銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第9話 「レコンサリエーション ②」

 

 

 

 

 

 七色の宝石が、キラキラ光って左右に揺れた。

 

 不思議な羽だ、と月見は思う。蝙蝠や虫のように膜を伸ばしているのではない。天狗や鳥のように羽毛で覆われているのでもない。ただ剥き出しになった羽の骨格から、同一間隔で七色の宝石がぶら下げられている。ひっそり、くゆるようなランプの灯りを反射して、色とりどりの煌めきを散らしている。

 

「わあ、すごいすごい! 月見の尻尾、すごくもふもふしてるねー!」

 

 頭上に天蓋までこしらえられた、絵本の中でお姫様が眠っているような、大きくて豪奢なベッドの上。縁に腰掛ける月見の尻尾に猫のようにじゃれつき、ベッドの上をくるくる転がって七色の光を振りまく彼女は、自らをフランドール・スカーレットと名乗っていた。

 

 あのそびえる鉄扉を抜けた先、ランプの炎が明るく赤く照らし上げるこの地下室は、フランドールの私室であった。このベッドを始め、たくさんの絵本が収められた本棚や、大小多様なぬいぐるみを積み上げた山々が、自然の光が差し込まない無機質なこの部屋を精一杯愛くるしく飾っていて、また彼女の無垢さを際立たせている。

 フランドールは、無垢な少女であった。レミリアの妹であることが信じられないくらいに幼気(いたいけ)で、いじらしくて、微笑ましくて。本当に狂気に心を蝕まれているのか、なにかタチの悪い冗談なんじゃないかと疑ってしまうくらいだった。

 月見の尻尾を上から押し潰すように抱き締めて、フランドールは両脚をばたつかせる。

 

「もふー、もふー♪」

「こらこら、そんなに強く抱きついたら跡がついちゃうだろう?」

「えー、いいじゃない。すごくもふもふなんだもの」

 

 わがままを言われてもやれやれと苦笑がこぼれるだけで、決して不愉快な気持ちにはならない。接する者の心を穏やかにする幼さ。やはり子どもとはこうあるべきだと、片隅にレミリアの姿を思い浮かべながら、月見はフランドールと頭を優しく叩いた。

 

「フランドールはここに幽閉されていると聞いたけど、本当なのか?」

「ん……」

 

 フランドールが身を起こした。月見の尻尾を、ぎゅうっと一層強く抱き締める。

 

「……そうだね。そうだと思う。お姉様が『外は危険だから』って言ってね、あんまり出してくれないの」

 

 それは建前だろう、と月見は確信に近く思う。さしずめ、他でもないフランドール自身が危険な存在だから不用意に外に出したくない、というのが真実のはずだ。

 わかっている。妥当な判断だ。狂気による被害を最小限に抑えるためには避けようのない。

 けれど。

 

「……寂しくはないのか?」

 

 問えば、また、ぎゅっと尻尾を強く抱き締められる。

 

「……寂しいよ。外の世界、げんそーきょーっていうんでしょ? 私と同じ妖怪がいっぱいいる世界だって聞いたわ。

 ……あのね、何年か前にね、我慢できなくなって、こっそり外に抜け出したことがあったの。そしたらすぐにお姉様たちに連れ戻されて、すごくすごく怒られちゃった。どうして言った通りに大人しくできないの、って。私だって、色んな妖怪さんとお話してみたいのに……」

 

 一瞬、フランドールの面差しに沈んだ影が差す。しかしすぐに慌てた様子で取り繕って、精一杯の笑顔を咲かせた。

 

「あっ、でも今は寂しくないよ! こうして月見とお話してるんだもの!」

「……そっか」

 

 月見ももらい笑いをして、フランドールの頭をぐしぐしと撫でてやる。ん、と彼女がくすぐったそうに息を漏らす音が聞こえた。

 月見はそっと笑みを深め、同時に思考した。確かにこの子は、狂気に精神を蝕まれているのかもしれない。けれどこうして話をしてみればわかる通り、決して正気が崩壊してしまっているわけではないのだ。正気を失い、手の施しようがなくなったために幽閉するのならわかる。――でも、この子はまだ。

 なぜレミリアはこの子を一方的に幽閉し、遠ざけ、向き合おうとしないのか。月見にはどうしても気に掛かった。故に思う。このままでは大きくすれ違ってしまうことになりかねない、と。

 いや――

 

「ねえ、月見。お姉様って、私のこと嫌いなのかな……」

 

 かもしれない、ではない。フランドールとレミリアは、既にすれ違い始めてしまっていた。

 思考を止め、月見はフランドールを見た。取り繕おうとする様子はもはやない。彼女は俯き、唇を震わせて、いじけるようにがむしゃらに月見の尻尾を抱き竦めていた。

 

「フランドール……」

「だって、だってさ。そりゃあ外だって危険な場所なのかもしれないけど、私だって強いんだよ? お姉様にだって負けないもん。昔喧嘩した時に、私が勝つことだってあったもん。……なのに、外は危険だからって“嘘”つかれて、こんな場所に閉じ込められるってことはさ。本当はお姉様は私のことが嫌いで、会いたくないって思われてるんじゃないのかなって……」

 

 言葉をつなげる内に、段々と泣き出しそうな水気を孕んでいく。

 

「咲夜とか美鈴も、私とあんまりお話してくれないの。他人行儀な挨拶するくらいで、なんだか避けられてる気がして。……やっぱり私、嫌われてるのかな……」

「……」

「私、みんなのこと大好きだよ? だから、もし嫌われたらって思うと嫌で、確かめたいけど、でももし本当だったら……すごく怖くて、だから訊けなくて……」

 

 やだよう。こわいよう。月見の尻尾を一途に抱いて、すんすん、と鼻をすする。

 月見は、掛けてやるべき言葉をしばし見つけられなくなっていた。そんなことはないよと言ってやることは簡単だった。けれど、たった今フランドールと知り合ったばかりの月見がそんな言葉を重ねたところで、一体なんの意味があるというのか。中身のない虚ろな気遣いの言葉は、きっとこの子には届くまい。

 

(……やれやれ)

 

 これはどうやら、もう一度レミリアと話をする必要がありそうだ――そう考えながら月見はフランドールの小さな頭に手を置き、言った。

 

「なあ、フランドール。私と、友達になってみないか?」

「え?」

 

