「……あ、ねえねえ藍、ほら見て。また藤千代たちに巻き込まれて妖怪が吹っ飛んだわよ。わーいみんなゴミのようだー」
「紫様、目が死んでます」
○
「――うーん、なかなか安定しないわねえ。もうちょっとこっち……あっいい感じいい感じ! じゃあはい、椅子持ってきてー」
豊姫の部下ことトンガリ耳玉兎は、時たまに、豊姫様って実はバカなんじゃないかなと思うことがある。もちろん、彼女が非常に学力に秀でた才媛であることは知っている。ただ、ペーパーテストの点数では計れない、人間性とか、常識とかいった部分であまりに天真爛漫、自由奔放が過ぎ、誤解を恐れず言えば変人のように見えるところがある。
変なところで抜けているというか、天然というか。
どこかの本かなにかで、天才と呼ばれる人間には得てして変人が多いという一文を見た覚えがある。今は昔の話だが、月随一の頭脳を持っていた八意永琳なる少女も大概だったという。そして綿月豊姫は、そんな『月の頭脳』の弟子である。だからやっぱりトンガリは、自分たちの上官はちょっと変な少女なのだろうと思うのだ。
この光景を見れば、あまり反論する人もいないのではないか。
地上から遥々乗り込んできた、自分たちが倒すべきであるはずの敵――妖怪を、うきうきとテーブルセッティングしつつ歓迎しようとしているのだから。
「さあっ、どうぞどうぞ座ってくださいな! お茶の用意ができなくてごめんなさいね。でもでもっ、代わりに桃がありますからよければどうぞ!」
「わーいっ!」
豊姫も豊姫なら敵も敵である。豊姫が桃のこんもり載ったカゴをテーブルに置くと、すかさず亡霊の少女が食いついた。なんの遠慮も警戒もなく椅子に腰掛け、身を乗り出し豊姫に負けないくらいうきうきと、
「うわ~、すごく美味しそう! ほらほら、月見さんも座りましょ!」
「ああ」
亡霊に手招きされ、もう一人の敵であるはずの狐も、言動こそ静かだったがやはり遠慮することも疑うこともせず椅子に腰を下ろした。
なんだろう。なんなのだろう。この光景をおかしいと思うトンガリがおかしいのだろうか。なぜ自分の上司は、自分たちが倒すべき敵は、戦をするどころか仲良くお茶会みたいなものを始めようとしているのだろう。なんでいがみ合うところか和気藹々としているのだろう。おかしいのは世界か、それとも自分か。
そんな究極の問い掛けをトンガリが己に課していると、桃をひとつ手に取った豊姫が振り向きざまに、
「あなた、これを剥いて頂戴」
「……あの、豊姫様」
「ねえ、剥いて?」
トンガリは沈黙して言われた通りにした。基本的に玉兎とは、長いものに巻かれてしまう種族である。その事なかれ主義な性格が災いしてか、この世界では割と月人からペット扱いされている。
「……豊姫様、フルーツナイフかなにかは」
「あなたが腰に差してるのがあるじゃない」
豊姫様。これは敵を倒すための武器であって、桃の皮を剥くためのものじゃありません。
とまさか口答えできるはずもなく、トンガリは言われた通りにした。一応剥けたが、月の桃はとても瑞々しいので手がビチョビチョになった。皿の上で適当に八等分する。
「……できましたよ」
「ご苦労様」
豊姫が、八等分された桃に爪楊枝をぷすぷす刺しながら、
「じゃあ私はこの方たちとお話しするから、その間はみんな待機ね」
……はい。
ちょっとげんなりしながら仲間たちのところへ戻る。仲間の一人が、いかにも「災難だったね……」と同情的な顔でタオルを貸してくれた。そんな物を戦場に持ってきてるなんて準備がいいなあと感心しつつ、ありがたく拝借する。
いきなり、
「……ん~っ、おいしーっ! おかわりー!」
は?
手を拭き終わったトンガリが振り返ると、亡霊の少女が落ちそうになったほっぺたを両手で押さえていて、更にはついさっきトンガリが剥いたはずの桃が綺麗さっぱりどこかへ消えてしまっていて、
「……えっと」
豊姫が、今度は桃ひとつではなくカゴを丸ごと持って、ふんわりと微笑んだ。
「あなたたち、これぜんぶ剥いて?」
トンガリのみならず、その場にいた玉兎たちは全員心の底から思ったはずである。
……あれ、私たちってここになにしに来たんだっけ。
十個ほどの桃を仲間と手分けして捌き終え、トンガリたちはやっとの思いで待機に戻る。豊姫の前には、桃を三切れほど乗せた小皿。狐の前には、桃を五切れほど乗せた小皿。そして亡霊の前には、残りの桃をぜんぶ山のように盛った大皿が桁違いの存在感を放って鎮座している。どう見ても一人分の量を超越しているのに、亡霊は怯むどころかますます目を輝かせており、
「いっただきまーっす!」
「幽々子、ゆっくり味わって食べなさい。せっかくみんなが剥いてくれたんだから」
「……むー」
狐の言葉の端からささやかな気遣いの心を感じて、トンガリは彼こそが私たちの味方なのではないかと思った。トンガリたちが桃のお皿を持って行ったときも、彼はさりげなくお礼を言ってくれていた。豊姫も亡霊もなにも言わなかったのに。
豊姫がコホンと咳払いをした。
「……さて。改めまして、綿月豊姫と申します。『月の使者』というものの代表をやっています」
「月見。ただのしがない狐だよ」
「西行寺幽々子と申します~。ただのしがない亡霊です」
嘘つけ。特に亡霊の方。十個近い桃をぜんぶ一人で平らげようとするようなやつが『しがない』なんて、トンガリは絶対に認めない。あんたのせいで私の両手がすごくフルーティーな香りを放っているじゃないか、どうしてくれる。
狐が問う。
「その、『月の使者』というのは?」
「平たくいえば、あなたがたのような月の外からやってきた方たちに対処を行う組織です。必要があれば、今のように武力で月を防衛することもありますし、逆にあなたがたの世界へ赴くこともします」
