銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第34話 「狐と博麗とお夕飯。」

 

 

 

 

 

 なにも、空を飛ぶのが嫌いというわけではない。ただ、長年外の世界で暮らしていた影響もあって、のんびり歩く方が慣れているし、性にも合っているというだけの話である。のんびりするほどの時間がなかったり、必要に駆られたりすれば、幻想郷に戻ってきた以上はもちろん月見だって空を飛ぶ。

 眼下には、幻想郷と博麗神社を隔てるように小さな山々が広がっている。三日前には、これらの山肌を縫って伸びている獣道を歩いてみたが、お世辞にもいい道とはいえなかった。足元は木の根やらなにやらでいつ足を取られてもおかしくないし、周囲は鬱蒼と茂る木々のせいで視界が悪く、妖怪がひそんでいたとしても簡単には気づけない。当然、そんな危険地帯をわざわざ歩こうとする人間などいるはずもなく、博麗神社の賽銭箱は、年中無休四六時中で素寒貧なのだった。

 とはいえそんな貧乏神社も、こうして境内に降り立ってみれば決して悪い場所ではない。山の高いところにあるため幻想郷を果てまで一望できるし、今ではもうほとんど散ってしまったが、たくさんの桜の木たちで囲まれているから、花見の穴場としては天下一品だ。然るべき環境を整えれば、少なくとも春の間は、多くの参拝客たちで賑わうことだろう。

 にも関わらず神社の賽銭箱が毎日貧困に喘ぐのは、博麗の巫女が神社の運営を真面目にしていないから――というのは、500年前からしぶとく受け継がれている伝統らしかった。曰く当代の巫女である博麗霊夢は、神社に祀られている神がなんであるかや、そもそも本当に祀られているのかということすら、知らないらしい。早苗が聞いたら貧血を起こすだろう。

 そんな博麗神社の、拝殿の前に立ちながら。

 

「……やあ、また会ったねえ」

 

 小さな賽銭箱の手前に置かれた、『素敵なお賽銭箱はこちらです!』とやたら元気な文字を刻んだ立て札に、なんとなく挨拶をしてみる。もちろん返事など返ってこないけれど、その代わり、物欲しそうな光を放って立て札全体がつやつやと輝いた気がした。

 月見は苦笑を噛み殺しながら財布を取り出し、中身を見てふと気づく。

 

「おや……小銭がない」

 

 紫が換金してくれたはずの古き日本銭が、綺麗さっぱり行方不明になっている。一瞬、どこかでスられたのかと思ったが、お札の方はしっかりと残っているので、

 

「……甘味処でちょうど使い切ったのかな?」

 

 なんともまあ、珍しいこともあるものだった。

 

「しかし、そうするとお賽銭は……」

 

 月見は霖之助から聞かされた話を思い出す。……ガキ大将の気質がある霊夢に歓迎してもらうためには、お賽銭が必要不可欠であり、なおかつ通常よりも多めに入れるのが望ましい。そうしなかった場合、仮に身の危険を伴うなにかが起こったとしても、文句は言えない。

 命が惜しけりゃ賽銭を入れろ。なので月見は、

 

「……それじゃあお札でいいか。景気よく」

 

 本来であればお賽銭は小銭にすべきなのだが、金欠に喘ぐ博麗神社へ力添えする意味を込めることとする。お札を一枚賽銭箱の中へと落とし、鈴を鳴らして二礼二拍手。祈る内容は決まっている。

 

「どうか、あいつらがちゃんとした家をつくってくれますように……」

 

 心の底からそう願う。

 三つ呼吸分の、間。

 そして月見が両手を下ろし、最後に一礼すれば、ずどどどどど、と獣が地を踏み鳴らすような音が聞こえてきて。

 

「――御参拝ありがとうっ!!」

 

 拝殿の影から転がるように飛び出し、地面にブレーキの跡を刻みつけながら現れたのは、博麗霊夢だった。わざわざ名前を尋ねて確認するまでもない。赤と白で彩られた腋のない特徴的な巫女服は、間違いなく博麗の巫女のもの。頭の大きなリボンをご機嫌に揺らして、彼女は太陽みたいに笑うのだった。

 

「願い事、叶うといいわねっ! 大丈夫よ、ウチの神社は御利益抜群だから!」

「あ、ああ」

 

 その勢いに月見が若干面食らっているうちに、霊夢はせかせかと賽銭箱に駆け寄り、嬉々とした様子でそれを持ち上げる。

 上下に動かし、

 

「……?」

 

 首を傾げて左右に揺すり、

 

「…………??」

 

 眉をひそめて斜めに振って、

 

「…………、」

 

 真顔になって上下左右斜めに振り回し、

 

「――――…………」

 

 期待で今にも爆発しそうだった霊夢の雰囲気が、急にしゅっと引っ込んだ。そして入れ替わるように、黒い――本当に目に見えそうなくらいドス黒い、不穏なオーラがあふれ出す。

 

「……小銭の音がしない」

 

 声音は地鳴りのように低く。

 

「ちょっとあんた……」

 

 心に修羅を。顔には般若を。

 そして月見が、なんだかいらない誤解をされてる気がすると、遅蒔きながらに思った直後、

 

「――お賽銭入れねえたぁどういう了見だあああああっ!!」

「うおお!?」

 

 ミサイルみたいに吹っ飛んできた霊夢の飛び蹴りを、月見は咄嗟に横に飛んで躱した。

 

「躱すなっ!」

「無茶言わないでくれ」

 

 鮮やか着地した霊夢はいきり立って、

 

「こ、この私が万年金欠だって知っての所業!? お賽銭も入れずに御利益得ようだなんて、涜神(とくしん)行為もいいところよ!」

 

