銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

81 / 160
第79話 「幻想郷苦労人同盟・夏の陣」

 

 

 

 

 

「それではこれよりぃ、第一回! 月見さんのお悩み相談室を開催しまあーっす!」

 

 成り行きとは時に悩ましい事態を引き起こすものである。今の自分の状況を改めて見直すととりわけそう思う。

 提灯とランタンがもたらす薄ぼんやりとした光の中に月見はいる。周りには竹のコップを片手にエキサイトしている美鈴がおり、わあーとぱちぱち拍手をしている椛と妖夢と鈴仙と小悪魔がおり、酒を傾けながら同情してくれている藍がおり、面白そうな顔で静観している鰻屋台店主がおり、膝の上にはちょこんと大妖精がいる。ある共通点を持って集まった少女たちに囲まれながら、月見はなにやらお悩み相談をさせられるそうである。

 美鈴さえ酔っていなければ、こうはならなかっただろうに。この面子の中で最も勢いよく酒を消化している絶好調な少女は、酔いの勢いも大変絶好調なのだった。赤ら顔で叫ぶ、

 

「じゃあー最初は私がいきまーっす! もぉーきーてくださいよ月見さあん、咲夜さんなんですけどお――」

 

 単純に酔っているからなのか、それとも今ばかりはナイフが飛んでこないとわかっているからなのか、今日の美鈴はやたらと元気でスキンシップが激しい。月見の腕にべったりと体をくっつけて、湿った瞳でメイド少女への愚痴をぶちまける。

 ひゅーひゅーと口笛で茶化す店主の、けれど決して悪気のない楽しそうな笑顔を盗み見ながら、月見は観念するように蒲焼きを頬張った。

 うん、美味い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 このところ月見はときおり、迷いの竹林のイナバたちに拉致されることがある。今日も朝っぱらから拉致された。五匹十匹で押しかけてきて、月見の手を引っ張るわ耳を引っ張るわ、どさくさに紛れて尻尾をもふもふするわと騒ぎ散らすのである。

 一体誰の差し金かなど、言わずもがな。子どもに甘い月見の性格を的確に攻め、見た目幼女なイナバばかりを送ってくるあたりは見事としか言い様がない。

 というわけで太陽も沈んだ頃にようやく輝夜から解放された月見は、一人で屋敷へと戻る空の道を飛んでいた。

 日頃から幻想郷のあちこちを歩き回っている月見だが、永遠亭を訪ねる回数だけは他より目立って少ない。単純に遠いというのもあるし、なにより迷いの竹林が厄介なのだ。道を覚えようと努力してはいるが、今のところ、迷った回数が増える以外のめぼしい成果は上げられていない。

 それを考えれば、輝夜の方から遣いを送ってくる今の状況はむしろありがたいともいえる。これが毎日のように続けばさすがの月見も迷惑がろうが、輝夜もそのあたりは弁えてくれているので、今のところ頻度は『ときおり』である。

 その分、永遠亭では思いっきり構って構ってされるのだけれど。

 まあ、自分が会いに行くことで元気いっぱい笑顔いっぱいになってくれる人がいるというのは、ありがたいことなので。

 月見はこれからも、竹林のイナバたちに拉致され続けるのだろう。

 

 それなりの充実感を覚えながら帰路につく途中で、その屋台を見つけたのはただの偶然だった。ふと魔法の森の方角から漂ってくる美味しそうな匂いを嗅ぎつけなければ――そしてその匂いに腹の虫が刺激されなければ、ふらふらと道草をすることもなかっただろう。

 香霖堂よりも山側へいくらか進んだ、魔法の森の入り口付近だった。

『八目鰻』と書かれた暖簾と提灯を引っ提げ、あたり一帯に官能的な鰻の匂いをばらまく、大変けしからん屋台であった。

 

「へえ……こんな店があったのか」

 

 店の設備一式をリアカーの上に乗っけた、古き佳き屋台である。暖簾の奥では五~六人ほど並べそうな座席が一列で鎮座しているので、人力移動の屋台としてはかなり大きい。人間がこんな場所でこんな屋台を開いているとは思えないから、妖怪が妖怪向けにやっているお店なのだろう。

 まだ店を開けて間もないのか、客の姿が見えなかったので、月見はせっかくだからと暖簾をくぐってみた。

 元気な声が飛んできた。

 

「いらっしゃいませー! ……あ! 誰かと思えば、水月苑の旦那様じゃないですかー」

 

 鳶色の和服をたすき掛けし、頭に藍色の三角巾を乗せた下町風情な女の子だった。鳥の妖怪なのか、背中からふわふわ羽毛の翼を一対伸ばして、同じくふわふわな耳をぴこぴこと動かしている。幻想郷ではさして珍しくもないとはいえ、一人で屋台を営業するにしてはかなり若い子だ。ぱっと見は霊夢や魔理沙と同じくらいで、人懐こい笑顔からはそれ以上の幼さが見て取れる。それでいてこの道を始めて長いのか、月見をあたたかく迎え入れながらも、両手は休むことなくテキパキと仕込みをしている。

 初めて見る顔だった。

 

「どこかで会ったかな」

「あはは、このへんの妖怪で旦那様を知らないやつなんていないですよー。温泉、いつも堪能させてもらってます!」

「なるほどね」

 

 温泉の常連客らしい。人の顔と名前はすぐ覚える方だが、さすがに客を一から十まで覚えてはいないので納得した。

 少女が料理の手を止めて、ぺこりと行儀よく頭を下げた。

 

「ようこそ、私の屋台へー。女将のミスティア・ローレライでーす」

 

 気さくな名乗りに、月見も笑顔で応じた。

 

「月見だよ。よろしく」

「はーい。今日は、私の屋台を見つけてくれてありがとうございますです」

「美味しそうな匂いがしたから、ついね」

「美味しい鰻がありますよー。よかったら、どうぞゆっくりしていってください――と、言いたいところなんですけど」

 

 少女――ミスティアは料理の仕込みを再開しながら、苦笑した。

 