 ちょっとだけ潤んだ目で面を上げた彼女に、微笑む。

 

「ここで会ったのもなにかの縁。お前さえよければ、是非」

「っ、本当!? 本当に友達になってくれるの!?」

 

 よほど意外な提案だったのだろうか。フランドールは驚きと期待で目をまんまるにして詰め寄ってきた。抱き締めていた尻尾を脇に放り投げ、月見の服の肩あたりを掴んで、急かすように何度も引っ張った。

 

「嘘じゃ、嘘じゃないよね!?」

「もちろんだとも。嘘でこんなことは言わないよ」

「そ、そっか……。そっかぁ……」

 

 夢見心地で呟きながら、頬をほんのりと赤くして、くすぐったそうに身動ぎをした。月見はなにも言わずにただ笑みを深めて、彼女の頭をぽんぽんと叩いてやった。

 ……こうやって寂しさをちょっとでも紛らわせてやる程度が、今の月見にできる限界だろう。目下はとりあえずこうしておいて、あとはレミリアとしっかり話をしなければならない。でないと、フランドールがあまりにも可哀想だった。

 

「じゃ、じゃあさ、私のことはフランって呼んで!」

「いいよ。フランだね」

「う、うん」

「よろしく、フラン」

「え、えへへ……」

 

 もじもじと照れ隠しをする彼女――フランが、愛おしいと。

 そんな同情が、生まれていたからなのかもしれない。いつしか月見は、完全に失念してしまっていた。

 

「じゃ、じゃあ、一緒に遊ぼうよ! お話ばっかりじゃなくて!」

「そうだね。なにして遊ぼうか」

 

 フランドールは、とてもとても幼気な子だった。

 

「うんと、うんとねえー」

「ふふ、そんなに慌てなくてもいいよ。ゆっくり考えてご覧」

 

 強大な狂気をその身に宿しているなんて嘘だと思うくらいに、いじらしい子だった。

 

「じゃあ、お人形遊びがいいな!」

「ああ、いいよ。じゃあぬいぐるみを取ってこないとね。ちょっと待っててくれ」

「……」

 

 でも、それは錯覚で、ありもしない幻覚で、見当外れの妄想。

 なぜなら、フランは――

 

 

「……私はこれにしようかな。フランはどれに――」

「――私は、“あなた”だよ」

 

 

 ――フランは確かに、その心を狂気で蝕まれているのだから。

 

 

 衝撃。ベッドを離れ、ぬいぐるみの山に近づき、その中の一つを手に取って振り返った直後だった。唐突に視界がブラックアウトする。一瞬で平衡感覚が消失し、外界から得られる情報がなに一つとしてわからなくなって――気がついたら、倒れていた。

 始めはそのことすらわからなかった。床の固さと冷たさが直接肌を伝い、浮かび上がるような感覚を伴って意識が戻って初めて、自分がうつ伏せで倒せていることを知った。それからすぐに背中の激痛を認識し、未だ覚醒し切らない頭の中で、背中を打ったのか、とぼんやり思う。

 

「……カハッ」

 

 やっとのことで体が反応してくれた。呼吸をしなければと肺が伸縮して、めいっぱいの空気を取り込んだ。

 

「……どうしたの、月見? 早く立って、続き、しようよ」

 

 声。それがフランの声だと認識するまで、一呼吸以上の時間を要した。(いとけな)さにあふれた花びらのような声ではない。奥底で渦巻く黒い狂気を抑えられずに興奮した、けれどぞっとするほどに冷たい声。

 腕を杖にして体を起こせば、フランの笑う姿が見えた。

 狂気で歪んだ三日月を描く、その笑顔。

 

「――あのね、前にも同じことを言ってくれた人はたくさんいたよ。でもみんな、みーんな、一緒に遊んでみるとすぐに壊れちゃったの。動かなくなっちゃったの。嘘つきばっかりだったの。ねえ、ねえねえねえ、月見はどう?」

 

 ねえ、ねえ。目をギラギラ光らせて繰り返すフランを見て、月見は豁然(かつぜん)と悟った。どうして自分がこうなっているのか。フランが一体なにをしたのか。そしてなにをしようとしているのか。

 人形遊び――その言葉が意味するところを月見は文字通りに捉えていたけれど、間違いだった。

 フランの望む“人形遊び”。

 それはすなわち――

 

「月見が嘘つきじゃないなら、壊れずに最後まで遊んでくれるよね――!!」

 

 ――月見自身が、人形なのだ。

 

 ……そうか。

 そうかと、月見は大きく息を吐いた。

 諦観だ。もしかしたら、もしかしたらフランは大丈夫なんじゃないかと、一縷の希望を見ていた。そう信じたかった。けれどそれは幻想で、フランの心には確かに狂気が巣食っていて。

 

「……すまないね、フラン。人形遊びなんて初めてだったから、びっくりしてしまったよ」

「あら、そうなの? でもいいんだよ。壊れずに最後まで遊んでくれれば、いいんだから」

「……そうだね」

 

 立ち上がる。大丈夫だ。既に痛みは消えている。四肢も動く。なにも問題はありはしない。

 一度大きく深呼吸し、月見は構えた。できることなら避けたかったが、こうなってしまってはもうどうしようもない。戦わなければ。向かい打たなければ、彼女の狂気のままに、壊されてしまうだけ。

 

 だから――覚悟を決めろ。

 

「言っとくけど、手加減はしないからね!」

「……ッハハハ、それは骨が折れそうだね」

 

 決して壊れるな。最後まで踊り切れ。

 

「さあ、踊りましょう? ……リードしてくださいますか?」

「ああ。……喜んで」

 

 微笑み合うのは、ほんの一瞬。

 火蓋を切るのは、戦いの舞踏。

 

 二つの妖力が、剣戟となって火花を散らす。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 剣戟の音は地下を震わせ、地上にまで反響した。待ち侘びた時の訪れに、レミリアはようやくかと笑みをたたえ、傾けた紅茶で待ちくたびれた喉を潤した。

 私室に戻ったもののつとに眠気が消えていたので、また瞼が重くなるのを待つ片手間、地下室に向かわせたあの狐の気配を探っていた。それから二刻、あまりに遅すぎる開戦だった。

 