 うがあああ! と手に持っていた(ぬさ)を振り回し、真剣さながら月見へと突きつける。まあ確かに、月見が入れたのはお札なので、揺すろうが振ろうが振り回そうが音など鳴るはずがないけれど、

 

「お賽銭なら入れたよ」

「嘘つけっ! ……ハッ、さてはあんた悪い妖怪ね!? 上等じゃない、喧嘩なら買ってやるわよ!」

 

 どうしたもんかと月見が空を仰いで、霊夢は意気揚々とスペルカードを抜いた。

 

「スペルカードは二枚よ! 手っ取り早くけちょんけちょんにしてやるわ!」

「ちょっと待て、話を聞いてくれ」

 

 そもそも誤解だし、そうでなくとも月見はスペルカードを持っていないから、スペルカードルールに則った決闘には付き合えない。掌を見せてどうどうと宥めると、霊夢は不愉快そうに眉間に皺を寄せて、構えたスペルカードを一旦下げた。

 

「なに? あ、遺言なら十文字以内でよろしくね」

 

 月見は少し考えて、

 

「……本当に入れたって」

「ほ、ん、と、う、に……あらきっかり十文字ね。じゃあさよなら」

 

 そしてすぐに弾幕が飛んできたが、なんとなく予想できた展開だったので、危なげのない動きですべてを躱した。一度フランの本気の弾幕に付き合わされてからというもの、すっかり目が慣れたらしい。

 目標を見失って地面を叩いた弾幕たちを見て、霊夢が意外そうに眉を上げた。

 

「へえ……なるほど、そんじょそこらの雑魚とは違うってわけね」

「あのさ、話を聞いてくれないかな」

「だからさっきからなんなのよ? 言い訳なら聞かないわよ?」

 

 彼女は苛立たしげな様子を隠そうともしなかったが、それでもスペルカードを下げて攻撃をやめた。代わりにキツツキみたいに猛烈な勢いで貧乏揺すりを始めて、喋るならさっさと喋れと急かしてくる。

 月見は一音一音はっきりと、釘を打つように、

 

「だから、私は本当にお賽銭を入れたんだって」

「またそれ!?」

 

 霊夢が喚いた。彼女の華奢な細足が、けれど地震を起こしそうなほど強く地を打つ。

 

「さっきからしつこいのよ! 入ってないじゃないの、だって小銭の音がしなかったんだから!」

「音がしなかったからって、箱の中が空とは限らないだろう? ちゃんと目で確かめてみてくれ」

「なんでそこまでしなきゃなんないのよ」

「だから、本当にお賽銭を入れたからだって。音がしなかったのは、入れたのが小銭じゃないからだよ」

「はあ? 小銭じゃないって、じゃあ他になにを――」

「お札」

 

 霊夢の不機嫌オーラが一瞬で引っ込んだ。彼女はこの世のものではないなにかを見たように口を半開きにして、まばたきもせず、呼吸もせず、ぼけーっとすべての動きを放棄して突っ立っていた。

 どこかでチュンチュンと小鳥が鳴いている。風が吹いて、新緑の色をまとい始めた桜の枝がゆっくりとしなる。小さな雲から抜け出した西日が、幻想郷に黄色い日の光を落とす。

 ようやく、霊夢がまばたきをした。

 

「……ほっ、」

 

 それをきっかけにして、固まっていた彼女の体が動き出した。肩を小刻みに震わせて、ほのかに紅潮した頬をひくつかせ、期待で今にも胸が張り裂けそうになった声で、賽銭箱と月見の間で何度も視線を行ったり来たりさせた。

 

「ほっ、ほんとうね? 嘘だったら承知しないわよ? 退治するわよ? 身ぐるみ全部剥ぐからね? すっぽんぽんよ?」

「……すっぽんぽんって、お前ね」

 

 年頃の女の子がなんということを。だがお賽銭は間違いなく入れたので、月見がすっぽんぽんになるような未来は、起こりえないはずである。

 浮き足立った霊夢は駆け足で賽銭箱へと駆け寄り、途中で一度月見を振り返って、

 

「逃げないでよ?」

「逃げないよ」

 

 賽銭箱を手に取る。古びた小さな鍵を取り出して、同じくらいに古びた小さな南京錠に突き刺して、うんうん唸ってやっとの思いで外す。

 そして、まるで親からプレゼントをもらった子どもみたいに目を輝かせながら、賽銭箱を開けて。

 

「本当だ――――――――っ!!」

 

 その喜色満面の叫び声は、もしかすると尾根を越えて、人里まで届いたのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 博麗霊夢はお天気屋である。とにかく感情の起伏が豊かで、またそれがとてもわかりやすく表に出るし、本人も隠そうとしていない。嬉しい時は太陽顔負けに明るく笑うし、不機嫌な時は般若も逃げ出すくらいの顔をして舌打ちをする。久し振りの参拝客に勇んで出てきては晴天。賽銭が入っていないと誤解しては大嵐。そして本当はちゃんと賽銭が入っていて、しかもそれがお札だったと知れば、

 

「――はいどうぞ、お茶! お煎餅もあるわよ!」

 

 空の果てまで突き抜けるような快晴の笑顔で、彼女は月見に湯飲みを差し出すのだった。

 月見が賽銭箱にお札を入れたのだと知った直後の、霊夢の舞い上がりようは呆れるほどだった。あ~~~~~~~~と長い長い感嘆の声を上げながら、お札を天に掲げてその場でくるくる回って、頬ずりをして、抱き締めて。それからふっと我に返ると素早い手捌きでお札を懐に収め、月見を半ば強引に母屋まで招待した。

 必要最低限の物以外はなにも置かれていない、簡素でがらんどうな八畳間で、月見は苦笑いを浮かべながら湯呑みを受け取る。

 

