいんです。むしろ助かりました」
エヒメさんの謝罪に、俺が返せた言葉はそれだけだった。
いえ、貴女の気遣いは本心から嬉しいですし、間違いではないです。むしろ正しいです。
貴女を「恋人」とあの二人は誤解してましたから、テレポートで逃げても、俺や貴女がネットやツイッターなどで情報が拡散されて攻撃される可能性が高かった。
だから兄妹で買い物ということにしたのは、わかってますよ。
どう見ても兄妹に見える容姿じゃないですけど、俺がサイボーグなので顔が似てない言い訳なんて何とでも出来ますし、プロフィールの類も公開してませんから、違うという証拠も見つけられません。
えぇ、良い考えです。いい考えでしたけど……
どうせ家族や身内なら、嫁になってください。
……そんな俺の本音を言えるわけもなく、馴れ馴れしく話したことや約束をまた守れなかったことを悔やんで謝るエヒメさんに、俺は気にしてない、むしろ上手くあしらえなくて心配をかけたことを謝ったら、謝罪合戦になっていることに気付いてエヒメさんは笑ってくれた。
……あぁ、もうこの笑顔で全部吹っ飛んだ。
俺たちは互いに謝るのをやめにして、丁度いいから昼食にしようと話をまとめる。
俺は先ほどのトラブルの詫びと二人から引き離してくれた礼に、本当に昼食をご馳走させてくださいと伝えればエヒメさんが遠慮するといった他愛ない会話をしながら歩き始めた時、ゾクリともうないはずの神経に悪寒が走った。
センサーではなく唯一の生体部品である脳が、危険を告げる。
完全な勘でしかなかったそれは、予言のように正確だったが遅すぎた。
「きゃあっ!」
「! エヒメさん!?」
彼女の短い悲鳴と、カシャリというシャッター音がほぼ同時に響き、俺はとっさに彼女の肩を掴んで抱き寄せる。
「いたっ!」
その反射的な悲鳴は、手首か肩かはわからない。
けど、俺はその言葉にとっさに手を離したのに、向こうは離さなかった。
年は20代半ばだろうが妙に不健康そうな男がニヤニヤと、粘着質で汚らしい笑みを浮かべながらエヒメさんの手首を掴み続けて、ケータイのカメラを彼女に向けたまま語りだした。
「……やっぱり、彼氏なんかじゃないんだ。そうだよな。君には俺がいるもんな。俺を助けてくれたのに連絡もしてくれないで、今日やっと会えたと思ったらこんなことして……俺に嫉妬させたかったの? あはは、本当に可愛いな」
「はい?」
エヒメさんも見覚えのない奴に手首を掴まれていることに怯えつつ、その言葉に困惑の声を上げる。
どう考えてもこいつは、おそらく深海王の件か何かでエヒメさんに助けられ、勝手に妄想を膨らませて、一方的に自分の恋人扱いをしている。
俺が初めから感じていた、あのドロドロとして醜く、そして積極的に危害を加える勇気もない臆病卑屈な気配はあの女子高生だけではなく、こいつからのもあったのだろう。厄介なことにこいつは、あの女子高生達よりはるかに身を隠すのが上手く、バレバレなのが二人もいたせいで俺はこいつの存在に気付かなかったことが、口惜しくて仕方ない。
「何の話だ? さっさとその薄汚い手を離せ!!」
俺は奴の言葉に膨れ上がる怒りと殺意を押さえつけ、声を上げた。
本当はその手を今すぐにもぎ取ってやりたかったが、相手は怪人でも俺のようなサイボーグでもなければ、痴漢被害というにもまだ微妙なことしかしていない。
ありえないだろうが人違いか何かで悪気がなかったのなら俺の暴力行為は洒落にならず、エヒメさんに更なる迷惑をかけるだけなので、俺は今すぐに殴り掛かりたい衝動を抑えて叫んだ警告に男は最初の一瞬は怯えたが、卑屈そうな笑みを張り付けて言い返す。