 ソーサーに戻したカップが、二つの妖力がぶつかるたび、怯えるように大きく震える。壮絶な戦いだ。片や狂気にまみれた濁流のごとき妖力と、片や清流のごとく澄み、また激流のように力強い妖力。完全に拮抗し、どちらとも譲らない。

 あの狐――月見とかいったか――、てっきり大した力もない口先だけの雑魚だと思っていたが、爪を隠していたということなのだろう。やはり妖狐だけあって食えない性格をしている。

 そのことを憎々しく思う気持ちはあったが、表情に出すことはなかった。レミリアは、この戦いの結末を既に知っているのだから。

 

 『運命を操る程度の能力』。月見の運命を覗き見た。フランに敗北し、死へと収束するその運命を。

 

 だからレミリアは、たたえた笑みを崩さない。

 

「咲夜、紅茶をもう一杯」

「はい」

 

 傍らの従者へカップを掲げれば、すぐに琥珀色が注がれた。芳醇な香りがレミリアの鼻孔を満たす。まるでこの紅茶も、フランの勝利を約束してくれているよう。

 いい気分だ、とレミリアは笑った。

 

「……ところで」

 

 呟き、傍らの従者を横目で見上げる。フランとあの狐が戦い始めた瞬間こそ、思い詰めた表情をしていたけれど。今の咲夜は、いつも通りの静かな面持ちを取り戻していた。

 十六夜咲夜は、決して感情を隠すのが上手い少女ではない。普段の垢抜けた振る舞いの数々からか、紅魔館の外では彼女のことを「人形のように冷静」などと評する者が多いが、実際はとても情緒豊かな少女だ。レミリアのように(ちか)しい者たちの前ではよく笑い、よく怒り、よくいじける。

 そんな咲夜は、しかし、フランと月見の戦いをさほど心配していないようだった。

 

「咲夜は心配じゃないの?」

 

 試しにそう問うてみると、咲夜は少し困った様子で考え、しかしすぐに眉を開いて微笑んだ。

 

「そうですね……心配ではないです。信じてますから」

「そう……」

 

 それはそうよね、とレミリアは頷く。フランが敗れる光景など、レミリアにはてんで想像することができない。弾幕ごっこはいざ知らず、ひとたびルール無用の殺し合いとなれば、彼女のポテンシャルはレミリアすらも超える。加えて有する能力だって強力だ。そんなフランが、たとえ互角の妖力を持つ相手とはいえ、ただの妖狐ごときにどうして負けなどしよう。

 ……。

 レミリアは浅く顔をしかめた。

 

「あの狐がまさかフランとまともに戦えるほど強かったなんてね。本当に気に喰わないわ」

「……」

 

 咲夜からは相槌すらも返ってこなかった。表情を盗み見ても、瞳を閉じて静かに佇んでいるだけだった。

 剣戟が鳴る。

 その音を、伝わる振動を肌で感じながら、レミリアは心中でひとり悦に入る。フランがこれだけの勢いで暴れるのは久し振りだ。あの狐との戦いを心の底から楽しんでくれているのがよく伝わってくる。

 やっぱり、あの狐を地下へ差し向けたのは悪くない判断だった。外来人やその辺の弱小妖怪だけではフランも退屈だろうし、狂気や能力を上手く制御するためのいい練習相手にもなる。今はまだ上手に扱えていないようだけれど、大丈夫。フランは強い子だから。

 

「……」

 

 いつか、とレミリアは思う。こうしていればいつか、フランは狂気と能力を制御できるようになって。誰も傷つけず、また傷つけられることもなく、笑顔で幻想郷を歩けるようになるはずなんだ。

 もし狂気を制御できないままで外を歩いて、暴走して、幻想郷の住人たちから忌避されたり、排斥されたりしてしまったら……フランの居場所は、もう本当にどこにもなくなってしまうのだから。

 だからレミリアは、フランを幽閉する。

 外の世界には、もうレミリアたちの居場所なんてない。笑顔になれない。だから、どうか、この幻想郷でだけは。

 

(そのために、精々役に立ちなさい。狐)

 

 もしあいつのお陰でフランが狂気を制御できるようになったら、まあ、最低限の感謝として弔いくらいはしてやろう。

 そしてフランを思いっきり褒めて、少しずつ幻想郷に馴染ませていこう。

 

 そうして未来だけを見つめるレミリアは、故に、己の足元がどうなっているのかに気づかない。

 進むその道は既に道などではなく、いつ崩れるともわからない薄氷となっていることを。

 今もなお、知らないまま。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 無数の白が視界を潰す。

 人一人がようやく滑り込めるかどうかの僅かな隙間。その存在に気づいた時には既に遅い。

 

「――!」

 

 咄嗟に尻尾を盾にしたが、防ぎ切ることはできなかった。直撃。衝撃を殺せず後方に吹き飛ばされる。すぐに体勢を整え足先から触れるように着地するものの、まだ足りない。体が後ろに投げ出されないよう前傾姿勢のまま、そこから更に数メートル、足と床の間で高い音を上げながら滑って、ようやく止まった。

 初手を決めたのはフランの方だった。さて、どう攻めるか――月見がそう考えていた矢先であった。

 

「……ふう」

 

 月見は静かに胸を撫で下ろす。恐ろしく速い弾幕だった。盾にした尻尾が痺れているほど。

 正面から、声が来る。

 

「大丈夫? 危なかったね」

 

 言葉に反して月見を気遣う色はない。むしろ嘲笑うかのような声だった。

 月見は吐息し、ゆっくりと前を見据えた。

 

「……何分、弾幕にはまだ慣れていないものでね」

「あら、そうなの?」

 

 くすくすささやく。

 おかしくてたまらないといった体で、彼女――フランが笑っている。

 鮮紅色の双眸が、強く弓を描いている。

 

「弾幕ごっこはしたことないの?」

「そうだね。……実際にこうやって弾幕を撃たれるのは、初めてかな」

「まあ……」

 

 驚いた口元を掌でそっと隠して、背伸びしたような上品さで。

 されどもひとたびその華奢な(かいな)を振るえば、生まれる攻撃はただ苛烈。

 

「でも大丈夫、月見ならきっとすぐできるようになるよ」

「そうかな?」

「うん、きっとそう。……じゃあ、今は私が代わりにリードしてあげるね。ほら、ついてきて――」

 

 七色の宝石を煌めかせ、フランが飛揚した。雲を衝くように高い天井を、上へ、上へ。

 ――来るか……!