狐が神妙に頷く。
「なるほど。ということは私が知ってる月人も、その『月の使者』とやらだったのかな」
「そう、そのお話を詳しく聞かせていただきたいのです」
豊姫が目の色を変えて狐を見返した。それを尻目にしつつ、亡霊が五切れほどの桃を一気に口へ放り込む。トンガリはもはや見なかったことにする。
「あなたは、八意永琳様を知っているのですね?」
「ああ。もう随分と前のことだけど、輝夜が『蓬莱の薬』とやらを飲んだ罰でこっちにいた時期があったろう」
豊姫は首肯。
「そのときに、まあひょんなことから輝夜と親しくなってね。その縁で、月から迎えが来た夜に永琳とも出会ったんだ」
トンガリがまだ生まれてもいなかった頃の話だ。だが歴史に大きく名を刻まれた事件なので、ある程度の概略は聞き及んでいる。刑期を終えた蓬莱山輝夜を連れ戻すため、八意永琳を筆頭に月の使者が地上へ向かったが、誰一人として生きて帰ってこなかったと。
そしてそれは、八意永琳の叛逆であったのだと。
「そうですか……。しかし当時、輝夜様は人間たちの都で生活をしていたはずですが。なぜ妖怪のあなたと?」
「私も同じ場所で暮らしていたからさ。……もちろん、人間としてね」
狐が尻尾をくるりと動かした。豊姫は束の間ぽかんと目を丸くしたが、ほどなくしてからふっと笑った。狐の言葉を、心のどこかで喜んだような。そんな笑顔だった。
トンガリの場合はもう少し時間が掛かった。狐は変化の術を得意とする妖怪のはずだから、人間に化け、人間に紛れて生活していたということだろうか。
「なんだか納得しました。……やはりあなたは、向こうで暴れている妖怪たちとは随分と違うみたいですね」
それはトンガリもなんとなく感じる。上手く言葉にできないが、怖くない。妖怪と話をしているという感じがしない。ともすれば、豊姫の同じ人間のような。
狐が喉の奥で笑う。
「それを言ったらお前こそ、私の知ってる月人とはだいぶ違うね。私の知ってる月人だったら……」
指で銃の形をつくり、それを豊姫へ向けて、
「私たちを見つけた時点で、容赦なく攻撃してきたと思うけど」
「……」
豊姫は答えず、なにかをこらえるように目線を下げた。
「……あなたは、八意様と出会ったときに、随伴していた月の民とも?」
「会っているよ。歓迎はされなかったけどね」
「そんな生易しい話じゃなかったって聞いてますけど」
亡霊が、桃を頬張りながら不機嫌な顔をした。
「殺されかけたんでしょう、月見さん? あのときは本当に怖かったって、紫が言ってましたわ」
それだけで豊姫は、過去月の民と狐の間になにがあったのか察したのだろう。眉を歪め、唇を噛み、その場で深く頭を下げた。
「……それは、本当に申し訳ありませんでした。私などの言葉ではまるで足りないでしょうが、謝罪させてください」
少なくともトンガリの目には、嘘偽りのない誠意の謝罪に見えた。
「いや……」
まさかこんな風に謝られるとは思っていなかったのだろう。狐は表面こそ平常のままだったが、内心は相当面食らったらしく二の句を失っていた。とっさになにかを言おうとして、口を噤み少しの間沈黙する。緩く息をつき、腹を括るような間をひとつ置いて、彼もまた静かに頭を下げる。
「……謝罪が必要なのは私の方だ。私はあのとき――月人を、殺めた」
直立不動を保っていた仲間たちが、ピクリと体だけで反応した。トンガリも、指くらいは震えたかもしれない。
思わず顔を上げた豊姫が問う、
「あなたが? ……八意様ではなく?」
「ああ。私だ」
横から亡霊が、あいもかわらず不機嫌そうに口を挟む。
「それは仕方ないと思いますけど。だってそうしないと、殺されていたのは月見さんの方だったんでしょう?」
「幽々子、少し黙っていてくれ」
狐にピシャリと言われ、肩を竦めた亡霊は八つ当たりするように三切れの桃を口へ放り込んだ。……ああ、気がつけばもう四分の一くらいが消化されてしまっている。このままのペースで亡霊が桃を食べ続ければ、数分もせずうちに間違いなくまたおかわり確定だ。トンガリの両手が、ますますフルーティーな香りを放つことになってしまう。
沈黙は、数十秒は続いたと思う。
「……私たち月の民は」
考えをまとめきらないまま喋り出したような、たどたどしい口振りだった。
「当時はまだ、あなたがた地上の住人に対して排他的な思考しか持ち合わせていませんでした。皆が皆そうだったわけではないのですが、少なくともこの国を動かしている上層部はそうだった。輝夜様を連れ戻す際も――」
一度言葉を切り、迷いながら、
「――地上の人間はいくら殺めようとも問題にしないと。そういう命令が下っていたと聞いています」
いつの間にか、亡霊の少女が桃を頬張る手を止めている。今までのぽやぽや顔が嘘のようだ。研ぎ澄まされた刃物めいた、細く、容赦のない瞳で豊姫の顔面を射抜いている。いつどんなことが起こっても対応できるよう、トンガリは腰に
「ですがっ、」
豊姫は語気を強め、
「ですが、それは少しずつ変わりつつあります。地上の生き物たちを、穢れを媒介する敵としか見ない考え方は、次第に古いものと廃れつつあります。私たちが忌避すべきは穢れそのものであり、決してあなたがた地上の生命ではないと」
目を伏せ、
