「――ところで、生きてるか?」
初対面の相手に訊くようなことではなかったと思う。しかし事実として月見はそう尋ねたし、その男は茂みに頭から埋もれて足だけを出しながら、うおおぅ、と返事をしたのか呻いたのかよくわからない声をあげた。
当時はちょうど月見が『人化の法』を完成させた頃で、要するに今から千年以上も昔の話で、山を歩けば野犬や狼に襲われるのも珍しくない時代だった。このときの月見は、『人化の法』でつくりだされた人間の肉体に慣れるため、野山を散歩して回ったり旅人を装って都に潜り込んだりしていた。だから時には、こうして面白い光景と出くわすこともあった。
なかなかお目にかかれるものではない。迫る野犬から逃れるため、崖の上からなんの迷いもなく飛び立つ男の勇姿など。
もっとも勇ましかったのははじめだけで、あとは情けない悲鳴をあげながら落ちていったけれど。落下地点に運よく豊かな緑があったからよかったものを、そうでなければ骨を折るくらいはしていたところだ。
男の足がピクピクと動いた。
「し、しくじった……まさかここまで高い崖だとは思わなかったぞちくしょう」
「確かめもせずに飛んだのか?」
「いやだって止まった瞬間ガブリな状況だったし」
「追い払えばよかったじゃないか。ひとりでこんな山の中を歩いてるんだ、腕には自信があるんだろう?」
「ふっ。血気盛んな野生とはいえ、わんこに手を上げるのは俺の流儀に反するぜよ」
変なヤツなんだな。ピクピク動く足を眺めながら、月見はそう納得した。
「おっと、こうしてる場合じゃねえや。そこにいると思われる御方、立ち寄ったついでに手を貸しちゃあくれんかね」
「ああ」
茂みから男の右手が飛び出てきたので、月見は同じく右手で取って引っ張り出そうとした。しかし片手だけではなかなか上手くいかず、両腕で力いっぱい踏ん張ってようやく、男を茂みの中から引っ張り出せた。
やはり、人間の肉体とは非力なものだ。
「ぶはー。やあ、すまんすまん。おかげで助かった」
「怪我は?」
「なあに、体が丈夫なのが取り柄でな」
全身に葉っぱやら毛虫やらをくっつけたみっともない恰好で、にへらと男は笑った。
粗野な男だった。さっきまで茂みと一体化していたからではない。もとから
葉っぱと毛虫を払った男が立ち上がった。月見よりほんの少しだけ、背が高かった。
「あれ、そういやあのわんこたちは」
「私が追い払ったよ」
「ほおー。あの荒ぶるわんこたちを一人で追い払うとは……お前さんもなかなかの手練れと見た」
見よ、俺の名推理……みたいな顔を男はしていた。楽しそうなやつだなあと月見は思う。
「それはともかく、こんなところでなにをやってたんだ? 一人で歩くような場所じゃないだろうここは」
ここは都からほどなくの場所にそびえる山であり、それ故に野犬やら妖怪やら、なにかと不穏な噂が絶えない場所だ。少し前からこの山を大きく迂回する道ができたので、わざわざ好き好んで近づこうとする者は少ない。
男がにっと歯を見せ、言った。
「ちょっくら都に行こうとしてたんだ。遠回りは趣味じゃなくてな」
「……」
豪胆というか、蛮勇というか。
「ってか、それだったらお前さんも同じだろうが。なにしてんだこんなとこで」
「私は……」
月見は少し悩んで、
「……近いうちに都で生活しようと思っててね。このあたりがどういう土地なのか、少し散策していた」
嘘ではない。そう遠くないうちに月見は陰陽師あたりを偽って、本当に都で暮らしてみようと考えている。ただ当てどない放浪を続けるばかりではなく、時には人の姿を偽り、束の間を人間たちとともに過ごしてみる――月見が昔からやってきたことだ。
今回は、できる限り長い時を過ごしてみようと思っている。都のど真ん中で、人間として。そのために、『人化の法』も完成させた。
男がやおら勢いづいた。
「おおっ、お前さんもそうなのかよ!」
「お前さんもって」
「いやー、実は俺も似たようなこと考えててなー。都に知り合いがいなくてちょっち不安だったんだけど、これはいいや」
なにやら目をつけられた気配、
「よかったよかった。じゃあ、これからよろしくな」
「待て待て。話が見えないぞ」
「お前さん、名前は?」
「人の話を聞け」
おっとすまねえ、と男は改まり、
「名乗りもしないで名前を訊くのは失礼だったな。やー、俺としたことが気分が高ぶってるぜ」
「……もういいよそれで」
ため息をつく月見が見えてもいないのか、男はいっそ図々しいくらいに右手を差し出して。
初対面の相手になんの遠慮も警戒も物怖じも見せず、にへらと人懐こく笑った。
「俺は、神古秀友。長い付き合いになるといいな」
――ここから、始まった。えらく唐突に。えらく一方的に。月見がかつて最も心を許した人間は、そうして月見の目の前にやってきた。
今でもよく、覚えている。
まるで昨日のことのように、思い出せるのだ。
「私、
「……神古?」
――あのときのあいつは、ちょうど目の前の少女みたいに笑っていたのだと。
「はい。神様の『神』に、『古』いって書いて。人間にはご大層な苗字ですよねー」
「――……」
考えたことは多かった。熱病でも患ったように、月見の頭の中はめまぐるしく回転していた。『神古』というたった二つの文字に、月見の心は面白いくらいに翻弄されていた。