「生憎、今日は貸し切りなんですよー」

「おや、残念。ということは、人気のお店なんだね」

「自分で言うのもなんですが、味には自信がありますよ! 目標は幻想郷で鰻ブームを巻き起こして、焼き鳥を撲滅することです!」

「なるほど。鳥だもんね」

「許されざるってやつです!」

 

 なぜか無性に焼き鳥が食べたくなってきたが――月見は黙っていることにした。

 

「あ、でもでも持ち帰りはできますので! ちょっと待っててください、もうすぐできるのがありますから!」

 

 そういう妖怪なのだから当然といえば当然だが、ミスティアの声音は小鳥が歌うようによく通る。何気ない世間話でも、ただ耳を傾けているだけで自然と心が和らぐ気がする。この屋台が貸し切りされるほど人気なのは、単に料理の味がいいだけではないのだろう。

 調理台に設置された火床の上では、すでに何切れもの八目鰻たちが串焼きされ、香ばしく焼けた衣をまとっていた。赤々と輝く炭火の熱で焼かれ、油が弾ける小気味のよい音と、空腹を刺激する芳醇な香り。

 

「たまらないね」

「ですです! 旦那様も、これを機に鰻の魅力にハマっちゃってください! もう焼き鳥なんか食べちゃダメですよっ!」

 

 ああ、焼き鳥が食べたい。

 蒲焼きができあがるまでの間、席に座って待たせてもらうことにした。匂いで腹が鳴ってしまわないよう辛抱しながら、月見は改めて屋台の中を観察する。

 屋台両脇の提灯に加えて、屋根の下から古ぼけたランタンが等間隔で吊り下げられている。照明としてはやや心許ないが、明るすぎず暗すぎない雰囲気が、かえって夜の屋台によく映えている。もう少しあたりが暗くなれば、闇の中でぼんやりと浮かび上がる店構えは大層幻想的に映るだろう。

 向かって右手の戸板がおしながき。八目鰻に始まり、おでん、お酒、つまみの類など様々なメニューを書いた木版が引っ掛けられている。左手の戸板は酒を置く棚だ。多種多様な酒瓶に交じって竹製のコップが並んでおり、また随分と風情がある。

 そして正面には、鰻の身を返してはタレを塗り、また返しては塗りを繰り返しつつ、鼻歌を口ずさむミスティアの姿。そういえば鰻を焼くのはとても手間が掛かるのだと月見がぼんやり思い出していると、屋台の外から賑やかな話し声が聞こえてきた。

 今日、この屋台を貸し切っているというお客さんたちだったようだ。月見の背中に気づいたらしい一人が、あーっ!? と派手な大声をあげた。

 

「こらーっみすちーっ! 今日は私たちの貸し切りのはずじゃ――あっ、月見さんじゃないですかー!」

「……美鈴?」

 

 暖簾を左右に掻き分け飛び込んできたのは、意外にも紅美鈴であった。いつも健気に門番を務めている少女と、紅魔館の外で出会うのは珍しい。予想外の偶然に月見が目を丸くしていると、続いてわいわい賑やかな少女たちの集団が、

 

「あ、本当だ。月見さん、こんばんはー」

「こんばんはですー」

「おや」

 

 小悪魔に妖夢、

 

「こんばんは。月見様もお夕飯ですか?」

「今日は姫様がお世話になりましたー」

「珍しいですね、月見様がこのような場所に来られるのは」

「おやおや」

 

 更に椛、鈴仙、藍と来て、

 

「……」

「……ふみう?」

「絶対そう呼ぶと思ってましたっ!! もおーっ!!」

 

 最後にふみうこと大妖精が姿を現せば、さすがに疑問が浮かぶ。

 

「……どういう集まりだ、これは?」

「ふふーん、なんだと思います?」

 

 美鈴が不敵な笑みでそう問うてくる。月見はしばらく考えて、

 

「……本当にどういう集まりだ?」

 

 この面子の共通点がわからない。従者の集まり――の割には大妖精がいるし、咲夜の姿もない。案外共通点などなくて、単なる知り合い同士の女子会なのかもしれないが、それにしても大妖精が交じっているのは不思議な感じがする。

 もう少し粘ってみるが、やはりわからなかった。

 

「……降参だ。わからないよ」

 

 月見が両手を上げると、美鈴が元気よく答えた。

 

「正解はですねー、幻想郷苦労人同盟です!」

「……」

「苦労人同盟ですっ!」

 

 ……ああ、なるほど。

 美鈴と小悪魔は、レミリアや咲夜やパチュリー。妖夢は幽々子。椛は操。鈴仙は輝夜と永琳。藍は紫。大妖精はチルノ。

 大変納得した月見であった。

 

「いらっしゃい、みんなー」

 

 ミスティアが蒲焼きに団扇で風を送りながら、にぱっと営業スマイルを咲かせた。

 

「旦那様は、お持ち帰りだから大丈夫だよー」

「あー、そうなんだ。……でも月見さんなら一緒に呑んでもいいですよー! むしろ呑みましょっ! 私、月見さんとお酒呑んだことないですし!」

 

 席に座る月見の首へ、美鈴が後ろから両腕を回してくる。お出かけ前にシャワーでも浴びてきたのか、石鹸のいい香りがする。そのまま人の耳元で、

 

「ねー、一緒に呑みましょーよー」

「今日はやたら元気だね」

「今日という日をずっと楽しみにしてたんで! 今の私はテンション高いですよっ」

「私は構わないけど、他の面子はいいのかい?」

 

 実をいえば月見も、持ち帰りといわずここで一杯引っ掛けたい気分だったので、美鈴の誘いはありがたい。しかしせっかく仲の良い女の子同士の集まりなのに、野郎の月見が交じってしまっては台無しではないのか。

 月見のそんな心配をよそに、周囲の反応は穏やかだった。藍が頷き、

 

「私は、月見様なら拒む理由がないです」

 

 周りもそれを否定しなかった。ただ一人、大妖精だけが胡乱げな半目で、

 

