銀の狐と幻想の少女たち   作:雨宮雪色

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第31話 「狐とメイドと最高の紅茶。」

 

 

 

 

 

 ひどい目にあった。

 鳥になり大空を駆け抜けた月見が落ちた先は、霧の湖のど真ん中だった。まったく大層な勢いでぶっ飛ばされたものだが、幸か不幸か過去にも何度か同じ目に遭った経験から、飛行術を逆方向に行使して減速をかけたり緩衝の符を使ったりなんだりして、なんとか怪我なく着弾することができた。

 着弾、という表現があながちオーバーでもないのが恐ろしい。

 

「……」

 

 湖の底を無抵抗に漂いながら、月見は水面に向けてため息をついた。ごぽごぽ音を立ててたくさんの気泡が昇っていき、やがて水面に波紋を広げる。その向こう側から差し込む陽の光が揺らめいて、月見の瞳をちらちらと照らす。水の中にも空はあるんだな、と月見は思った。湖の水質が綺麗だからというのもあるのだろうが、水色とも翠とも取れる幻想的な色で揺れる水面と、太陽から落ちてくる青白い光の道筋は、間違いなくここからしか見ることのできない空だった。

 普段の生活ではまず見る機会のないものなので、そういう意味では、藤千代にぶっ飛ばされたのも悪くはなかっただろうか。

 まったくもって、そんなわけあるかと思う。

 幸い怪我こそしなかったものの、こうして全身は服ごとびしょ濡れ。上がったらすぐに火を起こさなければ、芳春とはいえ寒かろう。

 息が苦しくなってきたので、青空観察もおしまいにして月見は動く。仰向けに漂っていた状態から水を掻いて立ち上がって、水底を蹴ってゆっくりと水面へ向かう。

 そうして、水の中から顔を

 

「ふみう!?」

「っ!?」

 

 出した直後、奇妙な誰かの悲鳴とともに、月見の脳天に激痛が走った。湖に落ちた時とは比べものにならない、全神経の至るところまで突き抜けていくような痛みに、さすがの月見も頭を押さえて悶え苦しまざるを得なかった。

 どうやら顔を出すと同時になにかにぶつかったらしいが、こんな湖の真ん中でなににぶつかるというのか。

 

「ばか~……」

 

 と、ちょうど近くで蚊の鳴くような少女の声が聞こえて、続け様に、ちゃぽんとなにかが水に落ちる音までついてきたので。

 月見が涙をこらえながら隣の水面を見てみれば、そこでは緑色の髪をした妖精が、ぷかぷかとうつ伏せで漂いあぶくを量産しているのだった。

 

「おや……」

 

 その姿に見覚えがあったので、月見は片手で頭をさすりながら、もう片方の腕で少女を抱き起こしてみる。顔を見てみれば、やはり間違いない。先日の紅魔館にて頭の弱い氷精に振り回されていた、『大ちゃん』なる女の子だ。

 頭に綺麗なたんこぶをつくって、目をすっかり渦巻き模様にして気絶しているあたり、月見とぶつかったのは彼女だったらしい。

 

「……おおーう」「だいよーせーよ、しんでしまうとはなさけない」「ごっちんこ」「これはいたい」「これはしんだ」「ふみう」

 

 周囲の空には、彼女の仲間であろう小妖精たちの姿もある。目の前の事態にすっかり困惑しているのか、それとも見知らぬ他人である月見を警戒しているのか、戸惑った瞳でこちらとの距離を窺っている。

 

「いんせき?」「ちがう」「じゃなかったー」「きつねがたいんせき」「いんせき」「だいちゃんしんだ」「きつねさん」「ふみう!」

 

 波のように絶え間なく来る言葉たちに月見は一瞬面食らったけれど、落ち着いて聞き分けてみれば、なんてことはない。妖精らしい享楽的な言葉の群れは、その大部分が意味を成さないものだから、必要な箇所だけを掻い摘んで咀嚼すればいい。

 すなわち、隕石、という単語から、

 

「なんだ、私を隕石だとでも思ったのか?」

「おもったー」「ちがったー」「ごっちんこ」「ざんねん」「いんせきー」「ふみうっ」

「なるほどねえ」

 

 目を回す『大ちゃん』を見下ろしながら、月見は神妙に頷く。湖に落ちたのが隕石だと思い込んだ彼女たちは、興味本位で回収してみようと身を乗り出してみた。そしてこの『大ちゃん』が代表して湖に飛び込もうとしたところで、なんとも運悪く――というのが、事の顛末なのだろう。

 

「どれ……大丈夫かー?」

 

 あいかわらず両目が渦を巻いている彼女の頬を、ぺしぺしと叩いてみる。けれど返事はもちろん、かすかな身じろぎすら返ってこない。

 

「しんだ?」

「まさか」

 

 縁起でもないことを遠慮なく訊いてくる一匹に、月見は苦笑しながら、

 

「この子もお前たちも妖精だから死なないだろう? 気を失ってるだけだよ、少しすれば目を覚ますさ」

「そうかー」「よかったー」「よかったー?」「おもしろかったー」「ふみうっ」「ふみうー!」

 

 妖精たちは、目の前で仲間が気絶してもまるでお構いなしだった。心配するどころか逆に楽しそうに笑いながら、ふみうーふみうーとはしゃいで月見の周りを飛び回る。

 

「さて、このまま水遊びしててもなんだ」

 

 月見は飛行術を使って、ゆっくりと水の中から空へ。腕の中にある小さな体を落としてしまわないよう、手に力を込めて、

 

「少し手伝ってくれないかな。火を起こすから、木の枝を集めてほしいんだ」

「おおー」「あつめるー」「もやすー」「ごっちんこ!」「えだー!」「ふみうー!」

 

 月見の頼みを聞いて、妖精たちが笑顔とともにあちこちの森へと散らばっていく。妖精たちにしてみれば、たかが枯れ枝集めも宝石探しみたいなものだ。……まあ、自由気ままな彼女たちのことだから、枝を集めている途中で別のものに気を取られて、そのまま帰ってこなくなるのがほとんどだろうけれど。

 二、三本でも持ってきてもらえれば充分だと前向きに考えて、月見は近くの畔へと向かう。そこでふと、周囲の森を越えたすぐ向こう側に、やたら赤い色で塗り固められた悪趣味な洋館があることに気づいた。

 

「へえ……こんなに湖の近くにあったのか」

 

 近場であることは知っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。これだったら、昨日の今日にはなるが、服を乾かしたあとで訪ねてみてもいいかもしれない。ちょうどあそこで働くメイドの少女と、紅茶をご馳走してもらう約束をしていたのだし。

 

「ふむ……それなら、早く服を乾かさないとね」

 

 既に夕暮れが近い。あんまりのんびりしすぎると、服が乾ききる頃にはすっかり夜だ。

 それとも、吸血鬼の館だし、逆に夜の方がいいのだろうか――などと考えながら、月見は湖の畔に降り立つ。

 それから少し待ってみたが、案の定、妖精たちは戻ってこなかった。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 傍らに熱を感じて、大妖精はゆっくりとまぶたを上げた。

 夕暮れの空だった。夕日と青空の吸い込まれそうになるグラデーションの下で、大妖精は静かに深呼吸をして、自分の記憶を遡った。目が覚めたばかりだからか、頭の中がぼんやりしているけれど、記憶自体は安定している。どうやら、少しだけ長い間、気を失ってしまっていたようだ。

 頭を横に倒すと、傍らで煌々と燃える炎の塊が見える。

 

「!」

 

 反射的に火事かなにかかと思って、大妖精は飛び起きた。けれどすぐに、火事にしては炎が穏やかであることに気づく。パチパチと優しく燃える炎は、どうやらただの焚き火らしい。

