私のヒーローと世界の危機と愛しい日常風景   作:淵深 真夜

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視点なし。三人称形式です。


後悔を終わらせよう

 日付がそろそろ変わりそうな時刻になっても、サイタマは飽きもせずに妹の寝顔を眺めていた。

 いや、正確にはとっくに飽き飽きしていたが、漫画を読むにしても自分も寝るにしても居心地が悪かったため、早く起きろと思いながら眺めるしかなかっただけなのだが、とにかく幸運なことにサイタマは出かけることも寝ることもなく、連絡手段のある部屋の中で起きていた。

 

 狭いワンルームで電話が鳴った時、反射で驚いてからまず彼が思ったことは、「あ、フブキに電話かけ直すの忘れてた」であり、こんな時間まで律儀に待っていたことを感心するべきか、呆れるべきか迷いつつ、とりあえず本心から悪いとは思っていたので受話器を取って開口一番に謝った。

 

「悪い、フブキ。忘れてたわ」

「おじさん! おねえさんと鬼サイボーグさんはどこ!? 家にいるの!?」

 しかし、電話をかけてきた相手はフブキではないどころか、サイタマの言葉を無視してまずはじめに尋ねた。

 

 他人に対しての記憶力が極端に悪いサイタマでも、その甲高い子供の声で電話主が誰かを知る。正直言って、子供の知り合いは彼しかいないという消去法で判断しただけだが。

「えーと、童帝だっけ? いきなりなんだ、こんな時間に。エヒメなら爆睡中だ。ジェノスは……あれっ? そういやあいつ、帰ってきてねーのか?」

 

 言いながら、サイタマは受話器をもったままベランダに近づき、隣をうかがう。覗き防止の衝立でもちろん部屋の様子は全くうかがえないが、電気がついていない事だけはわかった。

 サイタマは昼間の自分の言葉を、またあの真面目すぎて融通の利かない弟子がいらないくらいに重く受け取っているのではないかと不安になったが、電話口の童帝は逆にサイタマの言葉で少し冷静になったらしい。

 

「おねえさんはとりあえず、そこにいるんですね。……なら良かった。最悪の事態は防げそうですね。

 ……っていうことは鬼サイボーグさん、もしかして僕より早くSNSに気づいてB市に向かったのかな? 先走るなって言ったのに……ご丁寧にケータイの電源切ってるし……」

「おい、何の話だよ? 勝手にそっち一人で納得すんな」

 

 童帝がぶつぶつ独り言を唱え始めたのをサイタマが止め、電話をしてきた理由、いきなりエヒメとジェノスの所在を尋ねてきた訳の説明を求めた。

「えっと、すみませんおじさん。実は僕、鬼サイボーグさんから頼まれて、ちょっとおねえさんを苛めていた奴のSNSとかを探してたんです。……すみません、結局行動が遅すぎて、意味はあまりなかったですけど」

「いや、俺はネットとかそういうのが全然ダメだから、行動してくれただけでもありがたい。助かった。……つーか、SNSってなんだ?」

 

 サイタマが礼を言いつつ素朴な疑問を口にして、童帝は電話の向こうで今時珍しい人だなと思って少しだけ笑った。

「SNSはソーシャルネットワークサービス。ツイッターやフェイスブックとかのことですよ」

「あぁ、あれか。何の意味があるのか全くわからねーからやったことないけど、なんか独り言を日記みたいに書き込む奴だろ?」

 身もふたもないくせに突っ込みどころだけはあるサイタマの認識だが、そのあたりは今はどうでもいいので童帝も「もうそれでいいです」とスルーで流す。

 

「とりあえず、おねえさんを苛めてた奴のSNSをさっき見つけたんです。で、そのSNSも鬼サイボーグさんのファンサイトの掲示板みたいに、おねえさんの写真や個人情報が晒されていて、しかもおねえさんを襲う計画と共犯者を募っていました」

 未だにSNSがよくわかっておらず、そこに写真や個人情報が晒されたことに対する重大性にピンと来ていないサイタマだが、エヒメを襲う計画と聞き自分の顔が強張ったのを感じた。