「……いいですけど、月見さん、いじわるしないでくださいよ? ふみうって呼ばないでくださいね?」

 

 美鈴が首を傾げて、

 

「そういえば大妖精ちゃんって、月見さんから『ふみう』って呼ばれてるの? かわいいね。私もふみうちゃんって呼んでも」

「ぜ、ぜぜぜっ絶対にダメですっ!! 月見さん以外の人からそんな風に呼ばれるなんて絶対に嫌ですっ!?」

「へー、月見さんだけが呼んでいい特別なあだ名ってこと? それってひょっとして……」

「言葉の綾ですっ!?」

「じゃあこれからは遠慮なく呼ばせてもらうよ、ふみう」

「ぶん殴りますよ!?」

 

 最近、大妖精の言動がますます過激になってきている気がする。相方を流星ラリアットで一発KOした光景は、まだ月見の記憶に色濃く焼きついている。

 ミスティアがころころと笑った。

 

「あはは、さすが旦那様は人気者ですねー」

「ありがとう。お陰で、退屈しない毎日を過ごさせてもらってるよ」

「もともと退屈はしてなかったですけど、月見さんが来てから更に賑やかになりましたからねー」

 

 美鈴はもうすっかり月見の背中にもたれかかっている。お陰でさっきから妙に柔らかいあれこれが当たっているのだが、テンション高めな彼女のことなので、指摘されたところですかさず「月見さんもそういうの気にするんですねー」とニヤニヤするのが狙いなのかもしれない。なので無視する。

 

「なんか活気が増した気がするよねー。……あ、そろそろ焼けるよー。どうぞみんな、座って座ってっ」

 

 ミスティアに促され、苦労人同盟の面々は席順の話し合いを始めた。やはり美鈴が元気である。――とりあえず月見さんは真ん中でー、はいっ私隣座りますっ! もう一人、隣に座りたい人ー? あれ、いないんですか? ……はい藍さん速かったですねー。

 

「……あー、そうだ」

 

 話がまとまりかけたところで、ミスティアがふとしたように作業の手を止め、腕を組んだ。

 

「ウチの座席って六人掛け――どう詰めても七人が限界なんだった」

 

 美鈴たちがはっとしてお互いを見合わせた。月見を含めると、人数は全部で八人となる。

 間、

 

「……やっぱり私は持ち帰りで」

「いやいやまだわかりませんよ月見さんっ! とりあえず座ってみましょ!」

 

 と美鈴が言ったのでとりあえず座ってみるのだが、やはり店主の言った通り、どう頑張っても一人余ってしまう。仮に全員座れたとしても、ぎゅうぎゅう詰めで食事どころじゃなくなってしまうのは確実だ。

 ここは、誰かが座るのを諦めなければならない。であれば立ち上がるべきは当然、元々ここにはいないはずだった月見だろう。

 

「じゃあ私は立ってるよ。行儀悪いけど」

「えーっ」

 

 美鈴がすぐ唇を尖らせた。

 

「またとない機会だから一緒に座りたいですー。藍さんも一緒がいいですよねー?」

「へっ? ま、まあ、それはそうだけど」

「そうはいってもね」

 

 まさか女の子を一人立たせて、自分が悠々と酒を呑むのも気が引ける。

 ミスティアが言う。

 

「なにか椅子代わりでも用意しますかー? 座り心地は保証できませんけど」

「椅子代わり……そうかっ」

 

 なにかを思いついたらしい美鈴が、輝く瞳で月見を見つめた。

 

「閃きましたっ。私が月見さんの膝の上に座ればいいんです!」

「嫌だよ」

「がーんっ!? そ、即答しないでくださいよお!?」

 

 考えるまでもない。身長の高い美鈴がそんなことをしたら、いくら月見でも前が見えなくなってしまう。そんな有様で、どう食事をし酒を呑めというのか。

 

「お前は背が高すぎるよ。やるなら、そうだね……」

 

 その発言に深い意図があったわけではない。よく月見の膝の上に乗っている子といえばフランや萃香であり、彼女たちといえば人の幼子ほどの身長しかないのであり、この場で同じくらいの子といえば『彼女』だっただけのこと。

 しかしどうあれ、月見は大妖精を指差した。

 大妖精を。

 指差した。

 

「このくらいがちょうどいいかな」

「「「……」」」

 

 

 

 

 

「――ではでは、皆さんお酒は行き渡りましたねー?」

 

 すっかり呑み会幹事を気取っている美鈴に、少女たちがはーいと息を合わせて返事をした。月見もああと簡潔に答える。そして月見の膝の上にちょこんと座った大妖精が、はーい……ととてもか細い声をあげる。はじめは嫌です嫌です恥ずかしいですと渋っていたが、ミスティアの「そうしてくれるとお店としてはありがたいかなーっ」の一言で諦めた、なんともお人好しな大妖精である。

 月見を真ん中にして、右が美鈴、小悪魔、椛。左が藍、妖夢、鈴仙の席順で座っている。もともと六人掛けの座席なのでなかなか窮屈だ。隣同士と肩が触れ合い、左の藍は少し照れくさそうだが、右の美鈴はむしろ月見に腕を絡める勢いではっちゃけている。竹のコップを頭の上まで掲げ、

 

「それでは幻想郷苦労人同盟うぃずゲストの月見さんっ、盛り上がって参りましょーっ! かんぱーっい!!」

「「「かんぱーい!」」」

「か、かんぱーい……」

 

 みんなの元気な乾杯と大妖精の控えめな乾杯で、いよいよ呑み会が始まった。すかさずミスティアが、

 

「はーいっ、それじゃあウチ自慢の八目鰻だよー! 堪能しちゃってーっ!」

「みすちーお酒おかわりっ!」

「はーいめーりん呑むの早いよー。めーりんの一気飲みに気を取られて誰も私の鰻見てくれてないよー。いきなりそんな飛ばして平気なのー?」

 

 美鈴はだらしなく笑う。

 

「えへへー。だってえー、やっとこの季節が来たかーって感じでー」

 

