銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第75話 「K ①」

 

 

 

 

 

 マンガみたいな話をしよう。

 身内と呼べる人たちがみんな死に、引き取り手もなく天涯孤独となった。

 マンガの中だけの話だと思っていた。

 

 両親は、物心がつく頃にはすでにいなかった。不幸な事故だったと聞いている。寂しくはあったが、祖父母がまるで我が子を扱うように可愛がってくれたので、不幸だと思うことは一度もなかった。むしろ過保護なほど惜しみなく愛されていた分だけ、他の同級生より幸せだとも思っていた。

 しかし、何事にも終わりはやってくる。

 自分が中学生になったあたりで祖母が病で逝き、祖父もまた、先日逝った。

 未成年にして早くも家族を失った自分だが、身寄りはない。名前もロクに知らない他人みたいな親戚はちらほらといるものの、どうやら自分を引き取ったり、支援したりするつもりは皆目ないようだ。祖父の葬式に素知らぬ顔で姿を見せたのが最後で、それ以降は音沙汰のひとつもない。

 わかっている。悪いのは自分だ。いくら若いとはいえ自分みたいな人間を、好き好んで引き取ろうとするお人好しがいるとは思えない。

 霊感体質。霊が見える人間。よくないモノを引き寄せる人間。

「あそこに誰かいるよ」と言って、誰もいない空間を指差す。

 誰もいないと言えば、「なんで見えないの?」と真顔で返される。

 同じ部屋にいるだけで、どこからともなく変な音が聞こえたり、物が突然倒れたり、様々な気味の悪い現象と出くわす。

 そんな子どもが近くにいたら、そりゃあ、親戚は誰も近寄らなくなる。親戚でさえそうなのだから、同級生など言わずもがなだ。みんなから避けられ慣れてしまえば、やがて自分自身も、進んで誰かと仲良くなろうとは思わなくなる。

 イマドキの言葉でいえば、ぼっちというやつだ。

 祖父母が逝ってしまった今、自分は真の孤独の中にいた。

 

「……どうすんだろうなー、これ……」

 

 自分で聞いても無感動な声だった。どうするんだなんて言っておいて、困っている様子はまるでない。困るという感覚など、もうとっくの昔に麻痺している。

 着の身着のまま、夕暮れの空の下を当てもなく歩いている。

 吐き気がするほど居心地が悪かった祖父の葬儀を終え、なんとか学校に復帰したはいいものの、そこでようやく自分は、天涯孤独というものの恐ろしさを知った。舐めていた。『誰もいない』――言葉にすればたったそれだけのことが、こんなにも虚しいとは思っていなかった。案外なんとかなるんじゃないかと、軽々しく考えていた自分がこの上なく愚かだと思えた。

 自分は別にひとりでも平気だから。というかひとりの方が気楽でいーし。そんなことを言って粋がっている同級生が何人かいる。かくいう自分もそうだった。

 知らないからそんなことが言えたのだ。ひとりの方がいいなんて宣っておきながら、実際のところひとりで生きている高校生なんていやしない。気楽に会話できる友人が一人はいる。教え導いてくれる先輩や先生がいる。SNSでバカをやれる仲間がいる。家に帰れば家族がいる。自分にだって祖父がいた。そうやって何人もの人たちに支えられて生きているやつが、「ひとりでも平気だ」とか、まるで笑い話ではないか。

 隣に、誰もいない。「ただいま」という言葉に誰からの返事も返ってこなかった時、携帯に登録された祖父の電話番号がもはや無意味なものだと気づいた時、自分はその恐ろしさを知ったのだ。

 だから学校が終わると、自分は家に帰るのが怖くなってしまって、今までずっと当てもなく町を徘徊していた。

 そして今も、徘徊している。

 

「参っちまうなー……」

 

 本当に。もちろん、いつまでも祖父と一緒にいられるなどと虫がいいことを考えていたわけではない。いつかは別れの時がやってくるのだと、頭では理解していた。でもそれは、高校を卒業して、進学するなりなんなりしたあとに就職して、祖父の援助がなくても生きていけるようになって、想像はできないけれど結婚もして――とにかく、まだずっと先のことだと思っていた。

 自分は一体、どうすればいいのだろう。

 世界のすべてから見放されてしまったかのようだ。そして事実、自分は周囲のすべてから見放され、独りなのであった。

 これから、どうやって生きていけばいいのか。

 そんなことも、わからなくなってしまった。

 

「っ!」

 

 そのとき、石かなにかに躓いてバランスを崩した。普段であればちょっとたたらを踏む程度で、問題なく立て直せるはずの躓き方だった。

 どうやって生きていけば、なんてクソ真面目な考え事をしていたせいで、情けないほど反応が遅れた。

 

「った!」

 

 ロクに受け身を取ることもできず、ほとんど胸から倒れ込む。両腕と両膝をしたたかに打ってしまい、駆け抜けた鋭痛に顔をしかめる。角ばった小石が散らばる地面だったのが災いした。右の膝から血が流れている。

 最悪だ。

 だがお陰で、正気に返ってこれた気がした。

 

「…………帰ろ」

 

 いつまでも当てもなく徘徊して、まるで意味がない。そんなことをしたって、誰かが助けてくれるわけでもない。さっさと家に帰って、これからのことを考えた方が建設的ではないか。

