知らない天井だった。
というのがただの気のせいだと気づくまで、十秒くらい掛かった。
「……ぁー」
目を覚ました志弦は布団の上で大の字になって、知っている、けれど見慣れてはいない天井に向かって間延びした声をあげる。上手く焦点の合わない目を何度かしばたたかせると、段々視界がクリアになっていって、昨日までの記憶も甦ってくる。
幻想郷。
水月苑の客間。
要するに、爆睡であった。
「んぃぃぃ……!」
志弦は手足を思いっきり伸ばして、大の字から『1』の字になる。五秒くらいして、また大の字に戻る。
祖父を亡くして以来で、一番ぐっすり眠った気がする。時間を確かめるまでもなく、体がそう実感していた。もぞもぞと起きあがり、肺の空気をすべて入れ替えるような大欠伸を飛ばす。窓からまばゆい日光が降り注ぎ、外では小鳥がかわいらしい声でさえずっている。呆れるほどの晴天である。
寝惚け眼のまま、呟いた。
「……異世界なんだよなあ、ここ」
自分が自分の家以外の場所で目覚めると、志弦は大抵不思議な感覚を覚える。夢と現の狭間にいるような、自分が見ている世界にいまひとつ現実味がないような。けれど昨日のことはとてもよく覚えているから、志弦が今いる世界は間違いなく現実なのだ。
よくわからないうちに、無縁塚という場所に迷い込んでいて。
妖怪鼠とやらのナズーリンに助けられて。
霖之助や月見や、紫と出会って。
そして、この世界で生きていくと決めたのだ。
「……うし!」
小さく気合いを入れて志弦は立ち上がった。窓から見える外の景色は光で満ちあふれており、どうやら少し朝寝坊のようだ。泊めてもらっている立場として、これ以上惰眠を貪るわけにはいかない。
折りよく、部屋の外から声が聞こえた。
『志弦、起きてるかー?』
「あー、月見さん。おはよー、今起きたとこー」
耳に優しいバリトンの声音を聞くと、志弦の頬も自然と緩んだ。今の自分にはこうやって起こしに来てくれる人がいるんだなと思うと、胸の奥がちょっぴりだけあたたかくなる。
襖の向こうで、月見が苦笑した気配。
『おはよう……と言いたいところだけど、おそよう。ぐっすり眠ってもらえてなによりだよ』
「え」
志弦は窓の外を見る。そこでようやく、朝にしては太陽が随分高いところで輝いていると気づく。
志弦は恐る恐る、
「……あの、月見さん。今、何時?」
『昼前だね。昼食はなにが食べたい?』
「……」
ひく、と口の片端がひきつる感覚、
「……す、すみません、すっかり寝坊しちゃって」
『いいよ、私も起こさなかったんだから。昨日いろいろあって、疲れてるだろうと思ってね』
月見の優しさが、情けないくらい胸に染みる。
「ええと、すみませんすぐ起きます、起きて朝食、じゃない昼食の支度手伝います」
ほとんど半裸みたいな有様になっていた浴衣を急いで手早く整える。皺くちゃの布団を大雑把に直し、小走りで襖の方へ向かう。
その途中でふと、床の間の壁に掛けられた鏡が目に入った。
「……」
イソギンチャクみたいなひどい頭をした、女型のモンスターが映っている。
女子力たったの五か、ゴミめ。
○
神古志弦という少女は、あいつ――神古秀友によく似ている。
ともに時間を過ごせば過ごすだけ、やはり月見はそう思う。お世辞にも寝相がよいとはいえなくて、寝癖がいっそ清々しいくらいにひどいあたりはまさにそうだ。苗字が同じだからそう感じてしまうだけだと言い聞かせてきたけれど、ただの偶然という言葉で片づけるにしては、どうも上手くできすぎてはいないか。
不甲斐ない話、お陰で昨夜はよく眠れなかった。もともと大して眠らなくてよい妖怪でなければ、月見も志弦を笑えないほど朝寝坊をしていたはずだ。
無論、確かめようのないことではある。今から千年以上もの歳月を遡る話なのだから。秀友の血が現代まで生き永らえていて、こうして自分の目の前にやってきたのではないか――そんなものは所詮、決定的な証拠もなにもない、月見の都合のよい希望的観測でしかないのだ。
あまり、本気になって考えない方がよいと思う。考えれば考えるほど、泥沼にはまってしまうだけだろうだから。
月見が思考を打ち切ると、肩のすぐ後ろから志弦の声が聞こえた。
「いやあ、今朝は――じゃない。もう昼なんすよね。ええと、とにかくご迷惑をお掛けしました……」