「みんな、恐れているだけなんです。穢れのない世界で暮らしているが故に、いざ穢れを受けたとき自分がどうなってしまうかわからないから。寿命をもたらすといっても数年でどうこうという話ではないですし、然るべき手順で祓い清めることもできます。最近の研究でそこまで証明されているのに、彼らは耳を貸そうとしない。『今までがずっとそうだったから』と、楽な方へ逃げて、自分たちが信じてきたものに縋りついて、変わることを恐れている。彼らの目には過去しか映っていないのです。今までがずっとそうだったから、今更地上の生命に心を許すわけにはいかないなんて……まるで子どもの意地悪ではないですか。月の民は技術による豊かさを得た代わりに、心の豊かさを失っているのです」
八意様の影響なんだろうなと、トンガリは思う。豊姫の教育係であった八意永琳は、当時の月の民としては相当珍しく、地上の生命に一切のマイナス感情を持っていなかったと聞いている。元々地上で生活していた最古の月の民だというから、生まれ故郷にはいろいろと思い入れがあったのかもしれない。もしくは単に、月の民史上最高の天才にとっては、月の生命も地上の生命も区別に値するものではなかったのかもしれない。ともかくそんな彼女から様々な話を聞かされた影響で、豊姫にとっても地上とは忌避するものではなく、純粋な興味の対象であった。
永琳から「この世界を頼む」と託されてさえいなければ、とっくの昔に師を追って地上へ下っていたはずだ。
豊姫の思想が正しいのかどうか、肯定されるべきものであるのかどうか、学の浅いトンガリにはいかんせん判断しがたい。ただ間違いなくいえるのは、思想によって世界を変えるのは、技術によって世界を変えるより何千倍も難しいということである。古から連綿と続く由緒ある思想を打ち砕く行為は、とにかく周りに敵を作る。お偉方の中には豊姫の存在を煙たがっている者も少なくないし、明確に批判の声こそ上げないものの、触らぬ神に祟りなしと沈黙を貫いている者はもっと多い。
白状すれば、トンガリもどちらかといえば沈黙派だ。豊姫は心の豊かさがどうこうと言うが、トンガリとしてはそんなものなどどうでもよくて、大事なのは、ここが平和で不自由のない楽園ということである。だったら変に地上の連中へちょっかいを出したりせずとも、今までのまま平和に暮らしてゆけばよいではないか。楽園の生活に満たされている者は、外の世界になど興味のかけらもないのだ。
だが、
「……ごめんなさい。こんなの、だからどうしたって話ですよね。まるで言い訳をしてるみたい」
「――そうでもないさ」
まるで雲間から差し込む日差しのように、狐が笑んだ。
「ありがとう。この世界に来てよかったよ。お前のような月人と出会えたんだから」
「……っ」
豊姫の目元がくしゃりと歪んだ。ひょっとすると、見間違いだったのかもしれない――思わずそう考えてしまうほど一瞬の出来事で、トンガリがゆっくりとまばたきをし終えた頃には、豊姫もまた狐と同じくして相好を崩していた。
「……あなたのような方が、徒に月の民を殺めたとは思えません。八意様と輝夜様を、守ってくださったんですよね? 地上で生きていくと決めた二人の願いを、叶えるために」
「……それこそ、だからどうしたという話じゃないかい。私が月人を殺めたことに変わりはないよ」
「そうかもしれません。……ですがそれでも、私にあなたを責めることはできません。仮に私があなたの立場だったら、きっとあなたと同じで、八意様たちの味方をしたと思いますから」
トンガリは、とりあえず今の言葉は忘れておこうと思った。極端な言い方をすれば今の豊姫は、妖怪を肯定し月の民を否定したのも同じだ。トンガリたち玉兎は面倒に巻き込まれたくないので聞き流すけれど、お偉方に知られでもしたら大目玉だろう。もっとも豊姫なら、毅然と反論して逆に言い負かしてしまいそうだが。
「……私も、あなたと出会えてよかったです。あなたのような妖怪もいるのですね」
「どの世界にも、変わり者はいるということだね」
「ふふ……そうかもしれませんね」
月の民が地上と友誼を結ぶべきなのかどうか、トンガリにはわからない。ただ、必要のないことだとは思う。わざわざそんなことをせずとも月の民はこれからも平和だし、これからも繁栄の一途を辿っていくだろう。
けれど、
「月見さん。よろしければ、輝夜様のこと、地上のこと……いろいろ聞かせてくださいませんか?」
「喜んで。私も、月についていろいろ教えてもらえると嬉しいよ」
「ええ、喜んで」
豊姫も狐も、ここが戦場だということをつい忘れてしまうくらいに穏やかな表情をしている。ともすれば、こっちまでつられて頬が緩んでしまいそうになる。あんなにも安らいだ顔をした豊姫を、トンガリは随分と久しい間見ていなかった気がする。
お互いがこんな風に笑えるのなら、まあ、地上を知るのもあながち悪いことではないのかもしれないと――そう、トンガリは思った。
「あのー」
そのとき、やおら手を挙げた亡霊が曰く、
「桃がそろそろなくなっちゃいそうなので、またおかわりいただけると嬉しいんですけど~」
ちょっと待て。
見れば、亡霊の大皿にこんもり載っていたはずの桃がもう残り数切れになっていた。バカな、いくらなんでも早すぎる。トンガリが豊姫と狐のやりとりで気を取られる間に、この亡霊はどれほど馬鹿げた速度で桃を食っていたというのか。トンガリは大口を開けて愕然とした。そしてそんなトンガリが馬鹿であるかのように、豊姫はつくりのいい指先を口元までやって、くすりと呑気に微笑むのだった。
「あら……ふふ、随分と気に入っていただけたんですね?」
「ええっ、もうすごおっく美味しくてっ」
豊姫様、笑っている場合じゃないです、そこはなんとしても疑問に思ってください。この月の世界のどこに、桃を十個近く一瞬で平らげてなおおかわりがほしいなどと抜かす図々しい大食いがいますか。
トンガリの心の叫びは、もちろん誰にもまったく届くことなく、