「誤解が解けたようでなによりだよ」

「ほんっとごめんなさい! やー、あなた本当はいい妖怪だったのね。お札入れてもらえたのなんて初めてだわ!」

 

 あまりの嬉しさに霊夢は半分夢見心地になっていて、背景は完全にお花畑だった。

 

「たまたま小銭がなくてね」

「いや、普通は小銭がないからってお札入れたりしないでしょ。ああいやいや、別にあなたがお札を入れたのが変って言ってるわけじゃなくて、むしろとても素晴らしいことだと思うわ。よし、もし困ったことがあったら私に言いなさい。一回くらいなら力になってあげる」

 

 お賽銭を入れてくれるならいいやつ、入れてくれないなら悪いやつ。そんな至極単純な価値観で妖怪の善悪を決める霊夢は、満面の笑顔で煎餅を一枚つまみ、豪快に噛み砕く。

 

「いやー、このところツいてるわー。実は三日前にもお賽銭が入ってたのよ。あの時はちょっとだけだったけど」

「ああ……あのお金、外の世界のだけど大丈夫だったか?」

 

 三日前のお賽銭といえば、月見が幻想郷に戻ってきてすぐに入れたお金だ。百円玉を入れた。

 霊夢は頷いて、

 

「ええ、紫に換金してもらったから……え、あのお賽銭もあなたが入れたの?」

「ああ」

 

 月見もまた頷くと、ただでさえ天まで昇るようだった霊夢の笑顔が、遂に天すら突き抜けた。

 

「ほんっ~~~~ッとうにありがとう!!」

 

 霊夢はテーブルに大きく身を乗り出して月見の右手を取り、もう涙の一つも流しそうな勢いになって、

 

「そうよね、それが神社に来るお客さんとして本来あるべき姿なのよね! お賽銭箱ほったらかしでいきなり部屋に上がり込んでくるなんて失礼極まりないわよねっ! ああ、幻想郷にこんなに素敵な妖怪がいてくれたなんて、感動っ……!」

 

 なんだか賽銭の一つや二つでえらく好感度が急上昇しているが、それだけ彼女も苦労しているということなのだろう。それに、嫌われてしまうよりかはずっといい。幻想郷の重要人物である博麗の巫女に嫌われてしまえば生活しづらくもなろうから、まったく、甘味処で小銭を使い切った己の悪運を褒めてやりたい気分だ。

 月見は含むように笑って、こちらの右手をぎゅっと握り締めていた霊夢の手を、左の人差し指でとんとんと叩く。ああごめんなさい私ったらつい、と霊夢が手を解いたのを確認して。

 

「お茶まで出してもらっちゃったし、自己紹介しておこうか。私は月見。見ての通り、ただのしがない狐だよ」

「あ、私は博麗霊夢よ。見ての通り、博麗の巫女――」

 

 名乗った霊夢は、そこでふと疑問顔になった。

 

「月見? 月見ってもしかして……紫の友達っていう?」

「ああ、そうだよ」

「あーなるほど、月見ってあなたのことだったのね」

 

 へーあなたみたいないい妖怪があいつの友達ねえ、と意外そうに呟きながら、半分になっていた煎餅を口の中に放り込む。バリボリと軽快に噛み砕く音がとても美味しそうだったので、月見も一枚、頂くことにした。

 

「紫から聞いたのか?」

「そんなとこ。こないだあなたのお賽銭を換金してくれた時に大はしゃぎしてたわよ。月見が帰ってきた月見が帰ってきた、って」

 

 さしずめお札を手にした時の霊夢みたいな状態だったのだろう、と月見は思う。紫も大概、心を許した相手の前では感情の表現が豊かになるから、それこそ小躍りの一つでもしていたのかもしれない。

 

「あんなに嬉しそうな紫なんて初めて見たわ。なに、もしかして恋人同士とかだったりするの?」

「いいや? あくまで友人だよ、友人」

 

 もっとも、紫から向けられている感情までについては、否定しないけれど。

 お茶を一口飲む。そこでふと、お茶が思っていたよりも美味しかったから、月見は霖之助から頼まれていた言葉を思い出した。

 

「ところで霊夢……このお茶、霖之助のところから奪ってきたっていうやつか?」

 

 尋ねるなり、霊夢はあからさまに不機嫌になった。

 

「なに、霖之助さんとも知り合いなの? ……ハッ、まさかあなた、霖之助さんが送り込んできた刺客じゃないでしょうね!? ダメよこのお茶はもう私のもの、袋にだって名前を書いたもの!」

「いや、さすがに取り返しに来たとかそんなではないよ?」

 

 霊夢からお茶っ葉を取り返すのは骨が折れそうだし、そんなことをしたらせっかくいい妖怪だと認識してもらえたのが台無しだ。霖之助には悪いが、この場合は多少の犠牲はやむを得ないだろう。名前を書いたら自分のものだという小学生みたいな主張については置いておく。

 とはいえ、

 

「霖之助も大分困ってたようだったよ。もう大分ツケてるんだろう?」

「仕方ないじゃない」

 

 霊夢は唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向いた。

 

「だってお金がないんだし……」

「お金、ね……」

 

 月見は縁側を通して外の風景を眺めた。もちろん参拝客の姿はない。動いているものといえば、風で揺れる木々の枝と、地面の上を仲良く跳ね回る小鳥たちくらい。

 

「やっぱり参拝客は少ないのかな」

「それどころか全然よ全然」

 

 霊夢は憮然とため息をついて、嘆かわしく首を横に振った。

 

「普段来てくれるやつらも、ここを都合のいい休憩所みたいな扱いして、お賽銭なんてちっとも入れてくれないのよ? 『親しき者にも礼儀あり』って言葉を知らないのね」

「……」

 