「だから、起こさなかった私も私だって何度も言ってるだろう? 気にしなくていいよ、ほんとに」
イソギンチャクのような頭になっていた(らしい。見せてもらえなかった)志弦は、水で濡らす程度ではまったくダメだったらしく、結局昼間からひとっ風呂浴びていた。お陰で少し、石鹸のいい香りがする。背中越しに感じる彼女の体温は、月見より若干あたたかい。
「あはは、そう言ってもらえるとありがたいっす……」
首へ回された志弦の両腕に、ぎゅっとしがみつくような力がこもる。
「そ、それでですね」
「うん」
あたたかい体温とは裏腹に、血の気を失ったような声だった。志弦は生唾を呑み込み、意を決して下を見ると、ひいっと小さく悲鳴をあげた。
ぶるりと大きく身震いをし、胸いっぱいに息を吸って、
「――めっちゃ高くて怖いんですけどおおおおおぉぉぉぉぉ!!」
怖いんですけどおおおおおぉぉぉぉぉ……とやまびこが響き渡る。
空である。
地上の木々がミニチュアに見えるほどの空である。
志弦をおんぶし、守矢神社までの山を登る道中である。
志弦が喚く。
「つ、月見さん、お願いだから離さないでよ!? ……いやフリじゃないですからねマジで!?」
「わかってるよ。わかってるから、耳元で騒がないでくれ」
志弦が幻想郷で暮らし始めるにあたって、まず決めなければならないのは生活の場であった。これが決まらないことには外から荷物を持ってきたところで置き場がないし、人里で必要な生活道具を買い揃えることだってできない。なので幻想郷をざっくり案内する意味も込めて、今日は志弦が暮らせそうな場所をいくつか回ってみようという話になっていた。
まあいくつかといっても、守矢神社と人里の二ヶ所くらいだけれど。人間と妖怪がほぼ共生している世界とはいえ、人間の安全が保障されている場所は相当限られている。加えて外来人を受け入れられるほど余裕のある土地となれば、志弦が暮らす場所は人里一択となるはずだった。
守矢神社へ向かっているのは、完全に月見の独断だ。そこで志弦が居候させてもらえるかはまた別として、早苗に会わせておく価値は充分にあると思っている。最近になって外からやってきた人間同士だし、同じ女性で同い年である。幻想入りしたばかりで右も左もわからない志弦にとって、早苗の存在はなにより心の支えとなってくれるだろう。
それにもし守矢神社で居候できるようなら、ついでに修行をつけてもらえるではないかという打算もある。志弦は霊感体質のようだし、そうでなくとも人外が
というわけで昼食を取り次第、志弦をおぶってさっそく空を飛んでいたのだけれど。
「お前、高いところダメなのか? 昨日屋敷まで飛んだときは平気そうにしてたから、大丈夫なものと思ってたけど」
「き、きききっ昨日は夜で、どんくらい高いとこ飛んでるのかよくわかんなかったからっ! それにね月見さんっ、これ高所恐怖症関係なく普通の人なら危険を覚える高さだって!? めっちゃ見晴らしよすぎて怖えええええ!! 命綱もないしいいいいいっ!!」
現在地は、山の中腹を少々越えたあたりだろうか。確かに、ここから見渡す麓の景色は壮大だ。幻想郷の南の端、迷いの竹林までを余すことなく一望できる。
月見は尻尾で麓の方を指差し、
「あそこで白い煙を上げてるのが人里だよ。外来人も含めて、人間たちが集まって生活してる場所だ」
「ひゃっはー月見さん超クールゥー!! 私のSOS信号を受信してくれると嬉しいなーっ!?」
「そうやって、高い場所にいるのを意識しちゃうからダメなんだよ。ほら、上を見てみるといい。お前たち人類が夢にまで見た大空がこんなにも近いじゃないか」
「私は夢見てねーしっ!!」
ゆめみてねーしー!! とやまびこが元気よく叫んだ。生きるか死ぬかの瀬戸際な志弦とはうってかわって、随分と楽しそうな声だった。
「今日のやまびこはまた元気だね」
「やっほおおおおお!! しいいいいいぬうううううううう!!」
恐怖のあまり錯乱し始めた志弦がそんなことを叫ぶ。少し間があって、やはり元気な少女の声が、
『やっほー!! 死んじゃダメだよーっ!! 私がいるよーっ!』
「……はい?」