 ため息。ぼんやりと思う。

 独りでも生きていくべきなのか。

 それともいっそ、祖父たちと同じところへ行ってしまうのもありなのか。

 ゆっくりと考えてみよう。死ぬのは別に、いつだってできることだから。

 そう思い、立ち上がった。

 

「……さてと。随分適当に歩いちゃったけど、ここはどこ――」

 

 見覚えのない場所だが、どうせ近所の空き地か公園だろう。この町の地理ならだいたい頭に入っているし、そうでなくともポケットの中には、GPS機能付きの携帯電話がある。

 だから別にどこでも問題ないと、高を括っていた。

 

「……えっと」

 

 思わず、呟いていた。

 

「――ここ、マジでどこ?」

 

 自分を取り囲んでいたのは、人工的な建物がひとつとして存在しない、殺風景極まる剥き出しの大自然だった。

 

「……え、ちょ、待っ」

 

 焦った。どう見たって近所の空き地や原っぱではない。街路樹とは明らかに違う痩せ細った不気味な木々が乱立し、見渡す限りどこまでも平地が広がり、どれくらいの距離かもわからないほど彼方を山々が囲んでいる。家やビルの建造物はどこを探しても影ひとつなく、石を杜撰に積み上げた塚のようなものがあちこちに散らばっている。

 都会とまではいえないとしても、自分が住んでいたのはそれなりに大きな町だった。ところどころに申し訳程度の雑木林や緑地公園があるだけで、それ以外はコンクリートの道と家とビルが敷き詰められた、人工物であふれかえった町だったはずなのだ。

 こんな、見渡す限りの大自然で囲まれた場所があるなんて、聞いたこともない。

 ひと目見ただけで、ヤバいと思った。携帯電話を取り出す。地図のアプリを起動し、GPSで現在地を取得する。

『現在地を取得できません』というテロップが表示されるまで、さほど時間は掛からなかった。

 それからようやく、携帯電話が圏外になっていることに気づいた。

 

「……は、は」

 

 乾いた笑いが口からもれた。意味がわからなかった。なるほど確かに、自分は当てもなく町を彷徨い歩いていた。どこをどんな風に歩いたかなんて覚えてもいない。ふと気づいたら知らない場所に立っていたとしても、ありえない話だとは言い切れないだろう。

 そこは認めよう。

 だがものには限度がある。

 繰り返すが、自分が住んでいたのはそれなりに大きな町だった。コンクリートの道と家とビルが敷き詰められた、人工物であふれかえった町だった。隣町も同じだ。自分の町は内陸部で、周りをたくさんの町で囲まれていて、山でハイキングをしようと思ったら車を飛ばすか、電車をいくつか乗り継ぐかしなければならない。

 なのに一体どこをどう歩けば、見たこともない、聞いたこともない、電波が届かずGPSも役に立たない山奥に迷い込んでしまうのか。

 しかも、そんじょそこらのただの山奥ではない。平原のあちこちに散らばっている、大小様々な石を積み上げたもの。まるで、ありあわせの材料で死者を弔った塚のようにも見える。

 もしこれが本当に塚だとすれば――いや、塚でなくともこんなものは常軌を逸している。ぱっと見渡す限りでも、百では下らないほどの数が散らばっている。この異様な風景を作り上げた何者かが近くにいるのだ。どう考えたってまともではない。お化け屋敷やホラー映画なんかよりもよっぽど恐ろしくて、気づけば大きく身震いをしていた。

 ふと、インターネット上で都市伝説として語られている、異世界に迷い込んだ人の話を思い出した。確かその人は、BBSに最後の書き込みをして以降消息が途切れ、生死不明となっていたはずだ。

 ひょっとすると自分も今、その一歩手前にいるのだろうか。

 

「いや、まあ。確かに、死ぬのもありかな? とか思ったのは事実だけどさ……」

 

 あくまで選択肢のひとつのつもりだった。家に帰って、ゆっくりとこれからのことを考えて、何日かひとりきりの日常を過ごしてみて、それでも頑張ろうと思えなかったら、まあそういう選択肢もあるのかなと思っていただけで。なにも本気だったわけではない。

 こういうときばっかり張り切って願いを叶えてくれやがる神様は、きっと、サディストだ。

 

「ちくしょー……マジでどうしよ」

 

 困るという感情を、随分と久し振りに思い出した。いや、困るなどという生易しいものでなかった。知らない土地でひとりぼっち。人の気配はなく、それどこか建物のひとつもない。助けを求められる相手もおらず、どこに行けばいいのかもわからず、なにをどうすればいいのかも頭に浮かばない。わかるのはただ、このままなにもしなければ野垂れ死ぬということだけ。

 怖すぎる。冗談じゃない。祖父を失ったばかりの今でなければ泣いていた。足が震えて、立っていることもできなくて、膝から崩れ落ちた。転んで切った傷が痛んだが、そんなことを気にする余裕もとっくになくなってしまっていた。

 湿った声で、呟いた。

 

「……神様が、死ねって言ってんのかなー」

 

 地面に両腕をついて、その場で丸くなる。まぶたを下ろして、目の前の現実を拒絶するように暗闇の世界へ閉じこもる。生き延びるためにはなにかをしなければならないのに、そんな気持ちなど綺麗さっぱり湧いてこない。むしろ、眠ってしまいたい。今まで散々彷徨い歩いたからなのか、心地よい眠気が襲ってきていた。その眠気に身を委ねて、もう、眠ってしまってもいいのではないかと思った。