 月見が身構えて、一刻。フランは天高く右腕を掲げ、三日月みたいに大きく笑って。

 

「――ほら!」

 

 腕を振るうと同時、月見の視界を、再度無数の白が埋め尽くした。

 弾幕。

 

「っ……!」

 

 ――あの時、雛と椛の弾幕ごっこで見せてもらった弾幕とは、まるで桁が違った。思わず圧倒されあとずさってしまうほどの物量。それ以外の物が視界に映り込まなくなるほどの密度。咄嗟に距離を取っても一瞬と待たずに詰められてしまうほどの速度。天より降り注ぐその姿はまさに滝の如く。なにからなにまで違いすぎる。

 

 ……雛と椛が弾幕ごっこに熱中する中で、操がこう解説してくれた。

 

『妖力なりなんなりで作った弾幕を、なんらかの紋様を描くように一定の規則を持たせて飛ばすんじゃよ。相手を攻撃すると同時に、“魅せる”意味も込めての。

 弾幕ごっこは、“ごっこ”って言葉の通りに遊びみたいなもんで、妖怪と人間が対等に闘う決闘手段として生み出されたもんじゃ。だから攻撃する時には相手が躱せるようにわざと隙間と作らないといけないし、人間が反応できないような速度でぶっ放すのも禁止。そうやってフェアに攻撃して、相手は弾幕の規則を見抜いて回避して……まあ、そうやって遊びながら闘うんじゃよ』

 

 これが、遊び? まったくもって笑ってしまう。

 確かに、弾幕の軌道に規則はあるのかもしれない。しかしこれは既に、人間が反応できる速度の範疇を超えていた。

 あの鴉め騙したな今度会ったら焼く、と心に決めながら、月見は動いた。弾幕の隙間へと体を滑り込ませる。妖怪に与えられた天性の反射神経。身体能力。それらを以て、弾幕が体を掠めていくほどの瀬戸際で――しかし、躱す。

 白い世界の中、ただ、それだけを考えて。

 

「――ああ、もう躱せるようになったのね! さすが月見!」

「っ……」

 

 気がついた時には視界から白が消えていて、フランが興奮した様子ではしゃぎ声を上げていた。まだ回避しようと動き続けていた月見の体が思わずその場でたたらを踏む。

 息をつく暇はない。

 

「じゃあ、次は違うの! いっくよー!」

 

 次の世界は赤だった。先ほどの白よりも疎らで隙間が大きいものの、その分速い。――もはやこれは、本物の弾幕そのものだ。

 

「く、お……!」

 

 反射神経。身体能力。そして、勘。

 結論を言えば、ただ運がよかっただけなのだろう。

 

「一回で躱しちゃうんだ……すごいね、上手だよ!」

「それはっ、どうも……っ!」

 

 肝を潰す思いでなんとか躱したものの、必然、無駄話をするような余裕などない。フランへ返す声には、惨めったらしいほどの必死さがありありと浮き出てしまっていた。

 ともあれ、一度躱し切ってしまえば、死地は途端に好機へと変わる。

 

「じゃあ、次はねー……」

 

 弾幕の斉射が終わり、フランが次の弾幕を放つまでの予備動作。たった数秒の、沈黙の時間。

 それが、隙だ。

 

「――!」

 

 月見は脚に妖力を込め、一気に前へと駆け抜けた。打ち鳴らされた床が轟音を上げ、月見の意図に気づいたフランが慌てて身構える、それよりも速く。

 

「せっ……!」

 

 吐く息鋭く。相手が少女であることを構いなどしない。一撃で意識を刈り取る勢いで、

 

「――あうっ!?」

 

 蹴り落とした。肉を圧する低音、肺から吐き出されるフランの悲鳴、そして大気が震える衝撃をその場に残して彼女の体が吹き飛ぶ。完全に宙に放られ慣性のまま落下し、微塵もその勢いを殺すことなくぬいぐるみの山へと突っ込んでいった。

 フランが弾幕を放っている間は、とても近づくなんてできやしない。だから月見にとっては、彼女が弾幕を撃ち終えてから次を放つまでの僅かな準備時間――そこだけが攻撃に転じられる唯一の隙だった。

 生半可な力加減などしていない。並大抵の妖怪であれば、しばらくは動けなくなる一撃だったろう。

 だが。

 

「――あははははは! すごい! すごいよ月見!」

 

 崩れたぬいぐるみの山を押し退け、フランは再び飛翔した。やはり、鬼と互角の身体能力を持つといわれる吸血鬼――一撃蹴り飛ばした程度では、一瞬たりとも止まってはくれない。

 

「一発入れられちゃったのは、久し振りだなあ!」

 

 まったく痛みを感じていないわけではないはずなのに、フランはとてもとても嬉しそうに笑っていた。血のような双眸が、強く不気味な光を放っていた。自分と互角に戦える相手の存在に、狂気が昂ぶっているのだ。

 月見は顔をしかめた。……やはり、なるべく早く勝負を決めなければならない。拍車の掛かった彼女の狂気が、取り返しのつかないところまで加速してしまう前に。

 

「もっと、もっとやってみせてよ!」

 

 振るわれる(かいな)、放たれる白と赤の弾幕。圧倒的な密度と速度を以て襲い掛かるそれに、しかし月見はもう焦らなかった。あいかわらずギリギリではあったけれど、淀みなく躱す。尻尾を振るって弾き飛ばす。そして弾幕の斉射が途切れた瞬間、再度加速し、フランとの距離を一気に詰める。

 弾幕が途切れたら動く。単純で読みやすい攻めだと、月見自身も理解していた。

 故に気づく。肉薄されたフランが、静かに己の笑みを深めたのを。

 

「禁忌――」

 

 月見の背筋を悪寒が駆け抜ける。一層強大に膨れ上がったフランの妖力。弾幕ごっこにおける『必殺技』――スペルカードの宣言だ。

 これについても、月見は操から事前に説明を受けていた。スペルカードにより繰り出される攻撃は通常の弾幕よりも複雑で、強力で。

 そして――必ずしも弾幕とは限らない、ということを。

 

「――『レーヴァテイン』!」

 

