銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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東方地霊殿 ③ 「お前のような中ボスがいるか」

 

 

 

 

 

 例によって遅めの、いつもと違って静かな朝だった。例によって誰も起こしに来てくれず遅めの朝を迎えたさとりは、遅めの朝食を一人で片付け、一人でモーニングコーヒーを飲みながら、一人だけのリビングでいつもと違う静かな朝に身を浸していた。

 地底にも雪が積もった冬の朝は、本当に静かだった。周りに誰もいない。

 もちろん、このリビングだけの話ではある。地霊殿では数多くの動物や妖怪がさとりのペットとして暮らしている。起きてからこの部屋に来るまで何匹かのペットと挨拶をしたし、朝食の準備を手伝ってくれた子もいた。一歩リビングの外に出れば、みんな地霊殿のあちこちで仕事をしていたり、気ままに遊んでいたりするはずである。

 それでも今がこんなにも静かだと感じるのは、さとりにとってもっとも身近な二人の少女――こいしとお燐が、いないからなのだろう。

 こいしがいないのはいつものことだとしても、お燐までいないのは珍しかった。三日くらい前に、一枚の書き置きだけを残して突然いなくなってしまったのだ。とっても大事な用ができたので少し留守にします。ちゃんと帰ってくるから心配しないでね――書き置きの終わりには、かわいらしい黒猫のイラストも添えられていた。あれは、間違いなくお燐の字だったと思う。

 当然なにがあったのかすごく気になったし、ペットたちみんなにも聞いて回った。しかし誰も、「大事な用で出て行った」以上のことを知っている者はいなかった。

 書き置きを残す余裕しかないほど、慌てて出て行ったのか。

 それとも、さとりに心を読まれては『大事な用』がなんであるかバレてしまうから、書き置きを残すことでそれを避けたのか。

 どうあれ、今となってはもう知る術もない。

 

「……はあ」

 

 小さく、ため息をつく。このところ、自分の生活が少し味気なくなっているのを感じる。部屋に引きこもって本を読むか、気ままに筆を執ってみるかの毎日である。こいしがいないのはいつものことだし、お燐だって出て行ってしまったし、そういえばおくうの姿もこの頃は妙に見かけない。

 ひょっとすると『大事な用』なんてのは嘘っぱちで、本当は三人一緒に館の外で遊び呆けているのではないか。すごくありえそうだと思った。「ひきこもりのお姉ちゃんなんかほっといて、遊びに行こうよ!」とこいしが誘ったのかもしれない。それで本当のことを言ったらさとりを除け者にしたみたいで決まりが悪いから、『大事な用』と書き置きして嘘をついたのかもしれない。別にどこでどう遊ぼうが彼女たちの自由だけれど、そう考えるとなんとも胸の奥がもやもやした。

 もっとも、誘われたところでさとりは断っていただろう。

 外は、あまり、好きではない。

 元々インドアが好きな性格だし、ほんのごく一部ではあるけれど、それでも間違いなく旧都の住人が、自分を見てはとてもひどいことを考えているのだと――旧都にやってきてまだ間もなかった頃に、この心を読む力で知ってしまったから。

 だから、外には、出たくない。

 

「……」

 

 ふと、月見さんが遊びに来てくれないかなあ、と考えた。いつも月見を独り占めするこいしがいないから、今日来てくれれば心ゆくまで話ができそうなのに。

 月見は、好きだ。

 無論他意などなく、純粋な知人友人の関係としてである。さとりを見ても、ひどいことを考えないから。藤千代のことももちろん好きだが、彼女は能力を使って心を読めなくしているので、「ひょっとして心の中では私を……」と不安になってしまうときもたまにはある。けれど月見の場合は、すべて心を読んだ上でひどいことは考えていないとわかるので、さとりも安心して話ができるのだ。あんなに裏表のない心を持った人が本当にいるだなんて、正直今でも、頭のどこか片隅では不思議に思っている。彼はとても不思議な人だ。

 ……まあその分、しばしばいじわるなことを考えてさとりを慌てさせてくるのは困りものだけれど。あ、やっぱり裏表のない心と言ったのは撤回しよう。彼はとてもいじわるな人だ。

 

「……ふふ」

 

 気がつけば、さとりは小さく笑みをこぼしていた。それから、そんな自分に気づいてもう一度笑った。

 自分がこんな風に、家族以外の誰かのことを考えて、笑ったりするだなんて。

 

「……」

 

 けれど、その小さな笑みもほどなくして鳴りをひそめる。月見のことを考えていたら、引っ張られるようにおくうの姿まで脳裏を過ぎったからだ。

 月見がはじめて地霊殿を訪れてからもう半年近くになるが、未だにおくうは月見を拒絶し続けている。月見が地上の妖怪だから、というのももちろんある。しかしそれ以上に、おくうは月見に対して嫉妬しているのだ。

 藤千代は同じ地底の妖怪だし、同じ女でもあるから、まあいい。

 だが月見は地上の妖怪で、しかも男で、そんなやつがこいしやお燐とどんどん仲良くなっていくのはとんと気に入らない。だから月見が地霊殿を訪れ、こいしたちと仲を深めれば深めるほど、おくうは月見に対し心を閉ざしてしまう。

 この男はいずれ、自分の大切なものをみんなみんな奪っていってしまうのではないか。

 こいしもお燐も、そしてさとりも、いつか自分のことを見てくれなくなってしまうのではないか。

 そう嫉妬し、怯えているのだ。

 そんなことはない、みんなおくうを大切に想っている――口ではそう伝えたが、果たしてどれほど効果があったのか。

 

「…………」

 

 いつか、いいタイミングが巡ってくるものだと月見は言った。

 では逆に、一体どんなタイミングが巡ってくれば、月見がおくうに認めてもらえるというのだろう。半年間変わらずに横たわっている崖のように深い隔たりを、埋められる日がやってくるというのだろう。