 よくわからないけれど。

 このまま眠れば、楽になれるような。

 そんな、気がした。

 不思議な感覚だ。自分という存在が段々と解けていくような。解けて、消えてしまっていくような。頭のどこかで、待てやめろ、戻ってこれなくなるぞ、しっかりしろと叫んでいる自分がいるけれど、それがどうしたといった感じだった。だってこんなにも、悪くない感覚なのだから。だからきっと、悪いことにはならない。

 死んでしまうとしても。

 こんな気持ちで死ねるなら、それはそれで、悪くない。

 だから自分は、それっきり思考を止め、呼吸を止め――

 そして、

 

「そおい」

「はぐあっ!?」

 

 いきなり脇腹を蹴っ飛ばされた。体が横に転がって、大の字でぶっ倒れて、赤い夕暮れ空が視界いっぱいに広がった。

 当然、眠気など綺麗さっぱり消し飛んだ。

 声、

 

「まったく、なにをやっているんだい君は。ここで消えかけてる人間なんて久し振りに見たよ」

「え? え?」

 

 じんじんと痛む脇腹を押さえて起き上がる。一体どこからやってきたのか、すぐ傍に小学生くらいの女の子が立っていて、自分の方を冷ややかな半目で見下ろしている。

 

「どうせ死ぬなら、妖怪たちに潔くその体を差し出してくれると助かるよ。ついでに、私の仲間たちにおこぼれをくれると理想的だ」

「え、あ、えっと、なんかすみません?」

「まあ、外来人の君にこんなこと言ってもわからないだろうけどね」

 

 不思議な少女だった。いや、不自然な少女だった。異質とすらいってもいい。同年代では背が高めな自分と比べると、頭ひとつ分ほど身長差がある。ランドセルを背負って小学校に通っているような女の子である。どう考えても、こんな得体の知れない山奥で出会うような相手ではない。

 両手には、見たこともない不思議な形状の棒を握っている。途中でL字を描いて折れ曲がり、それぞれの先端ではなんらかの記号が(かたど)られている。アルファベットなのかもしれない。とりあえず、ひとつが『S』の形をしているのはわかった。

 そして。

 女の子の頭の上に、パンダ――いや、ネズミか。ネズミの耳が乗っている。しかも背後からは尻尾と思われる細長いシルエットが伸び、くるりと渦巻きを描いて、その先端に小さなバスケットを吊り下げている。黒いスカートの裾の部分が切り絵みたいに切り取られており、太腿がチラチラと覗いて実にけしからん出で立ちである。

 コスプレ少女。

 こんな不気味な山奥で。

 幼い外見に反して、大人顔負けに落ち着いた口調だった。

 

「それで、目は覚めたかい?」

「え? あ、はい。お陰様で?」

「それは上々。感謝したまえ。私が蹴っ飛ばしてなければ、君は今頃消滅していたよ」

「あ、やっぱり? ――っていやいやいや」

 

 とりあえず会話を行いながら、現状を整理するため思考を回転させる。

 

「確かに、このまま死ぬかな? とは思ってたけど、消滅ってなにさ」

「文字通りの意味だ。気づいてなかったのかい? 体が半分透けていたよ、君」

「……えーっと」

「ここはそういう場所なんだ。生きる意志の希薄な――要は死にたがりの人間が迷い込み、心の弱い者は己の存在を保つことすらできない。肉体も残さず死ぬということさ。食い気のある獣たちからすれば、餌が残らないのはちょっと困る」

「待って、ごめん、待って」

 

 思わず両手を前に出して、女の子の川のような言葉を遮った。話の内容が電波すぎて、どこからどう噛み砕けばいいのかわからない。目の前にいるのがかわいらしい女の子ではなく、例えば不潔そうな感じのするおじさんだったら、迷わずヤバい人認定して逃げ出しているところだ。

 女の子が、くつくつと笑った。

 

「君、ここがまともは場所じゃないのはわかってるだろう?」

「えっと、うん」

 

 それくらいは。

 

「私のことも、まともな人じゃないと思ってるだろう?」

 

 どう答えてよいかわからず沈黙する。だがその沈黙が、なによりも雄弁な回答である。

 女の子は笑みを崩さない。

 

「その認識でいいさ」

「え、」

「ここはまともな場所じゃない。まともな人もいない。わかりやすくていいだろう?」

 

 いや、いいだろう? とか言われても、

 

「ついておいで」

「え、ちょっと」

「もうすぐ日も暮れる。こんなところでいつまでも話すのもなんだし、歩きながら説明しよう。幸い、君みたいな人間の相手は初めてじゃないしね」

「ま、待ってってば!」

 

 引き留める。こんな一方的に、言葉を押しつけるだけ押しつけておいて、

 

「意味わかんないって! 一体全体、どういうことだよ!」

「だから、それを歩きながら説明すると言ってるんだ。ああ、私のことが信じられないならついてこなくたっていい。君が本当に死にたがりなら、そこでじっとしてるといいさ。死の方から一目散で駆け寄ってきてくれる」

「……、」

「まあ、まともな死に方はできないだろうけどね」

 

 それっきりだった。女の子はまるで素っ気なく振り返って、どこかへ向かって歩き始めてしまう。その足取りに、迷いや後ろめたさは一切ない。自分がこのままなにもしなければ、女の子は自分をおいてどこかへ立ち去るだろう。