 果たして霊夢は、『人のふり見て我がふり直せ』という言葉を知っているだろうか。

 

「……まあ、ツケの方は無理でも、せめてものを強引に持ち出すのは考えてくれないかな。霖之助が困ってたのは本当だよ」

「むー」

 

 霊夢はとても不満そうに頬を膨らませたが、やがて口の中の息を吐き出して、八つ当たりするように煎餅を一枚掴み取った。

 

「……まあいいわ。月見さんがたくさんお賽銭を入れてくれたし、ちょっとくらいは我慢する」

 

 ちょっとなのか。……いや、月見が入れたお金はお賽銭としては破格だが、金額そのものは決して大したものではないから、ちょっとが妥当なのかもしれない。どうやら香霖堂が無事平穏を取り戻せるかどうかは、月見のお賽銭にかかっているらしい。

 煎餅を噛み砕きながら、霊夢は夢を見るように言う。

 

「あー、でもせっかくこんなにもらえたんだし、外で豪勢なお夕飯を食べるのもいいなあ」

「夕飯か」

 

 確かに日も暮れてきたし、そろそろいい時間だった。頭の中でたくさんの料理が浮かんでは消えていくのか、霊夢は煎餅を食べているにも関わらず、半開きの口から涎を垂らしそうになっていた。

 

「それにしても、お金がないんだったら、霊夢は普段はどんなものを食べてるんだ?」

 

 お賽銭一つでここまで大喜びするのだから、やはり普段の生活も相当に苦しくて、数々の節約術を駆使することでなんとか露命をつないでいるのだろう。そんなちょっとした疑問を、何気なしに口にしただけのつもりだった。

 それが地雷を踏み抜いたに等しい行為だとは、夢にも思わずに。

 

「……ご飯とお味噌汁」

「なるほど、定番だね。他には?」

 

 沈黙。

 

「……霊夢?」

「……」

 

 沈黙、

 

「……ご飯とお味噌汁」

「いや、それはさっき」

「ご飯とお味噌汁」

 

 月見は真顔になって霊夢を見た。霊夢は居心地が悪そうに月見から目を逸らして、拗ねた子どものように、唇をすぼめて答えた。

 

「……お料理、嫌い」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 ――別に、一人暮らしで料理ができなくたっていいじゃない。それで死ぬわけでもないんだし。なんていうか、料理みたいに細かい作業って嫌いなのよ。やってると神経がむしゃくしゃしてきて、暴れ出したくなってくるっていうか。やれ分量は大匙何杯とか小匙何杯とか、クソ食らえね。そんなのどっちだって同じじゃない。しかも匙は細かく指定してくるくせに、塩だの胡椒だのは『少々』よ? なによ『少々』って。『適量』とか『軽く炒める』とかいうのもわけわかんないわ。そういうところでは適当なのに、だからって本当に適当にやると変な味になったりするのよ? もう意味不明よ。理解不能よ。ねえ月見さん、料理って一体なにが楽しいの?

 

「お前……味噌汁ってこれ、外の世界のインスタントじゃないか」

「紫がくれたのよ。素敵よね、お湯と混ぜるだけでできちゃうなんて」

 

 博麗霊夢は、料理が大嫌いである。

 

「……『片付けのできない女』第二号か」

「一号って誰?」

「魔理沙」

「失礼ね、あんなのと一緒にしないでよ」

 

 使い終わった食器たちがすし詰めになって山になっている流しを見ると、月見は顔を押さえて呻き声を上げることしかできなかった。ああ霊夢、お前もか。

 霊夢は魔理沙と同じ扱いをされるのが大層ご不満なようだったが、五十歩百歩だと月見は思う。

 

「それに私は、できないんじゃないの。しないだけ」

「魔理沙も同じことを言ってたっけねえ」

「……、……魔理沙と一緒にしないでよ」

 

 やっぱり五十歩百歩だった。

 霊夢に背中を睨まれながら、月見は流しを覗き込んでみる。ご飯に一つ、味噌汁に一つで、一食あたり二つの食器を使用すると仮定すれば、ここですし詰めになっているのはおよそ二週間分といったところだろうか。

 

「よくもまあ、食器だけをこんなに持っているものだね」

 

 料理嫌いな一人暮らしで持つ食器にしては、明らかに多すぎる。それが災いしてこの惨状が生み出されているわけだ。

 霊夢はなぜか得意顔だった。

 

「よくみんながここで宴会を開くからね。食器だけは多いのよ」

「褒めてないよ?」

「……むー」

 

 味噌汁だって、インスタントだし。

 

「まさかご飯までインスタントということは……」

「できればそうしたいんだけどねー。でも紫が買ってきてくれないのよ、それくらい自分でやりなさいって」

 

 随分と久し振りに、紫のことを偉いと思った月見だった。思いながら、ゆっくりと額に手をやって、脱力するように吐息して。

 

「食器で既にこれだったら、食材の管理はどうなってるやら……なんていうのは冗談だけど」

「……」

 

 本当にほんの冗談のつもりだったのだけれど、途端に霊夢が、ものすごい勢いで月見から目を逸らしていったので。

 

「……霊夢」

「……」

「霊夢、私の目をまっすぐに見てみなさい」

「…………」

 

 目線を合わせてすらもらえない。霊夢が冷や汗を流しながら一生懸命に月見から目を逸らし続けるので、それを見た月見も冷や汗をかきたくなった。

 この露骨すぎる反応は、もしかしなくても。

 

「……ちなみに、最後に食材を触ったのはいつだい」

「……」

 

 少し前に、「お料理嫌い」と月見に伝えた時のように。

 横目で月見を睨みつけて、唇をすぼめて、拗ねながら、彼女は言った。

 

「……黙秘権を、行使します」

「……」

 

