実はヘラを人通りのある所まで送ったあたりでキャパはかなりギリギリだった。
ものすごく体がだるくて、道端でも今すぐぐっすり眠ってしまいたいくらいだったけど、私は腫れあがってる自分の足を叩いて痛みで何とか睡魔を追い払って、何度も跳んだ。
ミラージュのすぐ後ろに出現できたのは、運が良かったのか私の執念かはわからない。
っていうか、どっちでもいい。
ただ私は、何よりもしなくちゃいけないことを実行した。
「ミラージュッ!!」
「え?」
私は、ポカンとした顔で振り返った私の顔に思いっきり、渾身の力を込めてビンタを叩きつける。
勇気がなくて何もできなくてただ逃げた、3年前の私を殴り飛ばした。
* * *
殴ったはずみで左足に体重をかけてしまったせいで、そのままバランスを崩して私は倒れこむ。
ミラージュは、左側に振り向いた顔が殴られた勢いで、右側に振り向くような形になる。
能力的に私のビンタが私のそのまんま還元してもおかしくなかったのに、私の頬はまったく痛みを訴えず、代わりに殴られ、その勢いで回った頭からずるりと、腐って皮が剥がれ落ちた果実のように、肌色から銀の液体に変化したものが顔から剥がれ落ちた。
私の顔が剥がれて、露わになったのはヘラに切り裂かれた両目の傷が痛々しい、元のミラージュの顔。
ミラージュは元の姿に戻ったことで両目の痛みも思い出してしまったのか、左手が自分の目を押さえつける。
右手はまっすぐに、爪を立てて私の首に向かってきていた。
私の顔になっても、ミラージュの顔に戻っても変化のない、額の人間らしさどころか生き物らしさが皆無な、無機質な鏡の目で私を映しながら。
その目を見て、気付く。
彼女はやはり、どうあっても救われないことを。
「エヒメさん!!」
ミラージュの手が私の首に届く前に、私は包み込まれた。
あまりに硬質で、体温などない冷たい黒鋼の身体。
全身いたるところがもうボロボロで、表面だけかもしれないけど融解している部分もある。
何より、左腕を失って戦う術はもう右腕にしかないのに、その腕をこの人はためらいなく、私を抱きかかえて、包み込むために使ってくれた。
ミラージュに砲門を向けて、ミラージュを排除するためではなく、私を守ることを選んでくれた腕の中で思う。
私はやっぱりこの人が、ジェノスさんが大好きだと改めて、どうしようもないほどに思い知らされた。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
そんな場違いな感情は、鳥の鳴き声のような絶叫で吹き飛ばされる。
ジェノスさんが私を抱きかかえたまま振り返り、私も彼の肩越しにミラージュを見ると、ミラージュはヘラに切り裂かれた両目ではなくて、額を両手で押さえている。
その隙間には刃の部分がすべて埋まった苦無が見えた。
「っち! そこは核じゃなかったか!!」
ソニックさんが手裏剣を扇のように広げて構え、舌打ちする。
また、ソニックさんが刺した額から水銀のような液体が、液体の鏡があふれ出るけど、ソニックさんはそれが人形や壁になる前に、片を付けるつもりらしいことを察して、ジェノスさんは私をさらにしっかり抱きかかえて「エヒメさん! 捕まっていてください!」と言って跳んだ。
直後、マシンガンを掃射したような勢いで手裏剣や苦無がミラージュの身体に突き刺さり、ミラージュはハリネズミのような姿になる。
口からは苦痛の絶叫、全身からは鏡の液体を吹出して、倒れ伏す。
人間でも怪人でも、もう死んでいても不思議ではないほどの傷を負った。
……それでも――
「……たい……痛い……痛いよ。……助けて。……痛いのは嫌……死ぬのは……嫌……」
それでも、ミラージュは生きていた。
お兄ちゃんの元まで戻ったジェノスさんも、お兄ちゃんも、そして残っていた武器をすべて撃ち尽くしたソニックさんも、その生命力の強さに目を見開いて絶句する。