「いくらでも余ってますので、好きなだけ食べていいですよ。一度都に戻って取ってきますね。他にも見ていただきたいものがたくさんあるんです」
「わーい!」
「じゃああなたたち、」
豊姫はトンガリたち玉兎を見回し、
「えっと、右から五人、私についてきて」
もちろん、トンガリも入っている。
トンガリは心の中でげんなりとため息をつき、同じく指名された他四名とアイコンタクトで慰め合いながら、頭の片隅にメモを取った。
――果物ナイフとおしぼりは、必ず持ってくること。
両手の桃の香りが、あいもかわらずフルーティーである。
○
「……あ、犬走殿。お帰りなさい」
「ただいま戻りました、藍殿。無事に見つかりましたよ」
「――しくしくしく、儂も暴れたかったよぅ……しくしく……」
「あはは……あいかわらずなようで、お疲れ様です」
「――ふふふっすごーい、藤千代とあの月人のせいで月の大地がボッコボコー。地上から見たらやっぱりボッコボコに見えるのかしらーアハハハハハ」
「……そちらも、なにやら大変なことになっているようで」
「ええ……まあ」
「「……」」
「「……お互い、苦労しますねえ」」
「しくしくしくしく……」
「あはははははははは」
○
久し振りだった。
本当に、久し振りだった。正真正銘の真剣勝負で、自分が後手に回るなど。
まだ剣を握り始めて間もなかった、できたてほやほやの半人前だった頃以来だ。そして、一人前の剣士となってからは紛れもなくはじめてでもあった。磨きあげてきた太刀筋が歯がゆいほど届かず、神々の御力が笑えるほど通用せず、時が進めば進むにつれて依姫だけが追いつめられていく。いつまで経っても少女には傷ひとつつけられず、逆に自分でも不思議なほどあっさりと一撃をもらい、依姫の体に鈍い痛みだけが蓄積されていく。
藤千代と名乗った鬼の少女が、そこらの雑魚とは比べ物にならない、桁外れに強大な妖怪であることはひと目見た時点でわかっていた。だが、実際に戦ってみてわかった。ゼロがひとつ多いなんて次元ではない。三つか、四つか、それ以上か、ともかく藤千代は依姫の予想よりも遥かに桁を外れて強かった。
このあたりから、依姫はだんだんヤケクソになってくる。
手当たり次第でいろいろな神の御力を試した。一日でここまで多くの神を呼び寄せた日は他にない。この前の稽古で呼んだばかりの神、稽古で使うには強力すぎてここしばらくご無沙汰だった神、いつ以来呼ぶのか思い出せないほど疎遠だった神など、使えそうな力を持つものは思いつく限りで呼びまくった。あらゆる戦法を模索し、ときに真正面から突っ込み、ときに背後から虚を衝き、空を薙ぎ払い、大地を破壊し、あらゆる可能性を懸けて依姫は藤千代に迫ろうとした。
だが、
「――てーいっ」
「ぐうっ……!?」
だがそれでも、この少女はあまりに遠すぎた。
カウンターでもらった拳圧を咄嗟に剣で受けた瞬間、刀身が刹那も耐えられず砕け散り、全身を打つくぐもった衝撃とともに依姫は吹き飛ばされた。笑えるくらいの速度で空を飛んでいる。今の自分の体は、地上から見ればそれこそ流れ星のように見えるはずだ。神懸りとなった依姫の体は、その副次的な効果として身体能力が大きく向上するが、そうでなければなにを考える間もなく地面に着弾し、月面のクレーターをひとつ増やしていたかもしれない。
神懸り故の神懸りな反応で逆転していた天地を修正し、依姫はしかと両脚から着地した。さすが神の御力を宿した体だ、砲弾みたいな速度で着地しても痛くも痒くもない。
ただそれでも、吹っ飛ばされた勢いを完全に止めるには、地上絵を描けそうなほど長い距離を滑らなければならなかったのだけれど。
どうあれ五体満足で事なきを得た依姫は、しかし、その瞬間にその場で脱力し片膝をついた。体にダメージがあるわけではない。精神的な問題である。
「は、は」
ヤバい。
楽しい。
楽しすぎる。
楽しすぎて、気を緩めたら体から力が抜けてしまう。剣を持つ手が震えてしまう。勝手に頬がつり上がってしまう。
戦っている。
いま私は、戦っている。
「――よいしょっと」
そんなかわいらしい掛け声とともに、正面の大地が粉々に弾け飛ぶ。依姫の髪が狂ったようにたなびき、拳大に砕けた石ころが頭上を越えて背後まで転がっていく。
月の表面に新しいクレーターを作り上げ、藤千代が依姫の前に立つ。
依姫は息だけで笑った。なんてことはないただの高速移動も、この鬼がやると途端に兵器をかましたような有様だ。着地と同時に大地を木っ端微塵にするやつなんて、もちろん依姫だってはじめて見た。着地というよりも着弾ではないか。
「いやー、すごいですねー」
そのくせ、見た目だけはなんてことのない童女である。髪や着物の土埃を小さな手でせっせと払いながら、藤千代は戦場にひたすらそぐわないおっとり声で言う。
「今のを喰らっても傷ひとつないなんて……本当に人間ですか?」
依姫も問いたい。お前は本当に妖怪か。妖怪を超越したなにか新しい生命体ではないのか。
「いえ……もう半分以上は神様なんでしょうね。神様の力をそこまで使いこなせる人間なんて、私たちのところにはいないでしょう」
「……それなら、そちらだって」
依姫はゆっくりと立ち上がり、また息だけで笑った。
「あなたほどデタラメな存在など、私たちのところには誓っていません。八百万の神々の御力がまるで通用しないとは」
「いえいえ、これでも結構一生懸命ですよー。ギリギリです」
息ひとつ乱していないくせによく言う。
だが、だからこそ、依姫の体は歓喜で震えるのだ。
「……最強の鬼、ですか。最強の妖怪の間違いでは?」