 横から藍が補足してくれた。

 

「もともと月に一度くらいでやっている集まりなんですけど、蒲焼きはちょうど今回からなんです」

「ああ、これからが旬だもんね」

 

『土用丑の日』という有名すぎる謳い文句のせいで鰻=夏のイメージが定着しているが、実のところ旬は秋から冬にかけてなのだ。美鈴に二杯目のお酒を出したミスティアが、うんうんと大きく二度頷いた。

 

「そうなんですっ。なので今でも充分美味しいですけど、これから冬にかけてもっと美味しくなっていきますよ!」

「それは楽しみだね」

 

 皿を手元まで持ってくると、見事としか言い様のない蒲焼きが三切れ乗せられている。絶妙な火加減と秘伝のタレで焼き上げられたその身は、ランタンの明かりの下ではまるで黄金色に輝いているかのようだ。オマケに香ばしく甘い匂いが一気に押し寄せてきて、たまらず、くうと可愛らしくお腹が鳴った。

 大妖精の。

 

「……」

「お、お腹空いてるんですからいいじゃないですかっ」

「自分で食べられるよな?」

「食べられますっ!」

 

 割り箸を二本割り、一膳を大妖精に手渡す。

 

「あ、ありがとうございます……」

「じゃあ、いただこうか」

 

 丸々一切れはやや大きいので、真ん中に箸を通して大妖精とはんぶんこする。大妖精の髪の毛にタレを垂らしてしまわないよう気をつけながら、素早く豪快に頬張る。

 弾けた。

 

「――美味い」

「~~っ! 本当です、すごく美味しいですっ!」

「ありがとうございまーす!」

 

 八目鰻の蒲焼きを食べるのなんて、一体何年振りの話なのだろう。漂う強烈な香りとともに頬張った瞬間、張りのある身が口の中でこれでもかというほど存在を主張し、唾液と混じったタレがさながらあふれでる肉汁のように舌の上で躍る。噛めば噛むほど身とタレが絡み合い、痺れすら生み出す暴力的な旨味となって口の中を蹂躙する。

 さすがは八目鰻――外の世界では幻と化した食材、そんじょそこらの養殖ものとは一味違う。大妖精なんて、あまりの美味しさに足をぱたぱたさせて喜んでいた。他の少女たちも、ほっぺたを押さえて至福で満たされた顔をしている。

 

「やー、みんないい表情ですよー。私、そういう表情見たさでお店やってる部分もあるのでっ」

「これからは、もっとたくさん見られるようになるだろうね」

「旦那様も、ぜひぜひお知り合いを連れていらっしゃってくださいねー!」

 

 今度霖之助と酒を呑むときは、ここにしてみようかなと思う。出不精な彼のことなので、了承してもらえるかはわからないけれど。

 美鈴が叫んだ。

 

「みすちーお酒ーっ!!」

「だから早いって!?」

 

 驚異的なスピードで二杯目をカラにしたハイテンション門番は、もう頬が赤くなり始めていた。

 

「美鈴、いくらなんでも飛ばしすぎだろう」

「えへー。ぶっちゃけ、酔い潰れて月見さんに介抱してもらうのもアリかなって思ってまーす」

 

 月見の右肩にしなだれかかり、

 

「いやー、いま私が月見さんの隣でお酒呑んでるって、咲夜さんは知らないんですよねー。これって優越感ですよねー」

「どうせ知られるんだから、あんまり羽目は外さない方がいいんじゃないか?」

「咲夜さんのナイフが怖くてえー、ツクミン補給ができますかーっ!」

「待て、それどこで知った」

「天魔様がー、この前山で騒いでましたあ。門番なのでえ、結構そういうのは聞こえてくるんですよねー」

 

 アノヤロウ、と月見は思う。

 

「そうだっ、咲夜さんといえば聞いてくださいよー月見さーん。月見さんのお悩み相談室ですよー」

「美鈴、お前絶対もう酔ってるだろう」

「いいですねえ、月見さんのお悩み相談室!」

 

 美鈴は聞いちゃいなかった。明らかに酔っている。決して酒に強い方ではないのだろう、もともとハイテンションだったのが輪をかけていい具合におかしくなってきている。

 門番という役職柄なにかと地味だった少女が、ここまでいきいきとした顔をするものなのか。立ち上がって叫ぶ、

 

「よぉーしみんなー、今日は月見さんに愚痴聞いてもらっちゃおーっ!」

 

 わあーぱちぱち、と盛り上がる屋台。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 話を冒頭へ戻そう。そんなわけで月見は、ハイテンション酔っぱらい門番から絶賛愚痴られ中なのであった。

 

「――というわけでえっ、咲夜さんはもうちょっと手心ってものを知るべきだと思うんですっ! なんかやるとすぐナイフが飛んでくるって、一体全体どういうことですかって話ですよ! ここまで過酷な労働環境他にあります!?」

「……うん、そうだね」

 

 もう、竹のコップで五~六杯はカラにしたはずだ。しかも、運動したあとに水を飲むかの如き勢いで。今はさすがにミスティアからお預けをくらいちびちびと白湯を飲んでいるが、顔はもう頬どころか全体が真っ赤になっている。

 スキンシップも一層過剰になっている。腕に絡みつかれるわ首に息を吹きかけられるわ服を甘噛みされるわ、その上咲夜さんが咲夜さんがと同じ愚痴ばかり二十分以上聞かされている月見は、もはや菩薩の心地である。周囲の少女たちの眼差しもだいぶ同情的だ。膝の上の大妖精なんて、「この人こわい……」とか呟いている。

 月見は横の藍に、

 

「……この子はいつもこんな感じなのかい」

「ええ、まあ、元気にこの集まりを仕切るのはいつものことなのですが……今回はちょっと飛び抜けてますね」

 

 藍は苦笑、

 