 

「まったくもう……まさか、おくうがここまで強情になるなんて」

 

 月見はきっとおくうを気難しい性格だと思っているだろうが、彼女は本当はとても心優しい少女なのだ。さとりやこいしの前ではいつも元気で、笑顔で、ちょっと抜けているところもあるけれど、見ているこっちまで笑顔になるくらいの思いやりにあふれた女の子なのだ。正直、もう何度もこの目で見ているのに、おくうが月見を嫌っているのはなにかの間違いではないかと思ってしまうことがある。あんなに優しい子がどうして、という思いは心の片隅でくすぶり続けている。

 いつか必ず上手く行くようになるはずだと、信じてはいるけれど。

 ならそれは、一体いつ。

 

「……はあ」

 

 ため息、ひとつ。こいしは放浪したまま戻ってこず、お燐は大事な用事で帰ってこず、おくうはこのところ顔を見せてくれない。一人で物思いに耽れば、広がるのはいつも決まって、秋の頃から変わらない悩みの種。

 今日も、退屈な一日になりそうだ。

 ミルクに砂糖まで入れたコーヒーが、やけに苦い。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――いててててて。もぉー、そんなムキになんなくてもいいじゃん。大人げないー」

「なってないわよ。言ったでしょ、叩きのめすって。かかってこいって言ったのもあんたよ」

「そりゃそうだけどさー……」

 

 闘いは、一分十六秒で終わった。

 一分と十六秒でヤマメを下した霊夢は、不完全燃焼の闘気をため息に変えて吐き出した。

 まさかここまで圧勝できるとは、さしもの霊夢自身も思っていなかった。ヤマメが弱かった、わけではない。たぶん、自惚れるようだけれど、霊夢の方が強くなったのだと思う。

 もちろんこれは弾幕ごっこだし、この決闘方式であれば昔から大妖怪にも負けない自信があった。今までの自分であっても、この少女にはなんの問題もなく勝てていただろう。ただそれでも、二分以上の時間は掛かっていたはずだけれど。

 考えるよりも早い反応速度で、体が自然に動いていた。自分の体はここまで効率的に動けたのかと、自分でつい感心してしまったほどに。ヤマメが懸命に放った数々の弾幕は、最初から最後まで、霊夢の服にも髪にも掠ることすらなく消えていった。

 夏以来続けてきた修行の成果を、今日になってようやく目に見える形で実感した。なにか具体的な指導をしてもらったわけではないけれど、月見と何度も何度も手合わせをして、最近では萃香にも相手をしてもらったりして、知らず識らずのうちに体が動き方を覚えていたのだ。それに、大妖怪独特の妖気に触れ慣れたお陰で、ヤマメの弾幕からちっともプレッシャーを感じなかった。恐怖や緊張は筋肉の動きを鈍らせる。ちっとも怖くなかった、から、体がのびのびと動いた。

 うーん、と陰陽玉が小声で唸った。

 

『さすが霊夢だなー。私なんかよりぜんぜん上手……』

 

 天子。

 ふと、考える。これくらいの実力がかつての自分にもあれば、天子の体にあんな大きな傷痕が残ることもなかったのだろうか。

 本人はなんてことのないふりをして笑っているけれど、霊夢は知っている。天子は、自分の肩から腰にかけて走るあの傷痕を、半端ではないくらいに強く気にしている。だから神社でお泊り会をするとき、天子はいつも霊夢と別々で風呂に入るし、霊夢が知る限り水月苑の温泉にだって入っていない。

 当然だと思う。もし同じ傷痕が自分の体にあったなら、やっぱり女としてかなり気になってしまうと思う。だからこそ、あれからもう半年近くが経とうとしている今となっても、「もし」という言葉を繰り返さずにはおれない。それがたとえ、なんの意味もない逃避だとしても。

 

「よう霊夢、随分と絶好調だったじゃないか」

 

 掛けられた魔理沙の声で、霊夢は思考の渦から引き上げられた。じゃんけんに負け、今回は大人しく観戦していた魔理沙が隣に並んでいた。霊夢はそっと笑って返す。

 

「そうね。自分でも上手く行ったと思うわ」

「むう……負けてられないなこりゃ。霊夢、次の敵は私が相手するからな」

「はいはい」

 

 ヤマメが、傷んだ服の見栄えを少しでもよくしようと両手で奮闘している。

 

「うー、まさかここまで力の差があるなんて……。あんた何者? ただの巫女さんじゃないよね」

 

 しかし煤けた服は一向に綺麗にならない。霊夢は緩く息を吐いて答える。

 

「……博麗の巫女よ。地底の妖精が湧いて出てきてるって話はしたでしょ? 今からその原因を調べに行くところ」

「ふーん……間欠泉に妖精ねえ。なにが起こってるんだか」

 

 ヤマメは間違いなく無関係であろう。彼女には、わざわざ博麗神社の周辺で間欠泉を起こす理由がない。間欠泉の原理がどうなっているのかなんてさっぱりだが、もしヤマメが犯人であるなら、距離からいってそれこそ温泉が湧いている水月苑を標的にするのではないか。加えてそもそもの話、彼女に間欠泉を起こせるほどの力があるとも思えない。

 

「誰か、事情を知ってそうなやつに心当たりはない?」

 

 ヤマメはうーんと腕を組み、

 

「地底のことだったら、とりあえず鬼子母神様じゃない? よく知らないけど」

 

 それは、霊夢もなんとなく考えてはいた。鬼子母神は地底の代表的立場で、旧都の四方山話(よもやまばなし)にも通じているだろうから、遅かれ早かれ当たることになるのだろうかと。