月見をいよいよ絞め殺そうとしていた志弦の両腕から、唖然としたように力が抜けた。混乱のさなかとはいえさすがに気づいたらしい。
「……え? 月見さん、今のって」
「やまびこだね」
「いやいやほら、やまびこって声が反響するあれでしょ? なのになんで、」
まったく別の言葉が、まったく別の少女の声で返ってくるのか。
「やまびこはただの自然現象であり、同時に妖怪の仕業でもあるのさ」
月見は薄く笑い、山頂に向けて飛ぶスピードを少し落とした。
「二種類のやまびこがいるんだ。ひとつはお前が言う通り、自然現象としてのやまびこ。もうひとつは今みたいな、妖怪としてのやまびこ」
「あー……そういや『山彦』って妖怪いますね。犬みたいな。あれが返事してくれてるってことすか」
「そう」
もっとも随分とかわいらしい声をしていたから、志弦が脳裏に描いている『山彦』とはかけ離れた姿をしているだろうけど。
「意外とノリがいい連中で、さっきみたいにいろんな返事を返してくれるよ。守矢神社までもう少しだし、ちょっと遊んでたらどうだ?」
外の世界はもちろん、やまびこは幻想郷でも忘れられつつある存在だ。昨今は山から「やっほー」と叫ぶ者もめっぽう減ってしまい、活躍の場を失ったやまびこたちは寂しい毎日を過ごしているらしい。そんなところに恐怖でまみれた絶叫とはいえ「やっほー」が飛んできたのだから、それはそれは嬉しかったに違いない。その証拠に、声はもうぴょんぴょん飛び跳ねるかのように元気いっぱいだった。
「ふーん……」
志弦はしばらくの間沈黙して、それから突然にんまりと笑った。秀友がよく、ロクでもないことを思いついたときにやっていた顔だった。
息を吸って、
「ありがとーっ! もう大丈夫ー!」
『――よかったー! 頑張ってねー!』
満足げに頷いた志弦はいきなり、
「……生麦生米生卵っ!」
『――え!?』
一瞬唖然としたやまびこは、すぐに自分の役割を思い出し、
『……な、生麦生米生卵っ!』
これで止まる志弦ではない。
「隣の客はよく柿食う客だっ!」
『――隣の客はよくかきくー客だっ!』
志弦が更に、
「坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いたっ!」
『――坊主が屏風に上手にびょーずの絵を描いたっ! ……あう、』
更に、
「青巻紙赤巻紙黄巻紙っ!」
『――青巻紙赤巻まみ黄まみまみっ! う、うぐぅっ……!!』
「蛙ぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ、合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこぉっ!」
『――か、蛙ぴょこぴょこ三ぴょきょきょこっ、……合わせてぴょこぴょこ六きょぴょぴょきょっ!! う、うううぅぅ~……っ!?』
「この竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから竹立てかけたぁっ!!」
『――……こっ、この竹垣にたてかけかけ』
静かになった。気のせいだろうか、えぐっとべそをかいたような声が聞こえた気がした。
志弦は、会心のいたずらが大成功したガキ大将みたいな顔をしていた。
「……お前、早口言葉上手いね」
「ばっちゃんがめっちゃ上手かったんすよ。ガキの頃にいろいろ教えてもらって、でも全然上手く言えなくて悔しくて、半年くらいは練習したかなー」
ちょうどよい遊び相手を見つけたことで、彼女は空高くにいる恐怖を綺麗さっぱり忘れているようだった。今のうちに上まで行ってしまおうと、月見は飛ぶスピードを元に戻す。
声が返ってくる。
『――つ、次っ! 次は負けないからっ!』
「お、やる気満々だねー。月見さん、なんか早口言葉知ってる?」
「知ってるけど……なんで私に振るんだい」
「やー、私が知ってる早口言葉ってあとは難しいのばっかで。簡単に言えそうでなぜか言えない、くらいのやつ知らないかなーと」
「ふむ……」
月見は軽く咳払いをして、考えた。一見簡単そうに見えて、やってみると意外と上手く行かない早口言葉といえば、
「――東京特許許可局!」
『――東京特許きょきゃ、』
間、
『――東京特許許可きょきゅ!』
また間、