「んー、どうでしょう。妖怪みんなと戦ったことなんてないですし……それに私、負けたことありますし」
「は、」
ちょっと待て、
「ま、負けた? あなたよりも更に上を行く妖怪が、地上にはいるのですか?」
「あ、でも、私が今よりも弱かった昔の話ですよ」
一気に脱力した。それから、こんなバケモノみたいな妖怪にも弱い頃はあったんだな、と思った。
藤千代が、ほのかに色づいた頬を両手で押さえた。
「でも、たとえまだ弱かった頃の私でも、あの人が全力で打ち破ってくれたのは事実なんです。ボロボロになっても絶対に諦めないで、何度でも立ち上がって、何度でも立ち向かって――そして、私を超えていってくれたんです」
「……そうですか」
そのとき恐らく依姫は、藤千代を羨んだと思う。月最強の剣士とされる自分には、そんな風に立ち向かってきてくれる誰かなんていはしない。そもそもの話、たとえ稽古であっても依姫と闘おうとしてくれる者すらいない。玉兎の戦術指南をする以外は、ただひとり、孤独に剣の素振りを繰り返し、型稽古を積み重ねるばかりの日々。だから依姫は、今回の戦を心の底から楽しみにしていたのだ。
――なお、部下に避けられる最大の理由はその実力ではなく
「……よい人と巡り会えたのですね」
「そりゃあもう。運命の出会いというやつですよ」
藤千代の表情は恍惚としていた。そんな顔をできる藤千代が、やっぱり少し羨ましかった。
「……ちなみにその方、まさか人間ということはないでしょう。この戦には参加しているのですか?」
「してますよー。でも、私たちと違って戦目的じゃないですからね。案外、もうそのへんで月人さんと仲良くなって、いろいろとお話してたりするかもしれませんよ」
「は、はあ……随分と変な、いえ、個性的な方なのですね」
「そこがまた素敵なんですよ」
ということは、ひょっとすると藤千代が言うその妖怪は、依姫の姉と出会っているのかもしれない。戦の混乱に乗じて不審な動きをする妖怪へは、姉の部隊が対処を行う手筈だった。
藤千代の言葉を鵜呑みにするなら、姉は今頃、その妖怪と仲良く世間話を弾ませているのだろうか。姉は依姫以上に地上の妖怪に対して友好的だから、決してありえない話ではないと思う。
もしも本当にそうであれば、きっと姉は喜んでいるだろう。
笑みが浮かんだ。
「……少し興味が湧きました。あなたを倒したら、次はその方を探してみましょうか」
藤千代もまた、笑みで応えた。
「むむっ、させませんよー。月見くん以外の人に負けたら、月見くんが私の特別じゃなくなっちゃいますからね。私はもう誰にも負けないのです」
それが不遜だとは思わない。月最強の剣士すらこうして圧倒してみせるのだ、この戦場で一番強いのは間違いなく彼女だろう。
今は、まだ。
負けるつもりなど毛頭ない。ならば、自分がこの戦で成長すればいい。この戦いの中で、自分が藤千代よりも強くなってしまえばいい。そうすれば勝てる。できなければ負ける。最高のシチュエーションではないか。比類なき強敵を打ち破ってみせてこそ、依姫が剣を振るう理由はある。
勝つために。
「――来られませ、
折れた剣を鞘へ戻し、正面へ一文字の形で突き出す。深く息を吐き、吸う動きに合わせてゆっくりと鞘から引き抜いていく。――金山彦命は、金属を司る鋳造の神である。折れた剣を元通りに再生させる程度、どうということはない。
藤千代と戦いを始めてからというもの、一番多く呼び寄せている神は間違いなく彼だろう。なにせ、藤千代の攻撃を受け止めるたびに剣がへし折れるのだから。殴る蹴るで剣を爪楊枝みたいに粉砕してしまう藤千代は、やはりデタラメなのだと思う。
完全に元の姿を取り戻した相棒を、今一度鞘から抜き放つ。折れては直し、折れてはまた直し――この子には無理をさせてしまっているかもしれない。けれど、もう少しだけ頑張ってほしい。依姫が勝つのか、藤千代が勝つのかはわからないけれど、勝敗は次で必ず決するから。
静かに、腹を括った。
あの神を呼ぼう。
「……今の私に扱える、問答無用で最強の神です。その強大な御力故に体への負担が大きく、長時間は使えません。私の限界まで耐え切れば、あなたの勝ち。そうでなければ私の勝ち――」
一息、
「――よろしいでしょうか」
是の声。
「――ええ、いつでも」
依姫は頷き、地に愛刀を突き刺した。膝を折り、剣を握る拳に額を添え、下ろしたまぶたの闇の中で意識を研ぎ澄ませていく。
祈った。
勝ちたい相手がいます。
負けたくない敵がいます。
だからどうか、貴方様の御力をお貸しください――。
「来られませ――」
この名を呼ぶのは二度目になる。はじめて呼んだのは、八意永琳がまだ依姫の師であった頃。そしてその一度限りで、決して闇雲には呼ばぬ方がいいと、遠回しな使用禁止を言い渡されることとなった神。
其の名は、
「――『
○
自分たちは、一体なんのためにここにいるのだろう。
別に哲学をしようとしているわけではなく、至極真っ当な現状への疑問である。トンガリの認識が正しければ、今日この場所で繰り広げられているのは、地上から攻め込んできた妖怪を撃退するための防衛戦であるはずだ。そして綿月豊姫をリーダーとするトンガリの部隊は、戦の混乱に乗じて妙な真似をする妖怪がいないか監視し、いれば捕えるなり尋問するなりして対処を行うのが役目だった。そしてそしてトンガリたちはその方針に則り、戦場の隅のそのまた隅っこでこそこそ土いじりをしていた狐と亡霊を、見事捕まえたはずだった。
トンガリは己の手元を見る。