 さて、どうしたものか。

 女の子の存在は、地獄の中で垂れてきた蜘蛛の糸と同じだ。縋りつかなければ、いよいよ為す術がなくなってしまう。どこかもわからない謎の山奥で逞しくサバイバルができるほど、自分には知識も力もない。

 一方で、この蜘蛛の糸を登った先に救いがあるとも限らない。たとえ見た目がかわいらしい女の子であっても、ネズミのコスプレをしながら電波トークを繰り広げるような相手を信じろなんて到底無理な話だ。連れて行かれた先に怖い人たちがいて、襲われたりなんだりするかもしれない。

 でも。

 でもこの子は、たとえネズミのコスプレをしていても口を開けば電波トークでも、生きている人に変わりはないわけで。

 そして彼女の言う通り、ここに留まって生きて帰れるとは、どれほど楽観視しても思えないわけで。

 夕日が遠い尾根の向こう側へ消え、段々と夜の帳が降りてきている。ただでさえ不気味だった風景が、薄暗くなったことでますます雰囲気を増してきている。幽霊の一人二人は平気で出てきそうだ。遠くで狼かなにかの遠吠えが聞こえるのは、きっと幻聴ではない。

 

「……」

 

 消去法だった。少なくとも、この場所で夜を迎えるメリットはない。だから立ち上がり、切った膝の痛みを極力意識しないようにしながら、女の子の後ろ姿を追いかけた。

 女の子が振り返りもせず、

 

「ついてくるんだね。ひょっとしたら、私は君を騙しているのかもしれないよ?」

「はいはい。どうせこっちには選択肢ないでしょーが。ちっとでも可能性がある方に懸けるだけだよ」

「そうか。……気休めにもならないだろうけど、安心したまえ。騙すつもりはないから」

「それはいいんだけど……」

 

 女の子の背中から三歩ほど離れた位置について、無数の塚が散らばる原っぱを進んでいく。女の子の後ろ姿を眺めていたらふと、尻尾の先から吊るしたバスケットの中に、三匹ほどネズミが入っているのに気づいた。まさか、ペットだろうか。彼女がなぜここまでネズミに拘っているのか、自分には到底想像もできない。

 

「それで、どこに連れてってくれるわけ?」

「まともな人がいるところまで……かな。少し遠いから、歩くことになるけどね」

「なんだ……まともな人、ちゃんといるんじゃん」

 

 まともな人なんていない、と言っていたから自分はてっきり。

 

「こんなところまでゴミ拾いに来るような変人だがね。外来人の扱いは心得てるだろうさ」

「あー、まあ助かるならなんだっていいや」

 

 この女の子の、やたら知的で思わせぶりな話し方にはもう慣れた。『外来人』なる謎の言葉についても、今は訊かない。

 

「……でさ。まずはっきりさせときたいんだけど、君、何者? ただの女の子には見えないよ」

「――妖怪」

 

 女の子が、振り返った。

 思わず、足を止めた。

 

「え?」

「妖怪鼠、ナズーリン。まあこの先会うことはないだろうけど、覚えてくれても構わないよ」

 

 ようかい。妖怪。日本人なら老若男女問わず誰でも知っている、太古の科学。当時の知識では説明できなかった現象に理由を与えるため、人の手によって生み出された社会的装置。

 女の子の尻尾が、くるりとくねった。

 針金を入れた作り物では到底真似できない、まるで生きているかのような動きだった。

 女の子は、笑った。

 

「――信じるか信じないかは、君次第だ」

 

 その瞳は、人間ではありえない。

 薄闇の中でも妖しく輝く、深い深い紅の色をしていた。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

「――だから、ついこの間もまた霊夢と魔理沙に、買ってきたばかりのお菓子を持って行かれてしまったんだ。月見、君からも言ってやってくれないか。僕が許可を出していない以上、あの行為は窃盗という犯罪なんだということを」

「わかったわかった。……お前も随分苦労してるよなあ」

 

 森近霖之助は、どうも酔いが回ると愚痴っぽくなるらしい。右手に持った猪口の底まで深く視線を落とし、「霊夢も魔理沙も、盗みとツケさえやめてくれればいい子なのに……」とぶつぶつ言っている霖之助に、月見は同情的な苦笑いを返した。

 今日の店じまいを終えた香霖堂の、裏庭に面した縁側であった。着々とその輝きを増しつつある月を肴にしながら、月見は霖之助と、野郎二人水入らずの酒盛りをしていた。

 香霖堂で霖之助と二人で酒を呑むようになったのは、夏を間近に控えた春の終わり頃からだったと記憶している。きっかけは、なんてことはない、たまには野郎同士静かに酒を呑みたいと月見が思ったからだ。少女たちと賑やかに楽しむ酒も嫌いではないが、いかんせん賑やかすぎて、いつも宴会みたいなバカ騒ぎになってしまうのは困りものである。

 そんな経緯から始めた野郎二人の酒盛りは、思いのほか霖之助にも好評だったらしく、以来は月に何度か香霖堂で、お互い酒を注いだり注いでもらったりしている。そしてその中で霖之助がもっぱら話題にすることといえば、香霖堂で数々の横暴を繰り広げる古馴染み二人に対する愚痴なのだった。