 杖――いや、槍なのだろうか。フランが取り出した、悪魔の尻尾を象るように緩い曲線を描いて伸びる黒の武器。それを瞬く間に深紅が包み込み、巨大な炎の刃を成した。

 誘われた。肉薄した月見は、既にあの炎剣の間合いに入ってしまっている。しかも体は走る中で前傾になっているから、今更停止も後退も利きはしない。薙ぎ払うようにして振るわれた炎の軌道は、確実に月見を横一直線に両断する。

 しかし月見とて、こうなるのを予想していなかったわけではない。むしろ、迎撃されて然るべきだと考えていた。故に圧倒的な熱量で迫り来る炎剣を前にしても、焦りなく体は動く。

 跳躍する。縦に体を回して、炎剣を、そしてフランの頭上を飛び越えた。

 

「逃さないよ!」

 

 フランの反応は速かった。横に薙いだ炎剣の勢いをそのままに背後へ回転し、刃の動きを止めることなく、円を描く軌道で頭上を薙ぎ払う。

 その刹那には、既に月見の体は刃の間合いから外れていた。だが蛇のようにうごめくその炎は別だ。顎門を開き、未だ宙を飛ぶ月見を丸呑みにしようと迫ってくる。

 対し月見は、己の尾の先に赤を灯した。小さな火種は、妖狐が得意とする炎の妖術。尻尾を振るって(くう)に放った瞬間、爆発的な勢いを以て燃え上がった。

 

「――狐火!」

 

 激突する。狐火は月見の体を守るように大きく広がり、迫るレーヴァテインの炎を相殺した。

 打ち寄せる熱風に体勢を崩されそうになりながらも、月見は着地。だが、まだ気は緩めない。ぶつかり合った二つの炎はなお消え切らず残火を散らしているが――それを、新たに生まれた横薙ぎの炎が斬り払った。

 斬り払い、フランが突っ込んでくる。

 

「あはははははははははは!!」

 

 喉を走る哄笑、そして構えた炎剣はともに空高く。放たれた高速の振り下ろしを丸腰の月見に止める術はない。横に跳んで躱す他なかった。

 そして振り下ろされた炎剣が床を砕くと同時、天井を焼き払わんほどの火柱が立ち上がる。

 

「!」

 

 爆発が起こったと、そう錯覚させられるほどの威力だった。迸る爆音は、荒れ狂う熱風は、跳んだ月見の体をいとも簡単に持ち上げてしまう。

 

「む……!」

 

 バランスを奪われ、月見の体が床を転がった。咄嗟に体勢を整えて総身を起こすも――その時には既に、白と赤の弾幕に眼前を埋め尽くされている。

 躱せない。

 

「――!」

 

 直撃だ。最後に映った鮮やかな白と赤は途端に反転し、黒となって月見の視界を潰す。そして間髪を容れず背中に衝撃。なにが起こったのかわからないまま轟音とともに崩れ落ちた月見は、やがて己が本の山の中に埋もれていることを知った。……どうやら、吹き飛んで本棚に突っ込んでしまったらしい。

 顔面に乗っかっていた絵本をどかす。……CINDERELLA。こんな絵本も幻想入りしてるんだなと思いながら、月見は本の中から体を起こした。

 未だ高く上がる火柱の傍で、フランがぴょんぴょん飛び跳ねてはしゃいでいた。

 

「あっははははは! わあい、当たった当たった!」

「ッハハハ、当たっちゃったなあ」

 

 月見は苦笑しながら思う。強いな、と。鬼を肩を並べる妖怪の最強種、吸血鬼。彼女の齢は知れないが、もはや大妖怪と比べても遜色ないほどの強さであった。

 後手に回っては押し切られる。生き残るためには、こちらからも攻めなければ。

 月見は立ち上がりつつ、袖から札の束を抜いた。百以上になるかというそれは、“剣”と銘を刻まれた紙片たち。宙に放ればまるで意思を持っているかのように飛び回り、蝟集し、月見の眼前で一つの物体を作り上げた。

 紙の、剣。

 

「……即席だから、性能は落ちるけど」

 

 丸腰でレーヴァテインを止めることはできない。……この剣で止められるかどうかもわからないが、ないよりはマシだ。

 フランが、くすくす笑って首を傾げた。

 

「なあにそれ。紙工作?」

「まあ、そんなところだ」

 

 けれども、もちろんただの紙工作とは違う。妖力を込めて硬化させ、真剣には及ばないまでも、それに近い切れ味で振るうことができる剣。即席の武器としては充分過ぎる代物だ。

 

「そんなの、燃やしちゃうよ!」

 

 炎剣振り上げ、フランが駆ける。対し、月見は回避を選ばなかった。煌々燃える彼女の炎を、右腕の剣一本で迎え撃つ。

 紙の剣は、焼き切られない。金属同士が衝突する高い衝撃音を響かせ、確かにレーヴァテインを受け止めた。

 

「嘘っ……」

 

 まさか止められるとは思っていなかったのだろう。フランの表情が驚愕で染まり、両腕から微かに力が抜けた。

 月見はその隙を逃さず剣を大きく振るい、レーヴァテインを押し返した。豪炎に包まれたその刃だ、至近距離で受け止めれば当然熱く、鍔迫り合いなどできたものではない。

 

「――熱い!」

「うわっ!」

 

 こういう時に、体重差というものは大きく影響を及ぼす。最初に蹴りを叩き込んだ時もそうだったが、月見よりもずっとずっと小さいフランの体は、月見がやや力を込めるだけで簡単に押し飛ばすことができた。

 フランの体が背後へたたらを踏む間に、月見は横目で剣の刀身を見遣る。刃の一部が焼け焦げ、崩れてしまっていた。……やはり、そう何度も受け止めるのは難しいようだ。

 ならば、刃がダメになってしまうその前に。

 

「っ!」

 

 駆ける。今度は、こちらから攻める番だ。

 体勢を立て直したフランが、慌てた動きでレーヴァテインを持ち上げた。月見の剣を受け止めるつもりなのだろう――だが、甘い。

 それが月見の狙い。月見はフランではなく、始めからレーヴァテインを狙った。ただ力任せに刃を振るって、フランの炎剣を真上に弾き飛ばした。

 

「きゃ!?」

 

 耳を突き刺すような衝撃音。レーヴァテインは一瞬も耐えられずフランの両手からすっぽ抜けて、そのまま天井に突き刺さった。

 