 ただ、あまり気乗りはしない。地上で出会うのは主に水月苑だが、実をいえば霊夢は、鬼子母神とも呼ばれるあの鬼の少女がいかんせん苦手だった。なんというか、得体の知れない感じがして気味が悪いのだ。萃香とそう大差ない子どもの姿で、子どもっぽい喋り方をして、子どもみたいに元気いっぱいで、なのにひと目見ただけで一発でヤバいやつだとわかる。紫すら顔面蒼白で白旗を挙げるその狂気じみた実力に、やんわりとした微笑みひとつを被せて蓋をしている。あの鬼ほど、腹の底でなにを考えているのか想像できない妖怪はいないと思う。背丈自体は霊夢よりも下なのに、向かい合って話をするとまるで途方もない巨人に見下ろされているような気がして、自分など指で弾けば消し飛ぶ他愛もない一生命でしかないような気がして、だから霊夢は彼女が苦手なのだ。

 悪い妖怪ではない――どころか、月見と敵対しない限りは優しい妖怪なのだと、わかってはいるけれど。

 

「ちなみに鬼子母神サマって、地底のどのへんにいるのかしら」

「え? そんなの知らない」

 

 役に立たないやつめ。

 魔理沙が横から、

 

「それだったら、月見が知ってるんじゃないか?」

「ああ、それもそうね。天子、ちょっと訊いてきてくれる?」

『うん。ちょっと待ってて』

 

 突然聞こえた姿なき声に、ヤマメが目を丸くした。

 

「え、なに今の声」

「教えない。さて急ぎましょ魔理沙、まだ旧都にすら着いてないもの」

「おー」

 

 ヤマメは「えっ行っちゃうの?」という顔をしたが、弾幕ごっこで完敗した手前、特に霊夢たちを引き止めることもしなかった。ただ、その姿が薄闇の向こうに紛れて見えなくなった頃に、「旧都ならここを出てまっすぐだからねー」と声が反響してきた。

 案外、いい妖怪だったのかもしれない。あんなやつ(キスメ)の友達だという割に。

 

 

 

「……ほ、放置ぷれいは……ひどいと思います……。がくり」

「あんたはいい加減反省しろ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 天子から報告があったのは、ちょうど出口の薄い光を眼前に捉えた頃だった。

 生憎、月見も鬼子母神の居場所は知らなかったようだ。寝床として使っている家は知っているが、文字通りの寝床扱いなので寝るとき以外は帰らず、普段は旧都のあちこちを歩き回っているらしい。なんだか月見みたいなやつである。

 みんなでサバイバル雪合戦してて盛り上がってたよ、と訊いてもいないことまで天子は教えてくれた。雪球を当てれば勝ち、当てられれば負け、それ以外のルールは無用の手に汗握る本格的雪合戦だという。

 だから訊いてないってば――と口を衝いて出そうになって、霊夢はギリギリのところで思い留まった。天子のことだから、そう言われたら最後「そ、そうだよね……ごめん……」とこの世の終わりみたいに落ち込みかねない。比那名居天子は小動物並みに打たれ弱いのだ。

 そうこうしているうちに、洞穴を抜けていた。

 人生初の地底世界がいっぱいに広がる。しかしこれといった感動があるわけでもなく、霊夢は表情を変えず、飛ぶ速度を緩めもせず、ふーんと右から左を見回してまた前を見た。

 その横で魔理沙は、珍しくショックを受けたような顔をしていた。

 

「な、なんか思ってたのと違う……」

「どんなの想像してたの?」

「もっとこう……壮大っていうか荘厳っていうか……石でできたすごい建物とかあって……」

 

 太陽のない世界で、味気のない真っ平らな大地がどこまでも広がっている。ところどころに骸骨めいた細い木が散見されるが、どれも葉を一枚もつけていないのは今が冬だからなのか、それとも枯れてしまっているからなのか。これが緑豊かな幻想郷から多少飛ぶ程度で来られる場所にある世界なのかと、逆に舌を巻かされてしまうくらいの寂しさだった。壮大の「そ」の字も見当たらない。そんな中でもさらさらと響いてくる川の音と、なぜか積もっている真っ白な雪が随分と不釣り合いだった。

 

「こんなもんなんじゃないの。だってここ、もともと地獄だった場所なんでしょ?」

 

 故に別名、旧地獄ともいうらしい。地獄なんて行ったことがないし行く予定もないので知らないが、きっとこんな感じの荒れ果てた世界なのだろうと思う。

 

「それより、地底にも雪が降るのね。そっちの方がびっくりだわ」

「うん……そうだな……」

 

 魔理沙の反応は心ここにあらずである。霊夢は割とすんなり受け入れたが、魔理沙は未だ思い描いていた地底の姿に未練タラタラらしく、「私の浪漫が……本の読みすぎなのか……?」と陰気くさく呟いていた。

 鼻で笑ってふと下を見たところで、気づいた。

 

「あら、誰かいるわ」

 

 洞穴から続く道が小川で寸断されていて、旧都へ至る関所とするかの如く一本の反橋が架けられている。その橋の中ほどで、ヤマメに続いてまたも金髪の少女が欄干に頬杖をついて佇んでいた。

 ようやく正気に返ってきた魔理沙が、

 

「一応、聞き込みするだけしてみるか?」

「そうね」

 

 月見が注意しろと教えてくれたのは、あの釣瓶落としただ一人。すなわちそれ以外は、少なくともちゃんとした会話が成立する妖怪である……はずだ。たぶん。

 こちらに気づいてもらえるよう、わざとわかりやすい音を立てて橋に降り立つ。その瞬間、少女がぱっと振り向いて、

 

「月、――……誰よあなたたち」

「「……」」

 

 なんだか、今の反応でもうだいたいわかってしまった。魔理沙が半目で、

 