「月見様と一緒にお酒を呑めて、よほど嬉しいのでしょう」

「はぁーいっ! 私ぃ、ずっと羨ましかったんですよお。ほら、水月苑の完成記念の宴会だって出られませんでしたしー」

「ああ、確かにいなかったね」

「咲夜さんたちに『お留守番よろしくね』って当たり前みたいに言われてえっ! 私だって参加したかったのにぃー!」

「わかったから落ち着け」

「私はあ、落ち着いてますよぉーっ!」

 

 美鈴が、やや音程の狂った声できゃっきゃと笑った。ここに来て更に酔いが回ってきたようだ。怒ったり笑ったりさめざめ愚痴ったりと表情がころころ変わって、傍目からはもはやラリっているようにも見える。

 そろそろ本気で落ち着かせた方がいいんじゃないかと月見が思っていると、

 

「あの、美鈴さーん」

 

 一番右端に座っていた、椛であった。

 

「なあにー椛ー」

「そろそろ席替えしませんか?」

「えー」

 

 美鈴が渋るが、椛も引かない。

 

「私も、月見様に聞いてほしい悩みがあるんです。月見様のお悩み相談室、なんですよね? 独り占めはズルいと思います」

「むむっ……」

 

 大人しくて礼儀正しい性格の椛にしては、珍しく強引な口振りだった。痛いところを衝かれた美鈴が途端に怯む。『月見さんのお悩み相談室』と勢いだけで宣言してしまった、過去の自分を悔いているようにも見えた。気の抜けた笑みで頭を掻き、

 

「……わかったー。あはは、やっぱり独り占めはダメだよねー。じゃあ今度は椛の番っ」

「はい、ありがとうございます」

 

 美鈴と椛が席を入れ替える。ようやっと一息つけた月見が肩の荷を下ろしていると、隣に座った椛がぽそりと、

 

「これで、月見様も少しは気が休まりますか?」

「……もしかしてお前」

 

 二つ隣の美鈴を気にしながら、椛は申し訳なさそうに、また一方で照れくさそうにしながら、舌の先をちょっぴりだけ覗かせた。

 

「……美鈴さんには、内緒にしてくださいね」

「椛、頭撫でていいか?」

「ダメですよ!?」

 

 冗談だ。しかし、思わずそんな冗談を口にしてしまうほどの感動に駆られたのは事実である。美鈴の爆竹みたいな愚痴で月見が困っていると察するや、自ら席替えを提案して状況の改善を試みる。なんと気遣いのできるいい子なのだろう。

 

「どうか大目に見てあげてください。美鈴さん、本当に苦労してるみたいですから……」

「ああ、わかってるよ」

 

 気持ちが落ち着いたら眠くなってきたのか、美鈴はカウンターに突っ伏して大きなあくびをしていた。小悪魔に優しく背を撫でられながら、そう遠くないうちに夢の世界へ旅立つことだろう。

 普段からたくさん苦労しているのだ、こんなときくらいはいい夢を見てほしいと思う。

 

「助かったよ。ありがとう」

「いえ、お役に立てたのであればよかったです」

「じゃあ、今度はお前の悩みを聞こうか」

「え? ……ああ」

 

 一瞬疑問符を浮かべた椛は、それからくすりと微笑んだ。

 

「大丈夫ですよ、あれはただの方便ですから。月見様も、愚痴はもうお腹いっぱいでしょう?」

「……椛、頭」

「ダメですってば!」

 

 冗談だ。

 

「でも、本当になにもないのか? 苦労してるのはお前も同じだろう、主に操のせいで」

「ええ、まあ、それはそうなんですけどね」

 

 椛は両手で持った竹のコップを一度口へ傾けて、それから、どんな顔をすればいいかわからないのでとりあえず笑ったような、そんな中途半端な笑みを浮かべた。

 

「確かに天魔様にはいろいろ振り回されてますけど、このところ、天魔様をとっ捕まえて折檻するのがちょっと楽しくなってきたというか」

「……」

「何事もないと、それはそれで据わりが悪いんですよね」

 

 月見もどんな顔をすればいいのかわからない。

 椛はあくまで笑顔である。

 

「慣れって怖いですよね。最近は、次はどうやって天魔様を折檻しようかって、そんなことを考える余裕まで出てきてしまって。いつも同じやり方だと、こっちとしても味気ないですし。ある意味ではこれも悩みの種ですね」

「…………、」

 

 ああ、どうやら月見は誤解していたようだ。自由奔放すぎる操に毎日振り回される不憫な子という印象があったのだけれど、椛は月見が思っていたよりもずっとずっと逞しかった。逞しすぎるくらいに成長していたのだ。

 椛に折檻されるのをそれはそれで楽しんでいる操と、操を折檻するのをそれはそれで楽しんでいる椛。これ以上ないWin-Winの関係ではないか。素晴らしい。月見が口出しすることなどなにもない。

 そう思っておくこととする。

 

「……なんか、あんまり心配なさそうだね。頑張ってくれ、これからも」

「はいっ。今後も頑張って折檻していきますのでっ」

 

 そういう意味で言ったのではないのだが、月見はもうなにも言わなかった。ただ笑顔で頷き、そして心の中で操に合掌した。

 椛のひとつ奥を見る。

 

「こぁは? やっぱりなにかと苦労してるのか?」

「え? うーん、どうでしょう」

 

 美鈴はもう眠ってしまったらしい。幸せそうに微睡んでいる彼女の背中を撫でながら、小悪魔は苦笑した。

 

「正直、皆さんと比べてしまうと、苦労してるっては言いづらいですねー」

「そうか? あんなに広い大図書館の整理整頓をしてるんだから、充分大変だと思うけど」

 

 純粋に何万冊あるのか想像もできない量の本を整理するのもそうだし、紅魔館の大図書館は、地下に存在しているため太陽の光が届かない。広大な空間なので閉塞感こそないけれど、そんな場所で来る日も来る日も本の整理整頓ばかりをしていたら、月見なら一週間を待つことなく飽きるだろう。

 どちらかといえば読書好きな月見ですらそう思うのだ。小悪魔の仕事は他の従者たちに負けず劣らず大変だし、それを何食わぬ顔でこなしているのはとてもすごいことだと思う。

 小悪魔は照れくさそうに、

 