そしてまた、あふれ出た液体が沸騰するように泡立って、噴水のように盛り上がる。
「ちっ!」
その様子にソニックさんも飛びのき、代わりにお兄ちゃんが拳を固めて足を踏み出した。
……多分、ここで何も言わず、お兄ちゃんに任せた方がミラージュは幸福だった。
お兄ちゃんにトドメを刺された方が、きっと彼女は永遠に本人が知り得ないけど、幸福だった。
でも、……ごめんなさい。
誰に謝ったのかも、私自身はわからない。
ただ、ミラージュではない事だけは確か。
「お兄ちゃん、やめて」
私はただ、自分の為だけに言った。
お兄ちゃんが、元とはいえ私の幼馴染で、心はともかく体は人間だった彼女を殺す罪悪感など背負わせたくないから。
ただそれだけの為に、私は彼女は止めた。
「……エヒメ?」
不思議そうな顔をして振り返るお兄ちゃんに、もう一度同じ言葉をかける。
「やめて。お兄ちゃん」
私がどんな顔をして言ったのかは、わからない。
ただソニックさんは不愉快そうな顔になって鼻を鳴らし、ジェノスさんは悲しんでいるようにも怒っているようにも悔やんでいるようにも見える顔で私を見下ろす。
そしてお兄ちゃんは、全てを受け入れるように笑って言った。
「……大丈夫だ。エヒメ。兄ちゃんに任せろ。兄ちゃんはヒーローなんだから……」
「違う」
どんな顔をしていたのかはわからない。でも、たぶん今にも罪悪感で死にそうな顔をしていたんだと思う。
お兄ちゃんはそれを、ミラージュが死ぬことか、それともお兄ちゃんにトドメを刺す役割を押し付けたと思って罪悪感を抱いているのかと思ったんだろうけど、それは違う。
「……お兄ちゃんがトドメを刺さなくても、時間の問題。だから、何もしないで。
……もうミラージュは、人形なんか作れない」
「え?」
私の言葉に、お兄ちゃんは振り返る。
ミラージュの体中から溢れる液体は、噴水のように盛り上がったかと思ったら、粘土やパン生地をこね合わせるみたいに動いて人の形になるけれど、それは本当にかろうじて人の形を作りたかったんだろうなぁという程度の造形。
雪だるまよりは人間らしい程度の人形は、しばらくすると溶けかけのアイスのように頭の部分が崩れ落ち、体も融解して液体に戻る。
そして液体がまた人形を作り出すけど、同じことを繰り返す。
液体は蒸発を始めているのか、うっすらと白い煙らしきものが上がっている。
その中心で、ミラージュは倒れ伏したままもう体中に突き刺さった武器の一つも抜き取れず、弱々しく呟き続けるだけ。
「痛い……暗い……何も見えない……怖いよ……何で……どうして私が……怖い……見えない、何も……見えない」
「……どういうことだ?」
「死にかけて、もう力を行使できんのか?」
ジェノスさんはその光景を見て呟き、ソニックさんは凝った肩をほぐすように肩を回しながら、もはや興味がなさそうに言った。
「……それもあると思いますけど、たぶん人形が作れないのは、目がもう見えないからだと思います」
興味はないだろうけど、私は口にする。
教えたかったというより、ただ吐き出したかっただけ。
胸の内に溜めておくには重すぎる、心の澱を、私が知っているミラージュという幼馴染だった存在について、ただ吐き出した。
「彼女は、他人の心の内とか本質と、そういうものに興味を示しません。自分がうらやましいと思ったものを欲しがるか、自分と相容れないものを馬鹿にして見下すか。それしか出来ません。
……けれど、同時に彼女には『自分』というものがないんです。誰よりも何よりも自分本位で、自分だけを愛しているのに、彼女は肝心な『自分』がないんです」
それこそが、この怪物の本質。
「……私がミラージュを殴ってもダメージ反映が起きずに、変身が解けたということは、ミラージュの人形ってモデル本人の攻撃は反映されなかったんですね」