 受話器を怒りで握りつぶさないようにだけを注意しながら、サイタマは「それで?」と話を先に促す。

 促して、思わず脱力した。

 

「そいつ……ヘラはさっそく今日、参加希望してきた共犯者をB市で廃校になったはずの母校に集めて計画を……」

「待て。ヘラって誰だ?」

 

 電話の向こうで童帝が絶句している間、サイタマは自分が想像していた相手とは全く別の名前が出てきたことで、とりあえず怒りの熱が冷めた頭で考える。

 思い出せないが、どこかで確かに聞いた名前の心当たりを探る。

 

「……え? おねえさんを苛めてた相手って、主犯ってヘラって人じゃないの? 長い銀髪で、冷たい印象の美人で……、ちょっと雰囲気が地獄のフブキに似ている感じですけど、おじさん知ってます?」

 そこまで言われて、思い出した。

 3日前にジェノスが出会ったと語った相手であることだけではなく、3年前に自分も一度だけ会ったことがあることを、3日前と同じく思い出す。

 

 エヒメが自殺未遂をやらかしてサイタマの元に逃げ出した後、彼女は日常生活すら怪しいぐらいの精神状態だったので、エヒメの代わりに中退の手続きを行うためにサイタマは一度だけ、あの学校に出向いたことがあった。

 建物そのものがかび臭くて辛気臭いとサイタマは感じていたが、それ以上に教師も生徒も、他人を見たらまず初めにすることがあら捜しで、そのあらを見つければ見つけるほどに嬉しそうに見下してきて、口からは嫌味しか出てこない人間で構成されたあの空間が、気持ち悪くて窮屈で、何より異常だった。

 

 元から学歴に興味のなかったサイタマでも、高校中退というレッテルは妹の人生にかなりのハンデになることを案じていたが、その心配が吹っ飛ぶほどの魔境を目の当たりにして、とにかくここから一刻も早くエヒメとの縁を切るために書類の内容もよく読まずサインだけした。

 そして校長室から出て、帰ろうとしたときに出会った。

 

 豊かな銀髪が目を引く、妹と同い年、自分より6歳年下だというのに自分よりはるかに堂々とした少女が、唇を真一文字に結んで眉間にしわを寄せて睨みつけていた。

 睨んでいると、初めは思った。

 

 その少女は首を傾げて見返すサイタマを黙ったまま大股で歩み寄って来て、伸長差で見上げているはずなのに見下しているような目と声音で「エヒメのお兄さん?」と尋ねられた。

 高圧的な声音と目つきだった。

 だけど、サイタマはその少女に悪い印象を抱かなかった。

 

 睨んでいたのではなく泣くのをこらえていたのが、目のふちにたまった大粒の滴で明らかだったから。

 サイタマが肯定すれば少女は持っていたものをサイタマに突き出し、「いらなかったら捨てて」とだけ言ってサイタマに押し付け、そのまま優雅にターンして一度も振り返らずに去って行った。

 自分の手の中に残された、何度も何度も綺麗に折り直したと思われるくしゃくしゃで不格好な折鶴を一つ見下ろして、サイタマはよくやく妹から聞かされた友達の話を思い出した。

 折鶴がきっかけで仲良くなったと、互いに実家を離れて初めて戻ってきた盆休みで語っていたことを思い出した。

 

 サイタマはすっかり忘れていた、……この直後の胸糞が悪くなる自分の最大の後悔そのものの出来事に塗りつぶされてなかなか思い出せない、唯一あの学校で自分が「良かった」と思える記憶を思い出し、そして受話器に向かって思わず突っ込んだ。

 

「ちげーっ!! ジェノスの奴、勘違いしてやがる! そういやムカつきすぎて、訂正すんの忘れてた!