「まあ、好きでやってる部分もあるので。それに最近は、妹様の遊び相手をしたりもしてますから。もちろん大変だと思うことはありますけど、それ以上にやり甲斐があるんです。月見さんがいらっしゃるようになってからは、みんないきいきとしてますからね。一緒にいられるのが楽しいんですよ」

 

 この子、本当に悪魔なのだろうか。天使の間違いではないか。心の奥にじんわりと染みていくこの静かな感嘆が、立派な若者に胸を打たれる年寄りの気持ちというものなのかもしれない。

 

「美鈴みたいに、みんなからいじられたりは?」

「あー……たまに、ですね。でもそういうときは、私からもいじり返しますのでおあいこって感じです。月見さんの前では割とおとなしくしてますけど、私、悪魔ですから。そういうのは結構好きなんですよ」

「……そっか」

 

 この子も椛と同じなんだなと、月見は思う。大変なことも多い仕事だけれど、その中で自分なりのやり甲斐と楽しさを見つけて日々を有意義に生きている。だからきっと、今の仕事を辞めたいなんて考えたこともないのだろう。

 こういう子たちのことを、従者の鑑というに違いない。

 月見は下を――鮮やかな緑の髪で覆われたかわいらしいつむじを――見た。

 

「妹様といえば、大妖精」

「はい?」

「フランとチルノは、上手くやってるかい」

 

 フランが大妖精たちと友達になってから、早いもので何週間か経つ。このところ、フランの笑顔は以前にも増していきいきと輝くようになっていた。新しい友達ができて、仲良く遊ぶことができて、毎日が楽しくて楽しくて仕方ないのだそうだ。

 上手くやっているのだろうとは思っている。しかし何分相手があのチルノなので、いろいろ不安といえば不安なのだ。

 大妖精はどことなく疲れた感じで、あははと力なく笑った。

 

「上手く行きすぎてて逆に大変なくらいですよ。チルノちゃん、フランちゃんを子分扱いしてあちこち連れて回ってるんですけど、フランちゃんもそういう風に接してもらえるのが嬉しいみたいで……なんていうか、その、チルノちゃんが二人に増えたみたいというか」

「あっはは、それはまた」

 

 意外に思い、同時に納得もした。フランは長年の幽閉生活で孤独を味わった弊害なのか、常に誰かの後ろをついていこうとする少女だった。誰かと一緒になにかをするのを、この上なく楽しいと感じる少女だった。そんな彼女にとって、みんなの先頭に立って突っ走るチルノの姿はとても眩しく映ったのだろう。

 小悪魔が目を丸くした。

 

「え。妹様、そんなことになってたんですか?」

「フランから聞いてないのか?」

「ええ。仲良くしてもらってるってしか言ってなかったんで、知りませんでした」

 

 だろうなあと月見は思う。「子分扱いしてもらってるの!」と笑顔で報告しようものなら、過保護お姉ちゃんは光の速さでブチ切れて妖精たちに特攻を仕掛けるはずだ。さすがは妹、姉の手綱の締め方をよく理解している。

 大妖精がため息をつき、

 

「吸血鬼を子分扱いする妖精なんて、初めて見ました……。なので、傍で見てるといつもハラハラドキドキで」

「お互い楽しんでるならいいんじゃないかい。……ただ、そうだね、フランに変な影響がなければいいけど」

 

 たとえばチルノと一緒にいたずらを繰り返すことで、人間を平気で困らせるような性格になってしまうとすると考えものだ。なので月見は、大妖精の頭をぽんぽんと叩いて、

 

「二人のこと、よろしく頼むよ」

「は、はいっ。頑張ります! フランちゃんは無理ですけど、チルノちゃんなら力ずくで止められるので!」

 

 そのときはきっと、撲殺妖精大ちゃんの流星ラリアットがチルノの喉笛を刈り取るのだろう。なぜだろう、気絶したチルノの横で、ごめんなさいごめんなさいと大妖精に平謝りするフランの姿が見える気がする。

 ともあれ、次。

 

「藍は……改めて聞くこともないかな」

「そうかもしれませんね。私と紫様の関係は、月見様が一番よくご存知でしょう」

 

 八雲家のストッパーたる藍の冷酷無慈悲なツッコミで、今日も紫は涙目になったはずだ。

 

「もう一周回って、ダメな紫様が可愛く見えてるくらいですので。月見様の心配には及びません」

「それはなんとなくわかるなあ……」

 

 もしも紫が真面目で手間の掛からない少女だったら、正直に言おう、気味が悪い。紫はもちろん悪い意味でダメではあるけれど、同時にいい意味でもダメなのだ。ダメなところがあるからこそ、一層愛らしくて憎めない。そういう意味では月見も藍も、椛と似たような症状を抱えてしまっているのかもしれない。

 次。

 

「妖夢はどうだ?」

「わ、私ですか? そ、そうですね……」

 

 妖夢は少し考えて、

 

「……とりあえず、幽々子様の食い意地ですかね。それに尽きると思います」

 

 ですよねえ、と妖夢と美鈴を除く全員が頷いた。むしろそれ以外になにがあるのか、みたいな空気だった。

 ミスティアが拳を震わせ、

 

「幽々子さん……私を見るたびに『焼き鳥が食べたいわあ』とか言いさえしなければ、いっぱい食べてくれるいいお客さんなんですけどね……!」

「……」

 

 まさか自分も同じことを考えていたとは口が裂けても言えない月見である。

 

「いくら食べても太らない亡霊なのをいいことに、もうほんとに食べてばっかで。話を聞く限り、生前の幽々子様は小食だったみたいなんですけど……」

「どのくらい食べてるんだあいつ」

「ええと……ひどい時は一日に二回……いえ、三回買い出しに行きますね。買ってきた食材がその日のうちになくなってしまって、次の日の朝食分を買いにいかないといけない時がありまして。それと同じ日に運悪くおやつの買い出しが重なると三回です」

 