 どうやら月見は、また、地雷を踏み抜いてしまったらしい。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 死亡が確認された食材たちを狐火で丁寧に供養し、生き残っていたものたちをかき集めれば、ちょうど一人一食分の量だけが手元に残った。なんでも以前ここで行われた宴会で余った食材たちらしいが、なまじっか量があっただけに、狐火もなかなか張り切って燃え盛っていた。

 裏庭で繰り広げられる一つの悲劇の結末に、月見は合掌するように目を細めて言う。

 

「霊夢……お前が放っておいたせいで、たくさんの食べ物たちが食べてもらえずに死んでいったぞ……」

「し、仕方ないでしょ!? 私だって好きで放っておいたわけじゃないわよ、『お前も料理くらいできるようになれ』ってみんなが無理やり置いていったのっ! でも料理なんてできないし! だからって誰かにあげるのも勿体ないし! インスタントのお味噌汁美味しいしっ!」

 

 霊夢は、本当にこの幻想郷で十数年を生き抜き一人暮らしをしている少女なのだろうか。ひょっとして月見と同じで、つい最近まで外の世界で生活していたのではないか。インスタント味噌汁を飲みながら。

 ともあれ土間の調理台に生き残った食材たちをひと通り並べて、月見はふむと腕組みをした。これらの食材ももう決して長い命ではない。今日中に使い切らねば、狐火の中に消えた仲間たちと同じ運命を辿ることになるだろう。

 なので。

 

「この食材でよければだけど、私が今日の夕飯を作ってやろうか?」

「……本当ッ?」

 

 月見がそう提案した途端、隣で霊夢の瞳が子どもみたいに輝いた。

 月見は、ああ、と頷いて、

 

「大したものは作れないけどね」

「やっ、ご飯とお味噌汁以外のものが出てくるなら充分大したものでしょ!」

 

 それはただ、霊夢の普段の食生活がおかしいだけだ。別に謙遜したわけではなく、本当に、この食材だけでは大したものは作れないのである。

 だというのに霊夢はもう待ち切れない様子で、右の拳を握り締めるなり、よぅし! と元気に気合を入れていた。

 

「私もお手伝いするわよ! インスタントお味噌汁を作るためのお湯を沸かしてあげる!」

 

 そんなものはお手伝いとはいわない。

 けれど、まあいいかと月見は思った。きっと霊夢は、魔理沙が筋金入りの掃除嫌いであるように、筋金入りの料理嫌いなのだ。ならばとやかく言うだけ無駄だし、あまり差し出たことを言って、嫌われて身ぐるみを剥がされても困る。

 それよりも今は、せめて目の前のこの食材たちだけでも、食べ物として生まれた意味を全うさせてやるべきだ。

 

「ところで月見さんはどうするの? 一緒に食べてく?」

「さて」

 

 月見は顎をしゃくって調理台の上の食材たちを示し、

 

「これが二人分の料理を作れるだけの量に見えるか?」

「……」

 

 料理の大嫌いな霊夢でも、それくらいならわかったらしい。眉間に皺を作って調理台を眺めた彼女は、やがて若干申し訳なさそうになりながら、おずおずと言った。

 

「……インスタントお味噌汁飲む? 美味しいわよ?」

「……また今度にしておくよ」

 

 インスタント味噌汁だけすすっても、自分で自分が憐れになるだけのような気がする。それに月見は妖怪。一食くらい抜いてもなんの問題もありはしないから、苦笑一つで断った。

 

「なんだか悪いわね。よし、困ったことがあったらこの私に言いなさい。二回くらいなら力になってあげる」

「そうだね……まあ、私が悪い妖怪じゃないってことを、理解してくれると助かるよ」

「それはもちろん。お賽銭入れてお夕飯まで作ってくれるあなたは幻想郷屈指の素晴らしい妖怪だわ。私が保証してあげる」

 

 と、霊夢のお腹が、くう、と小さく鳴ったので。

 月見は笑って、

 

「それじゃあ急いで作るから、居間で待っててくれ」

「楽しみにしてるわね!」

 

 嬉しそうな小走りで居間へとすっ飛んでいく霊夢の背中を見送り、調理台へと向き直る。料理は特別好きというわけではないし、腕前だって、藍や咲夜と比べてしまえばとても誇れるようなものではない。意識して身につけたわけではなく、長く人間たちと生活する中で自然と体に染みついた、謂わば年の功みたいなものだった。

 だがそれでも、楽しみにしていると言って土間を飛び出していった、霊夢の笑顔を思い出すと。

 

「……頑張りたくなっちゃうね」

 

 精々自分が持てる技術を尽くして、ご飯と味噌汁だけの食事よりかは、見栄えがするものを作ってやるとしよう。

 月見は緩く笑みの息をついて、戸棚から包丁を取り出す。

 ……刃こぼれしていたので、まずは包丁を研ぐところから始まった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 月見という名の妖狐について、詳しく知っているわけではないが、同時になにも知らないわけでもない。それは教育係である紫からたびたび話を聞かされていたからであり、故に博麗霊夢は、月見と紫がどういう関係なのか、といった程度のことはもう何年も前から知っていた。

 夕飯の支度を月見に任せ居間へと戻った霊夢は、紫が独白するように言っていた言葉を思い出す。

 妖怪と人間の理想郷を創るという紫の夢を肯定し、応援してくれた人。彼がいなかったら今の自分はなかったといっても過言ではない、何者にも代えることのできない大切な恩人。

 好きなんだ、とも、言っていた気がする。……なんともあのスキマ妖怪が恋をするような相手がこの世に存在するとは、一体どれほど胡散くさい男なのだろうかと、その話を聞いた当時は呆れたものだけれど。