私はジェノスさんを見上げて尋ねる。
私の言葉に、驚きよりも沈痛な顔をしていたジェノスさんは無言で頷く。
あぁ。この人も気が付いているんだ。
ミラージュが、求めていたものが何であるかを。
「私、二人の人形がモデル本人の方にしか襲ってこないのを不思議に思っていたんです。どう考えても、逆の方が躊躇なく攻撃してくるだろうから効率がいいのに。
……あれは多分、ミラージュの矛盾した願望をそのまんま、人形が実行していただけだと今は思うんです。自分が相手に成り代わりたい、自分が本物になりたいと心から願っているのに、『自分』がないミラージュは実像がなければ、真似して、自分の代わりに行動して何かを得てくれる人がいないと何もできないから、同時に本物を、実像を心から失いたくないとも思っています。
……だから、殺そうとしているのにわざわざ効率が悪い方法で、長引かせたのだと思います。……彼女の無茶苦茶な矛盾を、実行してたんでしょうね」
私の話を無表情で黙って聞いていたソニックさんが、顔を歪ませた。戦った本人だからこそ、彼女の殺意が本物だったことはよくわかってるはず。
だからこそ、その無茶苦茶な矛盾を実行しようとしていた、実行できると思っていた彼女が理解できずに、気味悪がっているのが見て取れる。
「意味わかんねーよ」と、いつものように覇気はないけれど、いつもと違って苛立っているような、怒っているような口調でお兄ちゃんは呟いた。
「結局、あいつは何がしたかったんだ? あいつは、何なんだ?」
相変わらず人形を作りだそうとしては壊れるを繰り返す銀の水溜りの中で、「痛い」「助けて」「暗い」「嫌」を繰り返し呟き続けるミラージュを、気味の悪さと困惑、そして憐みが入り混じった眼差しでお兄ちゃんは問う。
その問いに、私は答えた。
「なんでもない。ミラージュは、何もない」
そうとしか、答えられなかった。
何がしたかったか?
その答えは、単純明快。ただ全てを、何もかもを貪欲に欲しがった。
言葉通り、何もかも。
「ミラージュは昔から、全てを欲しがってた。可愛いもの、綺麗なもの、新しいもの、高級なものはもちろん、他人からしたらありふれていたり、むしろ汚くていらないものと思えるものでも、誰かが大切にしていたらそれを欲しがって奪い取ろうとした。
物だけじゃなくて、称賛や恋人、他人の幸せも全て自分の物だと思って疑わっていなかった。
……けれど同時に、彼女は幸せな人だけではなく、不幸な人間さえもいつも羨んで妬んでた。彼女は、不幸で憐れまれること、同情されることさえも欲しがっていたから。
世界で一番幸せになりたがっているのに、同時に世界で一番不幸になることも彼女は同じくらい、心から望んでいるの」
「自分」を持たない、「自分」がない彼女は何もかもを欲しがるけれど、本当に欲しいものがなんなのかは本人が一番わかっていない。
いつも他人の評価や評判に振り回されて、自分で見て決めた価値や意味を持っていないから、何を得てもいつも満たされない。
だから全てをがむしゃらに、際限なく無差別に欲しがるのに、彼女が得た時点でそれは意味も価値も失って、いつも虚像に成り果てる。
……彼女の両親が何を思って、この名前を付けたのかはわからないけど、娘が初めからあまりに歪で、そして空っぽだったことに気づいていたのかもしれない。
彼女はその名の通り、いつだってたどり着けない、触れられない、意味がない蜃気楼を追い続けていることに、彼女本人が何も気づいていない。
「……『自分』があれば、目が見えなくなろうが、自分で望んだ理想の何かを頭の中で生み出せる。けれど、彼女は他人の真似をして、他人に寄生して、他人に依存してきた彼女に、理想なんてない。何も、ないの」
私の言葉を、ジェノスさんが引き継いで終わらせる。
「だから、もう何も奴は生み出せないんですね」