「な、何だよ!? ヒーローが善良な一般市民を脅すのか!? 妹が可愛いからって、妹の交友関係や恋愛にまで口出すんじゃねーよ!」
「恋愛」の言葉で、ブチっと頭の中で何かが切れた音を確かに聞いた。
スティンガーやイナズマックス、金属バット相手に俺は幼稚で醜い嫉妬をしてきたが、この感情と比べたらそれらはずいぶんと可愛らしいものだ。
奴らのように、馴れ馴れしくも自分たちなりに彼女を尊重して慈しんでいたのとは全く違う視線。じろじろとエヒメさんの顔と胸を交互に見てニヤニヤ笑うこいつは、彼女を「人」として見ていないし、扱っていない。
性欲の対象でしかない、汚らしい欲望のはけ口としか思っていない分際で、その自分の感情を「恋愛」と言い表したことに、憤怒と憎悪が焔のように燃え上がる。
が、幸いなことにその感情は爆発して、人間相手に焼却砲フルパワーを撃ち出す悲劇は起こらなかった。
「いえ、そもそもあなた誰ですか!?」
エヒメさんが至極当然だが今更なことを、困惑しながら叫んだことで少し気勢がそがれたからだ。
向こうも言われて当たり前なのにどんな妄想が展開されていたのか、信じられないと言わんばかりの顔になって、叫び返した。
「そんな! 俺の事を忘れたのか!?」
「忘れる以前に、会ったことがありません!!」
まさかの断言に、俺もストーカーも一瞬言葉を失った。
いや、こんな奴をフォローする気はありませんが、たぶん深海王の件で貴女が助けた一般市民だと思いますよ、エヒメさん。もしかしてそのことすら忘れてませんか?
エヒメさんの天然が炸裂したことで俺の怒りや憎悪の大部分が吹き飛んだが、相手はむしろ屈辱だったのか、顔を歪めて真っ赤に変色させ、そしてエヒメさんの手首を掴んだままもう片方の手を振り上げた。
* * *
「…………何のつもりだ?」
怒りのリミッターが振りきれると、逆に冷静になるとは聞いていたが、今日初めて、それを実感した。
エヒメさんを気遣って引き離した為、幸いにも奴の腕がもげることはなかったが、それでも奴にとっては相当な痛みだったらしく、左手を抑えて地べたでひいひいと豚のような悲鳴を上げている。
そんな悲鳴を無視して、俺は握りつぶしたケータイをパラパラと落として、再び問う。
「貴様、自分が何をしようとしたかを理解しているのか?」
……こいつは、エヒメさんから「会った事もない」と言われ、その言葉を理解した瞬間、エヒメさんの顔をめがけて、持っていたケータイを投げつけた。
とっさにそれを受け止めて、エヒメさんから奴の手を引きはがして彼女を自分の背後にやったが、一度霧散したはずの憤怒と憎悪が、先ほど以上の業火となって俺の胸の内を焼き尽くす。
俺が受け止めなければ、あのケータイは彼女の目に当たっていた。目はさすがに偶然だろうが、顔は完全に意図的に狙って投げつけていた。
「……貴様は、自分を助けたくれた人に恩義を感じるどころか、欲望のはけ口として身勝手に認定したあげく、自分の事を覚えていなければ八つ当たりで危害を加えることを、『恋愛』というのか?」
答えなんか期待していない問いを口にしながら、俺は奴の頭を掴み上げ、そのまま持ち上げた。
周囲が騒然とするが、そんなのはもはやどうでもいい。傍から見たらヒーローが一般市民を暴行しているように見えるだろうが、こいつを「善良な一般市民」として扱わなければならないのなら、こいつに制裁を与えることが出来ないのなら、ヒーローの資格なんていらない。
「助けてくれたこと、守られたことに対して好意を持つのは良い。だが、それだけに甘えてどうして彼女を助けよう、守ろうとは思わない?
ただ助けられたこと、守られた自分を情けないと思わないんだ?
