「なぁ、ジェノス」
「はい、何でしょうか先生」
先生との手合わせを終えた後、俺と先生はうどん屋で昼食をとる。
互いに向き合ってテーブル席に座り、うどんをすすっていたら先生が何気なく俺に尋ねた。
「お前、エヒメに惚れてんの?」
……もしかしたら俺にとってこの時が一番、自分がサイボーグで良かったと思った瞬間かもしれない。
生身なら間違いなく食べていたうどんを先生に向って噴き出して、むせていたところだろう。
食事をとれるとはいえ人間とは根本的に違う構造上、どんなに衝撃的なことを言われてもそのような反応が出なかったことは幸いだが、言われて完全に動きが停止して、先生に頭を軽くノックされるまで動き出せなかったので、あまり意味がない。
完全に先生の言葉を俺は、フリーズするほど図星と肯定していた。
……つい最近、最悪なきっかけで自覚したばかりの想いを、まさかこんなにも早く先生に指摘されるとは。
先生がとてつもなく聡いのか、俺がどうしようもなくわかりやすいのか。
どちらにせよ羞恥で今すぐに自爆したいくらいだが、それよりも申し訳なさが先立った。
「すみません!! 先生!!」
「何でいきなり謝るんだよ!?」
俺はとりあえずうどんのどんぶりを横において、テーブルに手を突き頭を下げた。
本来なら土下座をすべきだろうが、あまり広い店ではないのでそれが出来ず、ひとまず今できる限り深く頭を下げる。
「先生に何一つ追いつくどころか近づきさえもしていない分際で、先生から頼まれた『エヒメさんの友達』ではなく身の程知らずに、エヒメさんに懸想など……」
「落ち着け。とりあえず、とにかく落ち着け。そんで頭を上げろ。
別に俺は怒っても反対もしてねーから」
俺が思いつくままに自分の身の程知らずな想いを詫びるのを、先生は途中でぶった切って止めて、そして信じられない言葉を口にした。
「……反対、されないのですか? 俺なんかがエヒメさんを……」
「自分の事を、『なんか』なんて言うな。それに、何で俺が反対しなきゃいけねーんだよ。
一番大事なのは、お前とエヒメ自身の気持ちだ。むしろ、関係ない俺がこんなことを訊いてる方が、身の程知らずで厚かましいんだよ」
俺の自虐的な言葉を叱り、先生はうどんをすすりながら言う。
誰よりも身近で守ってきたはずの妹を、こんな馬の骨としか言いようのない俺が懸想していることを、先生は本人たちの問題で自分は部外者だと言い切った。
理屈では確かにそれが正論だろうが、そういう問題なわけがない。そうやって割り切れるようなものではないはず。
「……だから、別に俺から何かを言うつもりもするつもりもねーよ。
お前の事はまだよくわかってないけど、良い奴だってことはもう十分知ってるし、泣かせるなとかも言うつもりもねえよ。俺が一番、心配と迷惑をかけて泣かせてるし。お前らはまだ若いんだから、一生をかけて幸せにしろとも言えねぇし。
…………だけど、一つだけ、これだけは言わせてくれ」
そのことをわかっているからか、気まずげに先生は少し間を置く。
やはり先生も割り切れる例外ではなく、例え無関係で余計なお世話でも、妹を思うからこそどうしても相手に科したい条件を口にする。
「あいつに……、エヒメに期待をするな」
「……大丈夫です、先生。エヒメさんが俺のことを、先生の弟子であって友人とすら思ってもらえてるかも怪しい状態ですから、それこそこの想いに応えてもらえるなんて……」
「あ、違う。俺が悪かった。そういう意味じゃねぇよ」
先生の言葉に、わかってはいたが改めて突き付けられた、彼女と俺との気持ちの違いを思い知らされながら答えていると、これも途中でぶった切られて否定された。
「あいつがお前のことを好きになるかどうかの期待をするなじゃなくて、あいつ自身に期待すんなって意味だ。
っていうか、そこを否定したら俺、自分で言ったことのほとんどを棚に上げてんじゃねーか」
言われてみればその通りだったので早とちりを俺は謝罪するが、しかし言い直されたら余計に意味が分からなくなった。
「あの、すみません先生。おっしゃる意味が俺にはよくわからないのですが……」
「あー、うん、だろうな。……何て言えばいいのかなー?」
先生は残っていたうどんの汁を飲み干して、どんぶりを置いた時、目は中空を彷徨わせて、言葉を探しながら答えた。
「……あいつ、基本的に他人が好きじゃないって言っただろ?」
進化の家に向かう途中、先生から「妹の友達になってくれ」と言われた時のことを思い出す。
あの時は先生が語ったエヒメさんの人物像が、俺の知るエヒメさんとは乖離しすぎていて信じられなかったが、あれからそれなりに日が経ったというのに、彼女の口から出る人の話題は先生と恩人であるソニックだけ。