なぜかこんな場所に折り畳み式の長机があり、その上には白いまな板が載っている。まな板の上に置かれているのは、都の八百屋あたりで並んでいるなんの変哲もない桃である。自分は右手に果物ナイフを持っていて、左手は桃の瑞々しい果汁で少し濡れてしまっている。まな板の左隣には切った桃を盛りつけた皿があり、右隣ではまだ手をつけていない桃がカゴに入って順番待ちをしている。ここまでを一セットとして、自分の横には更に二セット、同じ状況で黙々とナイフを振るい桃の皮を剥く同僚がいる。
繰り返すが、ここは隅のそのまた隅っことはいえ立派な戦場である。なのになぜ、自分は銃ではなくナイフを握って、敵と戦うのではなく桃の皮剥きをしているのか。
トンガリは前を見る。そこには丸テーブルを囲んで座る三人の人影があり、
「――では月見さんに質問でーっす! 月見さんは紫のことが好き! マルかバツか!」
「……正直言うと、私はあいつのことが嫌」バッチーン、「いった!」
「あーっ、月見さんのウソつきー! ふふふ、やっぱり紫のことは好きなんですのね?」
「昔からの縁だしね。いい友人だよ」
「……ちょ、ちょっと、こここそバチーンと行くところでしょうっ? なんでウンともスンとも言わないんですの!?」
「そりゃあ、嘘をついていないからだね。……じゃあ今度はこっちの番だ。幽々子、お前は桃を食べ過ぎである。マルかバツか」
「むーっ、ひどいですわ月見さん。そんなのバツに決まって」バッチーン、「いたぁい!? 月見さんっ、これ壊れてますわっ」
「壊れてないよ。……しかし本当にすごいなこれ。どんな仕掛けになってるんだろう……」
「そうですよねっ、すごいですよねっ! みんなしょーもない発明だってバカにするんですけど、私はもっと評価されるべきだと思うんです!」
またも繰り返すが、ここは隅のそのまた隅っことはいえ立派な戦場で、自分たちは怪しい敵を捕縛したはずなのである。
なのに、なんで。
なんで自分たちのリーダーは、そんな敵と仲睦まじく嘘発見器で盛り上がっているのだろう。
改めて考えてみると、やっぱり絶対におかしい。
「ところでみんなー、桃はまだ剥き終わらないのー?」
「……ハッ。す、すみません、只今」
豊姫の声で我に返り、トンガリは止まっていた作業の手を再開させた。いや、別に、私たちは戦うためにここにいるのですから敵はみな排除すべきですなどというつもりはないのだ。痛い思いをするのは嫌だし、痛い思いをさせるのも目覚めが悪いから、戦わず済むのであればそれに越したことはない。遠くの戦場でバカスカ暴れている
でもやっぱり、戦場で桃の皮剥きっていうのは、なんというかその。
あんまり深く考えたら、負けなのだろうか。
「これを一人で発明したのなら、永琳は相当すごい人間だったんだろうね」
「長い歴史を持つ月の民でも、最高の頭脳を持つ天才だったとされていますっ。私の師でもありました!」
敬愛する師を知る人物と出会えて、豊姫はもうすっかりハイテンションだった。
「他にもいろいろと面白い発明を残してくださったんですよ! ゆで卵の殻を一瞬で剥く装置とか、折り畳み傘を一発で綺麗に畳んでくれる装置とか!」
断言する、とてもしょうもない。もちろん、ゆで卵の殻を剥くのも折り畳み傘を畳むのも自分でやると面倒だから、そういう意味で便利な発明なのは認める。しかし、かといってすごい発明かといえばそれは違う。一人で月の技術水準を何百年も進めたとさえ言われる永琳の功績を考えれば、やはりそのあたりはしょうもない発明なのだと思う。永琳も、きっと手慰みの暇潰しで適当に作ったのではなかろうか。
「……よくわからないけど、永琳は発明家かなにかだったのか?」
「いえ、一応は医学が専門でした。ですが八意様の比類なき頭脳は、その活躍を医療だけに留めず、あらゆる分野に多大な功績を残したのですっ」
豊姫の師匠自慢にますます拍車が掛かる。綿月豊姫はこうなると途端に面倒くさい。八意様はあれがすごいこれがすごいと話の種は尽きることなく、その勢いたるや、夜通しの休憩なしで喋り倒せるほどである。
自信に満ちた表情で持っていた扇を掲げ、
「中でも一番すごいのは、この扇ですっ。八意様が基礎理論を作りあげたのですが、あらゆるものを素粒子レベルに分解する風を起こすことができるのです!」
「そりゅうし?」
「それって美味しいんですか~?」
亡霊、お前はちょっと食い物から離れろ。
ふふん、と豊姫は得意顔で、
「簡単にいえば、どんなものでも吹き飛ばせるということです。実演してお見せしましょうっ」
トンガリたち桃の皮剥き部隊を見て言う。
「あなたたち、まだやってたの? 早く終わらせて持ってきなさいっ」
「はいはい、いま行きますよー」
だんだん上官への敬語が適当になってきたトンガリである。
桃の皮剥き部隊は、奇しくも三人全員同じタイミングで作業を終えた。片手で持つのが少し辛いくらいの大皿で、瑞々しく輝く桃の切り身がこんもり山を築いている。それが三枚分である。どちらかといえば小食なトンガリなんて見ただけで胃がもたれたが、亡霊の少女はかつてないほどきらきらしてよだれを垂らしそうになっているのだった。もうヤダこの亡霊。
大皿を、豊姫たちが囲んでいる丸テーブルまで運ぶ。小さなテーブルなので、大皿を三枚も並べれば他にはなにも置けなくなってしまった。嘘発見器は、とりあえず地べたにでもよけておく。
量が量なので、甘く芳潤な果実の香りがあっという間に広がった。豊姫が持ってきたフォークで一切れを取って、
「これはフォークといいます。こうやって、爪楊枝みたいに突き刺して物を食べるための道具です。こちらの方が食べ易いと思いますのでどうぞ」
「はーいっ!」