 冥界から人里までは決して短い道のりではない。それを妖夢のようなまだ幼い少女が、両手いっぱいの荷物を抱えながら頑張って三往復もしている姿を想像すると、月見はなんだか目元が湿っぽくなってきてしまった。

 

「いっぺんでまとめて買えるといいんですけど、私はそんなに力持ちでもないので……」

「妖夢、そういう時は私のところまで来ていいんだぞ。手伝うから」

「い、いえいえそんなっ、月見さんのお手を煩わせるほどでもないですっ!?」

「いや、充分大変だと思うんだが……」

 

 うんうん、とみんな頷いている。

 

「しかも、それ以外にも白玉楼の庭と、私のところの庭まで手入れしてくれてるじゃないか。それでいつ休んでるんだ?」

「え? ちゃんと夜は寝てますけど……」

 

 ものすごく嫌な予感、

 

「……妖夢、記憶を遡って教えてくれ」

「は、はい」

「最後に休暇をもらったのはいつだ。なお休暇とは、白玉楼で普段している仕事を一切することなく、一日丸々自由だった日を指すものとする」

「それは――」

 

 妖夢は少し考え、

 

「えーっと……」

 

 かなり考え、

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいね」

 

 真剣に考え、

 

「……………………ええと、」

 

 一生懸命考えて、

 

「……お、おじいちゃんから庭師の役目を継ぐ前はたくさん」

「みんな、今度妖夢に休暇を取らせようと思う。異論は?」

「「「ないです」」」

「えぇっ!?」

 

 妖夢が目を丸くして驚いているが、驚愕しているのはこちらの方だ。鈴仙が血相を変えて、

 

「え!? じゃ、じゃあ妖夢って、おじいちゃんから庭師を継いでからは一日も休みもらってないの!?」

「……い、いや、多分、どこかで一日くらいは休んでた……ような気が」

「覚えてないんだったらもらってないのと一緒だよ!」

 

 小悪魔が、「美鈴さんですら月に一日はもらってるのに……」と戦慄している。月見は尋ねる。

 

「ちなみに、妖忌から庭師を継いだのっていつ頃なんだ?」

「えっと……もう十年以上前になりますね」

「……、」

 

 十年以上休みなし。外のブラック企業も真っ青である。

 もはや悩む必要もなかった。

 

「よし。じゃあ今度、私が幽々子に交渉してみるから」

「あ、あの……そこまでしていただかなくても私は平気で」

「駄目よっ!」

 

 鈴仙が間髪を容れずに叫んだ。妖夢の両肩を掴み、ある種の気迫すら宿る大真面目な瞳で、

 

「あのね妖夢、大事な話だからよく聞いて。それは、『ワーカホリック』っていう病気なの」

「えっ……そ、そうなの!?」

 

 妖夢が目を剥く。鈴仙は重々しく頷く。

 

「師匠に教わったから間違いないわ。外の世界じゃあ割と有名な病気で、毎年これで亡くなる人は多いそうよ」

「そ、そんなっ……!」

「……」

 

 ツッコんだ方がいいのだろうか。いや、あながち間違ったことは言っていないのだが、ともかく盛大に勘違いした妖夢がぷるぷる涙目になっていて、

 

「わ、私、死んじゃうの?」

「大丈夫よ」

 

 鈴仙が微笑んだ。あらゆる苦しみから衆生を救済する、釈迦の如き微笑みだった。

 

「ワーカホリックの治療法はとっても簡単。仕事ばっかりしないで、ちゃんとしっかり休むこと。これだけよ。簡単でしょ?」

「な、なるほど……!」

 

 妖夢の涙目から悲嘆と絶望が消え去り、徐々に決意と希望の光が広がっていく。両手を拳にして気合を入れて、彼女は勇ましく叫ぶのだった。

 

「わかりました。……私、休みますっ!!」

 

 周りの少女たちから口々に声援が飛ぶ。応援してるよ。きっと大丈夫だよ。困った時はいつでも相談してね。一緒に長生きしようね――みんなのあたたかな心に囲まれて、妖夢は目元からきらりと一筋、流れ星のような涙を流しながら、笑った。

 

「……」

 

 月見は幻想郷のほのかな闇を垣間見た気がして、なにも言えなかった。

 

「……じゃあ、もし休ませてもらえそうになかったら私を呼んでくれ。説得しに行くから」

「はいっ……! そのときはよろしくお願いします!」

 

 ふと、妖夢はどうやって休日を過ごすんだろうと、月見はそんなことを考える。さすが十年以上いっぺんも休んでいない少女だけあって、家事と庭仕事と剣術以外のことをやっている姿がまるで想像できない。

 まあ、彼女にも趣味のひとつやふたつはあるだろうから、やることがなくて結局仕事をしている――なんてことには、まさかならないはずだ。そうだとも、まさかそんな。

 だから、なんとなーく感じるこの嫌な予感は、ただの杞憂に違いないのだ。

 では、最後。

 

「鈴仙は?」

「やー、私は大したことないですよ。ちゃんと休みももらってますし。たまに姫様からわがまま言われたり、師匠の薬の実験台にされたりするくらいで」

「さらっととんでもないこと言わなかったか?」

 

 実験台とか聞こえたような。

 え、そうですか? と鈴仙はあくまで自然体である。

 

「ああ、実験台ってやつですか? 人間用の薬は姫様、妖怪用の薬は私が実験台にされるんですよ。いや、決して変な薬ではないですよ? まれに飲んだ瞬間記憶が飛んで、気がついたら三日くらい経ってて、幻想郷のどこかにひとりで突っ立ってたりする程度なんで」

 

 断言しよう、一番ヤバい。藍が目を剥いて固まり、妖夢が絶句し、椛が途方に暮れ、小悪魔が頬を引きつらせ、大妖精がぷるぷる震えて、ミスティアがなにも聞かなかったふりをして鰻のおかわりを焼いている。

 鈴仙がふっとニヒルに笑う。

 

「医学の分野では、どうしても生物実験は必要なので……」

「……そうか」

 