それ以外の人名や話題を聞いた覚えがないので、未だに信じられないが人嫌いは事実なのだろう。
先生は少し悩む様子を見せながら、語る。
あの時は「ちょっと事情があって」で終わらせた、彼女がそうなった理由を。
「エヒメは俺と違って、何でも平均以上の結果を出す優等生で、周りから神童だとか天才少女だとか言われまくってたんだ。本人は、ただの器用貧乏だって昔から言ってるけどな。
……そんな感じで、周りから『何でもできる』って期待されて、昔は押しに弱かったから無茶ぶりされても断れないでくそ真面目にその期待に応えて、結果を出して、それでさらに期待されて無茶ぶりを押し付けられてを繰り返してたんだ。
……で、あいつは自分の実力とか限界以上に頑張って、余裕なんかないのに周りは何でも押し付けた挙句、あいつが出した結果に嫉妬して、足を引っ張って嫌がらせやらイジメやらもされるようになって、高校に入ってもう周りのプレッシャーと嫌がらせに限界を超えたのか……、気がついたら実家から離れて一人暮らししてた俺の目の前で、座り込んで泣いてたんだ。
テレポートが使えるようになったのは、それが始まりだ。あいつはそこまでしないと逃げられない袋小路に、追い詰められてたんだ」
その内容に、絶句した。
先生が彼女に「期待をするな」といった意味も、人間嫌いな理由も、テレポートという特殊な力を持つ理由も理解できた。
理解できたが故に、わからなくなった。
『ジェノスさん!』
脳裏に浮かんだのは、いつも先生の家に訪れた時、笑って出迎えてくれるエヒメさん。
その笑顔は屈託がなくて、無垢で天真爛漫の見本のように明るく、故郷と家族を失ってから満たされなかった俺の胸の内に、安らぎを与えてくれていた。
どうして、人としての力を超越するほどに追い詰められて、逃げたくても逃げられず、誰にも守ってもらえずに虐げられていた彼女が、過去の話とはいえ今はああやって笑っていられるのかがわからない。
どうして、赤の他人である俺の幸せを願ってくれたのかが、わからない。
どうして、そこまでして逃げたかったのに、今は「逃げない」と自分に科せるのかが、わからなかった。
「……だから、あいつに対して期待というかあんまりプレッシャーをかけないでやってくれ。
お前は本気でそう思ってるってのはわかってんだけど、お前は些細なことで『さすが、エヒメさん!』みたいな反応をするから、今のところは気にしてないみたいだけど、あいつ、誰かに失望されて『価値がない』って思われんのがトラウマなんだよ」
何の反応も返答も返せなかった俺に、先生は言葉を続ける。
その言葉の中の、「価値がない」が俺の胸の中で形ない部分を抉る。
それは先日、嫉妬のままに彼女の恩人を、彼女にとって価値あるものを貶めた時のことであることは、明らかだ。
「…………あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
「もうそれはいいっつーの」
何とか絞り出した謝罪は、あまりに軽く流され、許された。
それがむしろ俺の中の罪悪感を肥大させ、心が掻き毟られる。
許されるということは、あまりに過酷な罰にもなることを俺はこの時、知った。
「……つーか、マジで俺がこういうことを言う資格ないんだよなー。
離れて暮らしててほとんど会ってなかったとはいえ、あいつがテレポで逃げ出すまで、あんなに追い詰められてたことを何も知らなかったし……。
丁度ヒーローになるって決めた直後だったのに、俺はヒーローじゃねーってことを思いっきり思い知らされたわ。……妹を守ってやれなかったなんて、とんだヒーローだよ。
……だからお前は、俺みたいになるな。俺が口出ししたいのは、それだけだ」
先生はそう自嘲気に笑って話を終わらせ、俺のうどんが冷めて伸びていることを指摘する。
ずいぶんと放置されて不味くなったうどんをすするが、味は何も感じなかった。
味覚センサーの故障ではなく、ただの俺の心の問題だ。
……先生。あなたはちゃんとエヒメさんのヒーローですよ。
だって彼女が、人を超越して真っ先に向かった先は、貴方の元だったのでしょう?
人嫌いな彼女が今、あんなにも綺麗に笑えるのは、先生の元に逃げこんでからずっと彼女を貴方が守ってきたからでしょう?
やはり先生は、強さだけではなく心根までも尊敬に値する方だと思い知らされる。
強さの次元の違いを目の当たりにした直後、人としての器の違いも、自分の器の小ささも思い知らされるなんて……
俺は、思ってしまった。考えてしまった。
出会ってさえもいない昔の話なのに、俺は「先生ではなく俺を頼って欲しかった」と。
俺は、ソニックという男だけではなく、敬愛する先生にさえも嫉妬した。
彼女の笑顔を、幸せを与えられる唯一の存在になりたいと、願ってしまった。