 なんだ、驚いて損した、とほっと胸を撫で下ろす。すると今度は、足下が妙にもふもふしていることに気づく。

 土や草の感触ではない。なんだろう、と足下を見下ろそうとして、

 

「目が覚めたか?」

「ふい!?」

 

 完全に不意打ちだった。焚き火ばかりに目が行って盲点だったが、すぐ横に誰かの大きな背中があった。大妖精は素っ頓狂な悲鳴とともに飛び上がり、もふもふの上からわたわたと転がり落ちた。

 妖精は総じて非力である。妖怪などに襲われた際には、弾幕ごっこでもない限りほとんどが逃げる以外の選択肢を持たないし、大妖精も例外ではない。とりわけ、今はいつも自分を守ってくれている相方がいないから、大妖精は一気に怖くなってしまって、脇目も振らずに逃げ出そうとした。

 

「そんなに慌てなくても、なにもしないよ?」

 

 立ち止まったのは、呼び止められたからではない。優しい響きを持つバリトンの声音に、聞き覚えがあったからだ。

 振り返ってみれば、広い大きな背中越しに、彼がこちらを見て微笑んでいる。

 先日の紅魔館で、大妖精たちを「危ないから」と言って逃がしてくれた、銀色の妖狐。

 

「あ……あなたは」

「やあ。昨日振りだね」

 

 細い木の枝を持って軽く手を振る、その仕草が、大妖精の恐怖をふっと穏やかにした。彼が悪い妖怪でないことは、先日の一件で既にわかりきっていた。

 どうやら大妖精は、彼が丸めた尻尾の上に寝かされていたらしい。あのもふっとした心地よい感触を思い出すと、勢いで転がり落ちてしまったことを、今になってちょっぴり後悔してしまう。

 

「……湖に落ちてきたのは、あなただったんですね」

 

 気を失う間際に見た銀色は、間違いなく彼のものだ。独特の艶があるというか、一目でそれとわかる色をしている。

 彼は頷き、

 

「ああ。……それにしてもお互い運がなかったね。頭、大丈夫かい?」

「え、ええ」

 

 あの時のことは、思い出すだけで顔から火が噴き出すようだった。颯爽と湖に飛び込もうとして、ちょうど浮き上がってきた彼と盛大にごっちんこ、だなんて間抜けの極みだし、なんだか自分でもよくわからない、とても恥ずかしい悲鳴を上げたりもしてしまった。

 不幸中の幸いなのは、それを彼に聞かれずに済んだということで――

 

「ふみう」

「!?」

 

 顔どころか、体中から火が噴き出たような気がした。

 彼の背中が、忍び笑いでくつくつと震えている。

 

「まあ、なんだ。可愛い悲鳴だったじゃないか?」

「き、聞いてたんですね!? 忘れてくださいー!」

「そうは言ってもねえ。あんなの、一度聞いたらもう忘れられないと思うけど――ふみう」

「ふみうなんて言ってないですーっ!」

 

 いや、確かに言ってはしまったのだけれど、ともかく。

 大妖精は顔中を真っ赤にして、彼の背中にぽかぽかと殴りかかった。

 

「大体、なんでいきなり湖に落ちてきたんですかっ!」

「それはまあ、色々あったんだよ。ところでふみうは、今日はあの青い子と一緒じゃないのか?」

「あ、チルノちゃんは今日はお出掛けして――って今、私のことふみうって呼びました!? 私は大妖精です! ふみうなんかじゃありませんっ!」

 

 拳に一生懸命力を込めて連続攻撃するも、妖精の力なんて高が知れていた。相手は男だし、加えて体が強い妖怪なので、ちっとも痛がる様子を見せず、

 

「あー……もうちょっと上、上」

 

 大妖精は彼の頭をぶっ叩いた。

 

「あ痛。……ちょっと上すぎるよ?」

「知りませんっ」

 

 頬を膨らませ、

 

「私は大妖精です、百歩譲ってもせめて『大ちゃん』って呼んでくださいっ」

「大ちゃん、ね……。じゃあ、改めて自己紹介だ。私は月見、ただのしがない狐だよ」

「……よろしくお願いします」

 

 一応礼儀として頭を下げておくが、内心はとても穏やかではない、大妖精なのだった。

 

「あー、だいちゃんおきてるー」「いきかえったー」「ふみうっ」「えだもってきたー」「もやすー」「えだー」

 

 と、周囲の森の奥から、あの時一緒に空中散歩していた仲間たちがやってきた。みんな、小さな体の中に細い木の枝を抱えている。

 月見が、呆れたように苦笑して言う。

 

「なんだ、随分と今更じゃないか。……さてはお前たち、途中で遊んでたな?」

「ぎっくー」「あ、あそんでないよ」「ひろったえだでちゃんばらごっこなんてしてないよ」「ぎくり」「ふみうふみう」「わたしたちまじめなよーせー」

 

 妖精たちが愛想笑いをしながら月見の周囲を飛び回る中、大妖精はとりあえず、さっきからふみうばっかり言っている仲間にチョップをお見舞いしてやった。

 

「みぎゃあっ」「ああっ、だいちゃんがおこった!」「ぼくさつ」「ぼくさつよーせーだいちゃん!」「いちげきひっさつ!」「しょくにんげー!」

「だ、だからみんな、そんな言葉どこで覚えてくるのよー!?」

「撲殺妖精大ちゃん?」

「なんでもないですっ!」

 

 これ以上不名誉な呼び名をもらってしまってはたまらないので、首を傾げた月見の言葉を、大妖精は全身を使って否定する。それから、またなにかを言おうと口を開きかけた仲間たちを、キッと一睨みして黙らせれば、彼女たちはきゃーきゃーとはしゃぎながら、月見の肩だったり胸だったりお腹だったりにくっついていった。純粋であるが故に余所者には警戒心の強い妖精たちだが、もう彼にはすっかり打ち解けているようだった。

 月見も特に嫌がる様子を見せず、やんわりと微笑んで焚き火を指差し、

 

「ほら、枝を火にくべてくれるかい」

「くべるー!」「もやすー!」「ぱちぱちするー!」

 

 そう言うなり、妖精たちは大妖精のことなどもうすっかり忘れて、目を爛々輝かせては枝を焚き火の中に投げ込み始めた。たったそれだけのことだが、焚き火の中に枝や葉っぱを投げ入れるのは、不思議と好奇心が刺激されて面白い。投げ込んだ枝が火をもらってパチッと弾けると、妖精たちはキャッキャと無邪気な声で笑った。

 せっかくなので大妖精も、月見の近くに落ちていた枝を一本、投げ込んでみる。

 枝が炎の中に消えていくと同時に、声を掛けられた。

 

「ところで、服は乾いたか?」

「え?」

 

 突然の質問だったので少し驚いてしまったが、答えはそれこそ火を見るよりも明らかだった。湖に落ちてたっぷり水を吸った服だ。ちょっとやそっと焚き火に当たった程度では、乾くはずもない。

 体の小さい大妖精でさえそうなのだから、月見の方も言わずもがな。彼はそうだよねえと気の抜けた声で呟き、途方に暮れた様子で空を見上げた。

 

「ここで乾かせればよかったんだけど、さて、このままだと夜になる方が先だろうねえ」

「私は、家に着替えがあるんで大丈夫ですけど……」

 

 家に帰って着替えて、濡れた服は適当に干しておけばいい。だが月見の方は、そう簡単にも行かないようだった。

 

「着替え、ないんですか?」

「実はこっちには来たばかりでね。……紅魔館に行こうかと思ってたけど、これは先に人里で買い出しかな」

 