『――と、東京特許きょかきょくっ!! ……や、やったっ、言えたっ』
月見はすかさず、
「東京特許許可局今日急遽特許許可却下!」
『――ええぇっ!? と、東京特許許きゃきょきゅ今日急遽きょっきょ許きゃっ――うわあああああああああんっ!!』
夏の終わりの青空に、少女の大泣き声が響き渡った。あふれる涙を振りまきながらどこかへ走り去っていったような、そんな響き方だった。
志弦がにやにやしていた。
「お主もなかなかやりますなー」
「……それほどでも」
つい勢いで。
そのあとは志弦が何度「やっほー」と言っても、自然現象のやまびこが虚しく反響するだけだった。いじけて帰ってしまったのかもしれない。
「やー、やまびこさんには悪いけど楽しかったあ」
「それはなにより……どれ、こっちもちょうど着いたよ」
月見は眼下を見下ろす。山の山紫水明を切り拓いて、博麗神社よりもひと回り大きく、また綺麗に手入れされた境内が広がっている。石畳を敷いた参道では、早苗が竹ぼうきでせっせと掃き掃除をしていた。見る限り参拝客の姿はない。
つられて下を向いた志弦が、
「――ぎゃあああああ高い怖い死」
「はいはい、今下りるから騒がないで」
「ちょっと待ってもうちょいゆっくり下りて絶叫マシーンじゃないんだからあああああっ!?」
志弦の悲鳴に気づいた早苗が空を見上げて、月見を見つけるなり笑顔で大きく手を振った。
「月見さーんっ!」
月見は境内に降り立って、
「やあ、早苗」
「こんにちはです! はうあっ、今日も素晴らしいお耳と尻尾で……!」
月見と出会ってからというもの、早苗の『趣味』はますます悪化の一途を辿っているそうである。『趣味』とは具体的にいえば、獣耳や尻尾を生やした男女を愛でる趣味である。椛がたびたび被害に遭っている他、この前は藍が人里で、帽子を取ってくださいっお耳を見せてくださいっとしつこくせがまれ苦労したとか。
月見を見つめる早苗の視線が恍惚としているのは、極力意識しないでおく。ハアハアした息遣いなんて絶対に聞こえない。
これさえなければ――これさえなければ、本当に、いい子なのだけれど。
月見は背中から志弦を下ろした。
「立てるかい」
「な、なんとかあ……」
グロッキーな志弦の恰好を見た早苗が、息を呑んで呟いた。
「えっ……高校の、制服……?」
「今、暇か?」
詳しい話は腰を据えて。そんな気持ちを込めて月見は、神奈子が注連縄の手入れをし諏訪子が昼寝をしているであろう母屋の方へ目を向けた。
「ちょっと、話を聞いてほしいことがあってね」
○
守矢神社について、志弦が得た情報を確認しておこう。
去年の秋に、外の世界から敷地丸ごと幻想入りした神社であるという。祭神は八坂神奈子と洩矢諏訪子の二柱で、東風谷早苗という少女が風祝――厳密には違うらしいが要は巫女みたいなもの――を務めて管理している。少女一人で管理できる程度なので決して大きくはなく、町の一角にある素朴な神社といった印象である。しかし諏訪信仰という有名な信仰を司る神社で、その歴史は千年以上を遡り、大変由緒正しいとのこと。
八坂神奈子はこの神社の
洩矢諏訪子はこの神社の本当の祭神で、ランドセルを背負って小学校に通っていそうな少女、いや幼女である。実際、神奈子とはまさに対極な子どもらしい性格をしていて、大好きなものは月見の尻尾。彼女は月見の姿を見るや否や、志弦の存在などまるっきり放置して尻尾に抱きつき、すやすやと夢の世界へと旅立ってしまった。
東風谷早苗は志弦と同い年で、守矢神社の風祝であると同時に、現人神という存在でもある。現人神とは、具体的には天皇など神の血を継いでいるとされる人間のことで、守矢神社を継ぐ者は代々そういう役割なのだとか。志弦が遠い目をしたくなるほどの美少女で、性格はとても元気で明るく、きっと学校に通っていた頃は相当モテただろう。
そして――
「――あ、じゃあウチで暮らす?」
「え?」
恐らくこの少女は、志弦の予想を遥かに上回るお人好しのはずだ。
場所は、守矢神社の母屋へと移っている。テーブル越しで向かい合う志弦と早苗を、月見が少し離れたところから見守ってくれている。彼の隣では神奈子が胡座をかいて座っており、尻尾では諏訪子が引っついてお昼寝をしている。