苗字が同じだけ。
そう思おうとした。だが一度心の中に生まれてしまった『まさか』を、その程度の逃避で誤魔化すことなどできなかった。
違うと思おうとすればするほど、目の前の少女があいつと似ているような気がしてならない。背中あたりまである髪を雑にまとめて垂らしているのは、髪の手入れを面倒くさがったあいつを彷彿とさせないこともない。学校の制服を少しだらしなく着崩しているのを見て、あいつもみっともない恰好をしては雪に叱られてたっけなあと思い出す。月見を見る目の色と形は、はきはきと活発そうで、後先を考えなさそうだ。
そして、なにより。
初対面の相手に遠慮も警戒も物怖じもない、にへら、と人懐こい笑顔。
考えるなという方が無理な話だった。
「……お前、脚に怪我してるね」
月見はよく考えもせずにそんなことを言った。それくらいしか、今の自分には言えなかったのだと思う。少女――志弦の右膝に、出血で赤くなった箇所がある。
志弦は自分の右膝を見て、今更思い出したように、あーと間延びした声をあげた。
「ちょっと転んじゃって。でも大したことないっすよ。血はほとんど止まってるし、痛みも引いてるし」
「怪我をしているのかい?」
霖之助が、横から志弦の膝を覗き込んだ。
「ふむ。救急箱を持ってきた方がよさそうだね」
「んな大袈裟な。こんなん、唾つけときゃ治りますって」
「……君、男の子みたいなことを言うね」
誰か心当たりがあるかのような苦笑いだった。志弦はとりわけ気にした風でもなく、それどころか愉快そうに、
「あっはは、よく言われます。……あ、ちなみにちゃんと女ですからね。胸もありますよ」
「それは……」
霖之助は志弦から目を逸らし、少し迷ってから、
「……見ればわかるよ」
一応、制服の上からでもそれとわかる起伏を持つ少女である。
隣でナズーリンが呆れた。
「君に恥じらいというものはないのかい」
「おじいちゃん曰く、私は生まれる性別を間違ったんだってさー」
「……」
笑い方のひとつを取ってみても、ついあいつの姿が脳裏に浮かんでしまう。
意識しすぎだ。月見は首を振り、自分への気つけの意味も込めて、少し強めに手を叩いた。
「さあ、立ち話もこれくらいにしておこう。お茶が冷めてしまうよ」
「おっと、そうだったね。志弦――と呼んでもいいかい?」
「いっすよー」
「では志弦、どうぞ中へ入るといい。君のこれからについて話をしよう」
霖之助は香霖堂の奥を手で示しながら、なに食わぬ顔で言った。
「ここでの記憶を捨てて外へ帰るか、外を捨ててここに骨を埋めるか。その選択をね」
○
どうも志弦は、帰ろうと思えば帰れるらしい。
幻想郷の東の端に博麗神社という古い社があり、そこの巫女さんに頼み込む。もしくは幻想郷を管理しているとある妖怪がいるので、その者を捜し出してお願いする。そのどちらかの方法で、志弦は元の世界へ帰ることができる。ただし代償として、ここで体験した記憶の一切を失う。それが嫌であれば、この地で一生を過ごし骨を埋めるしかない。
霖之助から語られた話を要約すれば、およそそういった内容であった。
動揺はしなかった。むしろ、わかりやすすぎて拍子抜けした。
「帰すわけにはいかないとか、帰る方法はない……てわけじゃないんすね」
「少し空間がズレているとはいえ、日本にある世界だからね」
志弦の手元には、軽く塩を振っただけの簡素なおにぎりと、夕食の余りらしい大根と油揚げの味噌汁が並んでいる。志弦が怪我の手当てをしている間に、霖之助と月見が手早く用意してくれたものだった。
時間が時間だから仕方ないとはいえ、座敷へ通されるなり盛大に腹が鳴ってしまったのは、なかなか恥ずかしかった。
「それにしても、すみません。夕飯までご馳走してもらっちゃって」
「いや、むしろ大したものを用意できなくてすまない。ちょうど食材を切らしていてね」
「いやいや。感謝こそすれ、文句なんてないっすよ」
味噌汁を一口すすると、歩き疲れた体にじわりと熱が浸透していって、ついついほっとため息をついてしまう。祖父が死んでからは食事も買って済ませてばかりだったので、たとえ急ごしらえであっても、しっかりと誰かの手が通った料理は久し振りだった。
それに、出会ったばかりの人たちとはいえ、テーブルを誰かと一緒に囲むのも。酒を片手に親身に話を聞かせてくれる霖之助がおり、慣れた包丁捌きでりんごを剥いてくれている月見がおり、おにぎりを仲間たちに食べさせてやっているナズーリンがいる。どうやら純粋な人間は志弦だけらしいのだが、それがまったく気にならない不思議な調和がこの座敷には満ちていた。ともすれば、自分が異世界にいることすら忘れてしまいそうだった。
さっきから、ずっとこんな調子だった。香霖堂に入るまではそこそこの警戒心を持っていたはずなのに、今はすっかり安心しきってしまっている。出会ったばかりの相手なのに、この人たちは大丈夫だと感じている自分がいる。
原因はわかっている。
志弦の目の前でりんごを捌いている、月見だ。
「はい、剥けたよ」
「やー、ありがとうございます」
月見は三つに切った半個分のりんごを志弦に、もう半分をナズーリンの仲間たちに差し出した。すぐさま飛びついた元気のいいネズミたちを見ながら、物静かで柔らかい微笑みをたたえている。どこか達観した雰囲気すら感じさせるその面差しを眺めながら、志弦は薄ぼんやりと考える。