……貴様が愛しているのは自分自身だけだ。他人を、この人を自分の都合のいいように扱いたいだけの、汚らしい欲望を聞こえの良い言葉で飾り立てるな」
そのまま、俺は掌の砲門に熱を集める。
このままこの汚物を焼き払ってしまいたかった。その後の事なんて何も考えていなかった。
「ジェノスさん、ダメですよ」
そんな俺の愚行を止めたのは、想像の中とはいえ女性として一番屈辱的で絶望的に汚された彼女本人だった。
俺がストーカーを掴みあげる手は逆の手に触れ、握り、彼女は真っすぐに俺を見て静かに告げる。
「私としては、その人を焼き払ってもジェノスさんに感謝するか、手を煩わせたことを申し訳なく思うだけで、その人に対して思うことは何もありません。
でも、それでも相手の言い分を何も聞かず、こちらの感情のみで制裁を下すことは決して褒められたことじゃない。きっと、ジェノスさんが酷く非難されてしまう。
……私はそれが、この人が生きていることよりもずっと嫌です。
だから、やめてください」
性善説を信じて綺麗事で相手を庇うでもなく、彼女は相手の為ではなく、俺の未来を案じて止めた。
俺のしようとしたこと、正義ともヒーローともほど遠い、八つ当たりが一番近い行為を肯定した上で、俺のしようとしたことの価値を認めた上での制止の言葉は、憤怒と憎悪に滾った俺を緩やかに、優しく熱を冷ましていった。
「……大丈夫です。心配をおかけして、すみません」
「おい、そこで何をして……ジェノス?」
俺がエヒメさんに謝ったと同時に、周囲の人間が呼んだのか、まだこのあたりを見回っていたらしいタンクトップマスターとその舎弟たちがやって来て、トラブルを起こしていたと認識されていた俺らを見て、一瞬呆ける。
俺は、未だ悪あがきでジタバタと暴れるストーカーをそのままタンクトップマスターに渡す。
「傷害の現行犯だ。ついでにストーカーでも訴えたい。とりあえず、身柄を拘束してくれ」
説明とは言えない簡潔すぎる俺の言葉だったが、タンクトップマスターはそれだけで事情をほぼ察したのか、そのストーカーを俺から受け取って警察や協会に連絡をする。
後の面倒事は任せろと奴が言い、タンクトップタイガーとブラックホールの兄弟も汚名返上の為か、それともただ弱い人間に強く出る性分なだけかストーカーをしっかり捕まえているので、俺とエヒメさんはその好意に甘えてその場から離れた。
エヒメさんは当事者がさっさと離れてしまうことに申し訳なく思ったようだったが、タンクトップマスターやその舎弟たちも彼女の様子に気付いていたからか、むしろ早く離れるようにと言い、俺はエヒメさんをほとんど無理やり連れだした。
顔色を真っ白にさせて、俺を止めるために握った手はずっと震え続けていた人を、これ以上あの汚物と関わらせるわけにはいかなかった。
* * *
「……ごめんなさい、ジェノスさん。迷惑をかけて」
「エヒメさんの所為じゃありません! あれは向こうが勝手に妄想を広げて、それをこちらに押し付けただけです! あなたは完全に被害者です!!」
少し歩いたところでベンチを見つけ、そこにエヒメさんを座らせると彼女はまず初めに謝り、俺はその言葉を必死になって否定した。
迷惑なわけがない。彼女は何も悪くない。どうして、人を助けたことで彼女が罪悪感を持たなければならない?
俺の説得が効いたというより、俺があまりにも情けない縋るように彼女に「貴女は悪くない」と訴えていたことが、彼女に心配をかけてしまいしまい、エヒメさんは困ったように微笑みながら、「もう、大丈夫ですよ」と伝えて、手袋に覆われた手が俺の頬を撫でた。
慰めるつもりが、慰められる。俺は実に情けない。
もう何度目かもわからない自分の無力さを嘆きながら、それでも手の震えが治まっていたことに安堵して、そのまま俺も隣に座る。
少しだけ休みたいという彼女の要望に応え、ただ無言でそのまましばし座っていたら、エヒメさんがうつむいたまま、呟いた。
「……愛は『与える心』。恋は『求める心』」
「え?」
唐突な言葉に意表を突かれていたら、彼女は曖昧に、困ったように笑いながら言った。
「プリズナーさんが教えてくれた、恋と愛の違いだそうです。……私、恋愛ってものが全然わからなくて、そんな私でもわかるようにプリズナーさんは丁寧に教えてくれて……、私は『愛』を知ってるから、『恋』もしてみろって言ってくれたんです。