 こうして実際に会ってみれば、まあ。

 恋愛感情云々はもちろん関係なく、好ましい感じの男ではあるなと、霊夢は思っていた。

 まずは常識をしっかり弁えているところがいい。賽銭箱に二回もお賽銭を入れてくれたし、しかも今回はお札だった。面と向かって言うのはさすがに図々しいから控えるけれど、ありがたいので毎日でも神社に来てほしいくらいだ。

 更に、初対面の霊夢のためにわざわざ夕飯を作ってくれるところも悪くない。世話好きなところがあるの、と紫は言っていたが、まさにその通りなのだろう。

 拝殿の前で初めて月見と出会った時、誤解したまま彼をぶっ飛ばしてしまわなくて正解だった。もしあのまま怒りに任せて彼を退治していたら、こうして夕飯を作ってはもらえなかったし、今後お賽銭を入れてもらえることもなかっただろう。ついでに言えば、「月見になんてことしてくれたの!?」と紫に怒られたかもしれない。本当に危ないところだった。

 とは、いえ。

 

「……月見、ねえ」

 

 月見はとても常識的でいい妖怪だ。だがその上で言わせてもらえば、いい妖怪であるが故に、変なやつなのだと霊夢は思う。

 そもそも、人の目線から見て常識的だと思える時点でおかしいのだ。人間は人間、妖怪は妖怪であり、姿形こそ似ることはあるものの基本的にはまったく別の生き物。よって無論のこと、お互いの常識だってまったく別のものになる。そのあたりは、博麗の巫女として人間とも妖怪とも接する機会が多いから、身を以て理解しているつもりだった。

 妖怪は人間じゃないから、賽銭箱にお賽銭を入れてくれない。

 人間は妖怪じゃないから、数時間おきにお腹が空くし、夜は眠くなる。

 

「人間なんだか妖怪なんだかわからない人ね」

 

 銀の狐耳と尻尾が生えているから、妖怪であるのは間違いないけれど。

 でもひょっとすると――彼の心は、人間の側に大きく傾いているのかもしれない。人間の寿命よりもずっと長い時間を、人間たちとともに生きた妖怪は、話をした限りでは人のようにも見えた。

 吐息。

 

「ま……どうでもいいわね、そこまでのことは」

 

 そこで、霊夢は己の思考を打ち切った。珍しい相手だからついつい物思いに耽ってしまったけれど、霊夢にとって所詮他人は他人だ。以前紫に、霊夢は自己と他人の境界線をはっきり区別しすぎると言われたことがあるが、特に反論はしなかった。まあそうなんだろうな、と思っただけだった。

 霊夢にとって必要なのは、相手が何者なのかと、自分にとってどういう存在なのかという二つの情報だけ。月見は紫の友人である妖狐であり、神社にお賽銭を入れてくれるいい妖怪。それさえわかればそれでいい。

 そういった霊夢の人間性を、時に冷たいと言う者もいるが、生まれつきの性分なのだから仕方ない。霊夢は霊夢であり、他人は他人だというその線引きは、多分これからもずっと、一生、変わることはないのだろう。

 

「――あのー、霊夢さあん」

「……あん?」

 

 掛けられた声に、霊夢は面を上げた。いつの間にか、縁側のすぐ向こう側に人影が立っている。大きな黒い翼と白い尻尾という対照的な組み合わせは、朧気にだが見覚えがあった。

 

「あー……なんだっけ、ええと……いぬー……いぬ~、……そう、犬」

「犬!? 犬走椛ですっ! ついでにいえば、白狼天狗ですッ!」

「そうだったっけ」

「そうだったですっ!」

 

 お賽銭も入れてくれない妖怪のことなんて、萃香や文などの例外を除いてよく覚えていない。

 尻尾をぱたぱたさせて怒る椛に、霊夢は極めて淡々と問う。

 

「なにか用? ところで素敵なお賽銭箱は向こうよ」

「ここに月見様が来ていませんか? 綺麗な銀色の毛をした、妖狐の方なんですけど」

 

 当たり前みたいに無視された。これだから人間の常識が通じない妖怪は……というか、

 

(月見さんってば、天狗たちとも知り合いなのね)

 

 まあ、幻想郷の創始者である八雲紫と親しいくらいだ。今更天狗とも面識があるのだとわかったところで、特に感じるものはない。

 

「来てるけど、それがどうかした?」

 

 答えると、椛は安心したように頬を綻ばせた。

 

「ああ、よかったです。天魔様から、今すぐ月見様を連れてくるようにと命を受けてまして」

「ふーん……まあいいけど」

「月見様は今どちらに?」

「土間に――」

 

 と、そこまで答えかけたところで霊夢ははっと思い出した。そうだ。そういえば月見は今、霊夢のために夕飯を作ってくれている真っ最中なのだった。

 なのにここで月見の居場所を教えてしまったら、きっと彼は椛に連れていかれてしまう。となると必然、霊夢の今日のお夕飯は――

 

「――いないわ」

「え?」

「誰かしら、月見って」

「……」

「知らない妖怪ね」

 

 それはちょっとマズい。今ここで月見が連れて行かれてしまうこと即ち、霊夢の夕飯が今回もまたご飯とインスタント味噌汁になってしまうことと同義だ。

 それだけは絶対に、避けなければならない。心の中の焦りを気取られぬよう、霊夢は努めて淡々とした口振りで、

 

「というわけでここにはそんな妖怪いないから、潔く別のところを捜して――」

「まあ、ここに月見様がいるのは私の千里眼でわかりきってるんですけどね」

「この犬ッ!!」

「な、なんですかいきなり!? 私は白狼天狗です、百歩譲っても狼にしてくださいっ!」

「うるさいうるさい、お前なんか犬で充分よ!」

「し、失礼なあっ! 霊夢さんだって嘘ついてたじゃないですか、神に仕える人間がそれでいいんですか!?」

「私、この神社の神様知らないし」

「……あの霊夢さん、本当にそれでいいんですか?」

 

 椛の若干憐れむような目線を、霊夢は有意義に無視して吠える。

 

「ともかく今はダメったらダメ! そうね、あと三十分は待って頂戴」

「そ、そんなに待ってたら私が天魔様に怒られるじゃないですかっ! 今すぐ連れてこいって言われてるんですよ!?」

 

 しかし椛も簡単には引き下がらない。縁側に両手をついて身を乗り出し、そのまま土足で上がり込んできそうな勢いだった。天魔から月見を連れてこいを命令されているのは事実なのだろう。

 だが、霊夢とて引き下がるわけにはいかない。己の夕飯と椛を天秤に掛ければ、どちらに秤が傾くかなど端から決まっている。椛? なにそれおいしいの?