「悪かったな、月見じゃなくて」

「は、はあっ!? なんでそうなるのよ! 別に月見が来たとか勘違いしてないし! そろそろあいつが来る頃とか考えてたわけじゃないし! 楽しみになんてしてないしっ!」

 

 陰陽玉から天子が『むむむ……』と唸り声をあげた。それがどういう意味なのかはこの際置いておく。

 少女はのっけからキレ気味である。

 

「ってか、なんで人間がこんなところまで来てるのよ! 立ち入り禁止だって知らないの!? バカなの!? しぬの!?」

「ねえ、ちょっと訊きたいことがあるだけだから落ち着いてくれない?」

 

 地底とは、鬼を筆頭に、地上で住む場所を失った妖怪たちが移り住んだ世界であるという。だから血の気の多い荒くれ者が多かったりするんだろうなあと思っていたのだが、この少女を見ている限り地上とあまり変わらないような気がしてきた。

 少女の暴走がピタリと止まる。

 

「な、なによ……」

「いま地上で間欠泉がいくつも発生して、そこから地底の妖精が湧いて出てきてるのよ。なにか知らない?」

「? ……なにそれ」

 

 まあ、はじめから期待はしていなかった。

 

「知らないならいいのよ。それじゃあね」

「ちょ、ちょっと待ちなさい!」

 

 魔理沙に目配せし飛び立とうとしたところで、また少女が噛みついてきて、

 

「ここは地上の人間立ち入り禁止だって言ってるでしょ!? あとあなたたち月見の知り合いなの!?」

 

 ひとつ目には霊夢が答え、ふたつ目には魔理沙が答えた。

 

「緊急事態だからいいのよ。それに、天魔サマの許可はもらったわ」

「月見とは、まあよく家でお茶をご馳走してもらう仲だな」

 

 それを聞いた少女の顔つきから色が消え、俯くと、人が変わったような低音でぶつぶつと独り言を言い始めた。よく聞こえないし聞こうとも思わないが、「やっぱり私以外にも……友達……家でお茶……妬ましい妬ましいネタマシイ……」とか呟いている。

 あまり近づかない方がよさそうだ。陰陽玉からは最後まで、『むむう……』と複雑そうな天子の声がこぼれていた。

 前を見る。「旧都へはまっすぐ」というヤマメの言葉通り、少し離れたところで朧な街の灯火が揺れている。少女はぶつぶつと呪詛を呟く作業から戻ってこず、一応「それじゃあね」と簡単な挨拶を残してみたものの、特に返事らしい返事も返ってこなかった。

 馬鹿のようにまっすぐ空を飛んで、霊夢と魔理沙はやっとこさ旧都に辿り着いた。地上を出発してからそう時間は経っていないはずなのに、まるで大きな山ひとつを越えてきたような気がしてならないのは、やっぱりあの釣瓶落としのせいなのだろう。

 地底の殺風景な雪景色も、ここまでやってくればだいぶ変わった。思っていたよりもずっと素朴な町並みだった。通りに沿って家屋が並ぶ様は人里に似ているが、活気に満ちているわけではなく、その代わり妖怪の都らしく淡く幽玄な印象を受ける。軒先から下げられた釣行灯が朧な光の行列を織り成しており、まさしく百鬼夜行、もしくは狐の嫁入りの如くである。なかなか嫌いな雰囲気ではなかったので、霊夢はほうと感心の一声をこぼした。

 

「ここだけ見れば、案外悪くない場所じゃない」

「そうだな。……ほぉー、結構好きな雰囲気かも」

 

 魔理沙も、やっとお気に召す景色が見られて上機嫌だった。一方で天子はあまり好みでないらしく、

 

『わ、私はちょっと苦手かも……。なんだかオバケとか出てきそう……』

 

 まあ、妖怪もオバケも似たようなものだ。

 

『アリスは?』

『えっと……私もそんなに、嫌いではない……かな』

『えーっ……』

「仕方ないわねー、天子ってかなりビビリだし。この前私の神社泊まったときも、土間から変な音がするってんで夜中に泣きついてきたわよね。結局タヌキってオチだったけど」

『あ、あれはぁっ! ……ほ、ほら、姿が見えないのってすごく怖いし! そういうところから昔はいろんな妖怪が生まれたんだよ!?」

「そうねー、怖いわねー」

「怖いなー、泣いちゃうなー」

『……ぐすっ』

 

 まあ、天子いじりはこれくらいにして。

 魔理沙が言った。

 

「で?」

「?」

「いや、いつまでもこんなとこに隠れてないで早く行こうぜ」

 

 今更だが霊夢と魔理沙は、通りから離れた民家の物陰にこそこそと身を隠している。なんでこんな真似をしているかといえば、

 

「まあ待ちなさい、なにも考えないで出てって喧嘩売られたらどうすんのよ。要らない面倒は避けるべきだわ」

「返り討ちにしてやればいいじゃんか。おっそうだ、次は私がやる番だからな」

「あっそうじゃあ好きになさい。一応言っとくけど、道歩いてる妖怪みんなから絡まれても私は助けないからー」

 

 魔理沙がキリッとした顔で清々しく掌を返した。

 

「ただ突っ込めばいいってもんじゃないよな。時には無駄な争いを避けるのも大切だ」

「遠慮することないわよほら行ってきなさいほらほら」

「ごめんなさい調子乗りました」

 

 よろしい。

 

「……でも確かに、いつまでもこんなとこにいるわけにはいかないのよね。どうしよっか」

 

 通りを堂々と歩くのは論外としても、かといってこそこそ隠れていたら見つかったとき余計に怪しまれそうだ。第一それじゃあ聞き込みができず、異変の手掛かりも鬼子母神の居場所も掴めない。人に頼らず自力で捜すという選択肢もあるが、そんなことをしていたら日が暮れてしまいそうだし。