女の子は恋をしている時が一番きれいだからって、言ってくれたんです」
正直、プリズナーがそんなまともなことを言ったということに衝撃を受けて、エヒメさんが語る内容が頭にちゃんと入ってこなかったが、一瞬の間を置いて続けられた言葉が、鮮明に俺の脳に届いた。
「……でも、今日、やっぱり怖いなって思ってしまったんです。プリズナーさんはそんなつもりで言ったんじゃないってわかってますけど、……あの人の行いも一種の『求める心』、……『恋』だというのなら……私はあんな、誰もを傷つける感情を持ちたくない」
「あれは、『恋』なんかではありません」
完全に反射で、言葉が出た。
「あれはただの『劣情』です。汚らしい欲望を奴が勝手に、聞こえのいい言葉で言い繕っただけに過ぎない。おそらく自分でも本当は自覚してるでしょう。
……あんなもの……『恋』ではありません」
他の誰かを愛して、恋するくらいならずっとこのまま、この人が「恋」など知らないままでいてほしいという気持ちは、正直ある。
俺だって実際は、あの男と大して変わらない。彼女に対して、自分で自分を殺したいと思えるほど、汚い欲望を抱いている。
でも、……それでも、この想いは、この願いだって本当だ。
諦めて欲しくない、怖がってほしくないと願うのは、確かだ。
確かに恋は、物語のように美しいだけじゃない。汚らしくて醜い自分を思い知り、自身が裂かれるよりも焼き尽くされる以上の痛みを何度だって味わう。
それでも……何気ない一瞬を、言葉を、この上ない永遠の幸福にしてくれるのは、……俺が4年前に失った幸せを再びこの手の中に取り戻せたのは、確かに「恋」だった。
だからどうか、俺じゃなくてもいいとは素直に言えないけれど、それでも、諦めて欲しくなんかなかった。
「……エヒメさん。プリズナーの言葉が、貴女が『恋』を恐れる理由になるのなら……別の意味を知ってください」
「……別の、意味?」
愛と恋の違いなんて考えたことなどなかったが、今ならはっきりとわかる。
プリズナーの言葉も、その違いと意味も正しいと思うが、俺にとっては違う。
「えぇ。……俺は、愛と恋の違いは、こう思っています」
あの男が、エヒメさんが痛がっても身勝手に離さなかった手首に触れて、そこに痛みや痕がないことを願いながら、……今日の出来事がこの人の「傷」にならぬことを祈って、口にする。
「愛は『命を懸けて守る』こと。
そして恋は、……『命に代えても貫く』ことです」
貴女を愛しているから、貴女を悲しませても守りたい。そして、恋をしているから、貴女を悲しませないという誓いを貫きたい。
ただそれだけの、俺の願いを口にした。
エヒメさんは顔から申し訳なさも、怯えも、諦観も消して、きょとんとした顔でしばし俺と顔を見合わせてから、口元をおかしげに綻ばせた。
「……ジェノスさん、それはすっごくロマンチックな答えですね」
……自分でもロマンだのそういうものとは無縁だと思っているので、改めてそう言われると一気に羞恥が沸き上がる。生身なら間違いなく、顔が茹蛸のような色になっていただろう。
「……でも、すごく素敵。プリズナーさんの答えも納得したし、好きですけど、ジェノスさんの答えの方が、私、好きです」
……今一瞬、嬉しさのあまりエネルギーコアの熱量が急上昇した。危うく、自爆するところだったのを何とか、「俺じゃなくて、俺の言った言葉が好きなだけだ!」と自分に言い聞かせて落ち着かせる。
「……ジェノスさんに『恋』してもらえた人って、幸せでしょうね」
……じゃあ、貴女は幸せですか? と訊き返す余裕など、俺にはなかった。
あったとしても、そんな勇気はまだないから、同じことだがな。
* * *
余談の後日談だが、この日の事を帰った後に心配をかけたくなかったが、あとになって他人から知られるよりは良いと思い、先生に報告した。
……先生は、ストーカーが逆上してエヒメさんにケータイを顔に向かって投げつけたというくだりで一瞬だけだが、すさまじい殺気を放った。
その殺気は隕石の時や深海王の時より短く、一瞬で霧散したが……そのどちらよりもすさまじかったことで、うぬぼれるつもりはないが、俺は思う。
もしかしたら俺は、実は世界を救ったのかもしれない、と。