そのフォークを受け取った亡霊が、間髪も容れぬままはむっと頬張ってしまった。マナーも遠慮もあったものではなかったが、しかしこの亡霊、とにかく美味そうに桃を食べる。なんてことはない、どこでも手頃な値段で買えるただの桃なのに、まるで一流のシェフが魂を込めて作りあげたフルコースみたいな扱いだ。だからだろうか、気がついたときには、トンガリはやれやれと観念するような心地で笑っていた。
豊姫も微笑み、そして話を戻した。颯爽と席を立ち、
「――ではこれから、あそこの長机をこの扇で吹き飛ばしまーす」
「ちょっと待たれよ」
普段まず使わない部類の言葉がトンガリの口から出た。豊姫が白々しいほどきょとんと首を傾げ、
「なあに?」
「なあに? じゃないです。なにしてくれようとしちゃってるんですか」
「だって、他にいい感じの的がないもの」
もしもトンガリと豊姫の地位が逆だったなら、平手打ちの一発くらいは飛んでいたはずだ。
「……豊姫様、あれは私たちの部隊の備品なんですから、そんなことしたら始末書」
「それじゃあいっきま~す!」
「こらああああああああ!!」
「わあ~っ」
「拍手するなそこの亡霊いいいっ!!」
「それ~っ!」
「ぬわーっ!?」
豊姫がノリノリで扇を振った。その瞬間豊姫の前方で突風が巻き起こり、黙々と佇んでいた長机を一瞬で塵芥まで分解し、星の煌めきが美しい空の彼方へと葬り去った。
トンガリたち玉兎が二の句を継げなくなっている中、豊姫だけが元気に、
「はいっおしまいです! どうですか、すごい扇でしょうっ?」
「「……」」
「あれっドン引き!?」
狐はもちろん、先ほどまで拍手をしていた亡霊まで完全に腰が引けていた。
狐が
「……なあ、豊姫。今のは、その。『吹き飛ばす』というより、『消し飛ばす』だった気が」
「まあ、そうとも言います」
「あれ、元に戻せるのか?」
「いいえ? 素粒子――要するに、これ以上ないくらい粉々に分解したので。砂を集めて岩にしようとするようなものです」
間。亡霊が、
「……例えばそれを、人に向けたら?」
「当然さっきの長机と同じことになります」
「「……」」
「ドン引きしないでぇっ!?」
この少女、「わあーすごーい!」と拍手喝采されるとでも思っていたのだろうか。もちろんあの扇にはしっかりと安全装置がついているのだが、地上からやってきた狐と亡霊にそこまで想像できるはずもないから、なにかの拍子に自分たちまで消し飛ばされるんじゃないかと気が気ではないはずだ。
実際、あの扇のレベルにもなると道具というよりもはや兵器である。豊姫は口にしなかったが、あれは最大出力で森すらも一瞬で塵芥に変える力を備えている。例えばこの兵器を此度の戦で使えば、ほんの二~三回振るだけでほとんど勝負が決まるはずだ。豊姫はそんな危ないものを常日頃から携帯しているし、結構頻繁になくしている。八意永琳の発明が月の発展に大きな功績を残したのは事実だが、あの扇の基礎理論を作ったのだけは完全に余計だったと思う。そして、そんな危ない理論を豊姫に引き継いだのは完全に失敗だったと思う。
ドン引きされてちょっと恥ずかしい豊姫が、わざと大きめの咳払いをした。
「と、ともかくっ。今の月の技術は、八意様の御力なくしてはありえなかったといっても過言ではありません。本当に素晴らしい御方なんですっ」
「……とりあえず、お前が永琳をとても誇らしく思ってるのはよくわかったよ」
豊姫の顔がぱああっと輝いた。今更言うまでないかもしれないが、綿月豊姫は親バカをもじっていうところの弟子バカである。
「あの、月見さん。月見さんは、このあとお暇ですか?」
「ん? このあとって……」
「この戦が終わったあとです。是非会わせたい人がいるんです! 綿月依姫という、私の妹なんですけど」
トンガリは遠く離れた戦場の中心地へ目を向けた。そういえば、少し前まで光の柱が降り注いだり炎の龍が現れたりしていたのに、いつの間にかすっかり大人しくなっている。依姫の勝負は決着したのだろうか。そうであれば依姫が、恐らく妖怪側で最も強い強敵を撃破したのであり、引いてはこの戦の決着自体が近づきつつあるということになる。
「へえ、妹がいるのかい」
「はいっ。今は向こうの戦場で戦ってます。私たちの間では、最強の剣豪とか言われてて――」
そのとき。
そのときトンガリは、戦場の中心に、音もなく一筋の稲光が落ちるのを見た。
だからどうした、というような話だった。見えたのはほんの一瞬だし、玉兎の放つ光弾と光線が飛び交う戦場である。ただの見間違い、もしくはそういった妖術を使う妖怪がいたのだろうと思い、トンガリはそのまま自分がいま見た光景への興味を失うはずだった。
息が、できなくなった。
言葉で表現するにはあまりに超越的だった。空気が変わったとしか、トンガリの平凡な玉兎の感性では言い表すことができない。今までの戦場とはまったく異なる空気が中心から芽吹き、信じられない速度でトンガリたちの背後へと駆け抜けていった。
ただしそれは、自分たちの立っている世界が変わったのではないかと錯覚するほど、あまりに劇的な変貌である。
肌が痛い。ピリピリする。電流でも流されているみたいに痙攣している。誰かに押されたわけでもないのに体が後ろへ傾いて、トンガリは思わず三歩後ずさった。心臓が早鐘を打ち始める。首全体を
なにかいる。
あの中心に、なにかがいる。
豊姫が、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「この感じ、まさか……っ!?」
通信機を取り出し、ほとんど金切り声のように叫ぶ。
「依姫!? ちょっと依姫っ、あなたまさかあの神を呼んだの!? 依姫っ!? こらぁっ、返事なさいっ!!」
――神?