 主犯じゃねーどころか、そいつはエヒメの親友だ! エヒメのトラウマは、ミラージュっていう奴だ!!」

「えぇっ!?」

 

 いきなり前提をひっくり返す情報を与えられ、童帝が珍しくパニックを起こす。

「え? でも名前が……いや名前なんてどうとでもつけれるか。 え? もしかしてこれ、別人のSNS? いやでもおねえさんの写真や情報が晒されてるし……」

「……なぁ、俺はSNSってのがよくわかんねーから思うことなのかもしれねーけど、それって他人がそのヘラってやつのふりしてできるものじゃねーのか?」

 

 童帝がパニックを起こしたことで、逆に落ち着いたサイタマが尋ねる。

「え? 普通にできますし、好きな漫画やゲームのキャラになりきってる人とかもいますけど、このSNSの場合は写真が……!?」

 サイタマの問いに答えることで、若干10歳でありながらヒーロー協会に専用のラボを与えられるほどの天才児は気づく。

 彼もまた、振り上げた拳の落としどころに都合の良かったヘラを無意識に悪役に仕立て上げていただけだということに。

 

 SNSを見た時、かすかに感じていた違和感を思い出して童帝はもう一度「June」のSNSをざっと流し見してみる。自己愛だけを綴った文章は無視して、写真だけを見て彼は絞り出すような声で呟く。

 

「…………自撮りが、ない。1枚も……、こんなナルシスト全開なSNSで……」

 

「June」と名乗るSNSには、スタンプで雑に顔を隠した銀髪の美人が、ヘラの写真がいくつもいくつも載せてあり、その人物こそが自分であるように、自慢話だけを飽きもせずにずっと語っているが、よく見てみたら一目でわかる。

 その写真は、誰かから撮ってもらったものばかりで、ケータイの自撮り機能や鏡を使って写したものは1枚もない。

 

 新しく買った服や化粧品について語っているときもあるが、その新しく買った服をハンガーにかけて吊るして撮った写真はあっても、それを着た自分の写真は1枚もない。せいぜい、化粧品や小物を手に持って写している写真が稀にあるくらいだ。

 スタンプで顔を隠しているせいでわかりにくいが、よく見たらヘラの写真もポーズをとっているものが少なく、隠し撮りではないかと思えるものがほとんど。

 

 別に相手は、ジェノスや童帝を騙すつもりでわざわざ、こんな手の込んだSNSを作ったわけではないのは明白だった。だからこそ、この写真の違和感に気付くことが出来なかった。

 このSNSが開始されたのは、今年の3月初め。

 半年以上、この「Juen」はヘラのふりをして、ヘラになりきって、自分はヘラのような美人で成績優秀で家柄も素晴らしいお嬢様だと思い込んでいた狂気に、寒気が走った。

 

「……おい、どうした童帝?」

 天才の自分でも知り得ない、想像など出来れば一生したくないと思う狂気に絶句していたが、サイタマの呼びかけで何とか冷静さを童帝は引きずり戻す。

「……すみません、おじさん。僕はとんでもない間違いを犯していたようです。

 それと、おそらく鬼サイボーグさんも間違えています。ヘラさんを、おねえさんの敵だと完全に思い込んで……おそらく今はB市にいます」

「B市? なんでまたそんな、ここ以上になんもないところに?」

 

 自分が何も考えずに巨人を殴り倒して、結果的に壊滅させてしまったことをすっかり忘れて、サイタマが尋ねる。

「さっきもちょっと言いましたけど、ヘラさんのフリをしたSNSで、おねえさんを襲う計画を立てるから直接会おうって誘いかけてるんですよ。で、その待ち合わせ場所がB市の母校です。

 ……これ、このSNSの本人がバカ正直にやってくるのならまだ話は簡単ですけど、もしもヘラさんが騙されて代わりにここにおびき出されたら……」

 

 比較的冷静だと思っていた自分も、頭に血が上ってサイタマに言われるまであの不自然な写真に気づかなかったくらいである。

 ただでさえエヒメのことになると極端に心も視野が狭くなるジェノスが、今更になって本人を前にして気づけるわけがないと童帝は判断した。

 

 そして同じことを、サイタマも考えていた。

「……わかった。ジェノスのことは俺に任せろ。止めてくる。

 そんで悪いけど、お前はそのSNSってやつが本当はミラージュってやつのものなのかとか調べてくれるか? 俺、マジでそっち関係なんにもわかんねーんだよ」

 