感覚としてまず、月見は信頼できる人だという直感がある。根拠はない。ないが、まるで神からお告げでも下されたような、限りなく確信に近い直感だった。そうすればあとは、月見の知り合いである霖之助とナズーリンも信頼できるのだろうとなり、今の状況の出来上がりである。
なぜ月見は信頼できると感じるのか、さっきから何度も考えている。そういう雰囲気があるのは事実だ。霖之助やナズーリンとは年季が違う。遥か古から存在している大樹のような、生きとし生ける者としての『深さ』が月見にはある。見る者すべてを優しく包み込み、静かに、あたたかく見守るような。悠久の時とともにこの世界を見つけ続けてきた、ある種、父のような。
でも、なぜだろう。
それだけじゃない気がする。
なにか、もっと別の理由があって、志弦は月見を信頼できる人だと判断している。そこまでわかっているのに、そこから先がどうしてもわからなかった。知っているはずなのに、忘れてしまっている。思い出せないでいる。そんな気がする。
難しい顔をしていたら、霖之助の声が聞こえて現実に引き戻された。
「――というわけで、君に与えられた選択肢は単純だ。元の世界へ戻るか、ここに留まるかだね。もっとも君にも家族や友人がいるだろうから、戻るのが一番だと思うけど」
「あー……えーっと、そうっすね」
家族、もういませんけど。一瞬そう言おうかと思ったが、やめた。変に同情されても、居心地が悪くなるだけだ。
代わりに、
「ちなみに、帰らないでここに残るのを選んだ人とかって、いるんですか?」
「いるよ。向こうで生きる理由を失った人なんかは、ここを新天地にして、新しくやり直したりしている」
「そーですか……」
――生きる理由、か。
おにぎりを咀嚼しながら、志弦は沈黙した。自分はどうしたいのだろう、と思った。向こうに戻りたいとは思わない。戻ったところで、今の志弦を待ってくれているものはなにもない。だったらいっそのこと、この幻想郷という新天地で、新しい人生を歩むのもありなのだろうとは思う。妖怪が当たり前のように存在する世界なら、志弦の霊感体質だって受け入れてもらえるかもしれない。
しかし、ひとたびここに残ることを選べば最後、二度と元の世界へは戻れないという。たとえ志弦を待ってくれているものがない世界でも、このまますっぱり縁を切ってしまうのは躊躇われた。志弦が生まれ育った世界であり、志弦が生まれ育った家である。家族は失ってしまったが、思い出は遺されている。
「……まあ、今ここで結論を出す必要もないだろう」
静かな、月見の声だった。
「今日はもう夜も更けたし、帰るとしても明日になるだろう。だったら一晩、ゆっくり考えてみたらどうだい」
霖之助が同調した。
「そうだね。自分の今後を決める選択だ、考える時間は多い方がいい」
「えーっと……ということは、泊まらせてもらえるんですか?」
「そうなるね。別にここでもいいし、ここから少し歩いたところに人間たちの集落があるから、そこの僕の知人を当たってもいい。……ああ、月見の屋敷という選択肢もあるね」
そう言ってから、自嘲するように笑って、
「僕としては、月見の屋敷がオススメだね。彼個人の家であり、同時に温泉宿としても有名だ。正直、僕のところじゃあ大したもてなしもできないだろうから、そっちの方がゆっくりできると思うよ」
「私もそっちを推すね。ここに泊まりでもしたら、店主になにをされるかわかったもんじゃない」
「……ナズーリン。君は、僕のことが嫌いなのかい?」
「すまないね。なぜかはわからないが、君には後々、大変な手間を掛けさせられるような気がするんだ。あまり気を許してはいけないと、私の本能が告げている」
霖之助がため息をついて、ナズーリンがくつくつと笑って、それからどちらからともなく沈黙した。志弦の答えを待つ沈黙だった。呑気におにぎりを頬張っていた志弦は慌てて飲み込んで、
「ええっと、そうっすね、あー……」
一瞬迷ったが、まったく知らない異世界のことだから悩むだけ無駄だと気づき、
「じゃあ、二人がおすすめする月見さんのところで……?」
「だそうだよ、月見」
「私は構わないけど」
月見はふたつめのりんごを剥いている。
「でも、歩いていくには少し遠いぞ?」
「飛んでいけばいいじゃないか」
「簡単に言うね」
霖之助の言葉に苦笑し、
「私はそれでいいけど、志弦は飛べないだろう」
「それがどうし――ああ、そういうことか」
志弦もわかった。月見は空を飛べるが――空を飛ぶということに関しては、ナズーリンが実演してくれたのでもう驚かない――、志弦はもちろん飛べない。従って月見の屋敷まで飛んで移動するとなれば、志弦は彼におぶるなり抱えるなりしてもらわなければならない。出会ったばかりの男にそんなことをされるのは、女としてちょっと気になるんじゃないの、という話のようだ。
なんだそんなことか、と思った。
「いいっすよ別に。私、気にしないんで」
「ッハハハ、即答か」
一本取られたというように、月見が笑った。
「普通、年頃の女の子なら迷って当然だと思うけど」
「んー、まあそうかもしれないっすけど」
でも、月見さんだし。
そう思う。あいかわらず根拠はいまひとつ不明だが、この人に任せておけば大丈夫なのだと。