 博麗霊夢と霧雨魔理沙の紅白黒コンビは、香霖堂をタダで利用できる休憩所と勘違いし、我が物顔でお菓子やお茶を持って帰る、ツケるばかりで一向に代金を支払わないなどの傍若無人を繰り返している――というのは、もはや月見もよく知っているところだ。月見が酒を呑みに来るたび、やれあれを持って行かれた、これを持って行かれた、また代金を払ってもらえなかった等々、愚痴の種は尽きる様子がない。深く項垂れてため息をつく霖之助の横顔は、なんだか一気に老け込んでしまったように見えて、お前も大変なんだなあと月見はしみじみ思った。

 霖之助が顔を上げた。

 

「苦労してるのは君もそうだろう? 毎日毎日昼も夜も客がやってきて、ロクに一人で休めもしていないそうじゃないか」

「それはそうだけど、かといってあながち迷惑してるわけでもないよ。一人で暇してるよりかはずっといい」

「経営の方は大変じゃないのかい?」

「藍とか咲夜とか、手伝ってくれる子がいるからね、それほどでもない。客も、みんな勝手にやってきて勝手に帰って行くから楽なもんさ。もしかしたら代金踏み倒してるやつもいるのかもしれないけど、別にお金ほしさでやってるわけでもないしね。特に気にしてない」

「八雲紫と蓬莱山輝夜の喧嘩は?」

「始まったら即行で外に叩き出す程度には慣れた」

 

 霖之助は苦笑、

 

「……まったく。君は、物事を前向きに捉えるのが上手だね。見習いたいよ」

 

 月見は一笑、

 

「ッハハハ、うじうじするのは趣味じゃないんだ」

「うじうじ、か。これは痛いところを衝かれたね」

「そう思うんだったら、なんとかしないとな。……やんわり口で言ってもわからない相手なんだ、いっぺん怒鳴りつけるくらいしないとダメなんじゃないか?」

「そうはそうかもしれないんだが……しかしこう、怒鳴ったりするのは、あまり得意でなくてね。あとから思い出して死にたくなる。女の子が相手ならなおさら」

「……やっぱりお前、苦労するタイプだよ」

 

 将来は尻に敷かれるんだろうなー、と月見はそんなことを思った。霖之助に結婚する予定があるのかはわからないけれど。

 酒瓶を手に取り、

 

「もう一杯、いくかい」

「……もらうよ」

 

 霖之助の猪口に酒を注ぐ。無色透明の大吟醸は、今は月明かりに照らされて、少し青白い。

 表の方からノックの音が聞こえたのは、ちょうど霖之助の猪口がなみなみ酒で満たされた頃だった。月見と霖之助は同時に振り返り、また同時にお互いを見合って首を傾げた。

 

「……霖之助、客じゃないか?」

 

 月見が霖之助と酒盛りをする時、香霖堂はいつもより早めに店じまいをする。故に、遅めのお客さんがやってきたのだとしても不思議ではないけれど、

 

「……まさか、噂をすればってやつじゃあないだろうね」

「さあ」

 

 霖之助が細めた瞳には警戒の色がある。霊夢か魔理沙じゃないかと疑っているようだ。

 今度は、ノックの音とともに声が聞こえた。

 

「店主ーっ! いないのかい!? あまりに儲けがないから、とうとう店を畳んだのかな!」

 

 聞き覚えのある声だった。

 

「この声って……」

「ナズーリン、だね。ふむ、彼女がやってくるなんて珍しい」

 

 月見の脳裏に、かつて無縁塚で出会った妖怪鼠の少女が浮かんだ。無縁塚で道具を蒐集する霖之助と、同じく無縁塚でダウジングをするナズーリンは、互いに面識がある知人同士だと聞いている。

 

「とりあえず、行ってきたらどうだい」

「そうだね……じゃあ、ちょっと席を外すよ」

 

 霖之助が猪口を置いて立ち上がったところで、また声が飛んでくる。

 

「店主、居留守を使ってるなら出てきた方が君のためだよ! 外来人だ! まさか見捨てるってことはないだろうね!」

 

 霖之助が歩きかけた足を止め、月見は思わず眉を上げた。

 少し間があってから、霖之助が声を張り上げた。

 

「今行くよ! ちょっと待っていてくれ!」

 

 ノックの音がやんだ。霖之助は緩く息をつき、それから横目でつと月見を見た。

 

「……無縁塚に迷い込んだ人間は、大概がすぐ妖怪に食べられてしまうんだけどね。まれに――本当にまれに、五体満足で生き延びる人間もいるんだよ。そんな人間を、ナズーリンは連れてきてくれることがある」

「……」

「詳しくは知らないけど、毘沙門天の弟子なんてのをやっているみたいでね。皮肉屋だが、人間には比較的優しいんだ」

 

 今日はここでお開きみたいだね。そう言って、霖之助は小さく笑った。

 外来人――幻想となったものが集う幻想郷に、どういう因果か外から迷い込んでしまう人間がいる。無縁塚は博麗大結果が綻ぶ幻想郷唯一の場所であるため、特にそういう人間が多いという。

 外の世界で生きる意味を見失った、死にたがりの人間。

 大抵はそこで妖怪に喰われてしまうようだが、まれに運良く生き残る者がいる。妖怪に襲われたことで死の恐怖に気づき、生きたいと願い直す者がいる。そういった人間は紫が記憶を消して外へ送り返すようだが、中には故郷を捨て、幻想郷で生きることを選ぶ人間もいる。