「あっ、」

 

 武器を失ったフランが、呆然としたように動きを止めた。いきなりレーヴァテインが手元から消えたせいで、上手く状況が飲み込めなかったのだろう。ぽかんと見開かれたその双眸に対し、月見は微笑んだ。

 

「……ちょっと痛いけど、我慢してくれ」

 

 銀の尾の先に火種を灯し――振るう。

 狐火。放たれた火種は瞬く間に豪炎へと姿を変え、フランの小さな体を一息で呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――刹那であった。

 

「禁弾・『カタディオプトリック』!!」

 

 鐘のように高く鳴り響く声音が、狐火を鮮やかに薙ぎ払った。

 転瞬、視界を埋め尽くす白の弾幕に、月見の体は反応できない。

 

「――ッ!?」

 

 頭がなにかを考えるよりも先に、直撃していた。弾き飛ばされ、背中から床に落ちる。

 けれども、今日だけで三度も打ち飛ばされてさすがに慣れたのだろうか。脳と視界が揺れる中であっても、体は本能的に動いてくれた。床を転がってまた背を打つまでの僅かな時間で体を回し、両足で強く床を叩いて立ち上がる。

 胸に弾幕が直撃した痛みを感じながら、月見は顔をしかめた。

 

(無茶をする……!)

 

 月見の意表を完全に突き切ったその攻撃は、果たして狙ってやったものなのか、それとも反射的なものなのか。だが炎に焼かれながらスペルカードの宣言をするなど、どだい正気でなせる技ではない。これも、彼女を蝕む狂気故か。

 

「禁忌・『フォーオブアカインド』!」

 

 狂気の衝動は止まらない。残り火の中で更なる宣言が響き、直後、揺れる赤を斬り払って四つの影が飛び出した。

 

「!」

 

 月見は瞠目した。それは弾幕ではなかった。飛び出した四つの影は、四人のフランドール・スカーレット。服の所々が焼け落ち、肌には火傷も負い――それでも月見を捉える八つの瞳が、豪火に劣らぬ狂気の炎を揺らす。

 

「あははははは、痛い痛い!」

「焼かれちゃった、傷モノにされちゃった!」

「月見、強いね! 強い強い!」

「それじゃあ私も、ちょっと本気!」

 

 四者、叫ぶ宣言は等しく。

 

「「「「――禁忌・『レーヴァテイン』!!」」」」

 

 等しくその手に、炎を宿す。

 

(いやいや、冗談だろう……!?)

 

 月見は戦慄した。たった一本受け止めるのも精一杯だった炎剣が、四倍の数量、そして四倍の規模で暴れ回る炎を従えて襲い来る。受け止めるなんてできるはずもない。できる限り遠くに、遠くにと、月見は全力で真横へと跳んだ。

 

 直後。叩き込まれた四つの火柱は、今度こそ本当に爆発を起こした。

 

「く、あっ……!」

 

 躱したはずなのに、まるで直撃したかのような衝撃が月見の体を打つ。黒煙に巻かれ、何度も何度も床を転がって、ようやくその動きが止まった時には――既に頭上で、二つの殺気が鎌首をもたげている。

 

「ッ……!」

 

 どうやらフランは、月見を休ませるつもりなど毛頭ないらしい。咄嗟に体を起こせば、眼前、二人のフランはとうにレーヴァテインを振り下ろしていた。

 上手い攻めだと唇を噛みながら、月見は即座に思考した。ここで左右、或いは後ろに跳んでもまた同じことを繰り返すだけだ。ならば突破口は――前。

 

「――!」

 

 紙の剣をその場に捨て置き、レーヴァテインが月見の体を切り裂くよりも、もっと速く。

 月見は二人のフランの懐に飛び込んで、勢いそのままに彼女らに体当たりを叩き込む。そして宙に投げ出された二つの体を、自らの体重もプラスして、力任せで床に叩きつけた。

 

「「あっ……!」」

 

 二人のフランが苦悶で顔を歪めるも、それも一瞬。瞬く間もなく、ポン、と妙に軽い音を立てて、煙となって(くう)に溶けた。

 やはり、分身。

 

「あははははは! 私が二人やられちゃった!」

 

 だが正面、もう一人のフランがレーヴァテインを構えて突っ込んできている。息をついている暇はない。月見は後ろに退がって紙の剣を拾い直し、振り下ろされた炎剣を受け止めた。

 

「月見ったら本当に強いのね! 嬉しくて嬉しくてたまらないわ!」

「お前こそ……ここまで一生懸命になったのも久し振りだよ!」

「――なら、もっともっと一生懸命になって!」

 

 応えたのは、目の前にいるフランではない。彼女の背後。天井高く飛揚したもう一人のフランが、

 

「禁弾・『スターボウブレイク』!」

 

 スペルカードを宣言し、流星のように降り注ぐ七色の弾幕を落とす。躱すには距離が近すぎる。月見は目の前のフランを押し返しすぐに退がろうとするが、お返しだと言わんばかりに、押し返されたフランのスペルカード宣言がそれを制す。

 

「禁忌・『クランベリートラップ』!」

「!」

 

 月見の周囲を光球が回り、そこから中心の月見に向けて新たな弾幕が放たれる。速度は遅いものの、空から降り注ぐ七色の弾幕と相まって、逃げ場が消えた。

 

「くっ……」

 

 月見は歯噛みした。やはり、戦いが長引けば長引くほど追い込まれるばかりだ。剣も、先ほどレーヴァテインを受け止めたことで損壊が広がり、限界が近い。

 だから月見は、再度前へ進むことを選んだ。無数の弾幕が跳梁するそこを、

 

「――狐火!」

 

 炎で一気に焼き払う。そうやって弾幕を相殺し、更に月見は飛んだ。フランがそうしたように、狐火の残火を斬り払い、前へと。

 

「!?」

 

 炎を抜けると、ちょうど目の前に驚愕で凍るフランの相貌が見えた。構わずにその脇腹を蹴り飛ばす。吹き飛んだ彼女の体が、また煙となって溶けていく。

 これも分身。ならば本物のフランは――上。七色の弾幕を撃った方だ。

 

「フラン……!」

 

 もはやフランの出方を窺いなどしない。これで勝負を決めるべきだと、真上で滞空するフランのもとに一直線に飛揚した。

 その時。

 