本当に、不思議だ。
「君は、警戒心もないんだね」
ナズーリンが呆れていた。志弦は笑い返した。
「私もよくわかんないけど、月見さんなら大丈夫かなーって思うんだよね。……月見さんは、それで私になにか変なことすんの?」
「……いや」
月見ははっきりと首を振った。
「誓って言おう。私はお前の味方だ」
「じゃー大丈夫っすねー」
そう言って、志弦はおにぎりを頬張る。広がった塩の素朴な風味が消えないうちに、続けて味噌汁を流し込む。なんの変哲もないただのおにぎりと味噌汁なのに、今は途轍もないほど美味しく感じられた。ぷはぁー、なんてため息をついていたら、霖之助がすっかり目を丸くしていた。
「……今までいろんな外来人を見てきたけど、君みたいなのは初めてだよ」
「同感だ。君なら案外、幻想郷で暮らすのもお似合いかもしれないね」
「そかな」
霖之助とナズーリンが、うんうんとまったく同じ動きで頷く。月見だけがなにも言わず――けれどどこか懐かしそうな顔をしながら、剥き終わったりんごをテーブルの中央に置く。
ナズーリンの仲間たちがすかさず飛びつく。ネズミもこうして見るとかわいいもんだなーと、志弦は小さく笑う。
確かに自分には、ここで暮らすのも――ここで暮らす方が――合っているのかもしれない。
「それじゃー、どうもお世話になりました」
腹ごしらえが済み次第、志弦と月見はすぐ出発した。香霖堂の外で、志弦は見送りをしてくれた霖之助とナズーリンに頭を下げる。
「後悔のない選択ができることを、祈ってるよ」
「落っことされないように気をつけたまえよ」
「どうもです」
夜はすでに更けているはずだが、外は随分と明るかった。香霖堂に入るときの方が暗かったとすら感じるほどだ。もちろん薄暗くはあるのだが、照明なしでも霖之助たちの顔が問題なく見えるし、香霖堂や周囲の木々の輪郭もくっきりしている。夜が更けた分、月がとても明るく輝いているのだ。嘘みたいに大きく、描いたように青白い月が幻想郷を隅々まで照らしていて、もしかしたら街灯がないのは必要ないからなのかもなと志弦は思う。
「今更だけど、本当におんぶでいいのか?」
月見は未だ、志弦をおぶって飛ぶことが納得できていないようだった。本人が嫌がっているわけではなく、「こんな野郎におぶられるなんて本当に嫌じゃないのか?」と疑心暗鬼なように見える。
志弦はにっと笑って言い返す。
「なんだったらお姫様抱っこでもいいっすよ? いっぺんやられてみたいと思ってたんで」
「……本当に大丈夫そうだね」
「月見さん、素材はいいんだから、もちっと自信持っていいと思うなー」
実際、月見のような人から手を差し伸べられたら、困っている女の子はついつい手を取ってしまうのではないか。彼の雰囲気がそう思わせる。顔だってそう悪くないし、達観した佇まいと悠然とした立ち振る舞い、そして聞き心地のよいバリトンの声音は、執事や紳士という言葉を彷彿とさせる。今の和服姿も大変上品で見事だが、洋服であれば燕尾服が似合いそうだ。執事喫茶とか絶対イケる。おまけに頭の狐耳と腰の尻尾は、『そういう趣味』の女からすればたまったもんじゃないに違いない。
なお霖之助は、泰然自若な月見とは対照的に、甘いルックスが似合いそうだと志弦は思っている。ホストとか。後ろからそっと抱き締められつつ耳元で甘い言葉を囁かれたら、大半の女性はきゃーきゃー黄色い奇声をあげてそのへんを転げ回るだろう。
さすが異世界、レベルが高い。
「というわけで、レッツゴーですよ」
「わかったよ」
月見が背を向けて片膝をついたので、志弦は遠慮なく行った。誰かにおんぶをしてもらうのなんて祖父以来だ。祖父は老人の割にガタイがよく、歴戦のツワモノ然とした男だったが、触った感じ月見もそう引けを取っていない。線が細く見えるのは和服のせいで、実は脱いだら引き締まっているのかもしれない。
月見が立ち上がった。女とはいえ人間ひとりを背負っているとは思えない、実に軽やかな動きだった。
「おおー。力持ちっすね」
「妖怪は、人間よりもずっと体が丈夫なんだよ。ナズーリンくらいの見た目をして、片手で木をへし折るようなやつだっている。人ひとりを背負うくらいは朝飯前さ」
「へえー……」
ナズーリンくらいの女の子が、笑顔で木をへし折っている光景を想像する。うわようじょつよい。異世界すごい。
「じゃあ、私の体重とかは気にしなくてよさそうっすね」
「ッハハハ、もっと重くたって問題ないよ」
「なんだとぉ。旦那ぁー、女の子にそういう発言はバッテンですぜー?」
「わかったわかった、耳を引っ張らないでくれ」
月見の耳をグイグイ引っ張りながら笑っていたら、霖之助とナズーリンが呆れ返っていた。
「……君たち、本当に今日初めて出会ったのかい?」
ああ、と志弦は思う。やっぱり他人の目からでも、そういう風に見えるのか。
「……不思議ですよね」
自分の口から出ているのかわからなくなってしまうくらい、穏やかな声だった。
「なんか、初めて会った気がしないんです」
月見の耳を、くいくいと引っ張った。
「……私と月見さんって、ほんとに初めて会ったんですよねー?」
「そうだと思うけどねえ。ただ、私は今までお前と同じ世界で生活してて、こっちに来たのは最近なんだ。だからお互い覚えていないだけで、どこかで会ったことはあるのかもしれない」