 月見はそれしか言えなかった。本能が叫んでいる、これ以上この話題を続けてはならないと。鈴仙から視線を外し、手元の竹のコップを見下ろして、ゆっくりと長い息を吐いた。

 

「なんで、幻想郷の偉い連中はこう――」

 

 従者たちに苦労をかけてばかりなのか。部下をきちんと気遣い、労い、信頼と尊敬を集める優れた主人というのは幻想郷では幻想なのだろうか。これでは、いつ夜逃げされたり退職届を叩きつけられたりしてもおかしくないというか、

 

「それで何年も仕え続けてるんだから、やっぱりお前たちはすごいよ」

 

 本当にそう思う。彼女たち優秀な従者がいてくれるからこそ、その主人たちも辛うじてまともなラインで留まっているのだ。従者たちがいなければ、ストッパーを失った紫があちこちで騒ぎを巻き起こし、仕事を放棄した操によって山の経済が滞り、門番のいなくなった紅魔館は妖精の遊び場と化し、大図書館は書物がまったく整理されていない倉庫と成り果て、お腹を空かせた冥界の掃除屋が人里で猛威を振るい、永遠亭では治療と称して患者が新薬の実験台にされるのだろう。幻想郷の平和を支えているのは、妖怪の賢者でも博麗の巫女でもなく、他でもない真面目で優秀な従者たちなのだ。

 

「お疲れ様。そして、ありがとう」

 

 そう言わずにはおれなかった。彼女たちが頑張って主人の世話をしているから、今の幻想郷は平和だし、きっとこれからも平和なはずだ。月見は彼女たちの主人ではないけれど、それでも敬意を表し、感謝を捧げ、褒め称えよう。

 

「あいつらはみんな、いい従者を持ったね」

 

 心の底から、そう思うのだった。

 

「……いやー、」

 

 しばらく沈黙があって、鈴仙が間延びした声をあげた。

 

「こ、このタイミングでそんなこと言われるとは予想外でした……月見さん、不意打ちはダメですよお」

 

 桜色の頬を、照れくさそうに指で掻いている。見れば、藍は縮こまってそわそわしていて、椛は尻尾がぱたぱたしていて、小悪魔は耳がぴこぴこしていて、妖夢は真っ赤になって髪の毛の先をいじくっている。

 褒めすぎただろうか。いや、そんなことはない。月見は大妖精の頭を撫でる。赤子のようにさらさらな髪である。

 

「本心だよ」

「月見さあん! 月見さんのその優しさを、師匠たちに一割でもいいから分けてあげてください!」

「そうすると私の優しさが合計で七割ほど減るけど」

「やっぱりそのままでいいです!」

 

 というか、このくらいは優しさでもなんでもなく、至って真っ当な気遣いの内だろう。事実として彼女たちは、称賛されるべきだけのことをしているのだから。

 

「――づぐみざああああああああんっ!!」

 

 寝ていたはずの美鈴がいきなり飛び起きた。隣の小悪魔が小さく悲鳴をあげ、

 

「め、美鈴さん、寝てたんじゃ!?」

「えぐぅっ……おぼろげながら聞いでおりまじだぁ……!」

 

 美鈴はなかなかひどい顔をしていた。涙をぼろぼろ流しながらぐずっと鼻をすすって、

 

「わだじっ、がんどうじまじだぁ……っ! づぐみざんみだいにいっでぐれるひどなんで、づぐみざんだけでずよぉっ……!」

「とにかく顔を拭け」

「ちり紙ありますよー」

 

 ミスティアが美鈴の目の前にちり紙を置く。美鈴は三枚ほど取って、品もなくずびびびと鼻をかむ。

 大妖精がようやく、

 

「月見さん、頭撫でないでください!?」

「……反応遅かったね」

「そ、それは……月見さんがあまりにさりげなく……というか、なんで撫でるんですかっ」

「お前もチルノとフランの面倒をよく見てくれてるから、えらいぞーと思って」

「そ、そうですか? えへへ――って騙されませんよ!? 撫ーでーなーいーでーくーだーさーいーっ!」

 

 そういう割に、大妖精はあまり抵抗していない。意外と満更でもないのかもしれない。

 鼻をかみ終えた美鈴が、

 

「月見さんっ、もっとお話を聞いてください! そして私の傷ついた心を癒やしてくださいっ! もー月見さんだけが私の心のオアシスですよ!」

「美鈴さん、あんまり月見様を困らせちゃ……」

「いや、いいよ」

 

 椛の言葉を遮って、月見は深く息を吸い、腹を括った。妖夢や鈴仙の話を聞いているうちに、考えが変わった。彼女たちの苦労は月見の想像を超えていた。だから彼女たちの心労を少しでも和らげることができるなら、今日一日愚痴に付き合う程度はなんてことないと思った。

 

「今夜はとことん付き合おうじゃないか」

「さっすが月見さんですっ!」

 

 美鈴が諸手を挙げて喜び、ミスティアが朗々と叫ぶ。

 

「はーいっ、おかわり焼けましたよー! 鰻もお酒もまだまだあるんで、どんどん盛り上がっていきましょーっ!」

「いえーっ!!」

 

 はてさて、今日はいつまで呑み続けるのだろう。魔法の森の近くだけあって周囲はひどく静まり返っているけれど、『八目鰻』の提灯を垂らすこの屋台だけが、まるで縁日のように騒がしい。

 首を回すと、コキコキと小気味の良い音がする。それから、いえーいえーと元気すぎる二人についていけない少女たちと目が合って、くすりと笑う。

 宴はまだ終わらない。

 その後月見はおよそ日付が替わる夜更けまで、従者たちの苦労をいたわり、頑張りをねぎらい、今より少しでも待遇が改善されることを祈りながら過ごした。

 

 ただ、後日聞いた話によれば。

 従者たちはみな、月見と一緒に酒を呑んだなんてズルいと、主人や上司から揃って文句を言われたそうである。

 自分だって、よく水月苑にけしかけて呑んでるくせに。

 まったくもって、是非もなし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。