豊姫の言葉を理解するまで、少し時間が掛かった。トンガリは、戦場を別世界に変えてしまうほどの
格が違う。トンガリが今まで見てきたどの神とも。
天津甕星や火雷神のように、本来戦うためにあるわけではない神々の力を、強引に武器として振るうのではなく。
あれはきっと、正真正銘、戦うためだけに存在する神の力。
今トンガリが感じているのは、絶対的強者に対する本能的な畏怖。
「つ、通じない……! ああ、この御力に晒されて壊れちゃったのかしら……ど、どうしましょう……」
「……一体何事だ?」
すっかり狼狽えておろおろする豊姫を、狐がそっと気遣わしげに見上げた。椅子から腰を上げてこそいないものの、彼の面持ちにも明らかな動揺の色があった。亡霊の少女もまた、不安げに眉を寄せて狐の袖を掴んでいる。彼らも感じているはずだ、戦場を呑み込む桁違いの力の波濤を。
みっともない姿は晒せないと気づいた豊姫が、細く長い息を吐いて、ゆっくりと椅子に腰を戻した。
「……私の妹、依姫は、自分の体へ自由自在に神を降ろし、神懸り状態となってその力を振るうことができます。向こうで光の柱が降り注ぐのや、炎の龍が現れるのをあなたがたも見たと思います。あれはすべて依姫の力です」
「……それはまた。ということは、これも?」
「はい。過去に一度だけ、この神を呼んだことがあります。しかしそのあまりに強大すぎる御力のため、決して呼ばぬ方がいいと、依姫と誓い合った神でもありました」
首を振り、
「それを破って呼んだということは……依姫と戦っている妖怪が、尋常ではないほど強いということになりますが……」
「ああ……一人心当たりがあるよ」
狐が苦笑した。
「本当にバケモノじみて強いやつでね。戦に参加してる妖怪全員よりも、あいつ一人の方が強いだろうってくらい」
「藤千代さんですわね~……」
依姫の呼び出した神がいかに強大で桁外れかは、トンガリだって本能で簡単に理解してしまえるほど明らかである。そこまでしなければ勝てないほど強い妖怪がいるのは驚愕の事実だったが、今はそんなことよりも、
「豊姫様、依姫様はなにを呼んだのですか……? これほどの御力を持つ神とは一体……」
トンガリの問いに、豊姫はすぐには答えなかった。扇を広げて口元を隠し、しばらくの間考えてから、諦めるようにひとつため息をついた。
「――
そう、ぽつりと言った。
「またの名を建布都神。国譲り神話において、数多の
「……」
トンガリはしばし黙考し、
「……えっ。豊姫様、それマズくないですか?」
建御雷神が具体的にどんな御力を持つ神かは知らない。しかし戦場の端まで呑み込む濃厚なプレッシャーからも、豊姫の話からも、今までの神とは格が違うのだけは明らかなわけで、
「みんな、巻き込まれちゃったりするんじゃ……」
「……」
豊姫の視線がつつつっと横に逃げた。パチン、と小気味よく扇をたたみ、彼女は打って変わって朗らかな笑顔を咲かせた。
「さあさあ月見さんっ、今度はそちらのお話も聞かせてくださいっ。輝夜様とはどういったご関係だったんです?」
逃げやがった。
確定である。依姫が建御雷神の御力を振るい戦い始めたら、間違いなく大変なことになる。同じ戦場で戦っている味方も妖怪も、みんな巻き込まれて悲惨なことになる。
「……」
とは、いえ。それでトンガリになにかできることがあるわけではない。助けに行くなんて以ての外だ。そんなことをしようものなら最後、トンガリもまた、悲鳴を上げて逃げ惑う烏合の衆の一匹と化すに違いないから。
豊姫が逃げたのだ。だったらトンガリも逃げたって、なにも、悪いことなどないのである。
そう自分に言い聞かせ、トンガリは祈った。
――みんな、どうか無事で。
俄に痛くなってきた頭を抱えて、トンガリは大きくため息をついたのだった。
もちろん、トンガリは知らない。月の都の医療施設で、
「ちょっと! さっきからみんなして依姫様にやられた依姫様にやられたって、一体なにやってるの!? 妖怪と戦ってるんじゃなかったの!? どういうこと!?」
「「「こっちが訊きたいですっ!!」」」
なんというか、もう、いろいろと手遅れになっていることなど。