「ふーん……」
確かに、そういった可能性もなくはないのかもしれない。けれど、それだけでは説明できないと志弦は思う。
初めて会った気がしないのは本当だ。そしてそれだけであったなら、月見の言う通り、昔どこかで出会っていた可能性も否定できないし、単なる気のせいだろうと笑い飛ばすことだってできた。
それだけじゃないのだ。
この感覚は、昔どこかで出会っていたとか、気のせいだとか、そんな単純な言葉では説明できない。
しかし、ではなんなのかと問われれば、それもわからない。
「不思議ですねえ」
「不思議だねえ」
私はこの人を知らない。けれど、初めて出会った気がしない。
私はこの人を知らない。けれど、なぜか知っていた気がする。
私はこの人を知らない。けれど、ずっと一緒だった気がする。
考えてみれば、単純なことだったのだ。
もっとも志弦がそれを知ったのは、今はまだ先の未来。
幻想郷中が雪化粧で覆われた、凍える白の季節だったのだけれど。
○
神古家の歴史は古いと聞いている。
ただ、それがどこまで歴史を遡るものなのかを志弦は知らないし、祖父も祖母もわからなかったようで、今となっては完全に闇へと消えた言い伝えの類である。
代々、霊能者の血筋であったらしい。遠い昔はその力を人々のために役立て財を成すこともあったが、オカルトが科学で解き明かされる時代になってからはそれもなくなり、普通よりちょっと大きい程度の古民家を子々孫々守るだけの家系と化した。それでも霊を見る血だけはしぶとく生き残り、祖父母はもちろん、写真でしか顔を知らない両親を通して志弦にまで受け継がれた。
志弦が自分の家について知っていることなんて、この程度だ。
「うむぅ……」
旅館でしか見たことがない、御影石造りの広大な湯船に身を浸しながら、志弦は温泉の気持ちよさと現状への苦悩が入り混じった煮え切らないため息をついた。
月見の屋敷は、それはもう豪華だった。ひと目見た瞬間に「あっこれ絶対温泉あるわ」と確信できるほど豪華絢爛であった。周囲を広大な池が囲んでおり、それを活かした日本庭園が彩りに華を添えており、屋敷は温泉宿の名に恥じない三階建て。個人が所有する家の規模として明らかに異常である。月見さんってもしかしてすごい金持ちなの!? と思ったが、どうやら月見の知り合いたちが勝手に建てた屋敷であり、彼個人の財力は関係ないのだそうだ。どの道おかしい。
そんな豪勢極まる月見の屋敷なので、当然、温泉も並大抵ではない。志弦がかつて身を浸してきた、どの旅館の温泉とも一線を画している。広さ自体は普通だし、内風呂と露天風呂という構成も定番だが、大きな窓から青白い月の光がたっぷりと降り注ぎ、壁では行灯をモチーフにした照明が煌々と炎を灯しているため、幻想的すぎて言葉も出ないほどだ。ただただため息だけが出てくる。月見の妖術によって灯された炎は、普通のそれよりもずっと明るく、また熱くもなければ燃え移ることもないシロモノのようで、屋敷の至るところで照明として大活躍している。
こうも幻想的な屋敷で一晩を明かせるというだけで、志弦はもう、この世界にやってきてよかった! と現金に舞い上がってしまった。そのせいで膝の怪我を忘れたまま湯船に飛び込んでしまい、独りでアホらしく悶え苦しむ羽目になったのは――まあ、誰にも見られなくて心底よかったと思う。
「……んぐぅー……」
とは、いえ。
自分の今後を考えると、くつろいでばかりもいられない。霖之助の言葉を思い出す。
「……ここでの記憶を捨てて向こうに戻るか、向こうを捨ててここに骨を埋めるか、か」
ただのしがない女子高生に求める決断としては、随分と大事なのであった。
なんとなく、自分の気持ちが見えてはいるのだ。家のことを考えると戻った方がいいのだろうとは思うが、決して「戻りたい」とは思わない。それどころか、ここに残るのもアリかもしれないという思いは着実に強くなってきている。元の世界と幻想郷を天秤にかければ、秤は後者へと傾き始めている。
吐息。
「……ここで暮らすことにしたら、じっちゃん、あの世で怒るかなあ」
どちらかといえば、厳格な祖父だった、と思う。志弦が向こうの世界を、あの家を捨てたら、彼岸の祖父は大層顔をしかめてぶつくさ言いそうだ。普段は父のように優しい一方で、やや時代錯誤の嫌いがあり、『家』が関係したときだけはやたらと頑固な祖父であった。
お前はこの家を継ぐのだと。刷り込みのように、幼い頃から何度も言われてきた。
けど、それでも。
「なんだろう……このまま月見さんを忘れちゃ、ダメな、気がする」
向こうへ戻ることを選べば、志弦はここで過ごした記憶をすべて忘れるという。それはつまり、月見のことも綺麗さっぱり忘れ、はじめから出会わなかったことになってしまうのだと思う。
それは、よくわからないけれど、ダメだ。
嫌だ、ではなくて。
ダメだと、思う。
だから、戻りたくない。戻ってはいけない。
湯船の中でじゃぶじゃぶと暴れた。
「……うあああっ、でもなあああ~! このまま家に戻れないっていうのがなあああ……」
問題もある。志弦がこの世界を選べば、元の世界へはもう戻れないという。つまり、家から荷物を持ってくることすらできないということである。