第一印象で、優しそうな人だとは思っていた。志弦たちを快くこの座敷まで案内し、麦茶の支度をしながら、自己紹介ついでで神社の縁起をざっくりと説明してくれた。そのざっくりとした説明がとても聞きやすく、神社や神道がさっぱりな志弦でもそこそこわかりやすかったから、気配りができるいい人なのだろうと思った。
そして、志弦の自己紹介へとバトンタッチして。
――というわけで私はいわゆる天涯孤独ってやつなので、元の世界に戻っても、まあ、やりたいこととかあんまりないわけなのです。だから、これからはこの幻想郷で暮らしてみようかなとか思ってて、
そこまでだった。「はじめまして、神古志弦です」から始まった志弦の自己紹介がそこまで進んだ瞬間、今まで静かに相槌を打つだけだった早苗がいきなり口を挟んできた。まるでふと思い出したかのように。あまりに唐突すぎて、志弦の目には早苗がよく考えもしない出任せを言ったとすら思えたほどだ。
言葉の意味が理解できるまで、呆れるほど時間が掛かった。
守矢神社を囲む鎮守の森が、さわさわと心地良い音色を奏でている。月見の尻尾を抱き枕にして丸くなった諏訪子が、すひーすひーとかわいらしい寝息を立てている。聞こえる音といえばそれくらいで、志弦はもう一言も喋ることができなくなってしまっている。頭の中で用意していた言葉は見る影もなく木っ端微塵だ。ただただぽかんと固まっていると、早苗が不思議そうに首を傾げた。
「……あれ? そういう話じゃなかった?」
「いや……」
やっとそれだけ言えた。
もちろん、結論をいえばそういう話ではある。同い年で、しかも同じ外からやってきた過去を持つ仲間がいるこの場所で暮らせるのなら、これほど肩の力を抜けるものはない。だがそれは志弦が頼み込むべきだったことであり、向こうから誘ってくるようなものではなかったはずだ。
だから志弦は、この人は底抜けのお人好しなのかもしれないなと思う。たとえ志弦が同い年で、同じ外来人であったとしても、ついさっき出会ったばかりの相手に「ここで暮らさないか」なんて、普通は到底言えたものではない。
頭よりも口を動かす。
「まあ……確かにそういう話ではあるんだけど」
「あ、よかったあ。てっきり、早とちりして変なこと言っちゃったかと」
「ごめん、そっちの方から言われるとは思ってなかったから」
早苗が、少し気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「やはは……幻想郷に外来人は結構いるけど、みんな年上の人たちばかりで、実を言えばちょっと寂しかったの。だから、住む場所に困ってるならどうかなあって思って。私たちくらいの外来人なら、当然向こうでの生活があるから、戻ってっちゃうのが当たり前で……」
あ、と失言に気づいた顔をして、俯く。
「……ごめん。なんていうか、あんまり喜んでいいことじゃないよね。あなたも大変だったのに」
「い、いや、いいよそんなん」
志弦はさばさばと手を振った。確かに裏を返せば、天涯孤独となって幻想入りした志弦の境遇を喜んでいるようにも聞こえるけれど、わざわざそんな受け取り方をするほどひねくれてはいやしない。
苦手な空気になりそうだったので、慌てて話題を進める。
「もちろん、私も……同年代がいる場所で生活できるなら、いいなっては思ってる」
しかし、
「でもさ……ほんとにいいの? なんか昨日から話がトントン拍子で進みすぎて、わたしゃあ逆に不安ですよ」
早苗が苦笑した。
「旨い話には裏がある……って?」
「そーいうつもりはないけど……」
「もちろん、タダ飯を食わすつもりはないよ」
琴を強く弾いたような、張りのある声だった。自己紹介以外は沈黙を貫いていた神奈子が、胡座の膝に頬杖をついていた。
「そうだね……私たちを信仰するってのがひとつと、巫女見習いとして早苗の手伝いをするってのがひとつ。せっかくの若い労働力だから、ここで生活するからには役立ってもらうよ」
「……ちなみに、『信仰する』ってどういう意味っすか? なんか怪しい宗教みたいなのじゃ」
「そんなわけないでしょ。朝は神棚に祈りを捧げるとか、日頃から神様の存在に感謝するとか、そういうのだよ。早苗の手伝いってのは、境内の掃除とか御札作りとか、それ以外の日常的な家事とかもかな。ゆくゆくは、布教活動の方も手伝ってくれるとありがたいけど」