 

「……月見。君も来るといい」

 

 霖之助が、静かに言った。

 

「……いいのか?」

「だって、君」

 

 振り返り、苦笑した。

 

「気になって気になって仕方ない。そういう顔をしているよ」

「……そうか」

 

 自覚はなかったが、そうなのかもしれないなと月見は思った。かつて目の前で、誰にも救われず死んでいった外来人のなれの果てを見たことがあるから。

 あの場所とはもう関わらない、中途半端な気持ちで関わってはいけないのだと、言い聞かせてきたけれど。

 こうして向こうの方からやってきてしまったのなら、見て見ぬふりをするのは難しそうだ。

 ナズーリンが吠えた。

 

「……店主っ、いつまで待たせる気だい!」

「僕だって暇じゃないんだ! もう少し寛大になってくれると助かるよ!」

「女を待たせる男は、どんな理由があれ悪だ!」

 

 素気ない返答に、霖之助ががっくり肩を落として項垂れた。「どうして僕の周りの女性はこうもみんな横暴なんだ……」とか、そんな感じのボヤきが聞こえた。

 というか、今更なのだが、

 

「なあ、霖之助。『裏に回ってきてくれ』って、そう言えば解決だったんじゃないか?」

「……、」

 

 本当に、今更すぎたようだ。

 

「――店主っ、いい加減にしろぉっ!」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 自らをナズーリンと名乗った女の子に連れられ、やってきたのは『香霖堂』なる建物の前だった。ナズーリン曰く、愛想のかけらもない店主が営業するセンスのかけらもない古道具屋らしい。

 至って純和風の建物で、正面には一階建てのこじんまりとした母屋があり、左手には昭和あたりのチラシがべたべた張られた蔵がある。壁沿いではたくさんの箱や壷や置物、果てはアナログテレビや錆だらけの看板までもが積み重なり、なるほど道具屋といえば道具屋らしいが、一方でゴミの不法投棄現場のようでもある。夜の薄闇と合わさってなかなか怪しい雰囲気を醸し出しており、ナズーリンの案内でなければ近寄ろうとも思わなかっただろう。

 ナズーリンがドアをノックしてから、すでに一分が経っている。ナズーリンはむすっと腕を組んでいる。

 

「……いつまでも出てこないで、一体なにをやっているんだあの店主はまったく。悪いけど、もう少し待っていてくれ」

「…………あぁ、うん」

「随分と上の空みたいだね。大丈夫かい?」

 

 誰のせいだよ。

 歩きながら話すという言葉通り、香霖堂に辿り着くまでの道中で、ナズーリンはここがどこなのかを自分に説明してくれた。大変詳しく。懇切丁寧に。わかりやすく。隅から隅まで。

 幻想郷。

 現代社会で幻想となった者たちが行き着く最後の楽園。日本にあって日本にない場所。人間と妖怪と神々が共存する世界。

 異世界。

 マンガじゃねーのと思う。

 実際、はじめ説明を聞いた時はそう言った。この子はネズミのコスプレをしていて口を開けば電波トークで、頭の中もなかなか吹っ飛んでるんだなと本気で思った。

 神様がどうかはわからないが、少なくとも妖怪なんて生命体はこの世に実在しないのだ。昔の知識では説明できなかった謎の現象を、山の奥深くに住んでいた得体の知れない原住民族を、朝廷に従わなかったまつろわぬ者たちを『妖怪』と呼称したのであって、虎柄パンツに棍棒を持った鬼だとか、翼を生やした修験者姿の天狗だとか、いやらしい笑みを浮かべて小豆を洗う小豆洗いだとか、そういうのは昔の人々によって「こんな感じかな?」と想像された姿であり、いってしまえばただの創作なのだ。

 お前が普段から見ている幽霊も妖怪の仲間だろ、という揚げ足取りは受けつけない。

 なのにナズーリンは、この幻想郷には角を生やした鬼がいるし、翼を生やした天狗がいるし、小豆洗いもまあそのへん捜せばいるんじゃないかい? などと言う。

 まっさかー、さすがにそんなあからさまな話にゃ騙されないぜー。そう笑って終わるはずだった。

 ナズーリンが目の前でくるくる空を飛んで見せたり、ネズミ耳がちゃんと頭から生えてるのを見せてきたり、突然襲いかかってきた狼のような生物を弾幕とかいう謎の攻撃で撃退してさえいなければ。

 

(……マジで異世界なのかなー)

 

 入口のドアの上に掛けられた、『香霖堂』と堂々書かれる木の横看板を見上げながら、仮にここが本当に異世界だとすれば、自分は果たして帰れるのだろうかと思った。マンガやアニメなどでは、異世界にトリップした現代人はそう易々とは帰れないのがお約束(テンプレ)だ。帰る方法はない、なんてことになったら非常に困――

 

(――らないか、別に)

 

 元の世界に戻らなければならない理由なんて、ないように思う。家族はみんな逝ってしまったし、会えなくなったら悲しい知人がいるわけでもないし、これといって叶えたい夢もないし、ネット中毒でもないし。

 というか、オカルトが科学で否定される世界よりも、妖怪や神様が当たり前のように存在している場所の方が、霊感体質の自分には分相応なんじゃないか――。

 そんな夢みたいなことをふと考えたところで、ようやく目の前のドアが開いた。

 