 なので霊夢は、ため息をついて。

 

「……わかったわ。あんたが上司の命令に逆らえないわんこだってことはよーくわかった」

「……なんか癪に障りますけど、わかってもらえたのならまあいいです。それじゃあ早く月見様を呼んで――」

「というわけでここは弾幕ごっこで決着ね」

「わかってもらえてなかったっ! あのですね霊夢さん、人の話聞いてましたか!? 今すぐ、月見様を、連れていかないといけないんですってばーっ!」

「スペルカードは四枚よ」

「うわーん!?」

 

 腰を上げ、ズカズカと大股で縁側から外へ飛び出し、椛の襟首を引っ掴む。椛はいやいや抵抗するが、そんなの知ったこっちゃあない。

 

「さあ、勝負よ! 今日のお夕飯は私が守るっ!」

 

 椛とは、去年の秋に、守矢神社の移転騒ぎの中で戦ったことがある。幻想郷で一大勢力を築く天狗だけあって、決して油断していい相手ではなかった。

 だが問題はない。今の霊夢には、全身全霊を懸けて守らなければならない大切なものがある。そのためならば、神様だって超えられる。

 

「霊夢さんのばかああああああああっ!!」

「うるさいわねこの犬――――ッ!!」

 

 幻想郷の夕焼け空に、椛の断末魔と霊夢の怒鳴り声が響き渡り、弾幕が縦横無尽に天を彩る。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 料理を終えた月見が居間に戻ってきてみると、庭の隅っこでボロボロになって地面と同化している椛が見えた。料理の最中、霊夢が誰かと弾幕ごっこを始めたのには気づいていたし、聞こえてくる相手の悲鳴からもしかしてとは思っていたけれど、やはり間違いはなかったらしい。

 

「おかえりなさい月見さん! お夕飯できたっ?」

 

 目を輝かせながら駆け寄ってきた霊夢に、月見は頷く。

 

「あとは盛りつけるだけだよ。……それで、あの子はなんであそこに?」

 

 ぴくりともしない椛の亡骸を指差す。霊夢は振り向くことすらしなかった。

 

「さあ。なんでも天魔の命令で、あなたを連れ戻しにきたとかなんとか」

「ふうん?」

 

 操の命令ということは、家づくりの方でなにかあったのだろうか。……まさかもうできあがったから呼びに来たなんてのはありえないだろう。昨日の今日だし、早すぎる。

 

「ねえねえ、見てきてもいいっ?」

「ああ、いいよ。……どれ、私は椛を起こして話を聞いてみようかな」

 

 やはり嬉しそうな小走りで土間へとすっ飛んでいった霊夢と別れて、庭に出る。椛は、よほどこっぴどくやられたのか全身の至るところが煤けていて、ボロ布みたいになってしまっていた。

 

「おーい、椛ー」

 

 肩を揺すってみるが、果たして返事はない。ぐるぐる目を回して完全に気を失っていて、彼女が一体なんの用で月見を呼びに来たのかなど、とても確認できそうにない。

 

「ふむ」

 

 けれど、どうやら急ぎの用だったらしいことはわかっているので、とりあえず様子を見に戻った方がいいのかもしれない。

 などと月見が考えていると、傍らに風が舞い降りた気配がして。

 

「ここにいたのね」

「おや……」

 

 射命丸文、だった。地に降り立った彼女はすぐさまスカートの裾を両手でガッチリ押さえ、人どころか妖怪すら殺せそうなほど物騒な目つきで、月見をギロリと睨みつけた。

 その声音は、悪霊の怨嗟のように。

 

「……見てないでしょうね」

「……見てないよ」

 

 月見は呻くようにため息をついた。やはりあの時のことは、何百年が経った今でもしぶとく根に持たれているらしい。

『あの時』というのは、月見が文から嫌われる原因となってしまった一件のことであり、スカートを周到に押さえる彼女の反応から予想できる通り、つまり月見は見てしまったのだ。なにをとは言わない。

 とはいえ『あれ』は半分以上が不可抗力みたいなものだったので、逆恨みもいいところなのだけれど。まあ、わかっていても恨まずにはいられないのが、複雑な乙女心なのだろうか。

 

「こんなところでなにしてんのよ」

 

 殺気すら漂いそうなほど冷たい文の問い掛けに、月見は苦笑混じりで応じる。

 

「いつも通り観光だよ。……操の方でなにかあったんだって?」

「あんたの家ができたのよ。それで宴会するからさっさと戻ってこいって話」

「……本当に?」

「嘘ついてどうすんのよ」

 

 それはまあ、そうなのだけど、昨日の今日で家ができるのはさすがに早すぎではなかろうか。

 文は呆れ顔で、腰に両手を当ててため息をついた。

 

「天狗に鬼に河童にその他諸々で百数十人体制なんだから、あっと言う間にできあがるに決まってんでしょ」

「……なんだか悪いなあ」

 