要するに、守矢神社の第二の巫女さんになれ、ということだろうか。自分に巫女服が似合うとはとても思えないけれど、手伝い程度なら、居候する者として当然の責務なので納得した。
「それと、こいつが一番大切だけど――」
神奈子は白い歯を惜しげもなく晒し、それはもう、思わず「姐御ぉ!」と叫びたくなるような爽やかな笑顔を見せた。
「――早苗のよき友となってくれること。それさえできるなら、私はなにも言わないよ」
「姐御ぉ!」
そして志弦は実際に叫んでいた。
「え!? な、なによ突然」
「神奈子さんがイケメンすぎて、わたくしめは心が震えております」
神奈子たち二柱の神と早苗の関係が、神と人間、もしくは祀られる者と祀る者を超えた、家族同然の深い絆であることはすでに説明があった。つまり神奈子は、自分を信仰してもらうよりも神社の手伝いをしてもらうよりも、早苗――家族に新しい友達ができることがなにより大切だと言っているのだ。イケメンすぎる。霊感体質のせいで幼い頃から恵まれなかった志弦は、神様という概念に対して消極的な印象すら抱いていた。それがぜんぶ消し飛んだ。生まれて初めて、神様ってすごいと思った。
「私、神奈子さんなら信仰してもいいです!」
「そ、そう……? ま、まあ、私の神徳がわかってもらえたようでなによりだよ」
褒め言葉に弱いのか、神奈子はちょっと恥ずかしそうだった。それが所謂ギャップ萌えというやつだったから、志弦はつい調子に乗って、
「よろしくお願いしまっす、姐御!」
「そ、その『姐御』ってのやめてよ。恥ずかしいから……」
「これも私のしんこーしんの表れっす!」
「え、そ、そうなの……? なら……いいけど」
「さすがです姐御!」
「ちょっと、」
「痺れます! 私、かわいい系はちょっと難しいんで、姐御みたいなイケメン女子になりたいっす!」
「や、やだなあもう……ってちょっと待って、それって遠回しに私がかわいくないって」
「そんなことないですよ神奈子様っ!!」
早苗が食いついた。
「前々から言ってるじゃないですかっ、神奈子様はちゃんとお洒落すればすごくかわいくなるって!」
志弦もすかさず続く。
「私も同感です! ちょっとイメチェンしてみたらどうっすか?」
「や、えっと、それは……神として、あんまりちゃらけた恰好はできないから……」
「いやー、でもマジで勿体ないっすよ。絶対見違えますって!」
「ほ、本当……? 正直、あんまり自信ないんだけど……おだててるわけじゃないよね?」
「いやいや、姐御に嘘ついたりしないですって!」
「そうですそうです! 確かに神様としてきちんとした恰好をするのは大事ですけど、たまには息抜きも必要ですよ! 今度、人里でお洒落な着物とか買ってみましょうっ!」
「着物っ……! あーもうこれ絶対似合うわ。買うまでもなくわかるわ。髪もこう、もうちょっとふんわりを抑えめにして……いや、いっそストレートでもいいかもな」
「そうそう! 神古さん、わかってるじゃない……!」
「東風谷さんもね……!」
早苗とグッとサムズアップを交わす。早苗という味方を得たからか、もうすっかりテンションが上がって、エキサイトしてしまって、だから志弦は気づかなかった。蚊帳の外になっていた月見と、どうやら起きていたらしい諏訪子が、
「……ねえ、月見。神奈子って、結構チョロいよね」
「……そうだね」
と、呆れ顔で呟いていたことなど。
神奈子がもじもじしている。
「そ、そうかなあ……? に、似合うかな……えへへ」
話がだいぶ逸れてしまった。
「じゃ、じゃあ話を戻すけど……」
「う、うん」
目の前の早苗の頬が、若干赤くなっている。たぶん、志弦も似たような感じになっていると思う。出会ったばかりの相手とその場の勢いだけで意気投合していたというのは、いま思い返すと少しばかり恥ずかしかった。
神奈子はまだもじもじしていて、「ねえ、あんたたちもそう思う……? 私、もうちょっと自信持っていいのかな……」と月見と諏訪子に絡んでいる。月見は眉ひとつひそめず紳士的に対応しているが、諏訪子はとても面倒くさそうな顔をして狸寝入りをしている。もうしばらくの間はあのままだろうなあと思うと、ちょっぴり申し訳ない気分になった。