もう人形は、人の形すら作り出せない。かろうじて雪だるまのようになったかと思ったら、溶け崩れる。
彼女の呟きの通り助けてほしいのは本心なのに、彼女は空想でさえも、自分だけの味方になってくれる白馬に乗った王子を生み出せない。
うわべしか見ていない、中身なんて何もない彼女は、ただただ誰かの鏡像でしかなかった彼女は、実像を映す目を失った時点でもう、何もできない。
何もできない、死を待つことしかもう出来ない彼女を私はただ見つめる。
いっそトドメを刺して楽にしてやりたいという気持ちはある。
でも、それはお兄ちゃんたちの手を汚してほしくないという気持ちを上回ることはない。
私が抱く罪悪感は、ミラージュをこのままトドメを刺せるのに刺さず、見殺すことでしかない。
「……ごめんなさい、ジェノスさん」
私は私を守るように抱きかかえてくれていたジェノスさんに謝って、自力で立とうとする。
ジェノスさんは何かを言いかけたけど、言葉にせず黙って私を離してくれた。
そして、私が足を引きずってだいぶ小さくなった銀の水溜りに近づくのを誰も止めなかった。
私が沸騰するように泡立つ鏡の水に足を踏み入れて、そして倒れ伏すミラージュの傍らに膝をつく。
「痛い……嫌だ……暗いよ……痛いよ……嫌……もう嫌……」
ただ痛みと暗さ、そしてそれが嫌だということだけを訴えるミラージュに私は問う。
「ミラージュ。あなたはどうしたかったの?」
私はさっき言った通り、彼女のことが大嫌いだった。好きだったことは多分、一度も、一瞬もない。
けれど、それでも縁を切らなかったのは、親の人間関係の延長だったからだけじゃない。
彼女がしてきたこと、彼女にされたことを許す気はもちろんない。
自分勝手でわがままで傲慢で強欲な彼女が大嫌いだったけど、同時に何を得てもつまらなそうな、満たされない彼女に同情をしてた。
彼女が傷つき、嫌われ、不幸になるのは自業自得でしかなかったけど、どうやっても幸せになれないのは彼女自身の所為ではない。神様がミラージュに「自分」というものを与え忘れたことだけは、ずっと憐れんでいた。
……だから少しでも、自分で何かをやらせたかったんだけど、これはもう本当に今更ね。
私が今できることは、ただ問うことだけ。
訊いて、その答えに私は期待する。
誰も映せなくなった、もう誰の鏡像でもなくなったミラージュが、本当の彼女が何を答え、求めるかをただ訊いた。
「ミラージュ。あなたは、どうしたかったの? 何がしたかったの?」
けれど、彼女は答えない。
「暗い……見えない……見えない……痛い……寒い……ヤダ……嫌……」
聞いていないのか聞こえていないのかも、わからない。
「ミラージュ。死にたくないの? 助かりたいの?」
「……嫌……嫌……やだ……いや……いや…………いや……」
もう「助けて」も「死にたくない」も彼女は言わない。
ただ、この現状が嫌だということだけしか彼女は口にしない。
現状が嫌であることは確かなのに、それをどうしたいかを彼女は口にしない。出来ない。わかっていない。
彼女は正真正銘、本当に何もなかったことをただ私は知る。
銀の水はもうほとんどない。ほとんどが蒸発してしまい、ミラージュの身体からも水蒸気らしきものが上がってる。
あぁ、きっともう本当に終わりなんだろうと私は思いながら、最期に問う。
「ミラージュ。あなたは幸せになりたかったの?」
ミラージュの口が、ハクハクと動いた。
声はなかった。
言葉はなかった。
ただもう声も出す力もなかったのか、それとも答える言葉が本当になかったのかも、わからない。
ただ彼女は白い水蒸気になって消えてしまった。
蜃気楼を追い求め、蜃気楼でしかなかった彼女は、そんな子がいた証さえも残さずに消えてしまった。
それが悲しいのか、寂しいのか、それともなんとも思っていないのか。
それさえも、私にはもうわからない。