「お待たせしたね」

 

 顔を出した男にナズーリンはジト目で、

 

「遅すぎるぞ店主。一体なにをしていたらここまで人を待たせられるんだい」

「月見と酒をちょっと、ね。大目に見てくれ」

「……へえ、月見がいるのか。それはちょうどいい」

 

 ナズーリンの時と同じで、現代人の自分からすれば不自然な男だった。獣耳や尻尾を生やたりはしていないものの、その代わりに服が――家庭科の成績が壊滅的だった自分では上手く表現できないけれど――まさしくマンガの中でしか見ないようなデザインをしている。和洋折衷とでもいうのか、和服に近い作りでありながら意匠自体は洋風で、コスプレの服屋に並んでいそうである。

 外見は二十代ほど。柔和な顔でナズーリンと会話する姿は、一応、悪事とは無縁の優男っぽい。

 

「――ともかくほら、外来人だよ。君なら今までにも何人も拾ってるだろう?」

「人聞きが悪いことを言わないでくれ。確かに、何人か保護したことがあるのは事実だけどね」

 

 ちなみに『外来人』とは、幻想郷に迷い込んだ現代人たちを指す言葉らしい。

 男がこちらを見た。

 

「はじめまして。僕は森近霖之助。ナズーリンからもう説明があったかもしれないけど、ここで道具屋をやっているよ」

「はじめまして……。えーっと、すみません、こんな時間に」

 

 携帯の示す時間が、この世界でも通用するのかどうかはわからないけれど。

 

「どうも『外来人』とかいうやつらしくて……右も左もわからないというか」

「気にすることはないさ。君のような人間は初めてじゃない」

 

 右手で眼鏡をくいっとやった男――霖之助が、逆の手で香霖堂の中を示した。

 

「さて外はこの通り夜だし、話は中で聞こう。ずっと歩いてきて、疲れたろう?」

「あはは……じゃあ、お邪魔します」

 

 招かれるがまま、純日本家屋な香霖堂で唯一洋風なドアをくぐる。初対面の男の家。当然少なからず不安はあったが、かといって迷ったわけでもなかった。ここは自分の知らない異世界で、夜で、道を歩けば狼のような生物に襲われる場所なのだ。逃げたところでどうしようもないから、腹を括って前に進むのである。

 

「ナズーリンはどうする?」

「……そうだね、ここまで来たら最後まで付き合おうかな。なにより、君が彼女に不埒な真似をしないとも限らない」

「失敬な」

 

 さすがは道具屋というべきか、中はたくさんの道具であふれかえっていた。棚に壁、天井にテーブルに椅子に床の隅と、歩く場所以外で物を置けそうな場所はあらかた制圧されてしまっている。しかし、不思議と居心地は悪くなかった。家の納戸や体育館の倉庫、理科室や美術室や音楽室などの準備室――自分がまだ幼かった頃、そういった物がたくさん置かれた部屋に足を踏み入れたときの、あの言葉にできない不思議な高揚感に似ていた。

 

「すげー……」

 

 思わず見入っていたら、霖之助が眼鏡の奥で目を光らせた。

 

「おっと、君はこの雰囲気のよさがわかるのかい」

 

 その横でナズーリンが肩を竦めて、

 

「なーにが『わかるのかい』だ。呆れられてるに決まってるだろう」

「いやー、結構嫌いじゃないですよこういうの。ガキの頃を思い出すなー」

 

 あの頃の自分には、この世のあらゆるものが宝物に見えていた。だから家の納戸や体育館の倉庫や学校の準備室なんかは、金銀財宝であふれた宝物庫のようなものだったのだ。あの頃の童心をまさか異世界で思い出すとは思っていなくて、なんだか随分と久し振りに、穏やかな気持ちで笑えた気がした。

 ちょっぴり見て回りたいと思っていると、店の奥の方から、ゆったりとこちらへ近づいてくる足音に気づく。顔を向ければちょうど、暖簾が男の右手でめくられたところであり、

 

「――」

 

 なにかが映った(・・・・・・・)

 目にゴミでも入ったように、顔を手で覆って、何度も瞬きをする。ゆっくりと焦点が合ってきて、自分の掌と、香霖堂の床が見える。隣では霖之助とナズーリンがなにか話をしていて、めくられた暖簾の下には不思議そうな男の顔がある。

 元の景色だ。

 

「……あれ、」

 

 なんだろう。男と目が合った一瞬、なにかを思い出しそうになった。頭の中でノイズが入ったような。聞こえもしない声が聞こえそうになったような。

 ナズーリンがコスプレ少女ではなく本物の妖怪だとすれば、彼もまたそうなのだろう。頭の上に綺麗な銀色の獣耳を乗せており、同じ色の尻尾が一本、床に向かってゆったりと伸びている。アニメやマンガの影響なのか、反射的に、妖狐という言葉が脳裏を過ぎった。見た目は霖之助と同じくらいか、それよりも若干大人びて見える程度で、打ち明ければなんでも受け入れてくれそうな、心の広い佇まいをしている。

 言うまでもなく、初めて見る顔である。

 じゃあ、さっき頭の中に走ったノイズは、一体。

 

「……あ」

 