 サイタマはそれだけを一方的に言って、童帝の「え? おじさん、止めてくるって今から向かう気? Z市からB市に?」という疑問を無視して勝手に通話を切った。

 そして、未だ眠り続ける妹の、額にかかる前髪を指でどけて声をかける。

「……悪い、エヒメ。俺の説明が悪くて、ジェノスが誤解してるみたいだ」

 

 また勝手に突っ走りやがってとはもちろん思っているが、これに関しては昼間と違って八つ当たりをする気はない。むしろ、気持ちはよくわかる。

 相手を間違っているだけであり、ジェノスが抱くエヒメを守れなかった後悔と、エヒメを傷つけた敵に対しての憎悪は、サイタマが抱え続けたものと同じものだから。

 

 ……サイタマは、ずっと前から知っていた。

 エヒメの幼馴染であるミラージュという少女が、信用ならない相手であることをサイタマはエヒメよりも前に、3年どころか10年近く前から気づいていた。

 

 フブキが思ったように、「たいして仲が良くない兄妹」と思っているのはサイタマ本人くらいであり、サイタマとエヒメは間違いなく昔からかなり仲のいい兄妹であったが、サイタマの言葉が全くの間違いというわけではない。

 6歳差の異性の兄妹なので、二人には共通の幼馴染や友人が存在しない。

 互いに相手の友人の名前なんて一人でも顔と名前を覚えていればいい方なくらいだった。

 

 サイタマにとってミラージュは、顔も名前も認識していない、妹の友達の一人でしかなかった。

 あの日、ミラージュがエヒメの夏休みの宿題を台無しにした日までは。

 

 小学何年生のころか覚えていないが、ちまちまとした作業が好きなエヒメが図工の宿題で花火のちぎり絵を作ったのは良いが、ミラージュが「自分も同じようなのを作りたい。参考にしたいから少し貸して」と言ってきて貸したところ、ジュースか何かをぶちまけられて台無しにされ、ミラージュは母親に連れられて謝りに来ていた。

 

 遊びに行ってたのか学校の補修だったのか、とにかく出かけていたサイタマが帰ってきた時にはもう謝罪も済んで、「子供のしたことだから」「わざとじゃないのだから仕方がない」で話は終わりかけていた。

 サイタマも同じように思っていたので、初めから口出しする気はなかった。

 が、出来た花火の絵を真っ先に自分に見せてきたエヒメが、泣くのをこらえるようにして汚れてグチャグチャになったその絵を大事そうに持っているのを見たら、せめて頭でも撫でたやりたくなった。

 

 そう思って、サイタマはミラージュの横を通り過ぎてエヒメの方に向かっていったのだが、横を通った際にふと横目で見たミラージュの表情で、目を見開いて立ち止まってしまった。

 俯き、えぐえぐ泣き続ける少女の口元は、確かに吊り上っていた。

 醜悪な笑みを、サイタマは確かに見た。

 

 が、いきなりやってきて立ち止まったサイタマを、母親が「どうしたの?」と声をかけた時にはミラージュは両手で顔全体を隠してしまい、その笑みの確認などできなかった。

 サイタマが出来たのは、エヒメをそこから自分の部屋に連れ出してやることだけだった。

 

 エヒメを連れ出して、そこで話を聞いて初めてサイタマは、相手の名前と幼馴染と言えるだけ付き合いが長い相手であることを知った。

 エヒメとしては別に好きな相手ではないこと、親同士の付き合いと、向こうがクラスが離れても「ヒメちゃんヒメちゃん」とやってくるので突き放せないことも知った。

 

 10歳になったかならないかという歳でありながら、自分よりはるかに大人みたいな笑顔を浮かべて、「あれでも、マシになったんだよ。前まではなんでもやってやって、頂戴頂戴ばっかり言って、代わりに誰かがやってくれるまでずっと泣いて暴れてたのが、自分でやるようになったから……。だから、仕方ないよね」と言ったことを覚えている。

 