服や下着などの着替え。タオルや歯ブラシや化粧品などの生活道具。集めた本。祖父母と暮らした思い出。小中学校の卒業文集やパソコンのハードディスクの中身など、残していくわけにはいかない黒歴史の数々。
そういったものがすべて、向こうの世界で置き去りになってしまう。自分の今の荷物――学校の制服と間もなく充電が切れる携帯電話と、大したお金も入っていない財布――だけで、この世界を生きていかなければならない。
それはやはり、抵抗があった。
「うぐぐぐぐぐ……!」
悶える。こうなるとわかっていれば、事前にちゃんと荷物をまとめておいたのに。そうすればなにも後ろ髪を引かれることなく、この世界で生きていくことを選べていたはずなのに。
湯船の中でばしゃばしゃとのたうち回ってから、ぼへぁー、と脱力した。
「うん……これ、悩むだけ無駄だわ。私じゃどうしようもないし……」
一番の選択肢は、向こうの荷物をきちんと整理してからこちらへ移り住むこと。それができなければ……泣いて馬謖を斬る思いで、どちらかを捨てるしかない。
「月見さんに相談しよ……もしかしたら、なんとかなるかもしんないし」
そうと決まれば、泊めてもらう立場でいつまでものんびりするわけにもいかなかった。体内時計だから自信はないが、恐らくもう三十分はゆっくりしている。志弦は速やかに浴場を出て、貸してもらったタオルで髪と体を吹き、ちゃっちゃと下着に足を通す。
ふと、目に入ってくるものがある。
「……」
脱衣かごの中に、淡い桃色の生地をした小さな巾着が入っている。一見するとお守りのようであり、実際、志弦にとって大切なお守りであった。昔から霊障で悩まされることの多かった志弦のために、祖母が手作りしてくれたものだった。
神古の家を代々守ってくれていたというありがたいお札――の、切れ端が入っている。長く積もった歴史の中でほとんどが失われ、切れ端だけになってしまったと聞いている。巾着の結び目に小さく長い鎖が取りつけられていて、肌身離さず首から下げられるようになっている。
幼い頃は、このお守りに何度も何度も助けてもらった――気がする。結果論という言葉を持ち出してしまえばそれまでだし、昔の記憶を美化しているだけかもしれないけれど、それでも志弦はこのお守りの力を信じていた。
もう十年以上の付き合いになるから、ありがたい力はきっと失われてしまっているだろう。しかし今でも、志弦の心を常日頃から支えてくれる立派な宝物だ。
「……うん」
眺めていたら、なんだか元気が湧いてきた。
「よっし、やっぱりあれこれ悩むのは私らしくないっ。ここは潔く、土下座でもなんでもして押し切ってやりましょー! いざとなったら女の涙だ!」
着替えの速度をスピードアップし、月見が寝間着として貸してくれた浴衣に袖を通す。今は夏だし、温泉あがりで体が火照っているので適当に着崩す。もちろん、お守りを首に通すのも忘れない。皺くちゃの制服を腕に掛け、幻想的な炎が照らす廊下を早足で駆け抜け、志弦は月見が待ってくれているであろう茶の間へと飛び込んだ。
「月見さーん! あがったよー、」
「あ、来た来た。あなたが噂の志弦ちゃん?」
ものすごい美人さんがいた。
「……ほへっ」
変な声が出た。美人すぎて。
茶の間というよりは広間みたいな座敷の真ん中で、月見ともう一人、なにやらとんでもないべっぴんさんが座っている。世の中には『人形のような』という美人の形容があって、いやーでも人間と人形って結構違うしそのたとえはキツくね? なんて志弦は前々から思っていたのだが、白状しよう、本気で人形かなにかかと思った。
多分、着ている服のせいなのだと思う。
紫のドレス。いや、ドレスではないのかもしれないが、ともかくお洒落に疎い志弦からすればそう見える。
日本で生まれ育った一市民の一般常識に基づけば、あれは女の子が普段着で着るようなものではないはずだ。胸元が大胆に開いており、彼女のスタイルのよさと相まって、悩殺的を通り越して犯罪的ですらある。なのに頭にはフリル付きの幼らしい帽子を乗せていて、それがまた大変よく似合っている。
女性の妖しさと少女の幼さ。相反する二つを抱えた絵に描いたようなアンバランスさが、志弦に人形だと錯覚せしめた。普段からあんな服を着て生活しているのなんて、きっとお人形さんくらいなのだろうと。
「……あれ? あのー、もしもーし。志弦ちゃーん?」
そんな人形みたいな格好が似合っているのだから、事実彼女は美人だった。煌めく行灯のライトアップに後押しされて、まさしく息を呑むほどである。金色の髪は淡く光り輝いているようだし、肌はしっとりと麗しく、素手で触れることすら躊躇われる。透き通る青い瞳はくっきりと存在感があり、唇はつつけば震えそうなほど瑞々しく、その二つが小さく控えめな鼻を挟んで絶妙な調和で成立している。声なんて、もはやなにか神聖な楽器みたいだ。
この少女と比べたら、温泉あがりの濡れた髪もロクに整えず、浴衣もテキトーに羽織って紐を締めただけで、祖父を以てして生まれた性別を間違えたと言わしめるような自分なんか、
「女子力たったの五か。ゴミめ……」
「……ご、ゴミっ? どどどっどうしよう月見っ、私、またなんか変な失敗しちゃった!?」