 月見が紅魔館の名を口にしたことに、大妖精は少なからずびくりとした。紅魔館はスカーレットデビルの根城であり、そこから近い霧の湖に住む妖精たちは、彼女を恐れている者と恐れていない者の二派に分かれている。大妖精は前者だ。スカーレットデビルはとても恐ろしい妖怪で、少しでも機嫌を損ねる真似をすれば、その場で八つ裂きにされるのだと思っている。死という概念を持たない妖精だから、向こうだって、いちいち殺すことを躊躇ったりはしないだろう。

 しかし、もしかしてと頭を過るものがあった。月見は、紅魔館にて大妖精たちをわざわざ助けてくれたのだから、少なくとも悪い妖怪ではない。であれば、そんな彼と知り合いであるらしいスカーレットデビルだって、さほど、悪い妖怪ではないんじゃないか。

 

「……あの、月見さん」

「ん?」

 

 だから、大妖精は問おうとした。月見に、スカーレットデビルはどんな妖怪なのかと、確かめようとした。

 けれど、それを言葉にする前に。

 

「月見――――っ!!」

 

 背後から、鐘を叩いたように元気な少女の声がして、なんだろうと振り返った。森の向こう側から、大妖精と同じくらいの女の子が、草木を掻き分けて飛び出してくるのが見えた。

 その背には、七色の宝石をぶら下げた、人目を引く綺麗な羽。

 実際に目にするのは初めてだったけれど、噂話だけなら嫌というほど耳にしている。

 スカーレットデビルの妹。狂気に心を蝕まれた、幼くも恐ろしい吸血鬼。

 ――フランドール・スカーレット。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 後ろから何者かに突進され、そのまま勢いで焚き火に突っ込んでしまいそうになったので、月見は割と本気でびっくりした。前もって名前を呼ばれていなかったら、敵だと勘違いして尻尾でぶっ飛ばしてしまっていたかもしれない。

 首に回された、細くて形のいい両腕を見下ろして、力を抜くようにため息をつく。

 

「……危ないよ、フラン」

「えへー」

 

 すぐ耳元で、フランの笑んだ声が返ってきた。息遣いすら聞こえるほどの距離で、彼女の吐いた息が月見のうなじあたりをくすぐった。

 

「こんにちはー。それともこんばんは?」

「まだ明るいし、こんにちはでいいんじゃないかな」

「そっかあ。じゃあこんにちは、月見!」

「はいはい、こんにちは」

 

 耳元ではうるさいくらいの元気いっぱいな挨拶に、月見は苦笑しながら、肩の上にあるフランの頭をぽんぽんと叩いてやった。フランはむふーと気持ちよさそうにほころぶと、両腕に力を込めて、マーキングでもするように月見の肩に頬をすり寄せた。

 フランドール・スカーレット――月見が彼女と出会い、戦い、また狂気に打ち勝つための力となり、友達となったのは、つい昨日の話だ。

 

「フラン、外に出てきて大丈夫なのか?」

 

 月見が問えば、フランは吸血鬼とは思えないほど、太陽のように眩しい笑顔で頷いた。

 

「うん! まだこのあたりだけだけどね、昨日の夜から出してもらえるようになったの!」

「ああいや、そっちもそうなんだけど……」

 

 生まれつき危険な力を持ったフランは、何百年もの間、紅魔館の地下室にて幽閉されていた。それが過去のものとなり、こうして外でフランと話ができるのは、月見としてもとても嬉しかった。

 けれど、

 

「まだ夕日が出てるじゃないか。大丈夫なのか?」

 

 吸血鬼にとって、太陽の光は御法度の弱点だ。そして西の峰の近くでは、間もなく日没を迎える太陽が、有終の美を飾ろうと炎のように燃え上がっている。

 フランがこうして外に出てきているということは、あの過保護なお姉さんが許可をしたのだろうから、大丈夫なのだろうが、それでも心配なものは心配だった。

 

「痛くないのか?」

「うーんと、今くらいの夕日だとね、ちょっとヒリヒリするくらいだよ」

「……それでよく、レミリアが許可を出したねえ」

「お姉様はまだ寝てるよー。なんだか月見の匂いがしたから、黙って出てきたの」

「……フラン」

 

 月見の匂いがした、という発言についてはとりあえず置いておくとして、月見はたしなめるように目を眇めて、

 

「それじゃあ、みんなが心配してるんじゃないか」

「大丈夫だよー、美鈴が追いかけてきてくれてるから」

「い、妹様ーっ! あんまり館から離れるといけないので、そろそろ――あ」

 

 なんてことないとフランが笑った直後、森の奥から美鈴がやってきた。よほど慌てて走ってきたのか、息は切れ切れで、体のあちこちに葉っぱがくっついている。彼女は森が開けた先に月見とフランを見つけると、足を止めて膝に両手をつき、はあああ、と大きく胸を撫で下ろしていた。

 月見は、フランにくっつかれたままで上手く身動きが取れないので、背中越しに軽く手を振って応えた。

 

「こんにちは、美鈴」

「はい、こんにちはです。……まさか本当にいらっしゃるとは思ってませんでした」

 

 美鈴は月見の背中にくっつくフランを見て、息を整えながら苦笑いをした。

 

「『あっちから月見の匂いがする!』って言って、いきなり飛び出していくんですもん。本当にびっくりしました」

「私の匂いって、どんなだい」

「ほっこりする匂いだよー」

 

 フランがほっこりとしながらそう言ったけれど、果たしてそれこそ、どんな匂いなのだろうか。加齢臭じゃないといいなあ、と思う。年齢的には立派なおじいちゃんなのだし。

 まあ、フランがほっこりしているということは、変な匂いではないのだろう。

 肩で息をするのもそこそこに、美鈴が顔を青くしてフランに駆け寄って言う。

 

「それより妹様、とにかく一度館に戻りましょう! そろそろ、お嬢様が起きてくるかもしれません!」

「えー」

 

 フランはすこぶる不満顔で、

 

「せっかく月見に会えたのにー」

「だったら月見さんも紅魔館にいらしてくださいっ。とにかくバレる前に戻らないと、私がお嬢様に怒られちゃうんですよ!?」

「美鈴が怒られるのは別にいいんだけど、そうね、月見も紅魔館においでよー」

 

 ねーねーいいでしょー? と、月見の背中を駄々っ子のように何度も突っつく。心ない一言で美鈴がさめざめ泣いているのを、月見はとりあえず見なかったことにしておいた。

 

「さて、どうしようかな。さっき、湖に落ちちゃってね。服がまだ乾いてないんだよ」

「あ、そういえばなんか湿ってるね。大丈夫?」

「私自身は大丈夫なんだけど、着替えがなくてね。代わりを用意しなきゃいけないんだけど」

「あ、だったら咲夜に任せればいいよー!」

 

 フランが両手を叩いて、嬉しそうに声を上げた。

 

「咲夜なら、月見の服の時間だけを早く動かして、すぐに乾かしてくれるよ!」

「へえ……? そんなことまでできるのか、咲夜は」

「よく、ワインの時間の流れを早くして、美味しくしてくれるの」

 

 どうやら咲夜の能力は、時間を止めるのみならず、加速と減速はもちろん、効果範囲を限定することすらできるらしい。改めて思うが大した能力だ。使い勝手の悪さ故ほとんど出番がない自分の能力に、爪の垢を煎じてやりたくなってくる。

 感心する月見に、それにね、とフランは続けて、

 

「咲夜も、月見に来てほしいって思ってるはずだよ。昨日月見が帰ったあとから、一生懸命紅茶を淹れる練習してるもの」

「おや……」

 

 その言葉を、月見は少なからず意外だと思った。最高の紅茶を、という約束のために、まさか練習までしてくれているとは予想外だった。しかも、一生懸命に、とまで来た。

 