「あっ――」

 

 その時、不意にフランが小さく体を揺らした。今までの狂気に歪んだ笑みではない、怖がるような、怯えるような、そんな顔で月見を見ていた。

 

「あ――あはははははははは!!」

 

 ほんの一瞬のことだった。月見がそれに気づいて動きを止めた時には、フランは再び狂気の色濃く口端を歪め、力のままにレーヴァテインを振るっていた。月見は息を呑み、己の刃で彼女の炎剣を受け止める。

 刃に大きなひびが入り、衝撃が腕を伝わって骨を軋ませた。その痛みに顔をしかめ、しかし、月見は叫んでいた。

 

「ッ、フラン!」

「あはははははは! な、なあに?」

「お前……」

 

 狂気に精神を支配され哄笑するフラン――その瞳の奥が、悲しそうに、辛そうに、揺れている。

 

「ど、どうしたの? ほら、もっと、もっと戦おうよ!」

 

 言葉で笑うたびに、表情が震える。

 今にも泣き出しそうに、揺れている。

 もうやめてと、叫んでいる。

 

「――……」

 

 ――まさか。

 まさかと、月見は息を呑んだ。

 

 もしかして、もしかしてフランは。

 ただ狂気に精神を蝕まれて、正気を狂わされているのではなく――

 

「ほら……ほらぁ!!」

「っ……!」

 

 すべてを弾き飛ばそうとするように、フランが強く叫んだ。レーヴァテインの炎が勢いを増す。凄まじい力で押し切られそうになる。月見の剣も熱で焼かれ、もうこれ以上持ちこたえられそうにない。

 是非には及ばなかった。ともかく月見は、今はフランを止めなければならないのだ。

 

 だから――迷いを捨てろ。

 

「せっ……!」

「っ!」

 

 レーヴァテインを押し返し、フランの体を押し飛ばし、その剣に炎を宿した。

 片やフランが、スルトルの剣を振るうように。

 片や月見は、火之夜藝――自ら燃える炎の剣を、掲げる。

 

 迷いを捨てろ。振り下ろせ。

 でなければ、自らが殺されるしかないのだから。

 

「炎を刻め、『火之夜藝剣(ひのやぎのつるぎ)』……!」

 

 フランは、立ち上がった鮮紅色に見入るように動きを止めていた。

 そして月見は、刃を振るう覚悟を決めた。

 

 だから――これで終わるはずだったのに。

 

 

 

 

 

 ――助けて

 

 

 

 

 

「――あ、」

 

 炎が焼ける音を通り抜けて、その声が聞こえたから。

 炎が照らす赤に染め上げられて、見えてしまったから。

 

 フラン。

 狂気で歪んだその仮面の奥から、あふれて。

 

 

 落ちる、涙。

 

 

「――QED・『495年の波紋』!!」

 

 

 月見は、動けなかった。

 気づいてしまった事実の片鱗に、指一本動かせなかった。

 

 光り輝く無数の弾幕に呑まれる、その時まで。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 声が聞こえる。

 

「嫌だよ……!」

 

 少女の泣く声が、聞こえる。

 

「こんなこと、したくないよ……!」

 

 恐怖で怯えて、

 

「嫌なのに、こんなことしたくないのに、止まってくれないよぉ……!」

 

 涙で掠れて、

 

「助けてよ……!」

 

 助けを乞うて、揺れる。

 

「助けてよ、月見ぃ……!」

 

 フランの泣く声が、聞こえる。

 

 

 

 

 

「ッ――」

 

 背中から床に叩きつけられ、混濁した意識が戻るまでの、ほんの僅かな時間だ。

 怖くて、悲しくて、助けてほしくて、切々と響くその声を。月見はただ床に倒れたままで、静かに聞いた。

 

 目を開ければ、彼女が見える。

 狂気で濡れた笑顔ではなく。

 涙で濡れた泣き顔だけが、消えゆくレーヴァテインの炎の中で。

 

「――怖いよ! 私の中にいる誰かが囁くの! 全部壊してしまえって! 全部拒絶してしまえって! 殺せって!! 嫌なのに、体が勝手に動くの! 体が勝手に、殺そうとするの!!」

 

 ――ああ、そうだ。

 フランの心は、すべてが狂気に呑まれてしまったわけではなかった。

 狂気で狂わされた心と、それに抵抗する彼女本来の心。

 二つの心が、小さな身体の中に混在していて。

 

「友達ができそうになっても、気がついたら殺しちゃってた! 嫌なのに! 殺したくなんてないのに! 今だってそう! 私は月見とお友達になりたいのに、仲良くしたいのに、そうやって傷つけてる!!」

 

 狂気の心がフランの体を操り、たくさんの命を奪ってきた、その奥で。

 彼女本来の心が、ずっとずっと泣いていたのだ。

 

「私は、バケモノだ……! 私はずっと一人ぼっちで、どうせ誰にも愛されてない……! 美鈴にも、咲夜にも、パチュリーにも! きっと、お姉様にだって!! だから、誰も、助けてなんてくれないんだっ……!!」

 

 この場所に幽閉され、家族から遠ざけられ、そして友達もいなかったから。

 誰にも助けを求められずに、ただずっと。

 

「月見、もう終わらせてよ……! こんなの、もう嫌だよ……っ! こんなに寂しくて、こんなに悲しくて、こんなに怖くて、辛くて、苦しくて痛くて!! こんなの、もうやだよおおおおお!!」

 

 啼泣の声に耳朶を打たれ、月見の体が引き裂かれそうになる。弾幕の痛みだけではない、もっと別の痛みに、心が悲鳴を上げそうになる。

 

「フラン……ッ!」

 

 そう名を呼ぶだけで体が軋んだ。そして、それ以上なにも言えなくなった。

 言葉がない。言うべき言葉が。諦めるな? 狂気に負けるな? 違う、そんなのじゃない。フランが望んでいるのは、そんな無責任で勝手な言葉なんかじゃない。

 いや、そもそも――

 

「助けてよ、お姉様……! 助けてよ、咲夜、美鈴、パチュリー……! 助けてっ……!」

 

 今この場所にいなければならないのは、フランに必要とされているのは、この紅魔館に住む者たちであって。月見はもはや、ただの部外者でしかないのだ。

 血がにじむほどに、強く唇を噛む。

 部外者だからといって、どうして引き下がれる。望まれていないからといって、どうして諦められる。……だが、部外者の自分に一体なにができる?