 ……サイタマは、話さなかった。

 自分が見たものが一瞬だったので自信がなく、妹の「大丈夫」という言葉を信じてしまった。

 嫌いならそのうち縁も切れるだろうと、自分の人付き合いに当てはめて、楽観視していた。

 

 ミラージュという少女は信用ならない相手であることを忠告せず、ただサイタマは台無しにされた絵を手伝ってやるから作り直そうと言って、励ましただけだった。

 

 そのことを数年後、後悔することになるなど知る由もなかった。

 

 おそらくその後も何度か見かけるくらいはしていたはずだが、「妹の友達」ではなく「ミラージュ」という個人を認識して再会したのは、3年前。

 ヘラと出会った直後、くしゃくしゃの折鶴を手の中で弄り、ほんの少しだけあの学校に救いを見出しながら帰ろうと廊下を歩いていたら、後ろから結構な勢いでぶつかられた。

 思いっきり背中に肘が入った時点で、わざとタックルを決めてきたのは明白だったが、あの規則にうるさい静謐な校舎内でそんなことをやらかす奴がいるとは思わず、当時はまだ普通の人間であったこともあり、サイタマは派手に転んだ。

 

「大丈夫ですか!?」といけしゃあしゃあと声をかけながら、その女は前に回ってきて手を差し出した。

「立てますか?」と、ミラージュは言った。

 顔立ちなどは昔とさほど変わりはないが、そもそもサイタマでなくとも人の記憶に残りにくい、特徴のない地味な容姿だったので、顔を見ただけでは思い出しはしなかっただろう。

 けれどサイタマは、一目でその少女がミラージュであることを察した。

 

 転んだ際に自分の手から吹っ飛んで落とした折鶴を踏み潰した挙句にぐりぐりと踏みにじりながら、卑屈な目で優しく微笑んでるつもりだろうが、実際は醜悪極まりない笑みを浮かべて手を差し伸べるその姿に、あの日の謝るフリをして妹の作った物を台無して、それを責めることも出来ずに黙って耐えていたエヒメをおかしそうに楽しそうに笑っていた横顔が、鮮明に蘇った。

 

 息をすることも、生きていることすら罪だと思うほど、妹の全てを奪い、壊し、殺しつくして殺し続ける相手が彼女であることに気づいた。

 

「お前がっ!」と叫んで胸倉を掴みあげたが、場所と相手が悪くてサイタマは危うく婦女暴行で通報されかかったが、幸いながら妹の友達が餞別でくれた折鶴を踏みつぶされてカッとなったというサイタマの言い分は、明らかにサイタマではなく少女の小さな靴跡がついた折鶴が証拠となって信じてもらえたが、ミラージュがわざとやったという言い分は妹可愛さの被害妄想ということにされた。

 

 既に自分の言い分を聞いてもらえないという理不尽を体験して、だいぶ慣れて大人になったと思っていたサイタマでも、例え許されなくても、地獄に堕ちてもいいからこいつらを殺してやりたいと思うほど、一方的な決めつけだった。

 エヒメの尊厳を踏みにじって貶めて体裁を守る学園関係者を殺さずに済んだのは、こんな地獄の中から逃げ出してきて、ただ自分だけに助けを求める妹の存在があったから。

 

 サイタマは、「ヒーローになる」と決心した僅か半月後に、最大の敗北を経験してあの学園から去ったのを思い出した。

 あまりに苦々しい、最大の後悔を思い出しながら、サイタマは笑う。

 

 眠る妹に、それでも心配をかけないように笑いかけて彼女に告げる。

「やられっぱなしじゃ、ヒーローなんて言えねぇよな。

 もしかしたら、ちょうどいいチャンスかもしれないから、行ってくるわ。……今度こそ、あいつに勝ってみせるから……、だから悪りーけど待っててくれ」

 

 昼間に殴られ、まだわずかに赤みと腫れが残る頬を優しく撫でて、サイタマは大急ぎでヒーロースーツに着替えて出て行った。

 

 後悔を終わらせるために、迷いなく彼はB市に向かう。

 

 

 * * *

 

 サイタマが着替えて部屋から出て言った直後、火傷の痕が痛々しく残る手が、ピクリと動いた。


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