「ずっとお姉様を付き合わせて、たっくさん紅茶を飲ませてね。お陰でお姉様ったらすっかり水っ腹になっちゃって、最後の方は泣きながら『もうやめて~』ってなってて、すごく面白かったんだよ!」

「ッハハハ。それだったら、行かないわけにもいかないねえ」

 

 笑いながら、月見は紅魔館のある方角を見遣った。ここで月見が紅魔館へ行かなければ、恐らく明日以降も、レミリアは紅茶地獄に苦しめられることとなるのだろう。それはちょっぴり、可哀想な気がした。

 

「どれ……大妖精、私は紅魔館に行くから――」

 

 少し前まで一緒に話をしていた少女に、声を掛けようとして、そこで初めて月見は気づく。大妖精の姿が、綺麗さっぱりどこかに消えてしまっている。

 そして、大妖精だけではない。周囲を飛んでいたはずの小妖精たちもまた、いつの間にかいなくなってしまっていた。なるほど、そもそもこの場からいなくなっていたのであれば、突然現れたフランに誰も疑問の声を挟んでこないわけだ。

 ふむ、と月見は少し考えて、

 

「おーい、ふみうー」

「ふみうって呼ばないでくださいっ! ――あ」

 

 その名――もう名前にしてしまっていいと思う――を呼ぶなり、やや離れたところにある茂みの奥から、大妖精がぴょこりと頭を出した。けれどそれは一瞬で、月見と――否、フランと目が合った途端、顔を青くして奥へと引っ込んでいってしまった。

 

「……」

 

 肩越しに感じるフランの呼吸が、少し、細くなっている。

 

「……そんなに怖がらなくても、大丈夫だぞ?」

 

 茂みから声が返ってくるまでは、ややの躊躇の間があった。恐る恐る、腫れ物に触れるような声音で、

 

「で、でも、噂で聞いたことがありますー……。七色の、宝石の翼……あらゆるものを破壊してしまう力を持った、恐ろしい吸血鬼だって……」

「……」

 

 月見は、返す言葉に迷った。大妖精の認識は間違っていない。もちろん月見は、フランが見た目相応に素直で可愛い吸血鬼であることを知っているけれど、彼女が内に秘めた強大な力は、客観的に見てしまえば恐ろしいものであるのも事実だった。

 

「あのっ……あのね、」

 

 拙い声で、フランが応えた。胸に当てた両手で、痛みをこらえるように、

 

「私、なにもしないよ……? 大丈夫、もう、もう、誰も傷つけたりなんてしないから……」

 

 繰り返した「もう」という言葉に込められる想いが、大妖精に伝わることはない。

 けど、それでも。

 

「大丈夫だから、……だから、怖がらないで……」

 

 かつてフランは、身に秘めた力を外から恐れられ、拒絶されてしまわないようにと、姉の手によって幽閉されていた。それは即ち、今のフランに外の世界で居場所を作ることはできないという、一つの宣告だった。

 それを、フランは否定したかったろう。確かに自分は恐ろしい存在かもしれないけれど、でも、居場所は作れるんだと。幽閉を解かれた今、それを自分の力で成し遂げて、姉を見返してやりたかったろう。

 けれど、妖精たちは応えない。まるで初めからそこにいないかのように、沈黙し、息を殺している。

 言葉すら、返してもらえない――その冷たい拒絶は、フランの心に、強く、突き刺さったようだった。

 

「……おいで、フラン」

 

 きつく力のこもった小さな手を、そっと引き寄せれば、フランは何事か、涙のにじんだ声で呻いて、月見の腕の中に崩れ落ちた。

 

「妹様……」

 

 美鈴が、なにか掛けるべき言葉を探している。けれど結局、上手な慰めは見つけられなかったようで、なにも言わずにフランの背中へ手を添える。

 

「月見……やっぱりダメなのかなぁ」

 

 砕けそうに声を震わせたフランに、しかし月見は笑って、

 

「なあに、決めつけるのは早いよ。今すぐは無理でも、大丈夫、わかってもらえるさ」

 

 小さな背を、優しく叩く。

 

「だってお前は、性別も体つきもまったく違う、私と友達になれたんだからね。女の子の友達だって、必ずできるさ」

 

 フランはなにも言わなかったが、決して、月見の胸元から離れようとはしなかった。背中に回された華奢な腕で、息が詰まるほどに強く縋りつかれる、その痛みすら、月見には愛おしいと思えた。

 

「じゃあ、とりあえず紅魔館に戻ろうか。レミリアにバレて外出禁止令でも出されたら、元も子もないからね」

 

 ん、とフランが涙声で頷いたので、月見は彼女を抱いて立ち上がった。それから、大妖精が隠れている茂みに向けて言う。

 

「この火、適当に消しておいてくれるかい。もうちょっと枝を投げたりして遊んでいいから、火事にならないように」

 

 返事はない。けれどそれは、なにを言えばいいのかを迷っているような沈黙だった。自分が答えなかったせいでフランを傷つけてしまったのだと、遅蒔きながら理解していたようだった。

 そしてそれでもなお、大妖精は恐怖を捨て切れず、言葉をつくれないままでいる。

 

「……まあ、今すぐとは言わないよ」

 

 だから、月見は言った。頼み込むのでもなく、押しつけるのでもなく、今はただ、言い聞かせるように静かな声音で。

 

「でも、初めから怖い吸血鬼だとは決めつけないで、この子のこと、見てあげてくれないかな。ちょっとずつでいいから、ゆっくりと、どんな子なんだろうって、気に掛けてみてほしい」

 

 そしてもし、この子の気持ちに応えてみようと、思えたのなら。

 なにも難しいことなんて必要ない。ねえ、でも、こんにちは、でも構わない。

 小さな一つの、言葉さえあれば、関係は作れるから。

 

「――だからその時は、声を掛けてやってくれ」

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 森を抜ける頃には、フランの心も大分落ち着いたようだった。お姉様に心配されると面倒だからと、完全に元通りとはいかずとも、笑って、ちゃんと一人で残りの帰り道を歩いた。

 紅魔館の門辺で美鈴と別れ、すっかり元気になったフランに腕を引かれて館へ入る。するとすぐに咲夜がやってきて、月見の姿を見るなりひどく目を白黒させた。

 

「つ、月見様? ど、どうしてここに……」

「霧の湖でフランに会ってね、せっかくだからお邪魔させてもらったよ。……紅茶の約束もあることだしね」

「え、あっ……はい、それはそうなんですけど、その」

 

 まさか約束の日が昨日の今日になるとは、思ってもいなかったのだろう。咲夜はそわそわと落ち着かない様子で、月見を見たり手元を見たりを繰り返していた。

 せっかくなので、少しからかってみることにする。

 

「練習のしすぎで、レミリアを泣かせたんだってね」

「え!? ……あ、妹様っ! さては話したんですね!?」

「だって、黙っててなんて言われてないもーん」

「う、ううっ……」

 

 咲夜は、また一段と感情豊かになっていた。月見が初めてここを訪れた時、彼女はいかにもよそ行きの表情で淡々と紅茶の準備を整えていて、月見にえらく大人びた印象を与えたものだけれど、それが今では顔を真っ赤にして恨みがましそうにフランを睨みつけているのだから、なんとも面白い変わりようではないか。

 

「もう少し練習が要るなら、また今度にするけど?」

「……むっ」

 

 からかうように言葉を重ねれば、咲夜はあからさまに不機嫌になって、

 

「そんなわけないじゃないですか。……どうぞ月見様、歓迎致しますわ。約束通り、最高の紅茶をご馳走して差し上げます」

 