 

「月見の知り合いって言えば大丈夫なんじゃないか? どうせこのへん歩いてるやつらとも顔見知りだったりするんだろうし」

「……なんか、困ったらとりあえず月見さんって感じになってきてるわね。天子じゃあるまいし……」

『れーいむー?』

 

 肩を竦めるように、ため息ひとつ。

 

「なんかいい方法ないかしら。正直、あんま月見さんには頼りたくないのよねー」

 

 いきなりだった。

 

「――おっ、なになに? もしかしてあんたたち、月見の知り合いなのかい?」

「「……!」」

 

 上だ。

 霊夢と魔理沙は稲妻のように反応した。声の出処が向かいの家の屋根だと一瞬で弾き出し、片や札を抜き片やミニ八卦炉を構える。

 鬼がいた。

 

「おっ、なかなか悪くない反応だね。ふうん、平和ボケしたただの人間じゃあないのかな?」

 

 屋根の傾斜に胡座をかいて座り込み、巨大な盃で酒を呑んでいた。

 

「「……っ!」」

 

 一発で只者ではないとわかった。そんじょそこらの妖怪とは文字通り桁が違う。恐らくは伊吹萃香とほぼ同格の鬼であり、間違いなく大妖怪と呼ばれるに足る、幻想郷でもほんの一握りだけの強者である。

 来やがった、と思った。そりゃあここは、規模でいえば幻想郷に次ぐ第二の妖怪の楽園なのだ。鬼子母神を抜きにしても大妖怪の一匹や二匹はいるだろうし、異変を解決する中でそういった連中と出会ったり、目をつけられてしまったりしてもおかしくないと警戒していた。

 しかし、まさか、旧都に入っていきなり来るとは。

 額からすらりと鋭利な一本角を生やした鬼である。またもや金髪である。話は逸れるが、幻想郷で自分たち黒髪勢の次に多いのは魔理沙たち金髪勢だと霊夢は思っている。魔理沙に紫に藍と、霊夢の周りの腐れ縁というのは皆おしなべて金髪だ。今回手伝ってくれているアリスだってそうだし、水月苑でちらほら姿を見かけるフランとルーミアもそうだし、秋の豊穣の神様だってそうだし、そういえば守矢神社にも金髪の神様がいる。その次に多いのは、月見たち銀髪勢だろうか。

 閑話休題。

 

「ここで人間を見るのなんて、何年振りだろうねえ」

 

 鬼の浮かべる笑みは好意的に見えるが、霊夢は気を抜かず様子を窺う。

 

「どちらさま?」

「いやそれこっちのセリフ。一体どうしたのさ、人間がこんなところまで」

 

 事の経緯を説明すると、今までと似たような反応が返ってきた。

 

「はあ、間欠泉に妖精? なんだいそりゃ」

「その『なんだいそりゃ』を調べるために来たのよ。……そうだ、藤千代ならなにか知ってるんじゃないかと思ってるんだけど、どこにいるか知らない?」

「藤千代なら、なんかさっきそのへんにいたよ」

「そのへんってどのへんよ」

「そのへん」

 

 役に立たないやつめ。鬼はこういうところでテキトーだから困る。

 

「呼べば来るんじゃないかな。――おーい、藤千代ーっ!!」

 

 鬼が腹いっぱいに息を吸い込み、女の見た目からは想像もできない大声を張り上げた。霊夢と魔理沙が思わず顔をしかめるほどのやかましさだった。旧都中に藤千代の名がわんわんと鳴り響いて、ほどなくして元気な返事が返ってくる。

 

「――はーぁいーっ! 勇儀さんですかー!? どうかしましたかー!?」

 

 声の聞こえ方からして、だいぶ離れたところにいるようだ。少なくとも霊夢の感覚では「そのへん」ではない。

 鬼がまた大声で、

 

「ちょっと来てーっ! あんたに用があるってやつがいるよーっ!!」

「ちょっと待っててくださーいっ!」

 

 静かになった。勇儀と呼ばれた鬼が大皿みたいな盃をゆっくり傾け、遠目でもはっきりわかるほど惜しみなく喉を鳴らし、ぷはーっと一気に呼気を飛ばした。

 

「もうすぐ来ると思うから、そこで待ってな」

「……悪いわね。助かったわ」

 

 どうやら、彼女は話のわかる鬼のようだ。霊夢が構えを解いて札をしまうと、少し遅れてから魔理沙もミニ八卦炉を下ろした。

 鬼がにっと笑い、

 

「あんたら、月見の知り合いなんでしょ? だったら悪いようにはしないさ、特別に目ぇつむったげる」

 

 霊夢は興味本位で、

 

「……ちなみに、私たちが月見さんの知り合いじゃなかったらどうなってたのかしら」

「んー、適当にシメてふんじばっとくかな。だってここ、人間立ち入り禁止だし」

 

 地上で妖精たちの子守りをしているだけの月見が、この場におらずして異変解決の最大の協力者となりつつある。

 

「ねえねえ、ちょっと訊きたいんだけど」

 

 鬼が盃を膝の上に置き、身を乗り出して霊夢たちを覗き込んだ。

 

「月見の屋敷って今どうなってる? かなりでっかく造ったからさあ、庭とかもう荒れ放題になってたりしない?」

 

 そういえば水月苑は、紫が鬼やら天狗やら河童やらの総力を結集させて造らせた力作だったか。萃香の話では、完成記念の宴会が華々しく執り行われ、酒を呑み過ぎて酔った月見が狐の姿で眠ったとか。ちょっと見てみたかった。

 なんて脱線しているうちに、魔理沙が答えていた。

 

「綺麗なもんだぜ? 掃除とか、いろんなやつが手伝ってるみたいだしな」

 