 これほどの早さなのだったら、恐らく寝る間も惜しんでの突貫作業になったはず。しかも、その上で宴会の準備までしてくれているというのだから、感謝を通り越して罪悪感が襲いかかってきそうだった。

 文の半目が体に刺さる。

 

「ほんと、みんなに働かせて自分はこんなところでのんびりしてるなんて、大したご身分よね」

「……一応弁解しておけば、私だって手伝いたかったんだからね?」

 

 藤千代にぶっ飛ばされてさえいなければ、月見とて多少なりとも力にはなれていた、はずだ。

 けれど文はつんとそっぽを向いて、それ以上取り合ってくれなかった。

 

「ほら、ここでなにやってたのかなんて知らないし知りたくもないけど、さっさと帰るから霊夢さんに一言通してきなさい。あんたのせいで天魔様に怒られたらたまったもんじゃないわ」

「……わかったよ」

 

 月見の返事を最後まで聞かないうちに、文は椛を抱き起こして、往復ビンタをしたり頬を引っ張ったりし始めた。パパパパパパパパと目まぐるしく右へ左へ揺れる椛の頭を見て、痛そうだなあ、と月見は苦笑しつつ、霊夢のところへと戻ることにした。

 ちなみに椛の頬は、餅のようにとてもよく伸びていた。

 

 

 

 

 

 霊夢が、土間でもそもそと鍋をつついていた。

 

「……霊夢」

「――ハッ」

 

 確かにこの料理は月見が霊夢に作ってやったものなので、どんな食べ方をしようとも彼女の自由かもしれないけれど、だからといって皿に盛りつけもせず直接鍋をつつくのはどうなのか。月見が痛む額を押さえながら霊夢の名を呼べば、彼女はびくりと飛び上がって、

 

「あっ――ち、違うのよ月見さん! これはその、ちょっと味見してみたら予想外に美味しくてつい!」

「……口に合ったようでなにより」

「……ごめんなさい」

 

 居心地の悪そうに頭を下げて、近くの棚からあせあせと食器を取り出す霊夢の横顔は若干赤かった。まあ、それだけお腹が空いていたのだろうということで、今回は大目に見るとする。

 

「さて、さすがにあとは一人で大丈夫だろう? 私は帰るよ、なんだか呼ばれてるみたいだったからね」

「あー、あのわんこの件ね。いいわよ。お夕飯どうもありがとう」

「ちゃんと食器に盛りつけてから食べるんだよ」

「わ、わかってるわよっ」

「それと、すし詰めになってた食器は料理のついでに洗っておいたから。次からはあんまり溜めないようにね」

「え? ……あっ、ほんとだ! うわーここまでしてもらっちゃってなんだか悪いわね。よし、次に会った時は私秘蔵のインスタントお味噌汁をご馳走したげるわ。美味しいわよ」

 

 霊夢は少し、インスタント味噌汁から離れて生活した方がいい気がする。

 ともあれ椛が目を覚ましたらしく、庭の方から「あー!?」という絶叫が聞こえてきたので、月見はすぐに向かうことにした。

 

「それじゃあ、また」

「ええ。今度も素敵なお賽銭をよろしくね!」

『つ、月見様ーっ! いるんですよね!? あの、天魔様が呼んでるので、今すぐ戻ってきてくださーいっ! どこにいるんですかー!?』

「はいはい、今行くよ!」

 

 最後に霊夢を一瞥すると、彼女は既に鍋の中身の虜となっていて、月見の存在などとうに頭の中から弾き出したようだった。けれど料理を配膳するその笑顔が本当に幸せそうだったので、まあこれはこれで、いいのかもしれない。

 玄関から外に出ると、すぐに椛が半泣きになりながら駆け寄ってくる。

 

「月見様ー! よかったです、もうこのまま一生会えないかとっ……!」

「そんな大袈裟な」

 

 椛の頬が右の左も真っ赤っ赤になっているのは……間違いなく文の仕業だろう。椛の後ろで、文はとぼけるように無関心な表情をして、神社の景色を眺めているのだった。

 

「ともあれ、待たせたね。早く行こうか」

「はい! 文さんもほら、行きましょうっ」

「はいはい」

 

 まず椛が先陣を切って飛び上がり、すぐに月見もそのあとに続く。文はそれからやや間を置いて、月見の斜め後ろの位置を陣取った。

 

「……? 文さん、どうかしたんですか?」

 

 一緒に並んで飛んでくれない文に、椛が怪訝そうな顔をするけれど。

 

「……別になんでも。ほら、早く行きなさいよ」

 

 文はぶっきらぼうな声でそれだけ言って、決して今の位置を変えようとはしなかった。

 その理由は言わずもがな、月見の隣やそれよりも前の位置を飛ぶと、ふとした拍子にまた見られてしまう可能性が出てくるから。まったく、見られるのが嫌なら椛みたいに長いスカートを履けばいいだろうにと月見は思うけれど、言えば視線で殺されそうなので口にはしない。

 その代わりに、不思議そうに疑問符を量産していた椛に向けて、先を促す。

 

「ま、いいじゃないか。それより今は急がないと」

「おっと、そうでした。では月見様、ついてきてくださいね!」

「はいよ」

 

 春空の高い位置から見下ろせば、幻想郷の遥か彼方までを壮大に一望できる。もちろん、みんなが月見の家をつくってくれたであろう、山の南の麓だってよく見える。

 その場所に、なにやら周囲の森を頭一つ以上突き抜けて、やたら背の高い大屋敷が鎮座しているように見えるのは。

 まあきっと、気のせいなのだろうなと、月見は思い込んでおくことにした。

 

「あっ、あの大きな白いお屋敷が見えますか? あれが、完成した月見様のお家なんですよ」

「……」

 

 時には、現実逃避も必要なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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