 スカートの端を持って一礼する、その仕草は垢抜けていたけれど、頬がちょっぴり膨らんだままになっているあたり、年齢相応に可愛らしくもあった。

 と、月見の視界の端に、なにか桃色の物体がちらついた。なんだろうかと見てみれば、桃色の寝巻きに身を包んだレミリアが、寝惚け眼をこすりながら、吹き抜けになった階段を降りてきていた。どうやらまだ起きがけのようで、足取りはおぼつかなくて今にも階段を踏み外しそうだし、寝相が悪かったのか寝間着は皺だらけ、髪も寝癖であちこちが飛び跳ねている。

 吸血鬼として、或いは紅魔館の当主としてのカリスマは、どうやら布団の中に忘れてきてしまったらしい。これが初対面で月見にグングニルを突きつけた少女なのだから、月見としては笑うべきか呆れるべきか。ちなみに咲夜は呆れていて、フランはころころと笑っていた。

 よたよたと、なんとか階段を無事に降りきったレミリアは、まず咲夜を見て寝言みたいな声で言う。

 

「う~……おはよ~、さくや~……」

「おはようございます、お嬢様」

 

 次にフランを見て、

 

「フランもおはよ~……」

「おはよー、お姉様」

 

 そして最後に、月見を見て。

 

「ちゅーごくも~……あれ? ちゅーごく、なんだかせがのびた~……?」

「ん?」

 

 どうやら紅魔館のご当主は、まだ半分夢の世界にいるらしい。咲夜が顔に手を遣って俯き、フランが口を押さえて必死に笑い声を噛み殺し始めた。

 

「ちゅーごく~……?」

「……レミリア、とりあえず顔を洗ってきたらどうだい」

「えう~?」

 

 なにが「えう~?」か。フランの体がぴくぴくと痙攣し始めている。

 

「ちゅーごくじゃないの~……? じゃあぱちぇ?」

「……私のどこをどう見間違えればパチュリーになるんだろうね?」

「う~……? ……じゃあこあくま」

 

 消去法で答えれば当たるとでも思っているのだろうか。

 月見はため息をついて、

 

「……月見だよ、月見。昨日の今日なんだから、忘れないでくれないかな」

「つくみ~……?」

 

 呟いたレミリアはそのまま何回かふらふらと船を漕いで、やがて、あ~、と間の抜けた声を上げた。

 

「そっか~、つくみね~……。じゃあおはよ~、つくみ~」

「……ああ、おはよう」

「う? でもなんであなたが、こんなとこ、ろ……に…………」

 

 夢見心地だったレミリアの瞳が急に真面目になった。眠気が一瞬で空の彼方へ吹き飛び、血の気が波のようにさあっと引いていき、代わりに羞恥心がむくむくと大きくなっていくのが、月見の目から見てもとてもよくわかった。

 かち、こち、とどこからか時計の音が聞こえて、ぴったり五秒。

 

「~~~~ッ!?」

 

 レミリアの悲鳴は言葉にならなかった。お尻に火でもつけられたみたいに、彼女は全力疾走で階段を駆け上がって、

 

「へぶぅっ」

 

 途中で見事に転んで、

 

「たあーっ!!」

「ふぎゅっ!?」

 

 そこにフランがすかさずボディプレスを仕掛けて、レミリアの上に馬乗りになった。

 階段の中腹で、うつ伏せのまま拘束されたレミリアの両足がばたばたと暴れる。

 

「ちょっ、フラン、やめてっ! 部屋に戻らせてっ! お布団の中に戻らせてえええええっ!!」

「なんで?」

「恥ずかしくて死にそうだからに決まってるでしょ!?」

「ねえ月見、見てみなよー。お姉様の寝癖すごいよー」

「いやあああああ呼ばないでええええええええっ!! 月見、あああっあなたこっち来ないでよ!? 見たらグングニルよグングニルッ!!」

 

 どうやら本気で恥ずかしがっているらしく、レミリアはロデオみたいに暴れ回っていた。上下左右に激しく揺さぶられ、上のフランがきゃっきゃと楽しそうに笑っている。

 もちろん、わざわざ見に行くような真似はしない。冗談抜きでグングニルが飛んできそうだし、それにレミリアの寝癖がいかなものであったかは、彼女が寝惚けているうちに充分すぎるほど見せられたのだから。

 

「違うっ、違うのよ! いつもならちゃんと綺麗に起きられるんだけど、今日はたまたまっ!」

「お姉様の寝癖を直すのは咲夜の日課だよねー」

「違うってばあああああ!?」

 

 カリスマもプライドもかなぐり捨てて暴れるレミリアの絶叫と、その上ではしゃぐフランの笑い声を聞きながら、月見は思わずため息をついたけれど。

 でもまあ、あれがほんの昨日まではまず見られなかった姉妹の姿なのだと思うと、これはこれで、いいことなのかもしれない。

 

「……随分と仲良くなったみたいで、なによりだよ」

 

 昨日の苦労を思い出しながら月見がしみじみと言えば、咲夜は夢を見るように、柔らかい笑顔で頷いた。

 

「ええ、とっても」

 

 

 

 

 

 部屋に閉じこもって出てこなくなったレミリアのことはフランに任せ、月見はとりあえず、シャワーを貸してもらうことにした。「フランも一緒に入るー!」と目を輝かせたフランがあっと言う間にレミリアの部屋に吸い込まれたのを見届け、月見は咲夜の案内で脱衣所の扉を開けた。

 ここもまた咲夜の能力で空間が曲げられているのか、ただの脱衣所にしては広いつくりだった。畳八畳分ほどの間に、大きな鏡の洗面台と、竹編みの脱衣籠、ふわふわに洗濯されたタオルが収まった収納棚、そして隅っこには控えめに体重計が置かれている。扉一枚を隔てた先にはタイル敷きの浴室が広がっており、今は使う人もいないからか、浴槽に湯は張られていない。

 

「では、私は外でお待ちしています。浴室に入られたら呼んでください。すぐに着物の方を洗濯して、乾かしますので」

 

 咲夜は早くもやる気満々になっていて、月見の生乾きの着物をしきりに見つめては、うずうずと洗濯したそうにしていた。

 

「乾かしてくれるだけで充分だよ?」

「いえ、やらせてください。職業病みたいなもので、汚れた服はちゃんと洗濯しないと気が済まないんです」

「まあ……やってもらえるならありがたいけど」

「二十分ほど掛かるかと思いますので、ごゆっくりなさってくださいな」

 

 それでは、と一礼して咲夜が脱衣所を出て行ったので、月見は素直に言葉に甘えることにした。咲夜はあれで意固地というか、頑固なところがあるから、無理に断ろうとすればまたヘソを曲げられるだけだ。長いものには巻かれろ、である。

 着物を竹編みの籠に入れて、浴室に入り、戸を閉める。その音を聞いて、咲夜が脱衣所の扉をノックした。

 

『月見様、入っても大丈夫でしょうか』

「ああ」

 

 心なしか、彼女の声は硬くなっていた。よくよく考えてみれば、扉を挟んですぐ向こう側に裸の異性がいるというこの状況は、年頃の少女にとっては少なからず意識してしまうものがあるのかもしれない。

 とても控えめに扉が開く音がして、浴室の戸に薄く咲夜の影が浮かぶ。扉越しではあるが、彼女がそわそわと落ち着いていないのがとてもよくわかった。

 

『ええと……では、着物をお預かりしますね』

「よろしく頼むよ」

『いえ……』

 

 どこか心ここにあらずな声音でそう言って、咲夜が籠に手を伸ばそうとする。

 その動きが、途中でぴたりと止まる。

 

『……』

「……どうした?」

『ふえっ……あ、はい、ではすぐ洗濯して乾かしてきますね! ごゆっくり!』

 