 たとえ月見がフランにいくら言葉を重ねても、それに意味などなく。

 たとえ月見がこの場を抜け出してレミリアのもとに走ったとしても、きっと彼女は、こちらの声に耳を貸すことすらしないだろう。

 

 一体、私に、なにができる。

 

「う、ああああああああああああああああああああ!!」

 

 考えるのは終わりだと、時間切れだと言うかのように、フランの絶叫が地下室を震わせた。フランは伝う涙をすべて散らして、月見へと己が右手を突き出した。

 

 

 その瞬間、月見の全身を戦慄が襲う。

 

 

(――!?)

「月見っ……!」

 

 

 開かれたその小さな手が、なにもない空間の中で、しかしなにかを握ろうと閉じられていく。

 それに併せて、月見の全身が不快な音を立てて軋んだ。

 

 

(これは……!?)

「お願い、月見っ……!」

 

 

 月見の知らない別次元の力が、体をどんどん圧迫していく。

 まるで、フランの掌が、こちらの体を直接握り潰そうとしているかのような。

 

 

(まさか――!)

「お願いだからっ……!」

 

 

 本能が警鐘を鳴らす。逃げろ、と。このままでは死ぬぞ、と。

 

 けれど――逃げるには既に、遅かった。

 

 

「あ、」

「逃げてえええええええええええええええ!!」

 

 

 

 

 

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 そして、紅魔館全体を覆い尽くしていた、二つの妖気の闘争が終わった。

 それが意味するところはただ一つ。フランと月見の戦いが終わった――すなわち、月見がフランに敗れ、殺されたということだ。

 

 自室から妖気の収束を確認したレミリアは、傍らに咲夜を引き連れて、地下室へ悠然と歩を進めていた。咲夜を同行させるつもりはなかったのだけれど、本人が強くそれを望んだので、仕方なく付き合わせていた。

 

「そんなに結果が気になるの? 言ったでしょう、フランの勝ちよ。運命がそうなっているんだもの」

「いえ……この目で確かめたいと、思いまして」

 

 答える咲夜には、ややの迷いの色がある。

 

「なにか気になることでもあるのかしら」

「……そう、ですね。少し」

 

 はぐらかすような回答を聞いて、レミリアはふっと思い出した。そういえば彼女、月見を連れて客間を出ていったのち、少しばかり戻りが遅かった。もしかしたらその際に、彼との間でなにかがあったのかもしれない。

 

「……」

 

 少し気に掛かったが、追究はしなかった。どの道、彼が死んだ今となっては関係のないことだ。

 それからはどちらとも口を開くことなく、カツ、カツ、静けさの帰った廊下を鳴らして、やがてそびえる鉄扉の前に至る。

 

「……」

 

 この扉を開けてからのことを、レミリアは少し考えた。最近はフランに構ってやることもあまりできていなかったから、目障りな狐を始末してくれてありがとうと、思いっきり褒めてあげよう。そうすればきっと、大喜びして素敵な笑顔を見せてくれるはずだ。そう思い、無骨な鉄の塊を押し開けようとした。

 ふと、気づく。

 

「……?」

 

 鉄扉の足元。淡い光を放って青白く輝く、なにかがあった。屈んで顔を近づけてみれば、どうやら月見草らしい。小さく、けれど凛として、不思議な美しさを放っている。

 ――どうして、こんなところに?

 ここは室内、しかも太陽の光など一瞬たりとも差し込まない地下だ。なのにこんなに綺麗な月見草が咲くなど、ありえるのだろうか。

 

「……おかしいですね。先ほど来た時は、こんなものなかったはずですが」

 

 傍らで、咲夜がそう眉根を寄せた。先ほどとは、月見をこの地下室に案内した時だろう。ということはこの月見草、フランと月見が戦っていたわずか数分の間で咲いたとでもいうのか。

 ……ありえない。一体これはなんだと、レミリアは月見草に手を伸ばした。

 そして、触れた指先が微かに花びらを揺らした瞬間。

 

「あっ……」

 

 触れられれば壊れる呪いでも掛けられていたのか――月見草が、途端に青白い光の粒となって霧散した。レミリアの指をすり抜け、周囲に満ち、あの小ささからは想像もできないほどに甘く香った。

 くらりと来る。

 

「っ……」

 

 果たして月見草は、ここまで強く香るような――いや、それ以前に、光の粒子となって消えるようなものだっただろうか。鼻に残る甘い香りが、どことなく夢を見ているかのようで気持ち悪い。

 

「お嬢様、今のは……?」

「……」

 

 咲夜が胡乱げに尋ねてくるけれど、恐らくレミリアも今はそんな面持ちをしているはずだ。

 

「……まあ、あとでパチェにでも訊いてみましょう」

 

 自然のものでないことは間違いないだろうが、生憎とそのあたりの知識には明るくない。結局、今はどうでもいいことだろうと判断した。わからないことにいつまでも頭を捻るよりも、少しでも早くフランを褒めてやりたいという気持ちが強かった。

 だからレミリアは鉄扉を押し開け、中に体を滑り込ませた。どうだったかしらフラン、新しい玩具の使い心地は。そう、笑顔で、愛する妹に声を掛けてやろうとした。

 

 

 

 だから、フランの体が、月見の“十一本”の尾で斬り刻まれて飛ばされるのを見た時。

 レミリアの世界は、その鼓動を完全に止めていた。

 

 息遣いの消えた世界、視界に認識できるものは、小さなフランの体だけ。

 鮮血を散らして、床を何度も転がって、やがて動かなくなる、その最期まで。

 

 

 

「――え?」

 

 こぼれた声は、果たして誰のものだったか。それを認識できるほど、頭は動いてくれなかった。理解できない。理解したくない。理解してはいけない。それだけの言葉で埋め尽くされて、なにも、わからない。

 

「……ああ、来たのか。レミリア」

 

 あの低く落ち着いたバリトンは、聞こえなかった。

 ぞっとするほどに感情の失せた、冷たい冷たい、無機物のような、

 

「結果なら、見ての通りだ。私が勝ち――」

 

 声が、聞こえる。

 

 

 

 

 

「――彼女は、死んだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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