もちろん、お世辞を言っていたつもりはないけれど。神奈子は志弦と違って、相応の恰好をすれば相応のべっぴんさんになる逸材のはずなので、そのときが来たら是非立ち合わせてほしいと思う。
さておき。
「私は、当てがないならこの守矢神社で暮らしてみたらどうかなあって思います。神社のお手伝いをしてもらえると助かるし……」
それから早苗は、ちょっぴりだけ舌を出してはにかんで、
「友達になってくれると……嬉しいし」
「ねえ、東風谷さんって学校でかなりモテたでしょ?」
「え!? ど、どうしたの突然っ」
だって、今の表情を青春時代真っ只中の青少年たちの前でやってみろ。『ズキューン』ってやつだ。かくいう志弦も、自分が女でなかったら危なかったかもしれない。
「む、昔の話はいいのっ」
「うわー否定しないし。さてはクラスのアイドルだったんだなー? バレンタインデーとか、きっとクラスの男子は東風谷さんからチョコもらえないかってムラムラ」
「か、神古さぁんっ!」
志弦はからからと笑って、早苗の目の前に右手を伸ばした。
「志弦でいいよ。……友達、だし。さん付けはなしでいきましょー」
友達だから、なんて。こういうことを言うのは随分と久し振りだったので、果たして自然な表情ができたかどうか、不安だったけれど。
花が開くように微笑んでくれた早苗を見るに、まあ、それほど悪いものではなかったのだろう。
右手が、重なった。
「うん。よろしくね、志弦」
「あいあい。霊感体質で、いろいろ迷惑掛けると思うけどねー」
「それは大丈夫! 巫女の修行してるうちに、悪い幽霊なんてバシバシ祓えるようになるからっ。志弦はかなり霊力が強いみたいだし、きっと一人前の巫女になれると思う」
「へえー……?」
霊力が強いといわれても、自分の体の中にそんな未知の力が眠っているなんて、いまひとつ実感が湧かなかった。けれど、ないよりはずっといいなと思う。昨日の無縁塚での経験からすれば、人間がいつでもどこでも安全に暮らせる世界ではないのだろうから。
「……話はまとまったか?」
少し疲れたような、月見の声だった。見ると、やはり若干疲れた顔の月見がいて、その横では神奈子が真っ赤になって湯気を上げていた。神奈子があんまりにもしつこく絡んでくるものだから、いっそ
惜しいものを見逃したなー、と志弦は思いながら、
「うん。とりあえず、ここに居候させてもらって、巫女見習いやることになりました」
「それはなにより。じゃあ、あとは向こうから残りの荷物を持ってくるだけだね」
『残りの荷物』という言い回しについて補足しておく。一介の女性として下着を替えたり歯を磨いたりできないのはアレだったので、昨晩のうちに着替えや歯ブラシなど最低限の荷物だけは持ち込んでしまったのだ。紫が『境界を操る』とかいうよくわからない能力を使い、水月苑の納戸を志弦の家の玄関につなげた時は度肝を抜かれた。要するに、どこでもドアみたいなものだったのだろうと今では思っている。
「いつやりましょ?」
「紫と確認してだね。でも、別に急ぎではないだろう?」
「そっすね」
あ、と気づく。
「そういえば荷物、月見さんの屋敷に置きっぱだ。持ってこないと……」
「ああ、それなら私が今から持ってくるよ」
「え? でも」
「また、高いところを飛んでみるか?」
頬がひきつった。
「……お願いします」
「よろしい。……ほら諏訪子、起きてくれー。昼寝はもうおしまいだ」
月見が、また尻尾を抱き枕にして夢の旅人となっていた諏訪子を揺すった。うー、と幼い掠れた声がして、
「なにぃー……どうかしたのぉー……?」
「用事ができたから一旦帰るよ。だから放してくれ」
「ぅえー……!?」
諏訪子はすこぶる嫌そうだった。もふもふ抱き枕を両腕と両脚でぎゅっとホールドし、
「やだぁー……もふもふー……!」
「すぐ戻ってくるから。本当だよ」
「うー……」
志弦の頬に自然と笑みが浮かぶ。どこからどう見ても幼女にしか見えない幼女が千年以上の歴史を持つ由緒正しい神様だというのだから、幻想郷はとても面白い世界だと思う。これからたくさんの場所を回って、たくさんの人、妖怪、神様たちと出会ってみたい。