 咲夜はなぜかひどく後ろめたいことを訊かれたように、ばたばたと大慌てして脱衣所を飛び出していってしまった。誰もいなくなった向こう側の静寂を感じながら、月見ははてと首を傾げる。なにか、彼女を戸惑わせてしまうような変なものでもあったのだろうか。

 だが、籠には服以外の物を入れた覚えはないし、大したことではないだろうと思って、気にせずシャワーを浴びることにした。

 脱衣所にまた誰かが入ってきたのは、月見が髪を洗い終えて、次に体に移ろうとした頃だった。ノックの一つもなく、脱衣所の扉が開いて、閉まった音がする。咲夜ではない。扉越しに見える人影は、薄い紫色をしている。

 紫色、といえば。

 

『……あら? 誰か入ってるの?』

 

 起伏の少ないこの声音からしても、間違いはなさそうだ。

 

『レミィかしら? お客さんが来たから、なるべく早く私にも使わせてほしいのだけど』

「……そのお客さんっていうのは、私のことかな?」

『……へ?』

 

 あまり感情を表に出さない彼女らしからぬ間抜けな声で、静寂は一瞬。

 

『!? ……つ、月見ッ!?』

 

 直後、扉越しのパチュリーの影が突然バランスを失って、どすんと大きく尻餅をついた。

 

『え!? えええっ!? あ、あなた、なんでこっこここっ、ここに』

 

 まさか月見がシャワーを浴びているとは夢にも思っていなかったようで、パチュリーの声は完全に裏返ってしまっていた。この子もちゃんとこういう声を出せるんだなと、と月見は物珍しいものを見た心地になる。

 シャワーを止め、

 

「ちょっと色々あってね、貸してもらってたんだけど……もしかして、今から入るところだったか?」

『えっと、それはまあ、そうだったんだけど』

「ふうん……結構、早めにお風呂に入るんだね」

 

 時間は、まだ日が落ちて間もない頃。この時間から早速お風呂に入ろうとするのは、女性とはいえ珍しいのではなかろうか。

 

『や、それはあなたが来たから……って、それはどうでもいいのよ! と、とにかくごめんなさい! ごゆっくり!』

 

 繰り返しになるけれど、やはり扉のすぐ向こう側に裸の異性がいるというこの状況には、パチュリーとて意識せざるを得ないところがあったらしく、彼女は少し前の咲夜と同じようにばたばたと大慌てして、一目散に脱衣所を飛び出していってしまった。

 

「……ふむ」

 

 また静かになった脱衣所の空気を感じながら、そういえば、と月見は今更のように思う。そういえばこの紅魔館の住人は、女の子ばかり、なのだった。その中でなんの遠慮もなくシャワーを借りたのは、少しばかり軽率だったかもしれない。

 しかも思い出してみれば、一日目は紫の屋敷で、二日目は慧音の家で――つまりは幻想郷に戻ってきてからというもの、女性の家でばかり、風呂を借りているので。

 やはり自分の家を持つのは大切だなと、月見はつくづく今更のように、噛み締めるのだった。

 

 ……一方その頃の咲夜は、月見様の服を洗濯するってそれってやっぱりこの下着もやらなきゃいけないのよねうううううどうしようどうしよう別に嫌とかそんなことはないんだけどなんかすごくどきどきしてああああああああ、と人生最大の煩悶を抱えてオーバーヒート寸前になったりしているのだが。

 月見はもちろん、紅魔館の住人の誰もが、気づいていない。

 

 

 

 

 

 予定より十分ほど長引いて、咲夜が乾いた着物を届けてくれた。浴室の扉越しに「ありがとう」と礼を言うと、咲夜は「いえいえとんでもないですむしろなんだか申し訳ありませんでした!」と平謝りしながら逃げ出してしまったのだが、予定より遅れたのがそんなに申し訳なかったのだろうか。

 しかしそれにしては大袈裟過ぎるというか、もっと他に並々ならぬ理由があるような気がして、月見はうーむと首をひねる。なにか、大切なことを見落としているような違和感があった。そう、例えば――

 

「月見――――ッ!!」

「げふっ」

 

 などと考えながら着替えを終え脱衣所を出たところで、見計らったタイミングでフランが廊下の彼方からすっ飛んできた。吸血鬼としての身体能力を存分に生かしたその勢いはもはや突進に近く、鳩尾に飛びつかれた月見は、肺の空気を一瞬で失って後ろに尻餅をついてしまった。

 

「いったあ……。こら、フラン。もう少し手加減してくれないかな」

「えへへー。だって月見が遊びに来てくれて嬉しいんだもの」

 

 フランは、狙っているのかどうかは知らないが、甘やかされるのがとても上手な子だった。腰にぴったり抱きつかれて、本当に嬉しそうな笑顔で見上げられて、それでもこの子を叱ろうと思える猛者はそういないだろう。

 もちろん、月見も例外ではない。あとに控えていたはずの抗議の言葉は、みんなため息になって消えてしまった。

 

「月見、咲夜がこれからご飯作るって! 一緒に食べよ?」

「おや、いいのか?」

「もちろん! ……ねえ、それで、なんだけどさ」

 

 フランは月見の腰から腕を離し、両手の指を絡ませて、ねだるような上目遣いになって言う。

 

「もし、よかったらなんだけど……今夜はこのままウチに泊まってかない? ほら、咲夜は月見に紅茶をご馳走しないとだし、私も、月見といっぱい遊びたいし……」

「それはありがたいけど……」

 

 申し出はありがたかった。月見の家ができるのは早くとも明日以降になるから、それまではまたどこかで宿を恵んでもらうか、一時の間野狐に戻るかなりしなければならない。紅魔館は月見にとっても居心地がいい場所だから、まさに渡りに船といったところだろう。

 だが、

 

「レミリアはいいって言ってくれたのか?」

 

 あの気難しい年頃のお嬢様は、男を家に泊めるなんて猛反対しそうだ。屋敷の主人に首を振られてしまえば、月見は大人しく別の場所で夜を明かすしかない。

 しかしフランの返答は早かった。二つ返事よりも早く頷き、なんの躊躇いもなく、

 

「お姉様の意見なんてどうでもいいよ。だから、ねえ、泊まってってよー」

「……」

 

 ひょっとしてレミリアは、紅魔館の当主として認められていないのだろうか。

 

「それにお姉様が反対しても、多数決で私たちの勝ちだもん。咲夜も美鈴もパチュリーも小悪魔も、みんな賛成してくれるはずだものっ」

「……そっか」

 

 一体なにが誇らしいのか、そう言ってえへんと胸を張るフランの仕草が、とても愛らしい。

 月見は膝の上からフランを下ろして、その頭をぽんぽんと叩いてやりながら、立ち上がった。

 

「でも、ちゃんと話はしておかないとダメだよ。面倒なことになるからね」

「はーい」

「じゃあ、とりあえず行こうか。案内してくれるか?」

「うん! こっちだよー!」

 

 ぱっと笑顔を咲かせたフランが、月見の手を取り走り出す。けれど途中で、走るよりも飛んだ方が都合がいいと思ったようで、羽を羽ばたかせて月見と同じ目線になっては、早く早くと、一生懸命にこちらの腕を引っ張ってくる。

 五百年近くに渡る暗い闇を背負った分だけ、月見が目を細めてしまうくらいに眩しく輝く、彼女の笑顔は。

 いつか、紅魔館の外でも、花開くことができるのだろうか。

 

 

 

 

 

 ○

 

 