 鬼が大口を開けて豪快に笑った。

 

「あっははは、やっぱりそうなんだ! 手伝ってるのって何人くらいいるの?」

「えっと……」

 

 魔理沙が指を折りながら考え始める。霊夢も頭の中で数えてみる。屋敷の家事は主に藍と咲夜と天子と映姫と藤千代、庭の手入れは妖夢と幽香、たまに手伝っているのが早苗に志弦に橙にわかさぎ姫……、

 

「……十人くらいいる?」

「いるっぽいな」

「あっははは! なるほど、そりゃあ藤千代も大変なわけだ!」

「そうなんですよねー。みんな揃って同じこと考えてるので、私の通い妻作戦が没個性気味といいますかー……」

 

 ビクッとした。

 横に藤千代が立っていた。さもはじめからそこにいたかのように、なんてことのない顔で。

 

「うお!? お、お前、いつの間に」

「え? 普通に走ってきただけですけど……」

 

 その割には足音ひとつしなかったが。普通ってなんだっけ、とこの鬼の少女を見ているといつも思わされる。この少女が言う『普通』は、霊夢たち基準で翻訳すれば『規格外』に相当する。

 

「まあまあ、そんなことは置いておいて。誰かと思えば、霊夢さんと魔理沙さんだったんですね。一体どうしたんですか?」

「実は……」

 

 いちいち事情を話すのがそろそろ面倒になってきたが、霊夢は頑張って説明した。藤千代なら大なり小なりなにかしらの情報は知っているはずだから、これが最後の手間になることを祈って。

 

「――というわけなのよ」

「ほほう、異変ですかー」

 

 藤千代は殊勝に頷いた。それから眉を下げ、

 

「ごめんなさい、地上の皆さんにご迷惑をお掛けしてしまって。旧都の代表として謝罪します」

「え……いや、」

 

 まさかここで謝られるとは思っていなかったので、霊夢は面食らった。

 

「別にいいけど。一番大変なのは、たぶん妖精の子守りしてる月見さんだし」

「これは、あとで月見くんにお詫びとお礼をしなければですねっ」

 

 なぜそこで目をきらきら輝かせるのか、霊夢は敢えて追及しなかった。

 魔理沙が、

 

「ってか、そう言うってことはまさかお前が黒幕なのか?」

「あ、いえ。それは違いますよー」

 

 魔理沙がほっと胸を撫で下ろす。こいつと闘うなんて弾幕ごっこでも御免だ、と顔にはっきり書いてある。

 今度は霊夢が問う。

 

「なら誰が?」

「それは……」

 

 答えようとして、藤千代は咄嗟に口を噤んだ。ほんの束の間なにかを真剣に考え、魔理沙を見て、続けて霊夢を見て、

 

「……ちなみに話は逸れますけど、もし異変解決を邪魔する意地悪な妖怪さんがいたら、お二方はどうするんですか?」

「はあ? そんなの、スペルカードルールに則って叩きのめすに決まって――」

 

 致命的な失言をした直感。

 気づいたときには、完膚なきまでに手遅れだった。

 

「さあ霊夢さんっ魔理沙さんっ! 異変の情報がほしければ、見事私を打ち破ってみせなさい!」

「「……」」

 

 霊夢と魔理沙は沈黙した。お互いを見つめ合い、言葉にならない痛切な心を顔いっぱいに表現しながら、どうしようもないほど沈黙した。藤千代だけが、ふんすっとやる気満々で目を輝かせていた。

 やがて霊夢の方から、

 

「……ほら魔理沙、出番よ? 次は自分がやるんだって意気込んでたわよね? 遠慮することないわ」

「あ、あー、そっそうだったかなー? この頃ちょーっと物忘れが激しくて。そっそれより、今日弾幕ごっこ絶好調な霊夢サンの方が適任じゃないかなー?」

 

 魔理沙が冷や汗をびっしりかいている。自分も笑顔がひきつっているはずだ。霊夢だって、こんな化け物少女と闘うのはたとえ弾幕ごっこでも御免なのである。

 

「いやーほら、私、さっきのでちょっと疲れちゃったし。ここはやっぱり、体力の有り余ってる魔理沙の方が」

「いやいや、やっぱ異変解決は博麗の巫女の役目だしなっ。部外者は身の程弁えて観戦してるぜ」

「あの、面倒なので二人まとめてかかってきていいですよ?」

「「…………」」

 

 やめてくださいしんでしまいます。

 

「で、でもほら? スペルカードルール的に二対一ってのは」

 

 なんとかこの場を切り抜けようと口走ったこれが、またもやどうしようもない命取りになった。

 

「――んじゃあ、私と藤千代が相手ならちょうど二対二で問題ないよね?」

 

 鬼だった。盃の酒をこぼすこともなく颯爽と屋根から跳躍し、霊夢と魔理沙を間に挟んで藤千代と向かい合う形で着地した。

 挟み撃ちである。

 要するに、「逃げられると思ってんの?」という言外の包囲網である。

 霊夢と魔理沙はますます沈黙し、藤千代がぐっと親指を立てた。

 

「さすが勇儀さんです! これならなにも問題ないですね!」

「ふふふ、任せといてよ」

「「………………」」

 

 間違いなく大妖怪と思われる鬼と、鬼子母神が同時に相手。

 ――あれ? これもしかして詰んだ? 私たちここでげーむおーばー?