「ほんとぉ……? 約束だよ。嘘ついたら祟るからぁー……」
「はいはい」
諏訪子がしぶしぶ月見の尻尾を解放し、むくりと起き上がった。寝惚け眼をこすりながらあくびをし、志弦を見て、次に早苗を見て、
「……そーいえば、そっちの話はどうなったのー?」
「ここで一緒に暮らすことになりました。巫女見習いとして、いろいろお手伝いしてもらう予定です」
早苗が答えると、諏訪子はふーんと生返事をして、それから志弦を見て笑った。
ほわっと。ひと目見るだけで心があたたかくなる、陽だまりのたんぽぽみたいな笑顔だった。
「よろしくねぇー」
「……あ、」
その笑顔を見て、志弦はふと気づかされる。今日からは彼女たちが、志弦と同じ場所で同じ時間を刻む家族なのだ。この神社が、志弦の帰ってくる場所なのだ。
居候という言葉で、軽く考えていたけれど。
それは家族を喪った志弦にとって、とても大切で、かけがえのないことではないのか。そんなかけがえのない人たちの気持ちに応えるなにかを、志弦は今まで見せただろうか。
ただ早苗と、よろしくーと、軽々しく握手を交わしただけ。
慌てて正座をした。
「……諏訪子さん。神奈子さん。早苗。……月見さんも」
このまま雰囲気で流しては絶対にいけないと思って、柄にもなく、背筋をぴんと伸ばして。
額を畳に押しつけるくらいに、深く深く、頭を下げた。
「――これから、お世話になります!」
いつしか蝉が鳴かなくなった、夏の終わり。
いずれやってくるであろう実りの秋は――きっと志弦の心にも、かけがえのないなにかを、実らせてくれるのかもしれない。
○
「――志弦ー、ちょっといいー?」
「あいあい。どったの早苗ー」
「うん、ちょっと。……持ってきた荷物の整理、まだ掛かりそう? 少しだけでいいから、巫女服を着てみてほしいんだけど」
「……巫女服」
「うん。今あるのでサイズが合わなかったら、新しくこしらえないといけないから。……あ、予備だから普通の巫女服だけど我慢してね」
「……いや、逆に私はそういうのでいいよ。早苗のみたいな、ヒラヒラでお肌見えまくりなやつはちょっと……」
「えー? かわいいと思うんだけどなあこれ……。はい、じゃあちょっと上脱いでー」
「はいはいー」
「……むー。志弦って背高いし、胸も結構大きいよね。いいなあスタイルよくて……」
「あっはは、こんなとこばっか女っぽくてもねー。肝心の中身がダメダメなのですよ」
「そんなことないと思うけど……ん?」
「んー?」
「これって……お守り?」
「あー、そう。こうやって首から下げといた方が、いつも持ち歩けていいと思って」
「へー……手作りのお守りだね」
「ばっちゃんのねー。私、昔は霊障? とかいうのが結構ひどかったから。中身はお札の切れ端ですぜー」
「お札……」
「やはり巫女さんとしては、興味ある感じかね?」
「うん……ちょっぴりね」
「中、見てみる? 大したもんじゃないけど」
「え。でも、お守りでしょ?」
「もーまんたいもーまんたい。お札の切れ端を、なくさないように巾着に入れてるってだけだから。……ほい」
「あ、ほんとだ……。ボロボロだね。だいぶ古いお札みたい……」
「いつ買ったやつなのかは、じっちゃんもばっちゃんも知らなかったなー。ウチの家を代々守ってくれてたありがたーいやつだとかなんとか」
「……」
「どったの?」
「……たぶんこれ、買ったお札なんかじゃないと思う」
「うん?」
「今はもう力がなくなっちゃってるけど、相当強い術が掛かってたみたい。こんなの売り物じゃありえないよ」
「え? ……もしかしてマジモン?」
「こんな切れ端でも、すごい力の……残滓っていうのかな。そういうのを感じるから、志弦の家を代々守ってくれてたってのもあながち……」
「……うへー、実は結構とんでもないやつだった感じか」
「ウチの神社でも、ここまでのやつを作ろうと思ったら……神奈子様と諏訪子様の御力をたくさん借りて、何日も何日も祈祷を重ねないといけないかな」
「はー……売り物じゃないってことは、誰かが手作りしたってことだよねえ」
「そうだと思う。きっとこれを作った人は、志弦のご先祖様を、すごく大事に想ってくれてたんだろうね。……志弦のことも、きっと守ってくれてたんじゃないかな」
「……そっかー」