 緊張していた。柄にもなく。

 自分で言うのもなんだが、十六夜咲夜は緊張に強い方だ。そもそも、緊張するということからしてあまりない。レミリアが紅い霧を作り出し、幻想郷に異変を起こした時も。初めて異変の解決に乗り出し、西行寺幽々子と対峙した時も。その後の異変で、伊吹萃香や八意永琳といった遥か格上の相手と闘った時も、緊張したことなんて一度もなかった。

 なのに、どうして、こんな紅茶の一杯を用意するだけで、こうにも手が震えてしまうのだろうか。

 心の中でそう考えてすぐに、いや、と首を振った。咲夜が今準備しているのは、決して『こんな紅茶』などではない。

 最高の紅茶。

 あの人に、ご馳走すると、約束した。

 泊まりたいんだったら泊まってってもいいわよ、とレミリアが月見の宿泊を許可したのは意外だった。てっきり反対するか、そうでなくても顔をしかめるくらいするものと思っていたのに、まさかの二つ返事だった。

 気になってあとから尋ねてみれば、レミリアもレミリアなりに、月見に恩返しをしたいと、思ってくれていたらしい。今はまだ素直にはなれそうにないけれど、それでも、せめてこういうところでくらいは――と。

 そして最後に――悔しいけど、あいつがいるとフランがとっても嬉しそうだから――とも、付け加えてくれた。

 鮮烈だった。わがままで、勝ち気で、自分を中心にして世界を回すような生粋のお嬢様だったレミリアが、自分のためではなく、紅魔館の者たちのためでも親しい友人のためでもなく、ほんの少し前まで赤の他人だった男に、拙いながらも自分なりに考えて感謝を伝えようとする姿を、咲夜は初めて目の当たりにした。

 つくづく、紅魔館にとっての月見という存在が、段々と大きくなってきていることを思い知る。月見と出会って、紅魔館の住人たちは変わった。

 フランは狂気を克服し、とっても綺麗な笑顔で笑えるようになった。

 レミリアはフランと心を通じ合い、少しずつ、他人のことを思いやれるようになった。

 パチュリーは、小悪魔曰く、月見と出会う前よりも身嗜みに気を遣うようになったらしい。

 そして、咲夜だって。

 

「……っ」

 

 どうやって辿り着いたのかは、いまいちよく覚えていなかった。ふと意識した時には、咲夜はティーセットを両手に、月見がいる部屋の前で棒立ちになっていた。

 ……いくらなんでも、緊張しすぎだ。本当に柄でもない。らしくないわよ、十六夜咲夜。

 咲夜はゆっくりと深呼吸をして、目の前の扉をノックした。月見と一生懸命に遊んでいたフランが、レミリアに誘われて星空散歩へ出掛けたのは確認済みだ。パチュリーはあいかわらず魔法の実験で、美鈴は門の前。だから今、この部屋には月見しかいないはず。

 なんとなく――彼に紅茶をご馳走する時は、二人きりで――と、考えていた。

 

『はい?』

 

 扉越しでも、月見の声は不思議とよく通る。

 

「月見様、咲夜です。……紅茶を、お持ちしました」

『ああ、ありがとう。今開けるよ』

「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」

 

 月見の声を制して扉を開けると、ちょうど、彼が持ち上げかけた腰をベッドの縁に戻したところだった。布団とシーツにさんざ乱れたあとがあるのは、フランが跳ね回ったからなのだろう。一応は月見が手直しをしてくれたようだが、咲夜の目から見れば素人仕事だった。

 もちろん、それをわざわざ指摘するような真似はしない。むしろ、ベッドがあんなになるまでフランが月見にじゃれつく光景を、一目でも見ておけばよかったかなと後悔する。それはきっと、見る者に柔らかなぬくもりを与えてくれる、幸福と慈愛に満ちた景色なのだろう。

 首を振った。今は、この紅茶に、集中しなければ。

 

「お疲れ様です、月見様」

「いやはや、まったく」

 

 近くのテーブルにティーセットを置いて微笑むと、月見は肩でも凝ったみたいに苦笑いをした。

 

「本当、フランは元気だね。いや、それとも私が年を取ったのかな。相手をするだけで精一杯だったよ」

「あら、まだそんなにお若いじゃないですか」

 

 人間なら二十半ば程度の見た目でそんなことを言われても、説得力はない。

 

「妖怪だから、見た目が若いのは当たり前さ。でも、これでも結構長生きしてるんだよ?」

「月見様は、もうどれくらい生きられたんですか?」

 

 カップの準備を整える片手間で、尋ねてみる。昨日知り合ったばかりだから当たり前だけれど、咲夜はまだ、月見のことをまったくといっていいほど知らない。

 そして、少しずつでもいいから知っていきたいと、思う。

 さてね、と月見は小さく肩を竦めた。

 

「西暦が始まる前よりかは生きてたと思うけど、細かいところは忘れてしまったな」

「……そうですか」

 

 ということは、少なくとも二千歳以上。途方もない数字だが、特別驚くようなことはなかった。千年以上を生きた妖狐が九尾になるというから、十一尾になるためには、それくらい掛かってもおかしくはないだろう。

 なんだかすごいなあ、と咲夜は思う。月見は、咲夜よりも百倍以上、様々なものを見て、様々なものに触れて、様々なものとともに生きてきた。その人生がどれほどのものかなんて、高々百年も生きられない人間の咲夜には、一生掛かっても理解できないだろう。

 ふと――なんで月見様は妖怪で、私は人間なのかなあ――なんて、そんなことを考えてしまう。けれど今は大切な約束を果たさなければならない時だから、咲夜は心の中で頭を振って、気持ちを切り替えた。

 咲夜が紅茶の準備を整える間、月見からなにかを話しかけてくることはなかった。物珍しそうな顔をしながら、咲夜の一挙一動に絶え間なく視線を注いでいた。そんなに注目されると一層緊張してしまって、咲夜もつい、月見のことを必要以上に意識してしまう。

 だからだろうか。咲夜が手元で小さく陶器を鳴らすたびに、月見の耳がひくひくと動いているのに、気づいたのは。

 

「……」

 

 咲夜は紅茶の準備を続けるふりをしながら、スプーンでカップをさりげなく叩いてみた。

 カチャ。ひく。

 

「…………」

 

 もう一度。

 カチャ。ひくっ。

 

「……………………」

 

 ちなみに咲夜は、動物が、嫌いではない。

 カチャ。ひく。

 カチャカチャ。ひくひく。

 カチャカチャカチャ――

 

「……咲夜?」

「は、はいっ」

 

 月見に胡乱げな目で見られて、今度は咲夜がひくっとする番だった。しまった、つい。

 いや、これは、カップを鳴らすたびにいちいち動く月見の耳が悪い。紅茶の支度をする風景が、そんなにも珍しいのだろうか。

 

「月見様は、紅茶はあまり飲まれないんですか?」

「好んで飲みはしないね。日本育ちだし、日本茶派だよ」

「そうですか……」

 

 じゃあこれからは、日本茶を淹れる練習もしようかなあ――などと、考えながら。

 最高の状態で止めていた、ティーセットの時間の流れを解除する。紅茶の風味が変わってしまわないうちに、手早くカップに琥珀色を注いで。

 

「……どうぞ、月見様」

「ああ、ありがとう」

 

 カップを乗せたソーサーを、月見に手渡す。

 この紅茶が最高の紅茶なのかはわからない。咲夜はこの世に生を受けてまだ二十年も経っていない若輩者だし、世界中を探してみれば、咲夜よりも美味しい紅茶を淹れる人たちはごまんといるだろう。

 けれどこれは、レミリアに泣きべそをかかせるまで試行錯誤を続けた一つの完成形で、間違いなく今の咲夜の限界だから。

 だからせめて、月見の中だけでも、一番になれればいいなあと思う。

 月見は、カップの中で揺れる琥珀色を目を細めながら見つめて、何事かを考えているようだった。けれどそれを言葉にすることはなく、やがてゆっくりと、カップを口元へ持っていった。