 そっか。狐耳って、アニメとかマンガだと猫耳の次くらいにありがちだし。

 だからつい、なにかのキャラクターと重ねてしまいそうになって、それでさっきのノイズだったのだろう。狐耳のキャラクターといえば、ぱっと考えただけでも三人ほど思い浮かぶ。そのどれもが目の前の男とは似ていなかったが、ともかく、そんな感じに違いない。

 なるほどなるほどと自己完結して納得したら、ずっと不思議そうな顔をしていた男がこちらから視線を外し、霖之助に声を掛けた。

 

「霖之助。お茶の支度ができたよ」

 

 聞き心地がいい、優しいバリトンの声だった。

 霖之助がようやく男の存在に気づいて、

 

「おっと……すまないね、つい立ち話をしてしまった」

「やあ、月見」

 

 ナズーリンがふっと微笑んだ。どこか皮肉屋な態度を崩さなかった彼女が初めて見せた、ひどく無防備な笑顔だった。

 

「君と再び会うのは……『あの人』を連れてからにしたかったのだけど」

「気にしなくていいさ。気長に待つよ」

 

 男も笑みを見せ、

 

「それにしても、お前が外来人を保護したりしてるなんてね」

「保護なんて大層なものじゃないさ。気まぐれで、ここの店主に押しつけてるだけだよ。実際今回も、一度は見捨てようと思った」

「ちょい待ち、それ初耳」

 

 なにやら恐ろしい言葉が聞こえて思わず口を挟んだら、ナズーリンは元の皮肉げな顔で、

 

「驚くような話でもないだろう? あそこがどういう場所で、妖怪がどういうものかは、すでに説明したはずだよ」

「いやまあ、そうだけどさ」

 

 自分が迷い込んだ場所――無縁塚は幻想郷で最も危険な場所で、喜んで人を喰らうような恐ろしい妖怪が、毎夜毎夜餌を求めて徘徊している。餌とはすなわち、外から迷い込んだ死にたがりな人間たちである。

 ナズーリンは進んで人を喰らうほど野蛮ではないが、人の死を悼むほど博愛主義でもない。

 人が喰われる光景なんて、とっくの昔に見慣れたと。そう、言っていた。

 

「じゃあ、なんで助けてくれたんだ?」

 

 一度は見捨てようと思って、でも見捨てなかった。つまり、助けようと思い直したのだ。それはなぜなのか、

 

「……さあね」

 

 ナズーリンは肩を竦めて、横目でつと、男の方を見ながら言った。

 

「助けるようなことでもないと思ったら、どこぞのお人好しな狐の姿が浮かんできてしまってね。それでつい、目覚めが悪くなってしまったんだよ」

「……」

「この男に感謝するといい。彼と出会っていない頃の私だったら、見捨てていただろうよ」

 

 この幻想郷には、大きく分けて三種類の妖怪がいるという。ひとつは主に無縁塚を住処としている、人を率先して襲う凶暴な者たち。もうひとつは、人間と望んで交流する温厚な者たち。最後が、人を襲いはしないが進んで共存するわけでもない、完全な中立を保つ者たち。

 

「望まずして無縁塚に迷い込んだのは不運だが、ここで彼に出会ったのは幸運だね。彼ほど人間に味方する妖怪はいないよ。この店主よりかは、よっぽど君によくしてくれるだろう」

「ナズーリン、君は僕のことをなんだと思ってるんだい?」

「無縁塚までガラクタ集めに来るけったいな変人だが……それがどうかしたかい?」

 

 もういいよ、と霖之助がため息をついて、ナズーリンがくつくつと笑った。それを見て、なんとなくではあるが、森近霖之助という青年の立ち位置がわかった気がした。きっと、将来は女の尻に敷かれて苦労するのだろう。

 半笑いで同情していたら、ふと、男と目が合った。こちらがなにかを考えるより先に、男が言う。

 

「じゃあ、一応名乗っておこうか。私は月見。すでにナズーリンが言った通り、狐の妖怪だよ」

「はじめまして。えーっと、どうも間接的に助けてもらっちゃったみたいで、なんとお礼を言えばよいか……」

「ッハハハ、そんな覚えのないことで感謝されても困るよ」

 

 嫌味な感じがまったくしない、透明な笑い方だった。礼を言おうとした出鼻を呆気なく挫かれたのに、気分が悪くなるどこかむしろ心が軽くなる。こうも不思議な笑い方ができるのは、彼が人ではないからなのだろうか。

 

「名前を訊いても?」

「あ、すいません。私ったら名乗りもしないで」

 

 そういえば、恩人のナズーリンにすら名乗っていなかった。知らない世界に迷い込んで、自覚がなかったとはいえ死にかけて、それだけ余裕を失ってたのかもしれない。

 

「私、神古志弦(かみこしづる)っていいます。バリバリの女子高生っす」

「……神古?」

 

 月見がオウム返しをした。自分にしてみれば見慣れた反応だった。同姓の人間に未だ出会ったことがない珍しい苗字なので、自己紹介をすると大抵こういう反応が返ってくる。

 

「はい。神様の『神』に、『古』いって書いて。人間にはご大層な苗字っすよねー」

「――……」

 

 月見が二の句も継げなくなった様子で、だんまりと口を閉ざした。そこまで驚く? と不思議に思ったけれど、自分はそれ以上深く考えることもなく、やっぱり珍しい苗字なんだなーとそんな呑気なことを思った。

 

 この名が、彼にとってどれほど特別な意味を持っているのか。

 今はまだ、わかるはずもなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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