「あーっいや違います、貴女様があまりにお美しすぎて軽く自己嫌悪といいますかっ! 貴女はスーパーミラクルべっぴんさんで女子力は五十三万でっ、ゴミは他でもない私です生まれてきてゴメンナサイ!」
「え、あ、ありがとう……って、ダメよ自分で自分をゴミなんて言っちゃ! あなただってかわいい女の子じゃない!」
「ハハハこんなだらしない恰好で女子力皆無な私の一体どこがかわいいと」
「えっと、その、ほら……そ、そういう需要もあると思うの! 残念系っていうか」
「フォローになってな――――――――いっ!!」
「ごめんなさ――――――――い!?」
呆れた月見が間に入ってきてくれるまで、一分くらいずっとすったもんだしていたと思う。
「落ち着いたかお前たち」
「は、はい……どうもすみませんでした。取り乱しちゃって」
「こ、こちらこそ……」
テーブル越しに、べっぴんさんとぺこぺこ頭を下げ合う。べっぴんさんは、志弦の勢いにすっかり気圧されたのか、若干腰が引けていた。警戒心が強い小動物みたいで、結構かわいかった。そんな些細なところにまで女の子としての差を感じてしまって、志弦は心の中でウッと胸を押さえた。
ところで、誰だろう。
月見は一人暮らしだといっていたから、妻、もしくは妹など、一緒に住んでいる家族という線は低い。志弦がお風呂を満喫している間に、月見が呼んだ知り合いだろうか。
と思っていたら、向こうから自己紹介してくれた。
「えっと、はじめまして。八雲紫と申します」
「あ、どうも。神古志弦です。外来人? とかいうのやってます」
やくもゆかり。なんて綺麗な名前なのだろう。やはり本当に
紫の横で、月見が麦茶をコップに注ぎながら、
「霖之助が言っていた、幻想郷を管理している妖怪だよ」
「あー、そうなんですか……マジですか!?」
いきなり叫んだ志弦に、紫の肩がびくりと跳ねる。こんな、どこからどう見てもべっぴんさんで、けれど小動物的なかわいさをも併せ持っている、志弦よりちょっと年上、いや下手をしたら同い年くらいの女の子が。
この世界の管理者。
すなわち、この世界のトップ。一番偉い人。
……これはたとえるなら、全国的に有名なある大企業に入社したばかりの新人が、いきなり代表取締役と個人面接をするようなものだろうか。いきなり緊張してきた。というかさっき、思いっきり真正面から怒鳴ってしまったのですが。
「そっ、」
笑顔がひきつった。
「そのような御方とは露も知らず、先ほどはとんだご無礼をば……」
「気にしなくていいよ。敬意を払うような相手じゃないさ」
「ひどい!? ちょっと月見、それどういう意味ー!?」
紫が月見の腕をぐいぐい引っ張った。確かに、ガチガチに畏まらなければならないほど怖い人ではなさそうである。
「お前が風呂に入っている間に呼んだんだ。……今後のことで、だいぶ悩んでるんだろう? 気になってることがあったら、訊いてみるといい」
「あー、見透かされちゃってましたか。わざわざ申し訳ないっす」
「うー、無視されたぁ……」
紫がしょげているが、それがなぜか様になる雰囲気が彼女にはあった。
月見が、麦茶のコップを志弦の前に置いた。
「話しづらいこともあるだろうから、お前の判断に任せるよ」
ありがたく頂戴して、志弦は苦笑する。
「あはは、確かに気軽に話せるようなのじゃないっすねえ。……でも、そうですね、聞いてもらえます?」
「ああ」
思い返してみれば、家族がいなくなってしまったことを、自分から誰かに話したのは初めてだったかもしれない。しんみりとした空気がなんとなく苦手な志弦は、人から同情されるのもまた苦手だった。祖父の葬式の時も、家族を失った悲しみより、ただただ居心地の悪さばかりを感じていた。
家族が元気に暮らしている人間から、可哀想にとか、大変だったわねとか、そういう言葉の軽い同情をされると、自分が惨めに見えて悔しさすら湧いてくるのだ。もちろん、たとえお決まりの社交辞令でも志弦を気遣ってくれてはいたのだろうが、相手を労る気持ちが必ずしも伝わるものではないのだと、志弦はそのときに学んだ。
だから、なるべく大したことのないように、明るい雰囲気で話したつもりだった。私はもう終わったことなんで、同情とかいらないですよーと。もっとも志弦がそう思って笑顔でいればいるほど、月見と紫の表情は曇っていったけれど。
ひと通り話し終わったところで、紫が目を伏せて言った。
「そう……大変だったのね」
「あはは……」
まあ、やっぱりそういう反応になっちゃいますよねえ。
いや、わかっている、これは心ある者として自然な反応だ。だから、いちいち気にする志弦の方がひねくれているのだ。自分の精神が、まだまだ中途半端に幼いということなのだ。
けれど、
「……家族が皆、か」
けれど、月見の反応だけは、少し違っていた。
「……機会があれば、会ってみたかったよ」
「……」
祈るような顔をしていた。
それはただ独り残された志弦を憐れむのではなく、死んでいった者たちを悼む言葉だった。そういう風に言ってくれた人が初めてだったせいもあるのだろうが、月見の言葉は、呆気ないほどすんなりと志弦の胸まで落ちてきた。
こういう言葉の方が、好きだなと。志弦はそう思う。
なぜ月見が、知りもしない赤の他人の死を悼み、また、会ってみたかったと願うのかは、わからないけれど。
「……そうですね」
気がつけば、自然と笑えていた。