 傾ける、その姿が、妙に生々しく咲夜の目に映る。銀狐だからか、やっぱり肌は白めだなあとか。獣なのに爪が短く切り揃えてあるのは、外の世界で生活してたからなのかなあとか。あ、今耳がひくって動いた、とか。そんなどうでもいいようなことばかりを、ぼんやりと考えてしまう。

 ふと気づいた時には、月見はカップをソーサーの上に戻していた。まぶたを下ろして、ふーむと小さな声でなにかを考えていて、一向に感想を言ってくれる気配がない。

 一抹の不安が咲夜の胸を過る。もしかして、美味しくなかっただろうか。もっと美味しい紅茶を知っているのだろうか。もしそうだったら、とてもショックだ。心にぽっかり穴が空いて、しばらくの間寝込んでしまうかもしれない。

 例えばレミリアやフランに「美味しくない」と言われたら、それもまた、とてもショックだけれど。

 でもなんだか、月見に「美味しくない」と言われてしまうのは、それとは少し違う気がする。

 なんというか――すごく嫌だ。とにかく嫌だ。相手がレミリアやフランなら、次こそ頑張ろうと思えるけれど、月見だとその気も起こらなくなってしまうほどに、ショックすぎて、とても嫌な、気がする。

 まるで、己の判決を待つ被告人の心地だ。なにを言われるのだろうかと、そればっかりで頭が飽和して、心臓と一緒に爆発してしまいそう。

 美味しいよ、咲夜。――とても嬉しい。

 これはちょっとイマイチだね、咲夜。――泣いてしまいたくなる。

 きっと、月見が黙っていたのはほんの数秒だ。けれど咲夜にとっては、上手く息が吸えないあまり呼吸困難になってしまいそうになるほどに、長い長い時間だった。

 だから、ねえ、どっちなんですか、月見様。このままじゃあ私、息ができなくて死んでしまいます。

 だから、だから――。

 その心の声が届いたわけではないだろう。けれど月見は、応じるようにまぶたを上げて咲夜を見ると、笑顔を一つ、つくった。

 

「驚いたよ。……紅茶って、こんなに美味しいものなんだね」

「……、」

 

 一瞬、その言葉を理解するのに時間が掛かって、呆けてしまったけれど。

 

「美味しいよ。……私が知る中では、間違いなく最高の紅茶だ」

「……! ありがとうございますっ!」

 

 そうだ、彼は今、笑ってくれてるんだと――そう思ったら、安堵と喜びが津波になってやってきて、今までの不安と息苦しさを一気に押し流していった。正直に白状すれば、腰が抜けるくらいに安心して、ちょっと目元がじわりとした。それくらいに嬉しかった。自分が今まで受け取ってきた「美味しい」の中で、一番幸せな「美味しい」だった。

 体の中に溜まっていた緊張を、はあぁ~~~~、なんて長いため息と一緒に吐き出していると、くすりと月見に笑われた。

 

「なんだ、そんなに緊張してたのか?」

「……そんなの、当たり前じゃないですか。だって、本当に大切な約束だったんですもの」

「ッハハハ、そうか」

 

 カップを傾け、ほっと一息ついて、美味しいね、と呟く、その何気ない月見の仕草が、こんなにも咲夜の心を温かくする。レミリアには申し訳ないけれど、彼女を泣かせるくらいにまで練習を重ねて、本当によかったと思えた。

 と、

 

「お前も飲んだらどうだい?」

「……はっ!?」

 

 いきなりそんなことを言われたので、温かかった気持ちが一気に沸騰して、顔から湯気が吹き出そうになった。無意識のうちに月見が持っているカップに目が行く。お前も飲んだら、ということはつまり、あれだろうか。このカップの紅茶を飲んだらどうかということだろうか。でもそれってひょっとしてもしかしなくても間接

 

「カップ、もう一つ持ってきてるみたいだし」

「へ? …………ああ、そうでしたね」

 

 いきなり冷静になった。バカなことを考えて一人で勝手に慌てていた数秒前の自分を、なんだか全力で殴り飛ばしてやりたい。

 カップを二セット持ってきたことに、特に深い意味はなかった。トレーの上に一つだけなのは寂しいような気がして、理由もなく乗せることにした行きずりのカップだった。

 でもせっかくだし、月見の言う通り、あれで紅茶を飲んでみてもいいかもしれない。もしかしたら彼の「美味しい」がお世辞かもしれないし、自分もあのカップで飲んで、確かめてみようと。

 そう思ってティーサーバーへと手を伸ばして――ふっと、やめた。

 

「……じゃあ、月見様が淹れてくれませんか?」

「私が?」

「ええ、せっかくですし」

 

 どうせ、飲むのだったら。

 彼の手で淹れてもらった紅茶を、飲んでみたい。

 

「でも、私は咲夜みたいに上手じゃないよ?」

「さすがに一から淹れてなんて言いませんわ。……これを、カップに注ぐだけでいいんです」

 

 咲夜がつくったこの紅茶を、月見がカップに注ぐ。それは決して、彼が淹れた紅茶とは言えないだろうけど。

 けど、それでもいい。それだけでも、いいから。

 私のためだけに、やってほしい。

 

「ふむ、それくらいであれば構わないよ。……。どれ」

 

 ベッドから腰を上げた月見が、こちらに近づいてくる。それだけのことなのに、咲夜はわけもなくどきどきした。月見がティーサーバーを手に取ってカップに傾ける、その動きに、少し前の彼みたいになってじっと視線を目を注いでしまって。だから、ああなるほどな、と咲夜は思う。

 他でもない自分のためだけに、誰かがなにかをしてくれている姿というのは。

 こんなにも強く、人の目を引くものなのだ。

 

「はい、できたよ」

「……ありがとうございます」

 

 こんな風に誰かから紅茶を淹れてもらうのは、随分と久し振りのような気がした。もう思い出せないくらいに長い間、咲夜は誰かのために紅茶を淹れる立場であって、淹れてもらう側ではなかった。

 ……なんだかとても嬉しくて、体が不思議なくらいに火照っているのは、だからなのだろうか。

 月見と一緒にベッドに腰掛けて、そうして含んだ琥珀色は、自分でもびっくりしてしまうくらいに美味しくて。なんだか自画自賛しているみたいだったけれど、でもこの紅茶がここまで美味しく感じられるのには、なにか特別な理由があるような気がした。

 

「……美味しいです」

「そうだね。咲夜は本当に紅茶を淹れるのが上手だ」

 

 なぜだろう、月見に褒めてもらえるととても嬉しい。胸が熱くなる。体中がむずむずしてくる。だらしなく笑ってしまいたくなる。レミリアたちに褒められてもこうはならないはずのに、なんだかちょっと変だ。

 

「……そういえば月見様は、今、家をつくっていただいてるんですよね? どのあたりに住まわれるんですか?」

「山の南の麓近くだよ。案外、ご近所さんだね」

 

 ご近所さん。たったそれだけの言葉で、またちょっと嬉しくなってしまうのは、一体どうして。

 

「そうですか……。じゃあ、できあがったら是非お呼びしてくださいね。家事が苦手なようでしたら、色々お手伝いしますよ?」

「ッハハハ、さすがに私だって一人暮らし程度のことはできるよ? ずっと外の世界で生きてきたんだから」

「そうなんですか? 聞いてくださいよ月見様、うちのお嬢様なんて――」

 

 一緒に紅茶を飲みながらくだらない話をする、この時間が、なんだか幸せだと。

 そう感じる、感情の名前を。

 十六夜咲夜は、まだ、知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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