 

『ひええ……』

 

 陰陽玉の向こうで、天子も震え上がっている。

 

『……これが日頃の行いってやつね。ご愁傷様だわ』

 

 おいアリス。

 もちろん、これからやるのは弾幕ごっこであり、人間と妖怪が対等な立場で闘うための決闘方式である。いくら規格外が標準装備の藤千代であろうとも、弾幕ごっこであれば霊夢でも対等に渡り合えるはずだ。しかし一方で、たとえ弾幕ごっこであっても、彼女が『普通』であるなどありえるのかと疑問に思う自分がいるのも事実だった。同じことを考えているから、魔理沙だってなんだか泣きそうになっているわけで。

 

「大丈夫ですよお二方、ちゃんと加減はしますからっ」

 

 いま霊夢は、この世で最も信用できない言葉を聞いた。

 

「異変の黒幕と闘う前の、まあ中ボスみたいなものだと思って気軽にかかってきてください!」

 

 嗚呼。霊夢はいま、心の底から訴えたい。幻想郷で最も多くの異変を解決に導いた人間として、腹の底から叫びたい。

 今まで数々の『ボス』と闘ってきたが。

 

「――それじゃあ、始めましょうか?」

 

 お前のような中ボスがいてたまるか、ちくしょうめ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見が廊下を歩いていると、茶の間の方から「だっ大丈夫っ、霊夢なら絶対勝てるよ! ……ほ、本当だってば! 諦めちゃダメっ! 心の負けが本当の負けだよ!?」と天子のやけに必死な声援が聞こえた。霊夢の危機を感じさせる緊迫したものではなく、例えば絶対闘いたくないヤツと闘う羽目になってしまって痙攣する霊夢を頑張って元気づけようとするような、そんな一生懸命な応援だった。

 ひょっとすると、藤千代に喧嘩(だんまくごっこ)でもけしかけられたのかもしれない。だったらご愁傷様としか言い様がない。たとえ妖怪と人間の能力差を画一化するスペルカードルールであっても、あいつが『普通』であるなど天地がひっくり返ってもありえないのだから。

 今すぐ助けが必要な緊急事態というわけでもなさそうなので、月見は自分の仕事を優先した。水月苑の広く長い廊下を進み、曲がり、更に進んで、やがて辿り着いた戸をがらりと大きく開け放った。

 

「ほら、ここだよ」

「「「おおーっ!」」」

 

 後ろをちょこちょこくっついてきていた妖精たちが、身を乗り出して一斉にどよめいた。

 ……まあ、別に大それたものを見せたわけでもなく、ただの温泉の脱衣所なのだけれど。壁際に整然と並ぶ棚と脱衣カゴの隊列だけで、彼女たちを楽しませるには充分であったらしい。

 言うまでもなく、水月苑の温泉である。

 なぜここにやってきたか。その理由が、わいわいはしゃいでいる妖精たちの後ろにいる二人の少女であり、

 

「「がたがたがたがたがたがたがたがた……」」

 

 すなわち、雪合戦で何度も雪まみれになったせいで、すっかり凍えてしまった響子とにとりである。

 雪球を当てれば勝ち、当てられれば負け――たったそれだけのルールで行われた雪合戦は熾烈なものだった。徒党を組んだ妖精たちの集中砲火によって、彼女たちは情け容赦なく袋叩きにされてしまったのだ。更に、まるで無慈悲なわかさぎびーむも炸裂した。お陰で服の中にさんざ雪が入ってしまい、一刻も早く温泉に入らねば凍死しそうな有り様なのだった。

 月見も、いくらか雪球をもらって服が濡れてしまった。こいつらを温泉に叩き込んだら乾かそうと思う。

 さっそく突撃しようとした妖精数匹を尻尾で押し潰し、

 

「さてお前たち、よく聞け」

 

 あーずるーい! と他の妖精どもが尻尾に殺到しようとする。

 

「聞け。じゃないと温泉はなしだ」

 

 みんな気をつけをした。別にこいつらに限った話ではなく、妖精という生き物はモノで釣ると総じて扱いやすい。

 

「お前たちが守らないといけないルールは四つだ。一、脱いだ服はちゃんとカゴに入れること。二、みんなで仲良く入浴すること。三、風呂場は汚さないこと。四、あがったらちゃんと体を拭いてから服を着ること。わかったか?」

 

 みんな元気に返事をし、押し潰されている数匹は足をぱたぱたさせた。

 

「「「はーい!」」」

「よーしはいって言ったな。じゃあそこで震えてるお姉さんたちに、ルールを破ったやつがいないかあとで教えてもらうからな。もし嘘ついて好き勝手したやつは――」

 

 月見は一拍置き、

 

「――風呂あがりのおやつは抜きだ」

「「「えーっ!!」」」

 

 途端に噴出したブーイングの嵐を無視し、掃き掃除をする要領で妖精たちを次々脱衣所へ叩き込む。そうしてしまえばあとは純粋で単純な彼女たちのことであり、すぐさま興味の対象をおやつから温泉にシフトして、脱衣所のあちらこちらへ元気に散らばっていった。

 と。

 

「……ん? お前は行かないのか?」

「んー……」

 

 がたがたしている響子とにとりの傍に、一匹だけ大変おとなしい妖精がいた。他の仲間たちのようにはしゃいだり騒いだりせず、なにやら真剣な顔つきで月見を見上げている。

 

「あれー、ひーちゃんどうしたのー?」

 

 脱衣所の方で何匹かの仲間が首を傾げている。それ以外の連中は戸が開きっぱなしなのも構わずさっさと服を脱ぎ始めており、とりあえず月見は、うんうん唸る『ひーちゃん』だけに視線を集中させた。

 

「どうした?」

「うん……」

 

 ひーちゃんは少し考えて、

 

「なんだか……だいじなことわすれてる気がする」

「大事なこと?」

「うん……なんだろ、なにか言わなきゃいけないことがあった……ような。そのためにわたしたちはここに来た……ような」

 

 首を右にひねり左にひねり、頭の上で絶え間なく疑問符を量産する。けれど最終的にはにぱっと笑って、

 