「月見さんなら、きっと仲良くなれてた気がします」
月見が祖父と酒を呑んでいる光景を夢想する。決して言葉は多くないけれど、祖父が何事か口を動かして、月見が静かに相槌を打っている。その傍では、祖母が微笑みながら二人に酌をしている。
たったそれだけの光景なのに、なぜだろう、志弦はどうしようもなく胸が切なくなってしまった。本当にそうだったらよかったのにと思った。だからこそ、この光景がもう決して叶うことのない夢なのだという事実に胸が痛んだ。
慌てて、明るい声で言う。
「まあそんなわけなんで、待ってくれてる人も、戻ってやりたいこともこれといってないわけなのです。正直、こっちで暮らすのもアリなのかなーなんて思ってるくらいで」
「そうなの? いいわよ、あなただったら大歓迎だわ」
「……い、いやいやそう言ってもらえるのはありがたいんですけど、ちょっと待ってください」
今日遊ばない? と誘われてオーケーをしたような即答だった。志弦は更に慌てて、
「でもやっぱ、家にも大切なものとかいろいろあるんで、置きっぱにしたくもないんです」
紫は考える素振りも見せない。
「じゃあ、こっちに持ってくる? 最先端の精密機械なんかはダメだけど、そういうの以外なら」
「……、……いいんすか?」
話がトントン拍子で進みすぎて、逆に志弦が戸惑ってしまった。だって聞いた話によれば、ここで暮らすことを選べば最後、元の世界へは戻れなくなると、
「……あ、もしかしてそのへんのサポートは充実してるってやつですか。お手軽幻想郷引っ越しプラン学割付き的な」
「んーん、普通はこんなことしないわ。めんどくさいし、キリがないし」
じゃあなんで、
「月見の頼みだもの、一番の選択をさせてやりたいって。……だから、あなただけ特別。向こうから必要な荷物を持ってきて、ここで人生をやり直すのが、あなたの一番の選択なんでしょう?」
「……えっと、まあ、そう思ってますけど」
志弦は紫と月見を交互に見た。躊躇いがちに、
「……なんか、ここまでしてもらっちゃって、いいんすかね」
自分が望んでいたことなのに。すんなり話が煮詰まったら煮詰まったで、かえって申し訳なくなってしまう。
紫が可憐に微笑んだ。
「いいのよいいのよ。月見からのお願いなんだもの」
「そうですか……」
なんとなく、ああこの人は月見さんのことが好きなんだな、と志弦は思った。『月見からのお願い』という部分に、どう見ても普通と異なる深い感情を込めたニュアンスがあった。
好きな人にお願いされたから、本当はちょっとめんどくさいけど、頑張っちゃう。
なんて健気な人なのだろう。月見と紫がどういう関係かはわからないし、いま尋ねるようなことでもないから黙っているけれど、幸せになってほしいなーとそんなことを思う。
ともあれ。
「んと。……じゃあ私、ここに残っても……いいっすかね」
「……その選択で、いいんだな?」
月見の、静かな問いだった。それがお前の答えなのか。家族を失った悲しみで自棄になっているわけでも、ただ異世界にやってきた勢いだけで決めたわけでもない、後悔のない選択だと言い切れるのか――そう、問われている気がした。
「――後悔しないよ」
答えた。
「上手く言葉にできないけど――ここにいないといけない、気がする。ここのことを、忘れちゃいけない気がする。理由は、わからないけど。……だから私は、ここに残って、その答えを探す」
一拍、
「……って、なにカッコつけたこと言ってんすかね私! よ、要はここにいたいってことで! ご迷惑じゃなければ、よろしくお願いしまっす!」
中二病同然のハズカシイ言い方になってしまったと気づき、熱くなった顔を隠すように深く頭を下げる。返事はすぐ返ってきた。
「ああ。よろしく、志弦」
顔を上げると、びっくりするくらい優しい表情をした月見がいて、
「正直なところ、お前がその選択をしてくれて私は嬉しいよ。ようこそ幻想郷へ――って、これは紫のセリフか」
紫がすかさず片手を上げ、高らかに言った。
「ようこそ幻想郷へ!」
志弦は、蕾が開くように笑った。
「……あははっ」
体が、そしてそれ以上に心がぽかぽかとしてあたたかいのは、きっと温泉あがりだからではないはずだ。ああそうだ、と思う。誰かと穏やかに過ごす時間は、こうも心があたたかくなるものなのだと。祖父を亡くして以来すっかり途方に暮れて、そんなことも忘れてしまっていた。
――だから、いいよね、おじいちゃん。
家督を継ぐ約束は、ちょっと果たせそうにないけれど。
「じゃあ、お前が住む場所を決めないとね。向こうから荷物を持ってくるにしても、それが決まらないことには置き場もないし」
「そうっすねー。……ちなみに、ここに住むってのは」
「そっ、そんなのダメですーっ! 羨ま――じゃない。なにか間違いとかあったらダメだから絶対にダメッ!」
「……紫さん、わっかりやすいなー」
「……にゃ、にゃんのことかしら」
ここに残りたいと願った志弦の選択に、嬉しいという言葉で、応えてくれた人がいる。
志弦の心を惹きつけて已まない、不思議な人がいる。
忘れてしまいたくない人がいる。
だから、志弦は。
「……ね、月見さん」
「うん?」
「なんてーか……ありがとう。いろいろと」
「……どういたしまして」
神古志弦は、ここにいる。