「やっぱりわすれたー」

「はいはい、じゃあとりあえず温泉に入っておいて。そのうち思い出すだろう」

「そうするー」

 

 ひーちゃんがとてとてと脱衣所に走っていく。振り向きはしない。「あー、るーちゃんくまさんぱんつだー」とか言っている。さすがは妖精、恥を知らない。

 吐息。響子とにとりを見て、

 

「お前たちも、ゆっくりしておいで」

「「がたがたがたがた……」」

「……おーい、お前たち?」

「「がたがたがたがたがたがたがたがた……」」

 

 月見は尻尾で二人の頭をぺしぺし叩いた。

 

「ハッ……月見!? ……あれ、ここどこ!?」

「私たち確か、外で雪合戦してて……あれ、なんだか記憶が……」

「うん。お前たち、一刻も早く温まってこい」

 

 結構ヤバい状態だった。やはり、脳天にわかさぎびーむを受けたのがまずかったのだろうか。

 と、

 

「――狐のおにーさ――――――――ん!!」

「うわ――――――――っ!?」

 

 背後からひーちゃんの声が聞こえて、血相を変えた響子がものすごい勢いで脱衣所に吹っ飛んでいった。ひーちゃんにタックルをしたと思しき音、

 

「うぎゅ!? なにするのーっ!?」

「そういう君はなにしてるの!? つつつっ月見さん、絶対に振り返っちゃダメだからね!?」

「……」

 

 なんとなくわかってしまった。にとりがマジな目つきで月見を見上げており、

 

「月見、言う通りにしないとダメだよ。あの妖精、冗談抜きですっぽんぽんで飛び出してきやがった」

「…………」

「たいへんだよ狐のおにーさーんっ!!」

「とりあえず服着てーっ!?」

 

 ひーちゃんは比較的まともな部類かと思ったのだが、やはり妖精。恥を知らぬ。

 月見はぎゃーぎゃー暴れている二人に背を向けたまま、

 

「どうしたんだい。『大事なこと』でも思い出したか?」

「あ、ううん、そっちはまだ……。でもでもっ、みーちゃんとくーちゃんがいないの!」

 

 今はじめて聞いた名だが、それが『二匹の妖精』を指しているくらいは簡単にわかった。

 

「いない? いないって……」

「どこにもいないのっ!」

 

 嫌な予感がした。

 不覚にも月見は、妖精たちの正確な人数を把握していなかった。数える気にもならなかったと言ってしまえばそれまでだが、みんな雪遊びにすっかり夢中な様子だったので、まさか逃げられるとは夢にも思っていなかったのだ。

 甘かった。

 

「きっと、どこかにいたずらしに行ったんだと思う! あのふたり、私たちの中でもとびきりいたずら好きだから! ざゆうのめいは当たってくだけろだよ!」

「座右の銘なんて、難しい言葉を知ってるね」

「えへへ」

 

 さて。

 どうしたもんかと月見は考える。放っておいてもそのうち天狗たちが見つけて連れてきてくれるとは思うが、「いたずらをしに行った」とわかりきった状態で放置するのも据わりが悪い。

 捜しに行こうか、と思った。妖精たちが風呂から上がるまでは、休憩する以外にこれといってやることもない身だ。ただし、どうせ妖精たちは風呂場でも元気に跳ね回るだろうから、水月苑にいる限り必ずしも休める保証はない。

 ならばいっそ捜しに出てしまった方が、散歩がてらの気分転換にもなるのではないか。

 悪くはない案のように思えた。

 

「それじゃあ、ちょっと捜しに行ってくるよ。にとり、響子、温泉は好きに使ってくれていいから、その子たちを頼んだよ」

 

 にとりは愛嬌満点に微笑んで、

 

「お風呂上がりのおやつって、もちろん私たちの分もあるよね?」

「……最大限、おもてなしさせてもらうよ」

 

 成り行きにもかかわらずなんだかんだでしっかり子守りを手伝ってくれている二人には、まるで感謝の言葉もない。

 背中の方でまた、

 

「ひーちゃんどーしたのー?」

「おんせん入らないのー?」

「えー、でもふくぬいでるよー?」

「だからそんな恰好で出てきちゃダメだってば――――――――ッ!?」

 

 月見はさっさとその場から退散した。足早に玄関まで戻ってくると、茶の間の方ではあいかわらず天子が「がんばれがんばれれーむがんばれっ!」と一生懸命な声援を飛ばしている。取り込み中のようなので、行き先を告げることもなかろう。

 玄関を開ける。

 

「……」

 

 そして月見の目の前に飛び込んできたのは、すっかりぐちゃぐちゃに変わり果てた日本庭園だった。無数の足跡でボコボコになった雪景色、崩れたかまくらの残骸、土の混じった雪球、地面と垂直に突き刺さったそり。池にも無数の雪球が浮かび、ついでに妖精たちに逆襲されたわかさぎ姫が「はわぁ~……」と目を回して漂っている。改めて見るとだいぶ酷い。

 ほんの数時間前までは風情あふれる雪景色だったのに、どうしてこんなことに。

 首を振り、とりあえず月見は見なかったことにした。

 だいたいこういうときに限って、妖夢か幽香が庭の手入れにやってくると相場は決まっているのだが――自分はまだ、そこまで運に見放されてはいないと信じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 湯船に浸かる前に体を洗いながら、ひーちゃんは独り言を言う。

 

「うーん……なんだろ……なにをわすれちゃったんだろ……」

 

 忘れてしまっているひーちゃんは、無論気づかない。自分たちが、本来であれば決して忘れてはならない、本当に大事なことを忘れてしまっていて。

 そしてそのせいで、歯車が狂い始めてしまっているのだと。

 今はまだ、ひーちゃんも、誰も、気づいていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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